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第三部「運命(さだめ)の愛」
第二十話
しおりを挟む月命日に、その人はやってきた。
兵部少輔の妹の碧姫である。
碧姫は、周防徳山藩 六代藩主の毛利 志摩守 広寛の正室として輿入れしていた。
ところが、既に数年前、兄を奪ったのと同じ流行り病で夫を亡くしていた。享年三十二だった。
ゆえに、今は碧姫ではなく、出家して瑞仙院と呼ばれていた。
「……瑞仙院さま」
初音の、声にならぬ呟きだった。
「初音、『たま』でかまわぬ。わらわも、そなたを義姉上とば呼ばぬからな」
瑞仙院はふふふ、と微笑んだ。母親譲りの美貌だが、その気性には父親譲りの豪胆さがあった。
「なにを呆けておる。そんな甘ったれた気概で、この安芸広島新田藩の御世継ぎになるやもしれぬ『ややこ』を産めるとでも思うのか」
さも子を産んだかのように云うておるが、瑞仙院は仲睦まじかった夫との子には恵まれなかった。
だが、気丈な瑞仙院は、周防徳山藩のためと心を鬼にして、嫌がる志摩守に半ば無理矢理、側室を持たせた。
側室との間には二人、子が生まれた。されども、二人とも娘であった。
だれもがそのうちの一人に婿を取って藩を継がせるもの、と思うていた。
ところが、志摩守は病で死ぬ間際に、弟である毛利 大和守 就馴を養嗣子にするよう云い遺していたのだ。
そして、二人の娘はいずれ、戸田 大隅守 忠喬の側室と坪内 美濃守 定系の側室として輿入れさせるように、ともあった。(各々、のちに継室に直された)
正室であった瑞仙院には、新しい藩主の大和守の後見役として、国許へは戻らず江戸に定府するようあった。
たとえ死しても、志摩守が愛しい瑞仙院を再嫁させたくない気持ちが、そこにはあった。
「初音、そなたもわらわのごとく新しき御前様の御後見をしてみるがよい。そして、その次の御前様の母御としても、この安芸広島新田藩に尽くせ」
どうやら、瑞仙院まで生まれてくる子が男であると信じ込んでいるようだ。
「たまさま……」
初音はふっ、とかすかに微笑んだ。
兵部少輔がこの世を去ってから、初めて見せた感情だった。
「そなたには、その腹の中のややこをこの世に産み出す、とてつもなき御役目があることを忘れるでないぞよ」
これからの生き手本が、此処にいた。
——そのとき。
腹の子が、思い切り、初音を蹴った。
今まで、もごもご動く胎動はあったものの、こんなに強いのは初めてだった。
「……つっ」
初音は顔を歪めた。
「如何がなされた、だれか呼ぼうか」
瑞仙院の顔が一瞬にして、強張った。
「……心配御無用にてござりまする。この子が、元気がゆえのことにてござりまする」
初音が、この頃どんどん膨らんでいく腹を撫でながら、ふわっと微笑んだ。
「この子に叱られて……気づくとは」
——この子のために、わたくしは……生きねばならぬ。
年が改まって数ヶ月後、初音の方は無事に出産を終えた。
亡き安芸広島新田藩主 二代藩主、浅野 兵部少輔 長喬の忘れ形見は、御世継ぎとなる男子であった。
安産とは云い難かった産褥のために、疲れ切っているはずのそのとき、初音の瞳から止めどなく涙があふれた。
——いや、やっと泣くことができたのだ。
初音にとっては大きな御役目を果たせたと、安堵でほっとしたと同時に、もう二度と兵部少輔には逢えないのだ、というとてつもない寂寥が押し寄せた刻だった。
その日の夜は、雨が降っていた。
「……もう、どんなにそぼ降る雨の夜でも、鍋二郎さまは来られぬのだな……」
もう、遣らずの雨では引き留められないところへ、あの方は逝ってしまわれた。
……ようやく、身に沁みて感じられた。
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