10 / 12
御前様の懐刀
しおりを挟む本多髷の頭で縞の着物に平袴の男が、座敷の内に入ってきた。
「——だ、旦那様……なにゆえ、此処に……」
御新造の夫で、安芸国広島新田藩の藩士だった。名を青井 清二郎と云う。
袴姿の青井は武家の形ではあったが、町家の往来で目立たぬよう羽織を脱いだ略装である。
「お嬢——いんや、御新造様、申し訳ねえ。旦那様に告げ口したのは、あたいでやんす」
座敷の外の板間に下女がひれ伏した。下女の注進によって妻の「企て」を知った青井は、近くの水茶屋で此の刻を待っていたのだ。
「——おうめ、まさか……おまえがわたくしを裏切るなぞ……」
御新造がわなわなと無念の唇を噛む。
「御新造様、水茶屋で待っていなすった旦那様を呼びに行ったのはあっしでさ」
後ろで中間の男が同じくひれ伏す。御新造から座敷の外に出されたのを渡りに船とばかりに仕舞屋を飛び出し、青井を呼びに走った。
「なんと、太七まで……」
御新造は絶句した。
「おまえたちに……そないなことをさせるために実家より連れて参ったのではござらんわ」
「——八千代、もうよい」
青井は妻の名を呼んで制した。
「おまえが……其処まで子について思い悩んでおるとは思わなんだ」
「……御武家様、何のお構いもできゃしねぇが立ったまんまじゃなんだ、おい、およね。座布団っ」
見かねた茂三が口を挟んだ。
「あ、あいよ」
女房のおよねが弾かれたように立ち上がって座敷の角にあった座布団を取り、御新造の右隣に置いた。一等ふかっとした座布団はすでに御新造に供したから二番目の物になるが仕方ない。
「かたじけない」
青井は妻の隣に腰を下ろして胡座をかいた。およねは其れを見届けると、茶支度のために座敷から下がった。
夫に向き直った八千代は、滔々と告げた。
「旦那様の下に嫁して三年、されど未だに子の一人も生せず、わたくしは婚家にとっても実家にとっても恥以外の何物でもござらぬ」
青井は懐手をして目を瞑った。
「どうか、わたくしを離縁して新しき嫁御を娶られ、今度こそ嗣子となる御子をもうけなされませ」
八千代は三つ指をつき深々と平伏した。
しばらくして、青井は目を開けて告げた。
「——相分かった」
「旦那様っ」「お待ちくだせぇっ」
下女のおうめと中間の太七が声を揃えて叫んだ。
「黙っておれ」
すかさず一喝される。落ち着いた口調ながらも青井に鋭き目で咎められ、おうめも太七もたちまちのうちに震え上がって項垂れた。
青井が仕える広島新田藩は、安芸国の大藩・広島藩の支藩として今から十年ほど前に立藩が赦された。
支藩を治める藩主には、次男や三男があてられることが多い。本藩に世継ぎが生まれない際には、支藩から供することを求められたゆえだ。
御公儀(江戸幕府)の公方様(将軍)も世継ぎに恵まれない折には、尾張・水戸・紀伊の「御三家」から次の公方様が選ばれる。現に、八代の公方様(徳川吉宗)が紀伊国和歌山藩より千代田のお城に迎えられていた。
広島新田藩もまた、本藩である広島藩の前藩主の三男・浅野 宮内少輔 長賢が初代藩主の座に就いた。
今でこそ初代藩主まで登りつめた浅野 宮内少輔だが、常に長兄や次兄などとの御家騒動の火種になる恐れがあった。それゆえ、生まれてまもなく物心つくまで密かに乳兄弟二人とともに百姓家に預けられていたくらいだ。その乳兄弟のうちの片方が青井だ。
実は「新田藩」は知行(治める土地)を持たず、本藩の広島藩から蔵米三万石を与えられる形をとるため、一年ごとに江戸と領地を往復する御役目(参勤交代)は免れるが、その代わり藩主とその家族は江戸に定府せねばならなかった。
つまり、家臣ともどもいったん江戸へ移ればもう芸州広島の地には戻ってこられない。
さようなこともあり、青井は妻を故郷から連れていくことはしなかった。敢えて江戸府内で生まれ育った八千代を妻として迎えた。
自らはいっさい迷うことなく生まれ育った安芸国を出て江戸へやってきた青井は、そうして浅野 宮内少輔にひたすら付き従っていくうちに、いつしか「御前様(藩主)の懐刀」と呼ばれるようになっていた。
「ちょ、ちょいと、丑丸っ、こんなとこで何してんだえっ。まだ布団の中で寝てなきゃだめじゃねぇかっ」
座敷の外からおよねの金切り声が飛んできた。
80
あなたにおすすめの小説
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
日本が危機に?第二次日露戦争
杏
歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。
なろう、カクヨムでも連載しています。
小日本帝国
ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。
大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく…
戦線拡大が甚だしいですが、何卒!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる