7 / 35
復活祭と華麗なるベネチアングラス
耐久レースの幕開け
しおりを挟む
それから1週間半は怒濤のごとく過ぎて行った。
連絡が来たカフェの取材と、同時進行で進める執筆。取材先の都合に合わせるため、不本意ながら学校も一日欠席した。
オーナーやスタッフのインタビューをメモしたものと、取材同日夜にはアダムがアップロードしてくれる写真をダウンロードしてチェックしつつ、作業をすすめるものの、卒論以来初めての執筆作業は予想以上に困難を極めた。
各カフェごとに文字数が定められているので、盛り込みたい情報を絞り、伝えたい情報を簡潔にまとめる。
こんな単純なルールなのに、どうしても文字数をオーバーしてしまう。
削るというのがこれほど難しいとは思わなかった。
修正が入るのは必至だとわかってはいるが、せめて文字数くらいはきちんと揃えておきたいので、PCで文章を入力しては読み直し、また削除しては新たに追加する。いたちごっこの作業のようだった。
母国語の日本語ではあるが、ひとつのことを表現するために使える言葉がいくつもあり、その数多い選択肢の中からひとつ、ふたつくらい、自分が伝えたい言葉にしっくり当てはまるものを選ぶ。
文章を書くことを職業としている人達は、日々こういう作業をしているわけで、彼らはきっと、自分が使いたい言葉が頭の中で瞬時に浮かび上がって来るのかもしれない。
木曜日の夜は徹夜して、イースター休暇の初日であるGood Fridayの金曜日の明け方、ようやく3件分の記事をはるに送信。そして、先に送っておいた写真からはるが選んだ掲載用写真につけるキャプションに取りかかった。こちらのほうは、思ったよりすいすいと進む。文字数が少ないせいもあるが、基本的に説明書きだからそれほど苦労することはなかった。
キャプションをひとつのファイルにまとめて、はるへ送信出来たのは昼過ぎのことだった。
はぁー……ものすごく疲れた。
これが、正真正銘、疲労困憊という状態だ。
受験以来かもしれない、これほど精魂尽き果てたのは……頭の中も書いた文字が交差しまくって爆発しそうだ。
ヨロヨロのままシャワーを浴びて、ドライヤーも適当にベッドに潜り込んだ。
明日は、寿司パーティだ。今日中に買い物をしておかなくてはならない。
さすがに久しぶりの完徹の身でそのまま買い物に行く気力と体力は残っていないので、目覚ましを4時半にセットして目を閉じた。
仕事を終えた後に惰眠をむさぼる。ああ、なんて幸せなんだろう……
あっという間に暗い夢の世界へ落ちて行った。
しばらくして、ドンッという鈍い音と背中の痛みで目を覚ました。
びっくりして目を開いて時計を見ると、あと数分でアラームが鳴り始めるところだ。
「いたたたた……」
腰に手をやりながら身を起こす。固いフロアに受け身なしで落ちたようだ。
信じられないことだが、寝返りのはずみでベッドから転がり落ちたという状況のようだ。人間って大人になると無意識の間でもベッドから落ちないはずなのに!
その無意識の中に働くべき感覚さえOFFになってたなんて、よほど疲れていたとしか思えない。
アラームが鳴り始める前にスイッチを消しておく。
3時間ほどしか寝ていないが、思ったより頭もすっきりしているので、予定通り買い物に行くことにした。
明日は、マリアが心待ちにしている寿司パーティだ。
私とアナがメインで仕切り、参加するのはヨナスとアダム、あと聡君という日本人の学生。都合がつけばイヴァンも来るとのことだった。
寿司飯は、日本の炊飯器を持っているアナがまとめて炊いて来ることになっていて、私は巻寿司の野菜類の材料を下準備しておくことと、デザートのシュークリームのシューを焼いて持って行く担当だ。聡君が新鮮なマグロやサーモンなど魚介類を仕入れて来てくれるらしい。なんでも日本で居酒屋でバイトしていたとかで料理には詳しいらしく、心強い助っ人だ。シュークリームは、カスタードと生クリームの両方をフィリングにするダブルシューというやつ。これも、当日デザートとしてコーヒーを煎れる時に仕上げることになっている。
考えていたらワクワクしてきて、私は自分の担当食材リストを確認し、ちょっと遠方のアジア系スーパーへ出かけたのだった。
翌日の土曜日の昼下がり、私達は以前、マリアのパーティで集まっていたエスプレッソ・バーにいた。
今日は特別に貸し切りしてもらったらしい。
キッチンも広々として使い易く、私達はわいわい騒ぎながら作業をしていた。
「卵なら僕にまかせて」
聡君が冷蔵庫から卵を出しながら言った。
「居酒屋で毎日だし巻玉子を作っていたから、得意なんだよね~」
「さすがぁ!ステキだわー料理が出来る男の子って」
アナが巻寿司の具をすし飯の上に並べながらそう言うと、聡君は切れ長の眼でちらりとこちらを見て、うふふっと笑う。
「でしょー?基本、和食系は完璧なんだっ」
そう言いながら、手際よく卵を片手で割りボウルの中へどんどん落として行く。これまでかなりの数の卵を扱って来たんだろう。
あれくらい奇麗にそしてリズミカルに卵を割れるなんて、プロの料理人のようだ。
「四角のフライパンはないけど、大丈夫?」
大きな丸いフライパンしか見当たらないのでそう言うと、聡君はくるりと周りを見渡して、オーブン用のテフロン加工がされた四角のプレートを指差した。
「あれでいけると思う。オーブンを下だけONにして温度調節しながら時々取り出して巻いてみる」
「なるほど!」
さすがだ。感心して聡君を見る。
大学の専攻はシンセサイザープログラマーとか聞いたが、クリエイティブな人は発想も自由でやっぱり凡人とは頭の作りが違うようだ。
「調子はどうだい?あっちはもう、すっかり出来上がっているようだ」
アダムがキッチンに入ってきたので、アナが眉を潜めてちらりと私を見た。
出来上がっているってなにが?
