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ノアキ光

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#35 今日は家に帰りたい(恋愛)

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「ああ! 待って!」

 私のその叫び声もむなしく、電車のドアは無機質な音を立てて閉まった。私の伸ばした指先は、その電車に触れることもないまま、虚空をさまよっただけだった。

 私は、行先を失った指先を下ろして、スカートのすそを少し握った。

「今日は、帰りたかったのにな……」

 もう誰もいなくなってしまったホームで、私は一人つぶやいた。

 いつも人でにぎわっているホームに、今いるのは私と、電気にぶつかって飛んでいる虫だけだった。鱗粉を散らしながら飛ぶその虫を見て、私はもっと、むなしくなった。

 今日は、今日だけは何としても家に帰りたかった。今日は記念日だったのだ。彼と二人で、今の家に住み始めて今日でちょうど一年になる。だから、今日は家でお祝いをしようと二人で決めていた。

 私たちは有給を取っていたのに、会社で非常事態が起こってしまったから、私は呼び出されてしまったのだ。まだ入社して一年ほどしか経っていない私は、断ることも出来ず、仕方なく会社に向かった。

「早く仕事終わらせて、帰ってくるから」

と約束したのに、私はそれを守れなかった。

 私はカバンからスマホを取り出した。画面には彼からのLINEがあった。『仕事終わりそう?』『今日、帰れそう?』その二通が、寂しそうに表示されていた。

『ごめん、今日は帰れない』

 私は画面に打ち込んだ。冷たくなったホームの椅子に座って、私は返信を待った。どこか泊まる場所を探さないと、とぼんやりと考えながら。

『やっぱり忙しかったんだね』

『うん、終電逃しちゃった』

『大変だったんだね』

 胸が締め付けられるようだった。彼は、画面の向こうで、寂しそうにしているんだろうな。でも、それを私に感じさせないように、優しい言葉で私をいたわってくれる。彼は、私には優しすぎる。

 会いたいな、私がそう思ったときだった。

「じゃあさ!」

 私の背後から声がした。私は椅子に座ったまま、振り返る。

「一緒に帰ろうよ」

 そこに、彼は立っていた。彼は、顔をくしゃっとさせながら、笑っていた。

「今日は、今日は」

 一歩ずつ歩み寄ってくる彼に、私は言葉を紡ごうとしたけれど、なかなかその言葉は見つからなかった。

「今日は?」

 私の目の前に立った彼は、私の頭に手を置きながら言った。

「今日は、あなたと帰りたい」

「うん、帰ろ」

 彼は私を抱きしめた。私も、それに応えた。体が、温かくなった。私たちは、手をつないでホームを後にする。

 さぁ、帰ろう。
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