別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭

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娘の来訪〈壱〉

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「千賀……また参ったのかえ」
 与岐はため息とともにつぶやくと、座敷に娘の千賀を招き入れた。後ろに進藤の御家で雇われている女中と用心棒の中間ちゅうげんが続く。
 武家のおなごを、しかもいつ嫁入りの話がまとまってもおかしゅうない年頃の娘を、町家で独り歩きさせるわけにはいかぬゆえの「御付き」である。

「母上……『また参った』などと、寂しゅうことをおっしゃりまするな。父上からはわたくしも芙美も、母上に会いとうなったらいつでも会いに行ってよいと云われておりまするのに」
 幾重も季節は巡っていたが、元夫は離縁する際に与岐と約束したことをしかと守ったようだ。

「おおかた、外に出る口実にしておるだけでござろう。さように外出したいのであらば、青山緑町の奥方様がお開きになる『御行儀見習』に参らばよかろうに……」
 広島新田しんでん藩・初代藩主の継室がありがたくも武家の若いおなごたちを青山緑町の御屋敷に招じて開く「御行儀見習」に、千賀はたったの一度参っただけでもう音を上げてしまった。

「あのような手習所ならば、何もわざわざ出向かずとも叔母上にお願いしてお師匠様を家に招いて日々精進しておりまする」
 おそらく、あの姑が与力の御家に嫁入った娘に頼んで介してもらった師匠であろう。

 離縁した婚家では、あれから後妻のちぞえに入った花江が男子おのこ克之助かつのすけを産んでいた。進藤家が待ちに待った嫡男である。
 千賀に婿をとって進藤の御家を継がせる道は完全に途絶えた。
 自らが望んだこととは云え、やはり後ろめたいのか姑は千賀に甘かった。

「芙美は楽しげに通っておると耳にするがのう……」
 与岐は再びため息を吐きつつ、麦湯を淹れて娘へ差し出した。今日はおもんの込み入った話があったゆえ、身の回りのことを任せている通いの下女はすでに家に帰していた。

「さようなことよりも、母上お聞きくださりませ」
 出された麦湯には目をくれず、千賀は母の言葉を遮った。
「幼き頃より心を寄せて許婚いいなずけも同然の年番方与力・松波まつなみ家の多聞たもん様が、御奉行様の御沙汰ごさたで……
 ——よりにもよって、北町の奉行所に仕える年番方与力の娘とめあわされることに……」

 江戸に置かれた町奉行所には「北町奉行所」と「南町奉行所」が設けられていて、月替りで交互に御役目にあたることになっている。
 奉行所が一つきりだとどうしても偏りが生じたり、手心を加えてもらいたいやからからの付け届けが横行したりするなどして、御役目が歪められてしまう恐れがあるゆえである。
 されども、二つになったことでの差しさわりもある。本来は互いに手を携えてことにあたらねばならぬというのに、いつの間にかどちらが手柄を収めるかで、競い合うようになってしまったのだ。
 つい先達せんだっても北町と南町の若い同心見習いたちが小競り合いを起こし、町家の者たちですら両奉行所の仲の悪さを知っている。

「……なるほど、北町と南町の与力の——しかも与力・同心を束ねる年番方の御家おいえ同士を縁付けるとは。
 此れより先、与力も同心もおいそれと仲違いするわけにはいくまい。流石さすがは御奉行様の『御裁き』にてござりまするな」
 与岐は感心しつつ、麦湯を手にして口に含んだ。

「母上、何をおっしゃいまするか。可愛い娘の身にもなってくださいまし」
 娘の千賀はすでに十八になっていて、明日にでも嫁入ってもおかしくない歳だ。
 されど、今から他の与力の御家を一から探して縁組せねばならぬのだ。めぼしい嫡男には当然のことながら許婚がいる。

「——それは異なことを」
 与岐はふっと笑った。
「そなたの御祖母ばあ様はほっとなされたのではごさらんか。大事な孫娘を『町方の与力』の御家に嫁に出さずに済んでござったゆえ」

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