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第四章 恋する気持ち
11話
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夕飯時になるとインターホンが鳴った。
来客……? でも、お父さんもお母さんもいないし……。
お父さんとお母さんが帰ってくるのにわざわざインターホンを鳴らすとは思えない。
リビングでモニターチェックをしていたふたりがこれ幸い、と玄関のカメラに切り替える。ディスプレイに映っていたのは静さんだった。
「あら、来られたのね」
言いながら、栞さんが玄関へと急いだ。私もそのあとについて出迎えると、
「こんばんは。これ、お土産ね」
静さんにウィステリアホテルと書かれたケーキボックスを渡される。
「ありがとうございます」
「箱はうちの名前だけど、中身はアンダンテのタルトだよ」
「わ! 嬉しいです」
ケーキの存在に今まで考えていたものを忘れそうになったけれど、腑に落ちないものは腑に落ちない。
「静さん……防犯カメラや盗聴チェックって……とても大ごとのように感じるのですが、気のせいでしょうか?」
静さんはにこりと笑い、
「しばらくは我慢してね」
と、否定はしない答えを口にした。
「ふたりとも、とりあえず奥へ」
栞さんに背中を押されてリビングへ行くと、まだモニターのチェックが終わらないのか、蒼兄たちはパソコンの前にへばりついていた。
「終わったか?」
静さんが声をかけると、「あと少しです」と秋斗さんが答える。
「これであっちで受信できていれば問題ないはず……」
秋斗さんは携帯を取り出しどこかへかける。
「若槻、今データ送信の設定を済ませたんだけど、そっちで受信できてる? ――そう、それ。――わかった、折り返し待ってる」
若槻、さん……?
「あの、若槻さんって昨日お会いした方ですか?」
秋斗さんがモニターから目を離し、
「そうだよ。若槻はもともと僕が拾ってきた人間なんだ。本来は警備会社側の人間なんだけど、色んな意味で優秀だから静さんに貸し出してる」
そんな説明を受けると、
「彼は二十一と若いんだが、仕事は早いし的確で、情報操作においては内部の人間が一目置いているほどだよ」
と、静さんが補足した。
若いだろうとは思っていたけれど、本当に若かった。
「でも、どうして広報部なんですか?」
「広報部は情報命だからね。ま、それ以外の仕事も数多く振ってはいるが、いち早く対応できる場所にいてもらったほうが合理的だろう?」
静さんの話に少し納得した。
これも「適材適所」なのかもしれない。
そんなことを考えていると、キッチンからいい匂いがしてきた。
そろそろご飯かな?
キッチンへ手伝いに行こうとすると、秋斗さんの携帯が鳴りだした。
「はい。――了解。じゃ、それメインコンピューターにつないでうちの警備に送っておいて」
用件が終わればすぐに通話を切る。
「終わったみたいだな」
静さんが声をかけると秋斗さんは「滞りなく」と笑顔で答えた。
「私の見立てでは六月六日で警護を解除できると思っている」
そうは言われてもさっぱりだ。
昨日初めて会った雅さん。確かに少し怖いと思った。でも、実際には何が起こるのかなんて想像はできないし、訊いたところで秋斗さんたちが詳しいことを教えてくれるとも思えない。それなら極力気にしないようにするほうが懸命というもの。
