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女(おなご)の公事師〈弐〉
しおりを挟む「兄上、わたくしのためにさような御心遣い……痛み入りまする」
正直申して、兄が其処まで妹の行く末を案じて動いてくれていたとは夢にも思うていなかった。
「先の婚家との諍いの折には……無念にも力及ばずでごさったからな」
兄がかように云って口惜しそうに顔を顰めると、与岐は首を左右に振った。
「今さら、詮無きことにてござりまする。それに、兄上の所為でもござりませぬ」
「しからば、兄上……」
与岐は居住まいを正した。
「『女の公事師』の仰せ、謹んでお受けいたしとう仕りまする」
兄に向かって深々と平伏する。
「——わしは赦さぬぞ、与岐」
父が地の底を這うかのごとき呻き声をあげた。
「何が『女』の公事師じゃ。町家相手の生業でござるのは寺子屋の女師匠と変わらぬ。恥知らずめがっ」
「さりとて父上、同じ与力の御家との再嫁の縁談を反故にしてござった挙句、与岐をまるで何事もあらなんだかのごとく我が家に置いてござっては世間に対して示しがつきませぬ。
組屋敷じゅうより我ら本田家の者たち皆が道理に反してござったと看做され、この先肩身が狭うなりましょうぞ」
兄が説くように父へ進言した。
「ええい、うるさいっ、口答えするなっ」
されども、頭に血が上りきった父にはまったく通じなかった。
「それに先ほどより何だ。たかが息子の分際でござるに、父の赦しもなく勝手にあれこれ差配しおって。
本田家の当主はこのわしでござるっ。わしが赦さんと云えば赦さんのじゃっ」
そのとき、次の間の襖がすーっと開いた。
「まぁまぁ、騒々しきことにてござりまするな。御屋敷じゅうにお声が轟いておりまするぞ」
茶を供しにきた母であった。
「さように大声を出されては、さぞかし喉の渇くことにてござりましょう。……さ、早う茶の支度をなされませ」
母が振り向いて指図をすると、其処には嫂が控えていた。
嫂が一礼して茶の支度に取り掛かると、与岐も手伝いに加わった。
「旦那様、茶が来るまで一服でもなされて、どうぞお気をお鎮めくださりませ。御身に差し障りまする」
母は座敷の入り口に置かれていた莨盆を引き寄せて父の方へ押し出すと、兄が立ち上がって引き取り父の許へと運んだ。
その後、兄の粘り強い説得の上に母の取りなしもあって、与岐は八丁堀の組屋敷を出て町家へ移り住むことが叶った。
兄の息のかかった公事宿が小伝馬町にあり、その伝手で頃合いの仕舞屋が見つかった。
伝馬町と聞けば「牢屋敷」と相場が決まっていて、とても女が一人で住まう町ではなかろうと思われがちだが、実は公事宿をはじめとする旅人宿がいくつかあり、表通りに至っては木綿問屋や金物問屋などが軒を連ねて人々がさかんに往来する町であった。
小伝馬町の仕舞家に居を移してからは、何かと世話になっている公事宿を介して、亭主と離縁したい町家の女房たちの指南役——「女の公事師」を請け負うようになった。
そして、いつしか町家の女房たちが亭主とすっぱり「縁切り」したいときに頼られる「小伝馬町の駆け込み寺」と呼ばれるようになっていった。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
——やれやれ、此度も上手く片付いてようござんした。
おもんの件でほっと胸を撫で下ろした与岐は、勝手口から仕舞家の中に入った。
すると正面の入り口から訪いする声がして、あわてて竈のある土間を上がってそちらへと向かう。
「……母上」
門口に立っていたのは、離縁の際に婚家に置いてきた二人の娘のうち、姉の千賀であった。
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