私達の様子を見たアダムが、にっと唇のはじを上げて笑う。
「マリアもヨナスもすでに酔っぱらってご機嫌だ」
あー、そういうことか。
私達はおかしくなって笑いながら作業の手を進める。
すると、なんだか甘くていい匂いがぷうんと鼻をかすめた。匂いがする方を見ると、いつの間にか聡君が、立派なだし巻玉子をオーブンから取り出したところだった。
「すっごい!ほんとになってる!」
「わっ、カステラみたいな甘い匂いですっごく美味しそう~!!」
私達はびっくりして、自慢げにこちらにそれを見せる聡君を賞賛した。
「へぇ、たいしたもんだね」
私達の背後からアダムが眼を丸くして、聡君が両手で持つまな板の上でほかほかと湯気をたてている玉子を見た。
聡君はふふん、と自慢げに笑うと、ちょっと下目使いでアダムを見あげて言う。
「アダムなら、毎日でも作ってあげちゃうけど、どう?」
……私とアナは顔を見合わせた。
そう、聡君はゲイだ。
見た目は結構普通のかわいい男の子だが……
ナンパされた当の本人、アダムは慣れたもので、大げさにため息をつくと、私とアナの肩を両方からがばっと抱いて聡君を見た。
「ありがとう、気持ちはうれしいよ。でも、残念ながら俺はキュートな女の子に作ってもらう方がいいかな」
そうさらっと言って、チャーミングにウインクをする。アダムの青い瞳がきらりと光った。
聡君が、きゃぁっと小さく声をあげて照れる。
「じゃぁ、僕も本物の女の子になっちゃおうかな~」
おっと、これは半分以上は本気じゃないだろうか。
私とアナは苦笑しながら、自分の担当の作業へと戻ったのだった。
しばらくして、ラウンジのほうに料理がずらっと並び、パーティというか宴会というか、よくわからないが私達はかなり盛り上がっていた。
お寿司も、サラダも美味しく出来ているし、マリアなんて最初からかなりの量を食べている。
わさびの粉を水で練ったのはマリアだったのだが、その出来がよほど満足いくものだったらしく、マリアはやたらヨナスの皿にわさびをこんもりと盛って、もっと使えという。アダムまでマリアに強制される羽目になり、時折わさびを付けすぎて涙眼になるやら、激しく咳き込むやら、その滑稽な姿に他の者は笑い転げるやらと、酒も入って騒々しいことこの上ない。
そろそろ皆、笑い疲れて来たなと思った頃、入り口のドアが開く気配がして、「ハロー!」と声がする。
私以外は皆お酒が入っていて、ソファに根が生えた様に座り込んでいるので、率先して様子を見に行く。
見れば、イヴァンがこちらへ来るところだった。
「イヴァン!来れたんだね」
すでに開始から2時間以上過ぎていたが、まだお寿司も残っているからよかった。
イヴァンは相変わらずビシッとした身なりだ。いつも、シワなんか全くない折り目正しいシャツを着ていて、いかにも潔癖そうだ。でもだから、仕事が出来るんだろうなと思う。マリアの話だと、イヴァンは弁護士らしい。どういう分野の弁護士なのかまでは知らないらしいが……
イヴァンはちらりとラウンジのほうを見ると、黒いジャケットを脱ぎながら私に笑いかけた。
「あちらはすっかり沈没した感じらしいな」
「沈没?うーん、そうね、どろどろの海って感じ?」
おかしくなって笑いながらそう答えると、イヴァンはふん、と鼻で笑い、奥のほうへ行く。
ソファに埋もれている皆の様子を見ると、彼は少し大げさに両手を広げ、呆れた様子で言う。
「やれやれ、ひどい有様だな。誰も俺には電話さえしてこないと思えば、こういうことだったか」
「やぁイヴァン。君の分も残っているから、そう怒るな」
ヨナスが眠そうにあくびをしながらソファで伸びをする。マリアに至ってはもう、ヨナスのひざを枕代わりにうたた寝をしていた。
アダムは聡君とアナの間でなんだかんだと二人に絡まれている。
イヴァンは素面の私を話相手に、お寿司に手を伸ばした。
「もっと早く来る予定だったんだけどね。まぁ、皆、わかっているとは思うが」
「うん」
奥さんがきっといい顔しなかったんだろう。なんたって土曜日の午後、普通なら家族サービスの時間帯だろうし。
イヴァンの気持ちもわからなくもないが、残される奥さんと子供も気の毒ではある。
でも、彼らには私達他人には解らない事情があるんだろうし、家族以外の人間が口出していい内容でもない。
「このところ大きな案件があって、連日連夜遅くまで仕事だったんだ。やっと昨日、法廷で決着がついてね」
「あ、昨日だったんだ。どうだったの?」
どんな事件だったのか、案件だったのか聞こうかと思ったが、やっぱりそれは止めておいた。あまり怖い話は聞きたくない。
イヴァンは少し驚いたように眼を開き、私を見た。
「どうだったって、もちろん俺が勝つに決まっているじゃないか」
「え、あ、そう?」
当然のことだといわんばかりの言葉になんだか拍子抜けして変な声が出てしまった。
随分、やり手なんだなぁ。頭良さそうだし。
笑っていても眼の鋭さは変わらない。絶対にこの人と法廷で対峙したくないかも。あの強い眼力で睨まれただけで足がすくみそうだ。
「ところで、アパートのほうはどうだ?」
「あ、いい感じ。階段も慣れてきた」
「階段?まだそんなことを言っているのか」
「そんな言い方しなくても……あ、でも問題がひとつあって」
丁度良かった!