とりあえず、目下の目標は全国模試に定めよう……。
その日の夕飯は、五人で食卓を囲むことになった。
「そういえば、蒼樹が学会でいないのって来週だっけ?」
秋斗さんが五目豆の入った小鉢を片手に訊く。
今日の夕飯は焼きうどんに五目豆とほうれん草のお浸し、お豆腐と油揚げのお味噌汁。
焼きうどんはずっと苦手だったのだけど、栞さんの味付けで食べられるようになった。熱が通って甘くなった長ネギが美味しい。
「あ、そうです」
思い出したように蒼兄が私を見た。
「翠葉、来週の土日なんだけど学会で家を空けるんだ。土曜日の朝は送っていけるんだけど、帰りは秋斗先輩にお願いしてある。それと、その日は栞さんが泊りに来てくれることになってるから」
カウンターに置いてある卓上カレンダーに目をやると、来週の五日と六日の話だった。
「六日は夕方に帰ってこられると思う」
「うん、わかった」
「寂しい?」
斜め前に座る秋斗さんに訊かれる。
「……少し」
大学生のときから研究が長引いて帰れない日もあったけれど、ここ最近はそういうことがなかった。でも、もしかしたら六月に入ればそういう日も出てくるのかもしれない。五時台で帰れるのは今月までなのだ。
「君たちは本当に仲がいいんだな」
右隣に座る静さんに言われる。
「でも、静さんと栞さんも仲が良いのでしょう?」
「うちは年が十五離れてるからね。仲がいい兄妹とはまた違う感じかな」
「そうね、私が十五歳のときには静兄様はすでに三十。生活リズムも合わないし、話なんて親子の会話みたいだったわ」
栞さんがクスクスと笑う。
「うちは十個違いだけど、やっぱり男同士はこうはいかない」
と、秋斗さんも笑う。
私と蒼兄は顔を見合わせてクスリと笑った。
仲がいいと言われることは私たちにとってはとても嬉しいことだから、自然と顔が綻ぶ。
「ほら、そういう顔……。翠葉ちゃんは蒼樹がいないとなかなかそういう顔はしない」
秋斗さんに指摘された。
「それ、同感だわ。バリケードも何もなくて無防備って感じの笑顔でしょう?」
栞さんが言うと、
「そうそう。あれはさ、ちょっと妬けるよね」
秋斗さんと栞さんは頷きあう。
私は会話の途中から意識を自分の身体に向けていた。内へ内へ、と意識を向ける。
……食べ過ぎたのかな。
椅子に座っていることがつらいと感じる。
こんなときはたいてい血圧が下がっている。けれど、プレートを見れば焼きうどんは半分も食べられていない。
自分の状況をはかりかねていると、正面に座る蒼兄が動いた。
「翠葉、もういい。少し休もう」
私の腕を取ると、蒼兄は私を抱え上げた。
「秋斗くん、携帯見せて」
後ろで栞さんの声がした。
「え?」という秋斗さんの声と、「あらやだ」という栞さんの声。
蒼兄に抱っこされて自室のベッドまで連れていかれ、すぐ横になる。
「少し血圧が落ちただけだ。横になってれば戻るかもしれない」
遅れて部屋に入ってきた栞さんに脈を取られる。
「何か症状は?」
「……気持ち悪いのと、胸のあたりが重苦しいくらいです」
もしかしたら痛いのかもしれない、と頭をよぎる。
でも、痛いときは多少血圧が上がるはずなんだけど……。でも、もしもこれが痛みなら……?
