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第六章 葛藤
20話
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あのあと少し眠っていたみたい。
今は栞さんに髪の毛を洗おうと起こされたところ。
部屋にはすでに簡易型のシャワー台が運び込まれていて、私はベッドの上で横になっていればいいだけだった。
「首、苦しくない? 大丈夫?」
「大丈夫です」
栞さんは生え際から丁寧にお湯で流してくれ、丁寧にシャンプーをしてくれた。地肌をマッサージするように洗ってくれて気持ちがいい。シャンプーやトリートメントの香りを深く吸い込む。
「気持ちいい?」
「はい、とても……」
「良かった」
長い髪の毛を洗うのは骨が折れるだろう。でも、文句も何も言わずに洗ってくれる。
……やっぱり髪の毛は少し切ろうかな。
そんなことを考えていると、すっきりとトリートメントを流してくれた。
髪の毛を洗い終わると身体を拭いてくれ、新しいルームウェアに着替えた。
最後に髪の毛をドライヤーで乾かしてくれる。
横になったままだから乾かしづらかったと思う。それでも、きちんときれいに乾かしてくれた。
「さっぱりした?」
一仕事終えました、という感じで腰に手を当てて訊かれる。
「とても……。身体が起こせるようになるまで髪の毛は洗えないと思っていたから、すごく嬉しかったです」
「そうね。髪の毛がベトベトしてるのは嫌よね」
でも、そうそう言えるわがままではないから人には会いたくないと思っていた。それをこうも簡単にクリアされるとは思ってもみなくて、本当に嬉しかったのだ。
髪の毛が清潔に保たれているだけでも精神上のモチベーションが変わる。
クオリティーオブライフ――略して、「QOL」。
人が人らしくいるために、清潔さが欠かせないと知ったのはいくつのときだっただろう……。
それに気がついてからは、具合が悪くてもお風呂だけは……というのが私の最上級のわがままになり、いつも蒼兄やお母さんを困らせていた。
私にとっては「QOL」の最上位にくるのだけど、周りの人にはあまり理解されない。けれど、栞さんはわかってくれる。それが嬉しかった。
でもそれは、看護師さんだったからなんだろうな、とも思った。
部屋の中にはシャンプーのいい香りが残っている。
シャンプーをする少し前からエアコンが入っていて除湿をしてくれていた。
室温は二十八度だけど、湿度は六十パーセントほど。
外は蒸し暑いのだろうか……。
窓の外に目をやるも、この部屋は表通路に面しているため、曇りガラスだから外は見えない。
「なんか変な感じ……」
家ではUVガラスの窓でカーテンすら引いていなかったため、常にお庭の緑と空を見ることができた。
当たり前だけど、マンションでは地面すら見ることができない。
そんなことを考えていると、携帯から美女と野獣が流れてきた。
秋斗さんのメール……。
件名 :一時くらいに
本文 :会議が長引いてるからマンションに着くのは一時くらい。
今日は曇りだけど湿気がすごくて蒸してるよ。
エアコンをつけてないなら、除湿くらいは入れたほうがいい。
アンダンテで食べたいものがあったらリクエストメールをください。
外は蒸しているのね……。
秋斗さんが来るのは一時ごろ……。
もう一度ディスプレイを見て、私はディスプレイの照明が落ちるまでじっと見ていた。
何か困ることが書かれているわけではない。とても普通のメール。
なのに、持て余している自分がいる。
何も考える必要などないのかもしれない。でも何かを必死に考えようとしている自分がいて――
それでも、やっぱり考える内容など見当たらなくて、どうしてか困る。
私は携帯を手に握ったまま目を閉じた。
次に目が覚めたのは十二時半だった。
「あ……」
十二時半といったら栞さんが家を出る時間を過ぎている。
ドアの方を見ようとしたら、サイドテーブルにメモ用紙が置かれていた。
それには、起こしたけど起きなかったことと、冷蔵庫にグレープフルーツのゼリーが入っているから、秋斗さんが来たら一緒に食べるように、と書かれていた。
どうやら五時半過ぎには帰ってくるらしい。
この家は指紋認証でロックを解除できるようにしたため、秋斗さんが来たときに私が起きる必要がないことも書かれていた。
「……私、よっぽど起きなかったのね」
栞さんは起こすときはきちんと起こしてくれるのだ。
でも、薬を使っている今は、人に起こされても起きられないことが多い。
早くこの時期が終わってほしい……。
もう一度携帯を見て時間を確認する。
十二時半過ぎ……。
あと数十分もすれば秋斗さんが来る時間。
少し悩んだけれど、携帯だけを持ってリビングへ行くことにした。
四つんばいで這って行く分には移動ができないわけじゃない。
自分にあてがわれた部屋に不満があるわけではないけど、やっぱり空を見たいと思う。
リビングのソファにたどり着いたときには息が切れていた。
どうしようもなくだるくて身体が鉛のように重い。
なんとか窓際までたどり着き、ソファの後ろに転がる。
そこから見える空はとても広くて大きかった。視界を邪魔するのはベランダの手すりのみ。
でも、秋斗さんの言うとおり。今日は曇りだった。
これから秋斗さんが来て何を話したらいいんだろう……。
一緒にいてお話なんてしたらもっと好きになってしまいそう。
「怖い、な……」
どう接したらいいのかがわからない。
それが今の心境だ。
湊先生は秋斗さんを避けて通るのは至難の業だと言っていた。
確かにそう思う。避けて通れるような人でないことはわかっているつもりだし、蒼兄とのつながりを考えても、ここに間借りしていることを考えても、距離を取れる相手ではない。
学校へ行ったとしても図書室へ行けば必ず顔を合わせることになるだろう。
……かといって、開き直れるほどの強さは自分にない。
もしも相手が嫌いな人だったりなんとも思っていない人ならこんなに悩むこともないんだろうな……。
私、どうして秋斗さんを好きになっちゃったんだろう……。
ごく普通に同年代の人を好きになれたら良かったのにな――
今は栞さんに髪の毛を洗おうと起こされたところ。
部屋にはすでに簡易型のシャワー台が運び込まれていて、私はベッドの上で横になっていればいいだけだった。
「首、苦しくない? 大丈夫?」
「大丈夫です」
栞さんは生え際から丁寧にお湯で流してくれ、丁寧にシャンプーをしてくれた。地肌をマッサージするように洗ってくれて気持ちがいい。シャンプーやトリートメントの香りを深く吸い込む。
「気持ちいい?」
「はい、とても……」
「良かった」
長い髪の毛を洗うのは骨が折れるだろう。でも、文句も何も言わずに洗ってくれる。
……やっぱり髪の毛は少し切ろうかな。
そんなことを考えていると、すっきりとトリートメントを流してくれた。
髪の毛を洗い終わると身体を拭いてくれ、新しいルームウェアに着替えた。
最後に髪の毛をドライヤーで乾かしてくれる。
横になったままだから乾かしづらかったと思う。それでも、きちんときれいに乾かしてくれた。
「さっぱりした?」
一仕事終えました、という感じで腰に手を当てて訊かれる。
「とても……。身体が起こせるようになるまで髪の毛は洗えないと思っていたから、すごく嬉しかったです」
「そうね。髪の毛がベトベトしてるのは嫌よね」
でも、そうそう言えるわがままではないから人には会いたくないと思っていた。それをこうも簡単にクリアされるとは思ってもみなくて、本当に嬉しかったのだ。
髪の毛が清潔に保たれているだけでも精神上のモチベーションが変わる。
クオリティーオブライフ――略して、「QOL」。
人が人らしくいるために、清潔さが欠かせないと知ったのはいくつのときだっただろう……。
それに気がついてからは、具合が悪くてもお風呂だけは……というのが私の最上級のわがままになり、いつも蒼兄やお母さんを困らせていた。
私にとっては「QOL」の最上位にくるのだけど、周りの人にはあまり理解されない。けれど、栞さんはわかってくれる。それが嬉しかった。
でもそれは、看護師さんだったからなんだろうな、とも思った。
部屋の中にはシャンプーのいい香りが残っている。
シャンプーをする少し前からエアコンが入っていて除湿をしてくれていた。
室温は二十八度だけど、湿度は六十パーセントほど。
外は蒸し暑いのだろうか……。
窓の外に目をやるも、この部屋は表通路に面しているため、曇りガラスだから外は見えない。
「なんか変な感じ……」
家ではUVガラスの窓でカーテンすら引いていなかったため、常にお庭の緑と空を見ることができた。
当たり前だけど、マンションでは地面すら見ることができない。
そんなことを考えていると、携帯から美女と野獣が流れてきた。
秋斗さんのメール……。
件名 :一時くらいに
本文 :会議が長引いてるからマンションに着くのは一時くらい。
今日は曇りだけど湿気がすごくて蒸してるよ。
エアコンをつけてないなら、除湿くらいは入れたほうがいい。
アンダンテで食べたいものがあったらリクエストメールをください。
外は蒸しているのね……。
秋斗さんが来るのは一時ごろ……。
もう一度ディスプレイを見て、私はディスプレイの照明が落ちるまでじっと見ていた。
何か困ることが書かれているわけではない。とても普通のメール。
なのに、持て余している自分がいる。
何も考える必要などないのかもしれない。でも何かを必死に考えようとしている自分がいて――
それでも、やっぱり考える内容など見当たらなくて、どうしてか困る。
私は携帯を手に握ったまま目を閉じた。
次に目が覚めたのは十二時半だった。
「あ……」
十二時半といったら栞さんが家を出る時間を過ぎている。
ドアの方を見ようとしたら、サイドテーブルにメモ用紙が置かれていた。
それには、起こしたけど起きなかったことと、冷蔵庫にグレープフルーツのゼリーが入っているから、秋斗さんが来たら一緒に食べるように、と書かれていた。
どうやら五時半過ぎには帰ってくるらしい。
この家は指紋認証でロックを解除できるようにしたため、秋斗さんが来たときに私が起きる必要がないことも書かれていた。
「……私、よっぽど起きなかったのね」
栞さんは起こすときはきちんと起こしてくれるのだ。
でも、薬を使っている今は、人に起こされても起きられないことが多い。
早くこの時期が終わってほしい……。
もう一度携帯を見て時間を確認する。
十二時半過ぎ……。
あと数十分もすれば秋斗さんが来る時間。
少し悩んだけれど、携帯だけを持ってリビングへ行くことにした。
四つんばいで這って行く分には移動ができないわけじゃない。
自分にあてがわれた部屋に不満があるわけではないけど、やっぱり空を見たいと思う。
リビングのソファにたどり着いたときには息が切れていた。
どうしようもなくだるくて身体が鉛のように重い。
なんとか窓際までたどり着き、ソファの後ろに転がる。
そこから見える空はとても広くて大きかった。視界を邪魔するのはベランダの手すりのみ。
でも、秋斗さんの言うとおり。今日は曇りだった。
これから秋斗さんが来て何を話したらいいんだろう……。
一緒にいてお話なんてしたらもっと好きになってしまいそう。
「怖い、な……」
どう接したらいいのかがわからない。
それが今の心境だ。
湊先生は秋斗さんを避けて通るのは至難の業だと言っていた。
確かにそう思う。避けて通れるような人でないことはわかっているつもりだし、蒼兄とのつながりを考えても、ここに間借りしていることを考えても、距離を取れる相手ではない。
学校へ行ったとしても図書室へ行けば必ず顔を合わせることになるだろう。
……かといって、開き直れるほどの強さは自分にない。
もしも相手が嫌いな人だったりなんとも思っていない人ならこんなに悩むこともないんだろうな……。
私、どうして秋斗さんを好きになっちゃったんだろう……。
ごく普通に同年代の人を好きになれたら良かったのにな――
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