私は前からイヴァンに言わなくてはと思っていたことを思い出した。
「窓のひとつがきちんと閉まらないの。開閉用のハンドルがガタガタいうだけで動かなくて、窓は閉まっているけどロックされていない状態で」
「窓がロックされていないというのは良くない」
イヴァンは真面目な顔でそう言って、少し怒ったように私を見た。
「そういうことはすぐに連絡してくれ。だが、タイミング悪く家主はバケーション中だ」
「イースター休暇明けでも全然平気」
どうせ私も月曜日の朝一番でオランダのおばぁちゃんのところへ行くから、留守中になる。
イヴァンは少し考えるように右手にあるビールのボトルを眺めていたが、やがてゆっくりと首を左右に振って言った。
「いや、こういうのは放置しておくことじゃない。明日の朝、10時くらいに俺が行こう。多分、少しいじれば直せるだろう」
「え、明日?日曜日の朝にそんなことやってもらったら……」
まずいんじゃないの、あなたが立場的に。
そう言いかけて黙った。
イヴァンの家族のことはあまり口出ししない。マリアもそう言っていたし、人にあーしろこーしろと指図されるのはイヴァンは大嫌いらしいし、変に意見しないほうがいい。
「明日の10時。とにかく、今後はなにかアパートで不都合があれば迅速に連絡するように」
まるで上司のように上から目線でそう言われ、思わず姿勢を正した。
「は、はいっ」
そうこうしているうちに、やがて泥酔状態から復活したマリアがやれ音楽だと騒ぎだし、ラウンジに明るいサンバの曲が大音響で流れ始め、寿司パーティは最後の盛り上がりへと突入していったのだった。
翌日の日曜日。
気持ちよく目覚め、まず一番にメールをチェックするとはるから「手直し依頼」メールが来ていた。
〆切前だから、彼女は週末返上で出勤しているようだ。
手直しの内容を見てみると、思っていたより少ないので、1時間もあれば出来そうだ。
よかった、無事に入稿まで辿り着けそうだ。これで安心しておばぁちゃんのところへ遊びにいける。
ほっとしてラップトップを閉じた。手直しのほうは午後にやることにする。
もうまもなくしたら、イヴァンが窓の修理に来るはずだ。
キッチンの小さなテーブルで簡単な朝食を食べていると、携帯が鳴る。壁掛けの時計をみると、もうまもなく10時だ。
コーヒーをカップに注ぎ入れながら片手で携帯を取った。
「おはよう、イヴァン」
冷蔵庫を開き、バニラ風味の豆乳と牛乳を見比べる。
『……』
ん?聞こえなかったかな?
バニラ豆乳のほうをコーヒーに注ぎながら、もう一度声をかけた。
「イヴァン?もう下にいるの?」
すると、携帯の向こうからため息が聞こえて来た。
『……君ってやつは』
耳に入ってきた低い声に思わず手に持っていた豆乳を落としそうになった。
ニッキーの声だ。
イヴァンじゃなかった!
「ごめんなさいっ!ニッキー」
慌ててそう言いながら、一瞬にして先週末のディナーの記憶が鮮明に蘇りドキンとして言葉に詰まる。
『……イヴァンだって?』
「え?あ、そう、10時に窓の修理に来る人で」
何故か動揺してしまって早口になっている!
私、どうしてこんなに慌ててしまってるんだ?!
『……気に入らないな。遅くとも10時半には追い出せ』
「え?」
追い出す?いきなり何を言い出すんだ、この人は。
返事をしかねて呆然としていると、それを肯定と受け取ったのか、少し機嫌の良さそうな声が聞こえた。
『今日は何している?』
話がころっと変わる。
「えー、原稿の手直しを……」
『オッケー』
私の声を遮るようにニッキーが唐突に言う。
『カフェにラップトップを持ってくればいい。11時だ』
「ええっ、ちょっと」
驚いて携帯を握りしめたその時、玄関のブザーが鳴った。今度こそイヴァンだ。表の呼び鈴を鳴らしている。
電話と、玄関の呼び鈴、両方を同時対応は出来ないじゃないか。
中腰になって立ち上がったら、
『11時。チャオ』
と携帯から聞こえて直後に通話が切れる。この間のバイクの時と同じだ。人の返事なんて待つ人じゃないらしい。
仕方が無いのでとりあえず急いで玄関へいき、そちらの受話器を取る。
「イヴァン?」
『おはよう。開けて』
解錠のボタンを押すと、ビビーっと警告音がなった。
表の通りに面した扉が解錠された音だ。これから中庭を通って上まで上がって来る。イヴァンのことだ、あっと言う間に到着するだろう。
すぐに玄関の鍵も開けて階下をのぞくと、1分も経たないうちにイヴァンが現れた。
珍しく、薄手の青と白のストライプシャツにブルージーンズと軽装で、私はびっくりした。いつもビシッとスーツ姿しか見たことがなかったので、知らない人が来たのかと思うくらいだ。
「なんだか別人みたい」
「?」
イヴァンが怪訝な顔をして私を見下ろす。気のせいか、あの堅苦しい厳しさが漂う顔立ちもいつもより明るく爽やかに見える。
「なんか、若そうに見える」
「なんだって」
イヴァンはぐっと眉を潜めて聞き返した。
「どういう意味だ。俺は年寄りじゃない」
「いや、そういうんじゃなくって、なんていうのかな」
うまく説明が出来ず、このままだとイヴァンの怒りをかってしまいそうだ。妥当な説明が思い浮かばず、仕方なく思った通りに言う。
「20代前半の学生みたいに、若々しいって言いたかったんだけど」
「学生か?」
少し機嫌が良くなったようで、イヴァンはそれ以上追求することもなく部屋の中に入って来た。品のよい香水が一緒に室内に流れ込む。
「あいかわらず物がないな」
あたりをぐるりと一瞥し、一言、そう言った。
「うん、あまり買わないようにしてる。クリスマス過ぎたらもう契約期限だし」
「そうだな。無駄がないのはいいことだ」
褒めてもらったのかよくわからないが、少なくとも馬鹿にされたわけではないようだ。
イヴァンと話していると、どうも上司と部下のような会話になってくる気がする。
彼の地雷を踏まないよう、自然と言葉を選んでいる時点ですでに上下関係が決まっている。
几帳面なイヴァンはすぐに鍵がおかしい窓のチェックをして、持って来た工具箱からスクリュードライバーなどを取りだした。
頭の良い人はなんでも出来るらしい……
イヴァンを見ていると脳裏に浮かぶ絵画がある。赤いマントを羽織り軍馬にまたがる雄々しいナポレオンの肖像画だ。
「余の辞書に不可能という文字はない」これってまさに、イヴァンを表す明言じゃないだろうか。
うん、似てる。この二人、かなり似てる。もしかして生まれ変わり?
私は特にすることもないので、ラップトップの前に座る。
さっきの電話のことを思い出した。
会話らしい会話もしないうちに、何故か約束をしてしまったことになっている。
なんだろう、この強引さ。ワンマンってやつ?自己中?俺様?
操り人形のように転がされているような気がするが、でも私、心のどこかでそれを楽しく感じている……
現代のナポレオン、もとい、イヴァンは手際よく窓の修理をし、もう一度「不都合があればすぐ連絡するように」と私に説教をすると、次の用事があるとかで慌ただしく去って行った。
そして私は時計を見ながら出かける準備をする。
少し温かくなってきたので、お気に入りのG-Starストレートジーンズに、コットン生地のグレーにピンクがポイントカラーになっているリバーシブルパーカーを着た。PCケースに入れたラップトップを大きめのショルダーバッグに入れて、外へ出た。
今日はいつもよりさらに日差しを強く感じて、空の真上に登っている太陽を見上げた。
もう、春だ。街の至る所で花々が咲き始め景色が色づいて行く。イースターの訪れと共にベルリンは一気に春めいていた。
そして10分後。
私はまたもや、Café Bitter-Süßの前に到着していた。もうまもなく11時になるところだ。
よく考えればどこもイースター休暇中で、カフェもレストランも殆ど閉まっている。
Café Bitter-Süßも見た所閉まっているようだけど。
入り口のほうへ近寄ってみると、奥でニッキーがラップトップを開いて何かやっているのが見えた。ドアをそーっと押すと、ちりん、と上の鈴が小さい音をたてた。
ニッキーがこちらを見ると片手をあげて微笑んだ。
「いい子だ。11時きっかり」
なんと答えたらいいのか解らず、とりあえず中に入る。
「お仕事中なの?」
ラップトップの上を彼の指が軽快にすべっていて、ただメールを書いているとかそういう暇つぶしには見えない。
「そんなものだ。君もそこに座って」
「あ、うん、ありがとう」
勧められるままに、この間と同じモスグリーンの椅子に腰をかけて向いのニッキーを見る。彼は片手で顎の無精髭を触りつつ、スクリーンの中をじっと見ている。カフェだって経営とか数字関係の管理とかいろいろあるんだろうな、などと思いながら、自分もショルダーからPCケースを取り出す。
ニッキーはラップトップのキーをものすごいスピードで叩きつつ、眼はスクリーンを見たままで言う。
「お互いやるべき仕事はさっさと終らせよう」
「はい……」
なんだろう、この変な会話と固い空気。
微妙にテンションが下がるのは、ついさっきまでナポレオンに説教され虐められ(?)、ここに来たらまた別の俺様が私に指令をする。私って、生まれながらに人に部下扱いされる人間なのだろうか。
でも言われていることは正論で、間違っていない。
「カノン?」
名前を呼ばれて顔をあげると、ニッキーがキーを叩きながら言う。
「ここのWifiのパスワード、今メールで君の携帯に送る」
「あ、助かる。ありがとう!」
Wifiが使えると、手直しが終り次第すぐにはるへ送信出来て助かる。ほっとして思わず笑顔でニッキーを見ると、彼がスクリーンから顔をあげ、片目でウインクした。
思わずドキッとして慌てて自分のラップトップに眼を落とす。
不意打ちにしてはあまりに可愛すぎるウインクだ!
あんな、奇麗な眼をしていたんだ……!
この間は夜だったし、最初に会った時は店内が薄暗くて色まで良く見えなかったけど、ニッキーの眼はグレーっぽい青色で、長いまつげに縁取られたその瞳はとても美しかった。
雑念が頭の中に広がって行く。
ダメだ。今は仕事。
一度、眼をぎゅうっと固くつぶって、自分に言い聞かせる。
深呼吸をして、私は手直し用に送られて来た原稿ファイルを開けた。
無言のまま、キーを叩く音だけが響く。
やり始めたら思ったより早く集中力が戻って来て、私もネット辞書を画面半分に、もう半分に原稿をという状態で作業を続けた。
ニッキーも息をしているのかしていないのか分からないほどの静けさでキーを叩き続けている。
やがて1時間くらいして私のほうは手直しを終え、ふうと息をついた。
これで、送信ボタンを押せば終わりだ。
ニッキーを見ると、彼も一段落したのか、さっきまでキーを叩いていた手が止まっている。
その手を見て、あの時手を繋がれたことを思い出し、思わずカッと頭に血が上った。
ダメだ!!!
なんでさっきからやたら心拍数が上がることばかり考えてしまうんだろう。
他の所を見ればいいと思って、外のほうに目をやる。表はイースター休暇のせいか、散歩したり家族で過ごす人も多いのだろう、楽しそうな笑い声や子供の叫ぶ声が聞こえて来る。
「終った?」
ニッキーがラップトップを閉じながら私のほうを見た。
「うん、あとは送信するだけ……」
今、送信すればそれで終わりだ。そう思いながらスクリーンに目をやる。もう一度最後に原稿を読み直してから送信しようかな。
「飲み物を持ってこよう。ラテ?」
「あ、はい。ラテで……ありがとう」
ニッキーが立ち上がってカウンターの向こうへ行く。
私はもう一度、原稿を読み直してから、メールを送信した。
やがてニッキーが温かいラテとエスプレッソを運んで来た。ラテのカップの横に添えられた丸っこいスプーンの上に、四角いクッキーが添えられていた。赤いドライクランベリーが生地に練り込まれているようだ。
「美味しそう」
そう言うと、ニッキーがにっこりと微笑んだ。
食べてみると、オレンジとクランベリーの甘酸っぱいクッキーで、爽やかな酸味と香りが広がっていく。
「私、クランベリーは大好きなんだけど、オレンジと一緒になるともっと美味しいみたい!」
クランベリーだけのクッキーより、断然こちらのほうが美味しい!
ニッキーはくすっと笑いながらゆっくりとエスプレッソを飲む。
私もふわふわのミルクが優しいラテに口をつけた。仕事の後のコーヒーってやっぱり格別かもしれない。
美味しいな。
〆切に追われる感じで毎日が慌ただしく過ぎた直後に訪れた、ぼーっとする時間。
忙しい日々の後だからこそ、こういう時間は心地いいんだろう。
毎日がぼーっとしてたらつまらなくて死にそうになるわけだから、仕事で忙しい期間があるというのはいいことだ。
そんなことを考えていると、ニッキーがじっとこちらを見ているのに気がついて、少しドキッとする。
「なに?」
思わずそう聞いてしまった。なにか、顔についているとか?
落ち着かなくて手で自分の頬を触ってみる。
ニッキーはちょっと考えるように視線を止めた後、エスプレッソのカップをテーブルに置いた。
「運河沿いにはもう行った?」
「運河?あの、中央駅の周辺?Friedrichstraßeのあたり?」
中央駅を囲むように、東西を分けるように流れる運河があったと思う。
「電車の中から見たことはある」
「そう」
ニッキーは頷いて立ち上がった。つられるように思わず立ち上がると、彼は楽しそうに微笑み、ポケットから鍵を取り出して私の眼の前でそれを揺らした。
「行こう。荷物はそのままでいい」
「えっ、今?!」
びっくりしていると、ニッキーはエスプレッソのカップに添えてあったクッキーを取りぐいっと私の口に突っ込むと、眼を白黒している私の腕を掴みそのまま表に出る。クッキーを飲み込みつつ、ニッキーがカフェの入り口に鍵をかけるのを眺めた。
この唐突な流れに動揺しなくなっている自分が微妙に怖いかも。
振り回されるのを楽しみ始めている私って、もしかしてマゾ体質?
どうやって行く気なんだろう?さっき見せた鍵は車じゃなかったけど……そう思ってあたりを見渡すと、ニッキーは近くの街灯にロックしてあった自転車のところへ行き、私を呼んだ。
近寄ると彼はヘルメットを私の頭に乗せ、ぐいと顎を押し上げながら留め具の調整をする。
まるで親に世話をやかれている幼児みたいだなと思いつつ、動かずに横目で自転車を見た。
これで行くってわけ……?!
いや、あの暴走族みたいなバイクは怖いけど、大人になって自転車の二人乗りというのもちょっと……重量オーバーしてタイヤがパンクなんてなったら……
「さあ」
ニッキーはすでに自転車に股がって、斜めに車体を傾けた。
「これ、大丈夫かな?」
心配になってそう聞くと、ニッキーはむっとした。
「大丈夫じゃないものに乗れとはいわない」
「それはそうだけど」
サドルもハンドルもふたつある二人乗り専用でもない、普通の自転車だし……もちろん、フレームも大きくてがっちりしたデザインだけど、バランスとか、重量とか、ほんとに大丈夫なんだろうか……
ぐずぐずしていると、ニッキーが顎で私に乗れ、と指示する。
はぁ……どうしてこう、やたら命令されるのか。
しぶしぶその傾いている自転車の後方に股がってみる。当然、おじょうさんよろしく横座りなんてありえない状況だろう。
一応そこが座れるような形になっているので、二人乗りしてよいように作られた自転車なのかもしれない。
そう思った瞬間、ぐいっと自転車が体勢を戻した。
「わっ」
バランスを崩して思わずニッキーの服を掴む。その途端、自転車は大きく動き出した。
結構なスピードが出る。しかも、カーブなどは車体が斜めになるし、急ブレーキに急発進で、これじゃあの暴走族バイクとさして変わらない怖さかもしれない。気を抜くと本当に振り落とされそうなので、半分目をつぶりながらニッキーにしがみつく。
街の喧噪がものすごいスピードで後方へ消えて行く。人の声や車の音も、耳をかすめて途切れ途切れ。時折薄目を開けた時に見える景色がどんどん変わって行き、20分ほどで運河沿いに到着していた。
「カノン?」
ニッキーが車体を斜めにしながら振り向いた。わかっている。下りなきゃ。
「ちょ……ちょっとだけ待って」
膝がガクガクだ。私が自転車を漕いだわけじゃなく、ただ乗っていただけなんだけど。
完全にびびってしまったらしい。
私はのろのろと自転車を下り、壁のへこみに寄りかかった。
まだ膝が笑っている!
「そこに停めて来る」
ニッキーは自転車を少し先の街灯のほうへ停めに行く。
膝丈の細身のコットンパンツの下からすらりと伸びるニッキーの脚は、まるで針金のように引き締まったバネのよう。ぱっと見た感じだと細いように見えるけど決して細くはない。がっしりとした筋肉が美しくついた頑丈そうな脚だ。私を乗せてあのスピードで走れるんだから、かなりの脚力なんだろう……
ヘルメットも自転車と一緒にロックして、ニッキーは手ぶらで戻って来ると、まだ体に力が入らない私を見て苦笑した。
「本当は、大人の二人乗りは禁止されている」
「えっ」
驚いて顔をあげると、彼は全く気にする様子もない。
「君は子供のようなものだから、平気だろう」
私は呆然として彼を見上げた。
それはないだろう!
どこから見たって子供じゃない!
「……警察のお世話になるのは、困るんだけど」
ビザというもので滞在している私にとって、交通違反でもなんでも、警察に関わることはまずい。
「以後は気をつけよう。今日はこれしかなかったから仕方がない」
いたずらっ子のように目を煌めかせてニッキーが笑った。
私はそれを見て、大きく溜め息をした。
この人って、本当に心臓に悪いかも。
怖いもの知らずというか、本当に自由奔放な人だ。
交通違反の事実を全く気にする様子もない彼が、運河の向こうを眩しそうに見た。
「シュプレー川岸の芝生に行こう」
そしてすっと私の手を取り歩き出した。
あまりに自然な動きだったので私も特に違和感もなく歩き出したが、よく考えたらこれってまるでデートみたいじゃないか!
これって一体……?
もしかしてデート?
いや、違うはず。
どちらも告白とかそういうのしてないし、大体そんな雰囲気でもないから、デートじゃないはずだ。
でも、この手は……
振りほどこうと思えば出来たけれど、なぜかそういう行動をする気分になれず、黙って引っ張られるままに歩く。
一緒に歩くというよりは、引っ張られている感じ。親子?まさか。
家族連れやカップル、観光客のグループがたくさん歩いていて、人の間を縫うように歩いて行くと、博物館島やベルリン大聖堂が見える芝生沿いのカフェに到着した。なんだかリゾートっぽいBGMが流れて、ベルリンの市内にいるのを忘れてしまいそうな雰囲気が新鮮だ。
ニッキーは手を離して店内のほうへ入っていったので、私はひとり、ゆっくりとあたりを見渡した。
間近で大聖堂を見るのは初めてだったので、その壮観をじっくりと見る。歴史を感じさせるその威厳に満ちた姿に感動する。さすが、大国ドイツという感じだ。キラキラと波打つ運河を何隻もの観光船が行き交う。多くの観光客が船からこちらを見ている。
「カノン」
呼ばれて振り返ると、すでに飲み物とサンドイッチを手にしたニッキーが目でこちらに来いと合図していた。
後をついていくと、運河沿いに並べられたリゾートチェアの空き席のほうへ歩いて行く。彼はその一対のリゾートチェアのひとつに身を預けて、隣のテーブルにランチを置き、両手を頭の後ろで組むとぐいっと四肢を伸ばした。
うわ、似合うっ!
リゾートチェアがこんなに似合う人、見たこと無いかも!
思わずニコニコと笑ってニッキーを見下ろすと、彼が片目を閉じたままもう片方の目で私を見上げた。
「適当に選んでおいた。さぁ食べよう」
「うん、ありがとう」
素直にお礼を述べて、私もリゾートチェアに腰掛ける。私が座ると少しサイズが大きいように見えて、どうもニッキーのようにかっこいい様にはならないようだ。もっと、大人っぽく、こういうリゾートルックが似合うようになるべき年齢なのに!!!
ニッキーが選んで来てくれたのは、新鮮なハムや輪切りのゆで卵、チーズが重ねられ、青々としたレタスと真っ赤なスライストマトがたっぷり挟まれたバゲット。かなりのボリュームだ!炭酸水のボトルが2本あったので、ちょっと気になってニッキーに尋ねてみた。
「そういえば、タイ料理店でも炭酸水だったよね。アルコールは飲まないの?」
ニッキーはバゲットを片手に持ったまま目だけこちらに向けた。
「いや、アルコールはかなり飲む」
「あ、そうなんだ」
そういえば、もうひとつ、聞こうと思っていたことがあった。
「ニッキーってドイツ語どうなの?ネイティブ並み?」
彼がドイツ語を話しているのは聞いたことが無い。タイ料理店でも英語で注文していたから、どうなんだろうと思ったんだった。
ニッキーは炭酸水の蓋を開けて、勢い良く半分くらいを飲み干し、それからにやっと不敵な笑みを浮かべ私の目を覗き込んだ。
「どうやら、俺のことが知りたくなってきたようだな」
「ニッキー!なんでそんな言い方するのよっ」
急に恥ずかしくなるじゃないか!
別に、ドイツ語がどうなのかを聞いただけなのに、そんな言い方されるとまるで彼のプライベートを根掘り葉掘り聞いている様じゃないのっ。
憤慨してプイと横を向き、私は自分のバゲットにかじりついた。
もう、二度と聞かない!!!
きっとドイツ語なんかペラペラなんだろうし、聞くだけ野暮だ。
隣で笑いをかみ殺している気配を感じてイライラするが、ここまで連れて来てもらって、きっとこのランチもご馳走してくれることになるんだろうと思うと、今ここで振り返って嫌みを言うほど私も気は強くない。このままバゲットと一緒に、苛立ちを飲み込むしかない。
サンドイッチは作りたてでとても美味しかった。全部は食べきれないのじゃないかと思っていたけど、結局すべてお腹におさまる。
隣が静かになっているのでちらりと振り返ると、いつのまにかサングラスをして昼寝をしているようだ。
細いゴールドの縁取りサングラス。一歩間違えたらマフィア?でも、悔しいことにやっぱりさまになっている……
特にすることもなく、リゾートチェアで膝を抱えて運河のほうを眺める。
風に乗って聞こえて来る音楽が耳に心地よい。
何か話し声が聞こえるなと思ってそちらのほうを見ると、日本人らしき観光客グループが私達の前を通り過ぎるところだった。OLか大学生のグループだろうか。ちょうど、美妃くらいの年齢の女の子達だ。ガイドブックらしきものを4、5人で覗き込みながら歩いている。
ちょうど私の2m先くらい前方を通り過ぎた時、そのうち1人のバッグにひっかけてあったウインドブレーカーが芝生に落ちた。
「あっ、落ちましたよっ」
思わず立ち上がってウインドブレーカーに駆け寄った。風が吹いたら、軽いウインドブレーカーなどあっという間に飛ばされて、運河に落ちたらもう拾えない。
「すみません、有り難うございます」
驚いて振り返った彼女がびっくりして戻って来た。
そしてウインドブレーカーを受け取りながら、なんだか嬉しそうに私を見た。
「あの、日本の方ですね?こちらに住まれてます?」
「あ、はい。ベルリンに住んでます」
「よかったー!ちょっと聞きたいことがあって」
彼女は少し先のグループに声をかけ、皆がこちらへやってきた。そして、私にガイドブックを見せて質問する。
「ここです。この通りの先あたりにあるらしいDas Wunder Museumという場所に行きたいんでけど、地図がちょうどそこで切れていて」
見れば、地図のはじっこにその通りらしい名前があって、丁度そこでページが切れている。
「うーん、私もそんなに詳しくなくって……あ、でも携帯で調べられるかも」
携帯でGPS機能をONにして行き先入力したら、ダイレクションが見えるはずだ。
くるりと自分が座っていたリゾートチェアのほうを向いて、その時、致命的なことに気がつく。
あ、携帯、忘れた!
そうだった。全部、カフェに置きっぱなしのまま出て来たんだった。
財布も携帯もない。
呆然としている私に何が起こっているかは、彼女達が知る由もなく、私の後ろで全員黙って待っている。
携帯忘れた……って言うの、かなり気まずいな。
そう思ったけど、事実は事実だ。
仕方なく振り返って、そのことを告げようとした時、昼寝中だったニッキーがサングラスをずらしながら上半身を起こした。
「どうした?」
「ニッキー!私、携帯忘れた」
「携帯?必要ないだろ」
ま、普通ならなくても困らないけど、今は緊急時ってやつなのよ。
私は少し考えてから、わかりやすく説明した。
「彼女達が行きたい所にどうやって辿り着けるか、携帯で調べようと思ったんだけど」
「あぁ」
ニッキーは頷いて、サングラスを外してちらっと彼女達のほうをみると、とても紳士的にさわやかな笑顔を見せた。
急に色めき立ち、会釈しながらこそこそと話す女性達。
そりゃそうだろう。
確かにハンサムだし。
しかし、あんな紳士な微笑み方もするんだ。計算しつくされた完璧な笑顔がなんだかムカつく。
ニッキーは胸のポケットから自分の携帯を取り出し、ロック解除のパスワードを入れ、なにか操作をした。
途端、メールの受信音みたいなのが連続で聞こえたので、びっくりして携帯のほうを見た。
「どうしたの?アラームみたいにすごい音」
「ん」
ニッキーは軽くスクリーンを指で流して受信リストをチェックしながら答えた。
「機内モードにしておいたから、まとめて入って来ただけだ」
「機内モード?そしたら誰も繋がらないじゃない。携帯の意味なくなるよ」
変なことを言っているなと思ったら、ニッキーはちらりと私を見て、まるで私を試すかのような甘い微笑みを向けた。
「こうしないと、君との時間に邪魔が入るだろう?」
「えっ」
耳を疑うセリフに馬鹿正直に驚く。
ニッキーはくすっと笑いながら、目がまんまるになっているだろう私に、ぽいっと携帯を投げてよこしす。
「今はネット繋がるから、調べものをすればいい」
そう言うと、何事もなかったようにまた、炭酸水のボトルに手を伸ばす。
一体、なんだんだ、この人は!!!!
人が赤面するようなことを、さらっと言うその神経。私、完全にからかわれてるっ!!!
胸の奥底で、侮辱されたような、逆に気恥ずかしい様な複雑な苛立ちを感じつつも、私はニッキーの携帯を使って無事、彼女達の必要としていた行き先案内情報を調べることに成功した。
彼女達は何度も「ニッキーに」お礼を言いながら、手を振り振り去って行った。
なんだか微妙に寂しい気分の私。
確かに、ニッキーの携帯だけど、調べたのは私。
……ま、いっか。
こんなしょうもないことで暗い気分になるのはもったいないくらい、とってもいい天気なんだし。
「はい、携帯。どうもありがとう」
ニッキーの携帯を返そうとした瞬間、バイブレーションと同時に呼び出し音が鳴りはじめた。
びっくりして思わず手が滑りそうになり、携帯を持ち直した瞬間、呼び出し音とバイブレーションがぴたりと止む。
『ハロー?!』
甲高い女性の声が響いた。
しまった!
誤ってスクリーンタッチしてしまったらしい。
大失敗に泣きそうになりつつ、ニッキーに携帯の画面を向ける。
電話の向こうで、『ハーーーローーーーッ!!!』と切れ気味の声が、漏れて来る。
ニッキーはそれを見て、うんざりしたような顔をした後、ゆっくり手に取り耳にあて「Ja」と低い声で応えた。
ほら。ドイツ語で返事してるじゃないか。
やっぱりドイツ語を話すんだ。
なんだかキンキン声が携帯からもれているが、ニッキーはリゾートチェアにふんぞり返って、聞いているのか聞いていないかのようないい加減な態度で、時折、静かに「Ja」と「Nein」、つまり、YesとNoだけを繰り返している。
これはなんとも、居心地の悪い状況だ。
電話の向こうで女性がなにかものすごく怒っている感じだ。
もしかして、まさか、あれは恋人とか、下手したら奥さんだったりとか……そんな想像をして背筋が寒くなる。
イヴァンがよく、鳴り響く電話を見て「Oh God!」を天を仰ぐ姿が脳裏に浮かび、ニッキーの今の様子とダブる。
バランスが悪すぎる一方的な会話がやっと終わり、ニッキーは携帯の電源を落とすとそれをテーブルにぽいっと投げた。
「あの、ごめんね?勝手に応答するつもりはなかったのに、アクシデントで……」
申し訳なくて頭を下げて謝る。自己嫌悪に落ち込む私を見て、ニッキーは大げさにため息をして空を見上げた。
「あれは継母」
「えっ?」
継母って言った?
意外な言葉にびっくりしていると、ニッキーがこちらを向いて、苦々しく眉を潜め、更に驚く事実を言った。
「父の4番目の妻」
「4番目?!」
それはすごい。すでに3回、離婚しているということなのか。
「4回目の離婚もそう遠くはなさそうだ」
人ごとのようにそう言って、ニッキーはまた、サングラスを掛け直してリゾートチェアにひっくかえった。
もしかして、父親の文句でも言うために息子のニッキーに電話をしているんだろうか。
継母かぁ……
まぁ、ニッキーのお父さんなら、かなりモテるんだろうし、こっちじゃ離婚なんてそう大したことでもないんだろう。
イヴァンもあんなにひょうひょうとして、「そろそろだ」なんて言うくらい冷めている。
すぐに別れるんなら、なんで毎回入籍するんだろう?面倒な手続きの繰り返しになるのに。
そんなどうでもいいことを考えながら、私もひなたぼっこに戻る。
もしかしたら初夏も近づいているんじゃないかと思うくらい、日差しが温かい。そろそろ、日焼けも気をつけないといけないシーズンになる。
「カノン?」
見れば、また両手を頭の後ろで組んで、サングラス着用中のニッキーがこちらを向いている。
彼は無言でポケットから財布をだすと、またぽいっと私に投げた。
「アイス買って来て」
「アイスクリーム?」
見渡すと、芝生の少し向こうにある広場に移動型のイタリアンジェラート屋が営業している。
ええ、もちろんですとも。
これくらいのパシリはやらせていただかないと!
散々おご馳走になり続けているので、お使いくらい喜んでやりますという気持ちですぐさま立ち上がった。
「どんなアイス?」
「ミントチョコ」
「え、ミントチョコ?」
思わず聞き返し、同時にぷっと笑ってしまった。なんか、似合わないというか、かわいいというか。
てっきり、ダークチョコとか、ピスタチオとかそういうのかと思い込んでいた。
「カノンの分はバニラで」
「は?」
いきなり何を言うんだ。大体、私も買うとは言ってないし、それにもし買うとしても私が決めることなのに。
変なことを言うなと思ったら、ニッキーがサングラスの向こうで、にやりと笑う。
「長々と悩まれたら俺のアイスが溶ける。シンプルなバニラなら後悔しない」
「……」
なるほど……そういう意味だったのか。
悔しくも言い返せなくて、憮然としながらくるりと背を向けズンズンとジェラート屋のほうへ歩く。
ニッキーの言っていることはごもっとも。だからなんだか歯がゆい。
ジェラート屋さんで注文をしながら、ずっしりと重い二つ折りの財布を開く。どこのブランドかわからないが、とても品質の良いライトブラウンカラーの革製で、デザインもオーダーメイドっぽい。中にたくさんのカードが挟んであるから重いらしい。
小銭入れを開けて4ユーロを支払い、コーン付アイスを持って戻る。
財布と一緒に、チョコミントのアイスを渡すと、ニッキーが体を起こした。
サングラスを上にずらし、私がバニラを持っているのを確認すると、やけに満足そうな笑みを浮かべた。
ほんの少し前まで寒くてとてもアイスクリームなんて食べたいと思わなかったけど、今日はこの陽気でやけにアイスが美味しそうに見える。
「ごちそうになります」
財布もない私なので自動的にご馳走してもらっている身分だ。
きちんとお礼を述べてから一口食べる。
つめたくて、濃厚なバニラの甘さが口の中いっぱいに広がった。
今年初めてのアイスだ。美味しい!