たくさんの「でも」と「もしも」が頭に浮上する。
「栞さん、痛み止め――」
「……痛み?」
「今飲めば効くから……」
「ちょっと待っててね」
栞さんはすぐに部屋を出ていった。直後、自室のローテーブルに置いてある携帯が鳴りだし蒼兄が手に取った。
「湊さんからの電話、代わりに出るよ?」
コクリと頷く。
「今横にしたところです。それまでは普通に夕飯を食べてました。ちょっと待ってください、栞さんに代わります」
「蒼くん、これ翠葉ちゃんに飲ませてあげて」
蒼兄に薬とグラスを渡すと、栞さんは携帯を耳に当てた。
「痛みみたいよ。吐き気と胸が重苦しいって言ってるけど……。――え? 入梅? あ、そういう季節なのね。わかったわ、そっちの薬も飲ませて少し様子見てみる」
そっか……。入梅――もうそんな季節なんだ。
苦手な季節がやってきた……。
「翠葉ちゃん、毎年この季節が一番つらいんですって?」
そんなふうに栞さんに訊かれた。
「最近は痛くなることがなかったからすっかり忘れてました……」
「……こういうのは嫌ね。忘れたころにやってくるから」
栞さんは私と同じように苦笑いを浮かべた。
「もう一種類薬を飲むようにって湊から指示されたわ」
追加の薬を二錠渡される。
「三十分くらいして薬が効かないようなら二段階目の薬を飲みましょう。そのころにまた様子を見にくるわね」
コクリと頷くと、栞さんは部屋を出ていった。蒼兄はまだベッドサイドにいる。
「蒼兄、ご飯の途中だよ。大丈夫だから……横になったらだいぶ楽になったから、ご飯食べてきて?」
「……わかった。あとでまた来る」
蒼兄はドアは開けたままにしてダイニングへ戻った。
目を瞑っていると、ほどなくして人の気配を感じ、放り出していた右手を握られた。
あぁ、蒼兄戻ってきちゃったんだ……。
そう思ってゆっくりと目を開けると、目の前に秋斗さんがいてびっくりした。
「びっくりした、って顔。別に寝顔を見にきたわけじゃないんだけどね」
「蒼兄かと思って――びっくりしました」
「蒼樹はまだ食べてる。僕は先に食べ終わったから。……手、つないでいると少しは違う?」
「……はい。人の体温はどうしてかほっとします」
「人間ってそういうふうにできてるんだよ」
いつもより小さな声でそっと話す。
「今話すことでもないんだけど……」
秋斗さんは前置きをして話し始めた。
「痛みが出たとき、話はできるの?」
「この程度の痛みなら……。気が紛れていいくらい」
「もっと痛いときは?」
「……薬が二段階まであって、一がだめでも二が効けば大丈夫。ただ、ニ段階目の薬は眠くなるので寝てしまうんですけど……」
「二段階目の薬が効かないこともあるの?」
「……あります」
「そういうときはどうするの?」
「病院で痛み止めの注射を打ってもらいます。一瞬で楽になれるけど……薬が強くて意識はなくなっちゃうし常用できるものではないので……。痛みが頻繁に出てくると最終的にはペインクリニックで緩和ケアです」
「そっか……。そこまでの処置を必要とするほど痛いっていうのは相当つらいんだろうね」
「……血圧が下がるよりも地獄です。この痛みで死ぬことはないって言われるけれど、どんなに痛くても痛みから逃げることはできないから。危険だとは言われるけれど、血圧が下がって倒れちゃうほうが自分は楽です」
「それは究極の選択だな……。翠葉ちゃんが倒れるのは、僕を含め周りの人にとってはたまらないことだろうけれど――痛みに耐えているのは翠葉ちゃん自身だもんね。そう思ってしまうことを責められる人は、誰もいないと思うよ」
まさかそんなふうに言ってもらえるとは思っていなくて絶句した。
「翠葉ちゃん、痛いの……?」
心配そうに尋ねられる。
