9 / 12
御新造さんの心積り
しおりを挟む「……なんだか、ここんとこ『御武家』さんに頭を下げられるねぇ」
およねが苦笑いする。丑丸に次いで二人目だ。
「さあさ、御新造さん、面を上げておくんなせぇ。そんでもって、茶でも飲んでおくんなましよ。珍しい京からの上り茶でさ」
「かたじけのうござりまする」
御新造は云われるまま湯呑みを手に取ると、煎じ茶を一口含んだ。かすかな渋みとともに、えも云われぬ香りがすっと鼻に抜ける。
「御新造さんよ、悪りぃがあっしにゃどうにも解せねぇことがあってす」
茂三も湯呑みに手を伸ばした。
「おめぇさんは先刻、淡路屋の旦那に口止めまでして御家の者には知られとうないっ云っておいでやしたが……」
茶をごくりと飲む。正直申せば、かような気取った茶の味はようわからぬ。ただ、渋いだけだ。
「——したら、丑丸を手前で引き取って、一体何処へ連れて行きなさるつもりなんでさ」
御新造は手にした湯呑みを畳の上に戻した。
「……離縁したらば、嫁ぎ先を出ても兄に代替わりした実家へは戻れませぬ」
男余りの江戸ではおなごが再嫁するのは至極あたりまえのことである。現におよねも茂三が二人目の連れ合いだ。
されど、御武家は違う。武家にとっての婚姻は家と家との繋がりだ。よって、其れが絶たれて出戻ってくるなぞ「御家の恥」以外の何物でもない。
「わたくしは、昔なじみの淡路屋さんの伝手を頼って町家に居を構えとう存じまする。その際おなごの一人住まいは侘しいゆえ、親の居らぬ子を世話してもらって引き取り、我が子同然に育てる心積りにてござりまする。
淡路屋さんには其れも含めてさまざまな話を聞いてもらっておりまする」
いくら昔なじみとは云え、おおよそ交わることのない武家の御新造と廻船問屋の淡路屋が、道理で心やすうしていたわけだ。
さすれども——
「離縁なすっても実家を頼らず町家で住むってのは、口で云うのは易いが……」
裏店を任されて日々店子たちを見ている茂三の目からは、如何にも世間知らずの御武家の娘が戯言を夢見ているごとく映ってしまう。
「女手一つで子を抱えての日々の暮らしなんぞ、よっぽどの手に職でもなけりゃ成り立たねえでやんすよ」
されど、御新造はさような茂三の言を気にも止めなかった。
「今のわたくしは夫の伝手で、広島新田藩の御前様(藩主)が安芸国より連れてござった奥方様の侍女をしておりまする。
奥方様は故郷に居られた折には、武家でありながらも町家で子どもたちを集めて手習い所を開いておられたそうでござりまする。今も青山緑町の御屋敷で武家の子女を募り、手習い並びに行儀作法を指南されてござりまするゆえ、わたくしもお手伝いしておりまする。
つきましては離縁して町家へ移った暁には、わたくしもかつての奥方様のように手習い所を開き、町家の子たちを教えて暮らしを立てとう存じまする」
そして、ふっと嗤った。
「直参の娘として生まれても——しがない無役の小普請ゆえ貧乏侍でござんす。表店に住む町家の娘の方がずっと、美味しい物を食べ綺麗な着物を着て育ってござるわ」
旗本や御家人である「直参」(幕臣)は、ほぼ孫子の代に引き継いでやれるとは云うものの、小普請では家禄が三千石に届かぬ上に、無役であらば御公儀より任ぜられる御役目がないゆえ其れに伴う禄もありはせぬ。
おまけに御公儀からの俸禄は米で賜るため、蔵前に店を構える札差で銭に替えねばならぬが、商売上手の口八丁手八丁ゆえ思いっきり買い叩かれた。
「……なるほどな。さようなことでござったか」
座敷の出入り口から声がしたかと思えば、すーっと襖が開いた。
85
あなたにおすすめの小説
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
日本が危機に?第二次日露戦争
杏
歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。
なろう、カクヨムでも連載しています。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜
雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。
そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。
これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。
主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美
※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。
※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。
※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる