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28~33 Side 秋斗 08話
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彼女はまだ、木に向かって座ったままの状態だった。
「翠葉ちゃん、ここは日陰。冷えるよ」
そう言って、自分のジャケットを肩からかけると、
「ありがとうございます……。日陰は本当に寒いですね」
彼女は涙声をごまかすように笑みを添えたけど、目は赤く、顔は青白かった。
そんなふうに堪えなくてもいいのに……。
もし、ここに現れたのが俺ではなく司なら、君はもっと素直になれるのだろうか……。
「手がかじかんで、うまくシャッターが切れないみたいです。だから、今日は諦めようかな……」
たまらなくなって彼女を抱き寄せた。
何も考えなかったわけじゃない。
パニックを起こしたらどうしようとか、拒絶されたらどうしようとか、考えたけど、それでも抱きしめずにはいられなかった。
「零樹さんと静さんから話は聞いたよ。翠葉ちゃんらしいけど、こんなときまでそんなふうに笑わなくていいから」
彼女の身体から力が抜けるのがわかる。
力が抜ける、というよりは、俺に体重を預けてくれている。
こんなふうに心も預けてくれたらいいのに……。
「大丈夫です……大丈夫じゃなくちゃだめ――」
「……君は人には優しいのに自分には厳しいね。……とりあえず、一度部屋へ戻ろう?」
少しだけ彼女との間に空間を作り提案すると、彼女はコクリと小さく頷いた。
カメラケースを持ち、彼女をそのまま抱き上げる。と、
「あのっ、自分で歩けますっ」
言葉のみで小さく抵抗される。ただ、身体には力が入っていなかった。
それは抵抗するつもりがないわけではなく、力が入らないから、な気がした。
「それはどうかな? ずっと座ってたから、足が痺れてるんじゃない?」
彼女の顔が至近距離にあると、ついキスをしたくなる。だから、視線を前方に移した。
「……あの、いつから見ていたんですか?」
できれば彼女の顔を見て話したいと思うけど、今はやめておこう。その代わり、今は腕の中に彼女がいる。
「ずっと――って言ったら気持ち悪いかな?」
訊かれた内容に素直に答えすぎた。が、彼女はそれを嫌悪しているふうではない。
「休んでいたんじゃ……」
「そのつもりだったんだけどね……。見ていたかったんだ。でも、君の邪魔をしちゃいけないと思ったから部屋にいたけど」
建物に入ると彼女をベッドへ下ろす。けれども、彼女は未だ放心状態だった。
そんな彼女からカメラを取り上げると、見えない場所へ移す。
ブーツに手をかけると、彼女はやっと声を発した。
「あ、ごめんなさいっ。自分で――」
「手、かじかんでてちゃんと動かないんでしょう?」
彼女の手は真っ白だ。それは色が白いとかそういうことではなく、血が通っていないように見えた。
きっと、ものすごく冷たいはず。でも、その前に足だよね……。
あの状態でずっと座っていたのだ。足だって痺れるだろうし、血流が滞ってもおかしくはない。
靴下も脱がせその足に触れると、氷のように冷たかった。
「足、だいぶ冷えちゃったね。ちょっと待ってて」
バスルームへ行き、コック全開でバスタブにお湯を張る。
本当ならそのままお風呂に入れてしまいたいところだけれど、着替えはないし、湯上りの彼女を見るのは目に毒な気がして。足湯なら自分の理性も保てそうだから。
隣の部屋に戻り、
「足湯で温まろう?」
「そこまでしていただかなくてもっ」
ベッドの上で後ずさって辞退される。
困った顔――
困らせたいわけじゃないんだけど、俺も……俺らしくいたい。
俺らしくいることを君が望むなら、俺はこのままの俺で君に接するよ。
「じゃ、俺も一緒に足湯に浸かろうかな」
彼女の隣に腰掛け靴下を脱ぎ、スラックスの裾を捲くった。
彼女は何を言うでもなく、あたふたしている。
「そろそろかな」
立ち上がると同時に彼女を抱え上げるが、なんの反応もない。
反応がないこと、抵抗をされないことを喜んでいいのか悪いのか……。
諦めたのか慣れたのか……。
「こういうの、だいぶ慣れたのかな?」
「え……?」
「前は、こんなにおとなしく抱き上げられてはくれなかったんだよ」
すると、急にスイッチが入ったかのように慌て始める。
「っ……今だって大丈夫なわけじゃないですっ。でも……」
でも……?
「秋斗さん、あたたかくて――」
俺の胸元を押さえていた左手がくしゃり、とシャツを握る。
「……くっ、俺で暖が取れるならいくらでも?」
そう答えると、彼女の頬が少し赤らんだ。
その仕草や表情にいつもの「彼女らしさ」を感じほっとする。
バスルームで彼女を下ろすと、床の冷たさに片足を上げた。
まるで、司の家の犬、ハナみたいだ。
ハナは冬の寒い日に外へ連れ出すと、地面が冷たいのか、片足を上げてフリーズする。挙句、抱っこ抱っことせっついてくるのだ。
目の前の彼女は抱っこをせがむことはないだろうけれど、してくれたらかわいいかな、とは思う。
「蒼樹情報より抜粋なんだけど、シャワーの温度は三十五度からでOK?」
「はい……」
「蒼樹から翠葉ちゃんの話を聞かされ始めてからは結構長いから、翠葉ちゃん情報は蓄積されているんだ。スカートだけは持っててね?」
「あ、はい」
彼女は、たっぷりとしたスカートを膝の辺りまで持ち上げる。
白い足にシャワーを当てると、一気に赤くなって慌てた。
「わっ――赤くなっちゃったけど大丈夫っ!?」
彼女を見上げると、下を見下ろしていた彼女がコクコクと頭を縦に振る。
二、三分かけて温度を上げ、四十度くらいになったときにシャワーを止めた。
「よし、じゃ、スカートだけ持っててね?」
「え……?」
後ろから彼女の両脇に手を入れ、湯船の中へ彼女を入れた。まるで子どもをお風呂に入れるみたいに。
湯船の縁に座らせると、彼女は湯に浸かる足を見てポカンとした顔をしていた。
自分も湯船に入り、同じように縁へ腰掛ける。
「あったかいね」
笑いかけると彼女の目に涙が溜まりだし、やがてそれはポツリポツリと彼女のスカートに落ちていく。
すぐに下を向いて髪の毛が彼女の顔を隠してしまったけど、スカートにできる染みは広がるばかり。
手の届く位置にフェイスタオルがあって助かった。
それをシャワーで濡らし、彼女に差し出す。
「泣きたいだけ泣いていいよ」
彼女はスカートを膝まで持ち上げると、きれいに折りたたんで涙でできた染みをすべて隠した。
そして、受け取ったタオルを両手でぎゅっと握って顔へ当てる。
やっぱり、自分の胸で泣いてほしいと思ってしまう。でも、今はやめておこう。
今は、俺の体温よりそのタオルのぬくもりのほうが彼女に寄り添える気がしたから。
「せっかく連れてきてもらったのに、ごめんなさい……」
不鮮明な声が響く。
そんなこと、どうでもいいのに……。
俺は写真なんてどうでもよくて、ただ君と一緒にいたかっただけだ。
「翠葉ちゃん、今回ここには療養に来たんだよ」
ここという場所で過ごした時間を思い出してほしいというのは俺のエゴであり、静さんの仕事上の都合。
「君は身体を休めるためにここへ来たのであって、写真を撮りに来たわけじゃない」
君はここへ療養を目的として来たんだ。
自分にも言い聞かせるように話す。
「思い出して? 君は木曜日に病院へ行かなくちゃいけないほどひどい発作を起こしたんだ。そして、三日間ゆっくり休むようにって言われたよね?」
彼女の心の中でうまくすり替えられますように。
逆に、俺はもっと自制しろ――
彼女の身体にも心にも、負担をかけるような行動言動は慎め。
「横になってる必要はないみたいだけど、逆に仕事をしていいとも言われていない。むしろ、だめなんじゃない?」
彼女が「あ」と口を開けた。
「……ごめんね。俺は翠葉ちゃんが写真を撮りたいんじゃないかなと思って声をかけただけだったんだけど……。前回来たときは写真を撮ることに熱中してしばらくは戻ってこないくらいだったから」
彼女はタオルから顔を離し、何か言いたそうな顔をしたけれど、もう少し話させて?
「秋斗さん、謝らないで。謝ったらやだ……」
謝るのもタブーかな……。
「……さ、そろそろ足もあたたまったよね?」
そう声をかけると、彼女は湯船の中で足をちゃぷちゃぷとさせ、コクリと頷いた。
洗面所を出て歩きながら彼女に提案。
「少しお昼寝したらどうかな? 本館の部屋に戻る? それともここで休む? どっちがいい?」
全部俺が決めるのではなく、彼女に選んでもらえばいい。
提案したことに対して、彼女が答えを出してくれれば、俺は自分を押し付けることはしないで済むから。
俺にとって、「提案」というのはとても便利な方法だった。
彼女は少し悩んでから、
「……本館へ戻ります」
と、俺を追い越した。
その表情は無表情――
そういう顔は君らしくないんだよね。それから、そういう行動も……。
俺は彼女の細い手首を取り、
「翠葉ちゃん、俺はどっちがいいかを訊いたんだよ?」
さっきまでらこの部屋から外の景色ばかり見ていた子が、今は極力見ないようにしている。
きっと、本音はここにいたいんだ。ただ、それができない理由はあるしたらふたつ。
写真を撮ることを意識せずにはいられないから。もしくは、俺がここにいるから。
そのどちらかがネックだったとしても大丈夫だと思う。
俺が出て、若槻と蒼樹をここへ寄こせば写真のことを考えずに済むか、あのふたりが相談に乗るだろう。
静さん、やっぱり俺がフォローするのは限度があるかもしれません。
でも、極力彼女の意に添うようにはしてあげたい。
「ここにいたいならここでかまわないんだ。俺がいないほうがいいなら蒼樹か若槻を呼ぶし」
「違うっ――秋斗さんがいるからとかそういうことじゃなくて」
俺が原因じゃないのは嬉しい。でも、それを言葉のままに受け取っていいのかは不明。
彼女は優しいから――その言葉すべてを信じていいのかわからない。
俺じゃないなら、理由はカメラにあるのだろうか……。
「じゃぁ、何?」
「……私がここでお昼寝しちゃったら秋斗さんが休めないから」
「なんだ、そんなこと?」
君の考えは本当に読めないな……。
理由が自分でもカメラでもないことにほっとして、思わず笑みが漏れる。
「俺は何もしないで過ごせる時間があればそれでいいんだ。翠葉ちゃんの『休む』は身体を横にして休むことが前提なのかもしれないけれど、俺は違う。ただ、頭を使わずのんびりと過ごせるだけで十分休養になる」
彼女が顔を上げて首を傾げる。
「だから、ここで休みたいならそうすればいい。ほら、冷えないうちに布団に入りな?」
そう言うと、俺はソファへ向かった。
背中には彼女の視線が張り付いている。
ソファに座り彼女を振り返る。と、まだ首を傾げたまま俺を見ていた。
「そんな顔をしてると添い寝してほしいのかと勘違いするよ?」
ソファの背に手をかけ立ち上がる素振りを見せると、彼女は慌ててベッドへ上がり布団の中におさまった。
横になると、今度こそ外の景色に釘付け。外の景色、というよりは空、かな。
俺は携帯からメールチェックをしたり、経済の動向を把握すべくニュースに目を通していた。
手荷物はまだ本館にあるからパソコンはない。それに、ここでパソコンを開いてしまったら、彼女が気にするだろう。
今日明日の仕事は終わらせてあるからとくに差し迫ってやらなくちゃいけないことは何もないが、手持ち無沙汰になるとどうしても仕事をしてしまう癖がある。いわゆる、俺の行動パターンのひとつなのだろう。
「つまらない人間……」
最近、自分のことをそう思う。
ほかに趣味といった趣味もなく、ただパソコンさえあればどこでも生きていける気がしていた。
そのあたり、楓と俺は正反対だな。
楓は休みに家にいる、ということはあまりないらしく、ホテルの人間とバーベキューへ行ったり、ひとりでふらっと釣りへ出かけたり。時には図書館で本を読んでいたりするらしい。ひとりで映画館へ映画を見に行くこともあるのだとか……。
人が集まる場所へ率先して出かけているように見える。
俺には何をとっても面倒に思えて、楓の休日の過ごし方は理解に苦しむ。
そんなことを考えていると、規則正しい寝息が聞こえてきた。
良かった、眠れたらしい。
ベッドまで行くと、右手だけしまい忘れた状態で寝ていた。
枕に広がる髪がきれいだった。
最近、その髪の毛のどこかしらは結ばれていることが多く、留めるものにはグリーンのきれいなとんぼ玉を用いていた。
高価な細工ものではないが、彼女が好むのがよくわかる。そんな品。
入院中からそれは彼女の側にある。
久しぶりに会ったあの日も身につけていた。
緊張すると、それにすぐ手が伸びるところを見ると、彼女の精神安定剤のようなものなのだろうか。
もしかしたら蒼樹か若槻からの贈り物なのかもしれない。
「あ……」
ふたりにはメールを入れておこう。
ずっとこのまま彼女の寝顔を見ていたいけれど、彼女が目覚めるときには蒼樹と若槻がいたほうが安心だろう。
今は彼女のことだけを考えて、彼女が少しでも楽しく、心穏やかに過ごせることを考えて――
翠葉ちゃん……俺はね、君が俺の隣で笑っていてくれたら、それだけで幸せだと思えるのかもしれない。
あくまでも、「今」は。
抱きしめてキスをしたいし、それ以上のことだってしたい。
心も身体も君を欲している。でも、それは君も望んでくれないと意味がない。
俺の「欲」のみで行為に及んでも、それじゃきっと満たされない。行為だけでは、今までほかの女としてきたことと変わらない。
俺に君への気持ちがあっても、それだけじゃだめなんだ。
わかってるのに、「衝動」はやってくる。
「だから厄介なんだ。男って生き物は……」
でも、もう君を傷つけるようなことはしないから……。
だからどうか――俺という人間を怖がらないでほしい。
記憶がない今、俺は彼女の優しさで守られている。でも、記憶が戻ったときは覚悟をしなくてはいけない。
彼女がこのままでいるなんて思うな。現実はそんなに甘くはない――
「翠葉ちゃん、ここは日陰。冷えるよ」
そう言って、自分のジャケットを肩からかけると、
「ありがとうございます……。日陰は本当に寒いですね」
彼女は涙声をごまかすように笑みを添えたけど、目は赤く、顔は青白かった。
そんなふうに堪えなくてもいいのに……。
もし、ここに現れたのが俺ではなく司なら、君はもっと素直になれるのだろうか……。
「手がかじかんで、うまくシャッターが切れないみたいです。だから、今日は諦めようかな……」
たまらなくなって彼女を抱き寄せた。
何も考えなかったわけじゃない。
パニックを起こしたらどうしようとか、拒絶されたらどうしようとか、考えたけど、それでも抱きしめずにはいられなかった。
「零樹さんと静さんから話は聞いたよ。翠葉ちゃんらしいけど、こんなときまでそんなふうに笑わなくていいから」
彼女の身体から力が抜けるのがわかる。
力が抜ける、というよりは、俺に体重を預けてくれている。
こんなふうに心も預けてくれたらいいのに……。
「大丈夫です……大丈夫じゃなくちゃだめ――」
「……君は人には優しいのに自分には厳しいね。……とりあえず、一度部屋へ戻ろう?」
少しだけ彼女との間に空間を作り提案すると、彼女はコクリと小さく頷いた。
カメラケースを持ち、彼女をそのまま抱き上げる。と、
「あのっ、自分で歩けますっ」
言葉のみで小さく抵抗される。ただ、身体には力が入っていなかった。
それは抵抗するつもりがないわけではなく、力が入らないから、な気がした。
「それはどうかな? ずっと座ってたから、足が痺れてるんじゃない?」
彼女の顔が至近距離にあると、ついキスをしたくなる。だから、視線を前方に移した。
「……あの、いつから見ていたんですか?」
できれば彼女の顔を見て話したいと思うけど、今はやめておこう。その代わり、今は腕の中に彼女がいる。
「ずっと――って言ったら気持ち悪いかな?」
訊かれた内容に素直に答えすぎた。が、彼女はそれを嫌悪しているふうではない。
「休んでいたんじゃ……」
「そのつもりだったんだけどね……。見ていたかったんだ。でも、君の邪魔をしちゃいけないと思ったから部屋にいたけど」
建物に入ると彼女をベッドへ下ろす。けれども、彼女は未だ放心状態だった。
そんな彼女からカメラを取り上げると、見えない場所へ移す。
ブーツに手をかけると、彼女はやっと声を発した。
「あ、ごめんなさいっ。自分で――」
「手、かじかんでてちゃんと動かないんでしょう?」
彼女の手は真っ白だ。それは色が白いとかそういうことではなく、血が通っていないように見えた。
きっと、ものすごく冷たいはず。でも、その前に足だよね……。
あの状態でずっと座っていたのだ。足だって痺れるだろうし、血流が滞ってもおかしくはない。
靴下も脱がせその足に触れると、氷のように冷たかった。
「足、だいぶ冷えちゃったね。ちょっと待ってて」
バスルームへ行き、コック全開でバスタブにお湯を張る。
本当ならそのままお風呂に入れてしまいたいところだけれど、着替えはないし、湯上りの彼女を見るのは目に毒な気がして。足湯なら自分の理性も保てそうだから。
隣の部屋に戻り、
「足湯で温まろう?」
「そこまでしていただかなくてもっ」
ベッドの上で後ずさって辞退される。
困った顔――
困らせたいわけじゃないんだけど、俺も……俺らしくいたい。
俺らしくいることを君が望むなら、俺はこのままの俺で君に接するよ。
「じゃ、俺も一緒に足湯に浸かろうかな」
彼女の隣に腰掛け靴下を脱ぎ、スラックスの裾を捲くった。
彼女は何を言うでもなく、あたふたしている。
「そろそろかな」
立ち上がると同時に彼女を抱え上げるが、なんの反応もない。
反応がないこと、抵抗をされないことを喜んでいいのか悪いのか……。
諦めたのか慣れたのか……。
「こういうの、だいぶ慣れたのかな?」
「え……?」
「前は、こんなにおとなしく抱き上げられてはくれなかったんだよ」
すると、急にスイッチが入ったかのように慌て始める。
「っ……今だって大丈夫なわけじゃないですっ。でも……」
でも……?
「秋斗さん、あたたかくて――」
俺の胸元を押さえていた左手がくしゃり、とシャツを握る。
「……くっ、俺で暖が取れるならいくらでも?」
そう答えると、彼女の頬が少し赤らんだ。
その仕草や表情にいつもの「彼女らしさ」を感じほっとする。
バスルームで彼女を下ろすと、床の冷たさに片足を上げた。
まるで、司の家の犬、ハナみたいだ。
ハナは冬の寒い日に外へ連れ出すと、地面が冷たいのか、片足を上げてフリーズする。挙句、抱っこ抱っことせっついてくるのだ。
目の前の彼女は抱っこをせがむことはないだろうけれど、してくれたらかわいいかな、とは思う。
「蒼樹情報より抜粋なんだけど、シャワーの温度は三十五度からでOK?」
「はい……」
「蒼樹から翠葉ちゃんの話を聞かされ始めてからは結構長いから、翠葉ちゃん情報は蓄積されているんだ。スカートだけは持っててね?」
「あ、はい」
彼女は、たっぷりとしたスカートを膝の辺りまで持ち上げる。
白い足にシャワーを当てると、一気に赤くなって慌てた。
「わっ――赤くなっちゃったけど大丈夫っ!?」
彼女を見上げると、下を見下ろしていた彼女がコクコクと頭を縦に振る。
二、三分かけて温度を上げ、四十度くらいになったときにシャワーを止めた。
「よし、じゃ、スカートだけ持っててね?」
「え……?」
後ろから彼女の両脇に手を入れ、湯船の中へ彼女を入れた。まるで子どもをお風呂に入れるみたいに。
湯船の縁に座らせると、彼女は湯に浸かる足を見てポカンとした顔をしていた。
自分も湯船に入り、同じように縁へ腰掛ける。
「あったかいね」
笑いかけると彼女の目に涙が溜まりだし、やがてそれはポツリポツリと彼女のスカートに落ちていく。
すぐに下を向いて髪の毛が彼女の顔を隠してしまったけど、スカートにできる染みは広がるばかり。
手の届く位置にフェイスタオルがあって助かった。
それをシャワーで濡らし、彼女に差し出す。
「泣きたいだけ泣いていいよ」
彼女はスカートを膝まで持ち上げると、きれいに折りたたんで涙でできた染みをすべて隠した。
そして、受け取ったタオルを両手でぎゅっと握って顔へ当てる。
やっぱり、自分の胸で泣いてほしいと思ってしまう。でも、今はやめておこう。
今は、俺の体温よりそのタオルのぬくもりのほうが彼女に寄り添える気がしたから。
「せっかく連れてきてもらったのに、ごめんなさい……」
不鮮明な声が響く。
そんなこと、どうでもいいのに……。
俺は写真なんてどうでもよくて、ただ君と一緒にいたかっただけだ。
「翠葉ちゃん、今回ここには療養に来たんだよ」
ここという場所で過ごした時間を思い出してほしいというのは俺のエゴであり、静さんの仕事上の都合。
「君は身体を休めるためにここへ来たのであって、写真を撮りに来たわけじゃない」
君はここへ療養を目的として来たんだ。
自分にも言い聞かせるように話す。
「思い出して? 君は木曜日に病院へ行かなくちゃいけないほどひどい発作を起こしたんだ。そして、三日間ゆっくり休むようにって言われたよね?」
彼女の心の中でうまくすり替えられますように。
逆に、俺はもっと自制しろ――
彼女の身体にも心にも、負担をかけるような行動言動は慎め。
「横になってる必要はないみたいだけど、逆に仕事をしていいとも言われていない。むしろ、だめなんじゃない?」
彼女が「あ」と口を開けた。
「……ごめんね。俺は翠葉ちゃんが写真を撮りたいんじゃないかなと思って声をかけただけだったんだけど……。前回来たときは写真を撮ることに熱中してしばらくは戻ってこないくらいだったから」
彼女はタオルから顔を離し、何か言いたそうな顔をしたけれど、もう少し話させて?
「秋斗さん、謝らないで。謝ったらやだ……」
謝るのもタブーかな……。
「……さ、そろそろ足もあたたまったよね?」
そう声をかけると、彼女は湯船の中で足をちゃぷちゃぷとさせ、コクリと頷いた。
洗面所を出て歩きながら彼女に提案。
「少しお昼寝したらどうかな? 本館の部屋に戻る? それともここで休む? どっちがいい?」
全部俺が決めるのではなく、彼女に選んでもらえばいい。
提案したことに対して、彼女が答えを出してくれれば、俺は自分を押し付けることはしないで済むから。
俺にとって、「提案」というのはとても便利な方法だった。
彼女は少し悩んでから、
「……本館へ戻ります」
と、俺を追い越した。
その表情は無表情――
そういう顔は君らしくないんだよね。それから、そういう行動も……。
俺は彼女の細い手首を取り、
「翠葉ちゃん、俺はどっちがいいかを訊いたんだよ?」
さっきまでらこの部屋から外の景色ばかり見ていた子が、今は極力見ないようにしている。
きっと、本音はここにいたいんだ。ただ、それができない理由はあるしたらふたつ。
写真を撮ることを意識せずにはいられないから。もしくは、俺がここにいるから。
そのどちらかがネックだったとしても大丈夫だと思う。
俺が出て、若槻と蒼樹をここへ寄こせば写真のことを考えずに済むか、あのふたりが相談に乗るだろう。
静さん、やっぱり俺がフォローするのは限度があるかもしれません。
でも、極力彼女の意に添うようにはしてあげたい。
「ここにいたいならここでかまわないんだ。俺がいないほうがいいなら蒼樹か若槻を呼ぶし」
「違うっ――秋斗さんがいるからとかそういうことじゃなくて」
俺が原因じゃないのは嬉しい。でも、それを言葉のままに受け取っていいのかは不明。
彼女は優しいから――その言葉すべてを信じていいのかわからない。
俺じゃないなら、理由はカメラにあるのだろうか……。
「じゃぁ、何?」
「……私がここでお昼寝しちゃったら秋斗さんが休めないから」
「なんだ、そんなこと?」
君の考えは本当に読めないな……。
理由が自分でもカメラでもないことにほっとして、思わず笑みが漏れる。
「俺は何もしないで過ごせる時間があればそれでいいんだ。翠葉ちゃんの『休む』は身体を横にして休むことが前提なのかもしれないけれど、俺は違う。ただ、頭を使わずのんびりと過ごせるだけで十分休養になる」
彼女が顔を上げて首を傾げる。
「だから、ここで休みたいならそうすればいい。ほら、冷えないうちに布団に入りな?」
そう言うと、俺はソファへ向かった。
背中には彼女の視線が張り付いている。
ソファに座り彼女を振り返る。と、まだ首を傾げたまま俺を見ていた。
「そんな顔をしてると添い寝してほしいのかと勘違いするよ?」
ソファの背に手をかけ立ち上がる素振りを見せると、彼女は慌ててベッドへ上がり布団の中におさまった。
横になると、今度こそ外の景色に釘付け。外の景色、というよりは空、かな。
俺は携帯からメールチェックをしたり、経済の動向を把握すべくニュースに目を通していた。
手荷物はまだ本館にあるからパソコンはない。それに、ここでパソコンを開いてしまったら、彼女が気にするだろう。
今日明日の仕事は終わらせてあるからとくに差し迫ってやらなくちゃいけないことは何もないが、手持ち無沙汰になるとどうしても仕事をしてしまう癖がある。いわゆる、俺の行動パターンのひとつなのだろう。
「つまらない人間……」
最近、自分のことをそう思う。
ほかに趣味といった趣味もなく、ただパソコンさえあればどこでも生きていける気がしていた。
そのあたり、楓と俺は正反対だな。
楓は休みに家にいる、ということはあまりないらしく、ホテルの人間とバーベキューへ行ったり、ひとりでふらっと釣りへ出かけたり。時には図書館で本を読んでいたりするらしい。ひとりで映画館へ映画を見に行くこともあるのだとか……。
人が集まる場所へ率先して出かけているように見える。
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そんなことを考えていると、規則正しい寝息が聞こえてきた。
良かった、眠れたらしい。
ベッドまで行くと、右手だけしまい忘れた状態で寝ていた。
枕に広がる髪がきれいだった。
最近、その髪の毛のどこかしらは結ばれていることが多く、留めるものにはグリーンのきれいなとんぼ玉を用いていた。
高価な細工ものではないが、彼女が好むのがよくわかる。そんな品。
入院中からそれは彼女の側にある。
久しぶりに会ったあの日も身につけていた。
緊張すると、それにすぐ手が伸びるところを見ると、彼女の精神安定剤のようなものなのだろうか。
もしかしたら蒼樹か若槻からの贈り物なのかもしれない。
「あ……」
ふたりにはメールを入れておこう。
ずっとこのまま彼女の寝顔を見ていたいけれど、彼女が目覚めるときには蒼樹と若槻がいたほうが安心だろう。
今は彼女のことだけを考えて、彼女が少しでも楽しく、心穏やかに過ごせることを考えて――
翠葉ちゃん……俺はね、君が俺の隣で笑っていてくれたら、それだけで幸せだと思えるのかもしれない。
あくまでも、「今」は。
抱きしめてキスをしたいし、それ以上のことだってしたい。
心も身体も君を欲している。でも、それは君も望んでくれないと意味がない。
俺の「欲」のみで行為に及んでも、それじゃきっと満たされない。行為だけでは、今までほかの女としてきたことと変わらない。
俺に君への気持ちがあっても、それだけじゃだめなんだ。
わかってるのに、「衝動」はやってくる。
「だから厄介なんだ。男って生き物は……」
でも、もう君を傷つけるようなことはしないから……。
だからどうか――俺という人間を怖がらないでほしい。
記憶がない今、俺は彼女の優しさで守られている。でも、記憶が戻ったときは覚悟をしなくてはいけない。
彼女がこのままでいるなんて思うな。現実はそんなに甘くはない――
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