「え……?」
「……涙」
秋斗さんの指が頬を撫でた。
その指は確かに濡れていて、自分が泣いていることに気づく。
「あ、れ……。そんなに痛いわけじゃないのに――」
……あぁ、そうか。嬉しかったんだ――
今まで、私の立場に立ってそう言ってくれる人はいなかった。
常に、私とお医者様と看病してくれる人、という立場があり、私の心に同調してくれる人はいなかった。
「……秋斗さんは不思議。痛みなんて本人じゃないとわからないはずなのに……。私の立場で物事を考えてくれるんですね」
手の甲で涙を拭うと、
「好きな子がどんなことを考えているのかは身をもって知りたいと思うでしょ?」
なんでもないことのようにさらりと返される。
「ちょっと、ずるいです……。人が弱ってるときにそういうこと言わないでください」
両手で顔を覆うと、
「あれ? 今のポイント高かったのかな」
冗談めかした言葉が返ってきた。
秋斗さんの纏う空気は好き。それが、ただ自分に甘く優しいものだからなのかはわからないけれど……。
一緒にいて疲れない。自然と呼吸ができる。それが、とても心地いいと思えた。
来客……? でも、お父さんもお母さんもいないし……。
お父さんとお母さんが帰ってくるのにわざわざインターホンを鳴らすとは思えない。
リビングでモニターチェックをしていたふたりがこれ幸い、と玄関のカメラに切り替える。ディスプレイに映っていたのは静さんだった。
「あら、来られたのね」
言いながら、栞さんが玄関へと急いだ。私もそのあとについて出迎えると、
「こんばんは。これ、お土産ね」
静さんにウィステリアホテルと書かれたケーキボックスを渡される。
「ありがとうございます」
「箱はうちの名前だけど、中身はアンダンテのタルトだよ」
「わ! 嬉しいです」
ケーキの存在に今まで考えていたものを忘れそうになったけれど、腑に落ちないものは腑に落ちない。
「静さん……防犯カメラや盗聴チェックって……とても大ごとのように感じるのですが、気のせいでしょうか?」
静さんはにこりと笑い、
「しばらくは我慢してね」
と、否定はしない答えを口にした。
「ふたりとも、とりあえず奥へ」
栞さんに背中を押されてリビングへ行くと、まだモニターのチェックが終わらないのか、蒼兄たちはパソコンの前にへばりついていた。
「終わったか?」
静さんが声をかけると、「あと少しです」と秋斗さんが答える。
「これであっちで受信できていれば問題ないはず……」
秋斗さんは携帯を取り出しどこかへかける。
「若槻、今データ送信の設定を済ませたんだけど、そっちで受信できてる? ――そう、それ。――わかった、折り返し待ってる」
若槻、さん……?
「あの、若槻さんって昨日お会いした方ですか?」
秋斗さんがモニターから目を離し、
「そうだよ。若槻はもともと僕が拾ってきた人間なんだ。本来は警備会社側の人間なんだけど、色んな意味で優秀だから静さんに貸し出してる」
そんな説明を受けると、
「彼は二十一と若いんだが、仕事は早いし的確で、情報操作においては内部の人間が一目置いているほどだよ」
と、静さんが補足した。
若いだろうとは思っていたけれど、本当に若かった。
「でも、どうして広報部なんですか?」
「広報部は情報命だからね。ま、それ以外の仕事も数多く振ってはいるが、いち早く対応できる場所にいてもらったほうが合理的だろう?」
静さんの話に少し納得した。
これも「適材適所」なのかもしれない。
そんなことを考えていると、キッチンからいい匂いがしてきた。
そろそろご飯かな?
キッチンへ手伝いに行こうとすると、秋斗さんの携帯が鳴りだした。
「はい。――了解。じゃ、それメインコンピューターにつないでうちの警備に送っておいて」
用件が終わればすぐに通話を切る。
「終わったみたいだな」
静さんが声をかけると秋斗さんは「滞りなく」と笑顔で答えた。
「私の見立てでは六月六日で警護を解除できると思っている」
そうは言われてもさっぱりだ。
昨日初めて会った雅さん。確かに少し怖いと思った。でも、実際には何が起こるのかなんて想像はできないし、訊いたところで秋斗さんたちが詳しいことを教えてくれるとも思えない。それなら極力気にしないようにするほうが懸命というもの。
とりあえず、目下の目標は全国模試に定めよう……。
その日の夕飯は、五人で食卓を囲むことになった。
「そういえば、蒼樹が学会でいないのって来週だっけ?」
秋斗さんが五目豆の入った小鉢を片手に訊く。
今日の夕飯は焼きうどんに五目豆とほうれん草のお浸し、お豆腐と油揚げのお味噌汁。
焼きうどんはずっと苦手だったのだけど、栞さんの味付けで食べられるようになった。熱が通って甘くなった長ネギが美味しい。
「あ、そうです」
思い出したように蒼兄が私を見た。
「翠葉、来週の土日なんだけど学会で家を空けるんだ。土曜日の朝は送っていけるんだけど、帰りは秋斗先輩にお願いしてある。それと、その日は栞さんが泊りに来てくれることになってるから」
カウンターに置いてある卓上カレンダーに目をやると、来週の五日と六日の話だった。
「六日は夕方に帰ってこられると思う」
「うん、わかった」
「寂しい?」
斜め前に座る秋斗さんに訊かれる。
「……少し」
大学生のときから研究が長引いて帰れない日もあったけれど、ここ最近はそういうことがなかった。でも、もしかしたら六月に入ればそういう日も出てくるのかもしれない。五時台で帰れるのは今月までなのだ。
「君たちは本当に仲がいいんだな」
右隣に座る静さんに言われる。
「でも、静さんと栞さんも仲が良いのでしょう?」
「うちは年が十五離れてるからね。仲がいい兄妹とはまた違う感じかな」
「そうね、私が十五歳のときには静兄様はすでに三十。生活リズムも合わないし、話なんて親子の会話みたいだったわ」
栞さんがクスクスと笑う。
「うちは十個違いだけど、やっぱり男同士はこうはいかない」
と、秋斗さんも笑う。
私と蒼兄は顔を見合わせてクスリと笑った。
仲がいいと言われることは私たちにとってはとても嬉しいことだから、自然と顔が綻ぶ。
「ほら、そういう顔……。翠葉ちゃんは蒼樹がいないとなかなかそういう顔はしない」
秋斗さんに指摘された。
「それ、同感だわ。バリケードも何もなくて無防備って感じの笑顔でしょう?」
栞さんが言うと、
「そうそう。あれはさ、ちょっと妬けるよね」
秋斗さんと栞さんは頷きあう。
私は会話の途中から意識を自分の身体に向けていた。内へ内へ、と意識を向ける。
……食べ過ぎたのかな。
椅子に座っていることがつらいと感じる。
こんなときはたいてい血圧が下がっている。けれど、プレートを見れば焼きうどんは半分も食べられていない。
自分の状況をはかりかねていると、正面に座る蒼兄が動いた。
「翠葉、もういい。少し休もう」
私の腕を取ると、蒼兄は私を抱え上げた。
「秋斗くん、携帯見せて」
後ろで栞さんの声がした。
「え?」という秋斗さんの声と、「あらやだ」という栞さんの声。
蒼兄に抱っこされて自室のベッドまで連れていかれ、すぐ横になる。
「少し血圧が落ちただけだ。横になってれば戻るかもしれない」
遅れて部屋に入ってきた栞さんに脈を取られる。
「何か症状は?」
「……気持ち悪いのと、胸のあたりが重苦しいくらいです」
もしかしたら痛いのかもしれない、と頭をよぎる。
でも、痛いときは多少血圧が上がるはずなんだけど……。でも、もしもこれが痛みなら……?
たくさんの「でも」と「もしも」が頭に浮上する。
「栞さん、痛み止め――」
「……痛み?」
「今飲めば効くから……」
「ちょっと待っててね」
栞さんはすぐに部屋を出ていった。直後、自室のローテーブルに置いてある携帯が鳴りだし蒼兄が手に取った。
「湊さんからの電話、代わりに出るよ?」
コクリと頷く。
「今横にしたところです。それまでは普通に夕飯を食べてました。ちょっと待ってください、栞さんに代わります」
「蒼くん、これ翠葉ちゃんに飲ませてあげて」
蒼兄に薬とグラスを渡すと、栞さんは携帯を耳に当てた。
「痛みみたいよ。吐き気と胸が重苦しいって言ってるけど……。――え? 入梅? あ、そういう季節なのね。わかったわ、そっちの薬も飲ませて少し様子見てみる」
そっか……。入梅――もうそんな季節なんだ。
苦手な季節がやってきた……。
「翠葉ちゃん、毎年この季節が一番つらいんですって?」
そんなふうに栞さんに訊かれた。
「最近は痛くなることがなかったからすっかり忘れてました……」
「……こういうのは嫌ね。忘れたころにやってくるから」
栞さんは私と同じように苦笑いを浮かべた。
「もう一種類薬を飲むようにって湊から指示されたわ」
追加の薬を二錠渡される。
「三十分くらいして薬が効かないようなら二段階目の薬を飲みましょう。そのころにまた様子を見にくるわね」
コクリと頷くと、栞さんは部屋を出ていった。蒼兄はまだベッドサイドにいる。
「蒼兄、ご飯の途中だよ。大丈夫だから……横になったらだいぶ楽になったから、ご飯食べてきて?」
「……わかった。あとでまた来る」
蒼兄はドアは開けたままにしてダイニングへ戻った。
目を瞑っていると、ほどなくして人の気配を感じ、放り出していた右手を握られた。
あぁ、蒼兄戻ってきちゃったんだ……。
そう思ってゆっくりと目を開けると、目の前に秋斗さんがいてびっくりした。
「びっくりした、って顔。別に寝顔を見にきたわけじゃないんだけどね」
「蒼兄かと思って――びっくりしました」
「蒼樹はまだ食べてる。僕は先に食べ終わったから。……手、つないでいると少しは違う?」
「……はい。人の体温はどうしてかほっとします」
「人間ってそういうふうにできてるんだよ」
いつもより小さな声でそっと話す。
「今話すことでもないんだけど……」
秋斗さんは前置きをして話し始めた。
「痛みが出たとき、話はできるの?」
「この程度の痛みなら……。気が紛れていいくらい」
「もっと痛いときは?」
「……薬が二段階まであって、一がだめでも二が効けば大丈夫。ただ、ニ段階目の薬は眠くなるので寝てしまうんですけど……」
「二段階目の薬が効かないこともあるの?」
「……あります」
「そういうときはどうするの?」
「病院で痛み止めの注射を打ってもらいます。一瞬で楽になれるけど……薬が強くて意識はなくなっちゃうし常用できるものではないので……。痛みが頻繁に出てくると最終的にはペインクリニックで緩和ケアです」
「そっか……。そこまでの処置を必要とするほど痛いっていうのは相当つらいんだろうね」
「……血圧が下がるよりも地獄です。この痛みで死ぬことはないって言われるけれど、どんなに痛くても痛みから逃げることはできないから。危険だとは言われるけれど、血圧が下がって倒れちゃうほうが自分は楽です」
「それは究極の選択だな……。翠葉ちゃんが倒れるのは、僕を含め周りの人にとってはたまらないことだろうけれど――痛みに耐えているのは翠葉ちゃん自身だもんね。そう思ってしまうことを責められる人は、誰もいないと思うよ」
まさかそんなふうに言ってもらえるとは思っていなくて絶句した。
「翠葉ちゃん、痛いの……?」
心配そうに尋ねられる。
「え……?」
「……涙」
秋斗さんの指が頬を撫でた。
その指は確かに濡れていて、自分が泣いていることに気づく。
「あ、れ……。そんなに痛いわけじゃないのに――」
……あぁ、そうか。嬉しかったんだ――
今まで、私の立場に立ってそう言ってくれる人はいなかった。
常に、私とお医者様と看病してくれる人、という立場があり、私の心に同調してくれる人はいなかった。
「……秋斗さんは不思議。痛みなんて本人じゃないとわからないはずなのに……。私の立場で物事を考えてくれるんですね」
手の甲で涙を拭うと、
「好きな子がどんなことを考えているのかは身をもって知りたいと思うでしょ?」
なんでもないことのようにさらりと返される。
「ちょっと、ずるいです……。人が弱ってるときにそういうこと言わないでください」
両手で顔を覆うと、
「あれ? 今のポイント高かったのかな」
冗談めかした言葉が返ってきた。
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