バニラビーンズの黒い粒がいっぱい見えるので、正真正銘のバニラアイスだ。人工香料なんか使ってなさそう!
ニッキーのほうを見ると、もう半分くらいミントチョコがなくなっている。リゾートチェアにひっくり返ってとても美味しそうにアイスを食べている姿が子供みたいで、ついまた、ニコニコと笑ってしまう。
美味しいものを食べているとどうしても顔が緩んでしまうようだ。
私が彼を見ているのに気がついたのか、ニッキーが食べるのをやめてこちらを見た。
あれ、気を悪くしたかな?
そう思って見るのをやめ、自分のアイスを食べようとしたら、腕が固まって動かない。見れば、ニッキーが私の手首をがっちり掴んでいる。これじゃ食べれない。そう思ってぐいっと引いたら、逆に腕を引っ張られ、直後、ニッキーが私のバニラアイスにがぶりと喰いついた。
「あああっっ!!!そんなにいっぱい!」
見れば、残っていたアイスの半分くらいを一口で食べられてしまっていた。悲しくなってニッキーを睨みつけると、彼は素知らぬ顔で自分のミントチョコに戻る。
「君は運動していないからそれでいい」
「えー……」
そう来たか。
確かに、自転車を漕いだのは私じゃなくて、ニッキーだ。体の大きさから言っても、これくらいの対比で間違ってはいない。
でも、でも!デザートはそんなの関係ないんじゃないかなぁ。
ぶすっとしながら今度はニッキーに背を向けて残りを食べる。こうしておかないといつまた横取りされるかわからない。といっても、私が支払いをしたアイスではないんだけれど。
無事に残りを食べ終わり、またリゾートチェアに身を沈める。
ニッキーは今度は本当に寝てしまったようで、びくともしない。
こちらに来る前もラップトップでかなり忙しそうに仕事をしていたようだから、疲れているんだろう。
私も疲れてはいるけど、ここで昼寝するほどでもない。
こうしてぼーっと運河を眺めているのもいい。
行き交う観光船を何隻眺めただろう。空を見ればもう夕暮れが近づいているようだ。時間を見るにも時計も携帯もないけれど……明日は朝、早起きして、ドイツの新幹線ICEに乗ってオランダに行く予定だから、今晩は荷造りをしなくてはならない。といっても、ほんの数日の滞在だから用意もさして時間はかからないかな。
「カノン」
声をかけられて、ニッキーがこちらを見ているのに気がつく。
「そろそろ出よう」
「うん」
ニッキーも何かまた用事があるのかもしれない。
私はテーブルの上のものをまとめてゴミ箱へ持って行った。プラスチックとペーパーのゴミと分別していると、後ろに立っている男の人に声をかけられた。
「もう帰っちゃうのかい?」
「?」
振り返れば、酔っぱらっているような赤ら顔の男が少し左右に揺れながら立っている。両手にはやっぱりビール瓶。
「オレは今来たばっかりなのになぁ、さびしいじゃないか」
これは完全に酔っぱらいらしい。相手にしないで去ることだ。私は少しだけ微笑んで首を左右に振った。
なおも声をかけてくる酔っぱらいを今度は無視してUターンすると、ちょうど目の前にニッキーが立っていて、すぐに私の手を掴んで歩き出した。後ろから酔っぱらいがよろめきながら声をあげてついてくる。
「よう、横取りなんてひどいなぁ、アニキ!」
この時間からあの酔っぱらい具合は、アル中かもしれない。
こんなに飲まなくちゃやってられないくらい嫌なことでもあったのかな。
少しだけ気の毒に思えて振り返ってしまう。酔っぱらいがまだこちらのほうへ歩いて来る。
「ほんの一回だけ、かわいい女の子と乾杯したいんだよ~それくらいいいだろ~?」
ニッキーが私を見下ろすと目を細めて苦笑した。
そういえば、こういうことが昔にあったっけ。
元彼がものすごくキレて、乱闘になりそうな勢いだったけど……ニッキーは(といっても別に私は彼女でもないが)こういう状況でも特に動揺する様子もなくさすがに大人のようだ。
そう思って、彼はどう対応するんだろうと興味深く見守る。
酔っぱらいはこちらに来ると、ビール瓶のひとつの蓋を栓抜きでポンと空け、私のほうへ差し出す。一回だけ乾杯してあげれば満足するんだろうか。
寂しそうな酔っぱらいの切ない目つきに心を動かされ、つい手が動こうとした。
すると、ニッキーがさっとそのビール瓶を受け取る。
酔っぱらいが不満そうに声をあげる。
「アニキじゃないよ、おねぇちゃんのほう」
すると、ニッキーが明瞭な声ではっきりと言う。
「Tut mir Leid, aber sie ist meine Liebe」
えっ……
い、今、なんて言った?!
驚いてニッキーを見あげる。酔っぱらいが、ああ!と叫んだ。
「Oh, wie schade!」それは残念だ、と。
ニッキーは爽やかな笑顔でその酔っぱらいと乾杯をかわすと、ぐいと瓶を空に傾けて一気に飲み干した。
ものすごい勢いでビール1本が空になったのを見て驚く。
5秒かかったかどうか?!
瓶をゴミ箱に入れ、ニッキーはやっと大人しくなった酔っぱらいに「じゃぁ」と声をかけ、歩き出した。
見事な対応だったけど、さっき、明らかにネイティブなドイツ語で……「悪いけどこれはオレの彼女」って言ったよねぇ???
私もそれくらい理解出来るんだけど。
歩きながらちらりとニッキーを見たが、特に変わった様子はない。
そうだよね、あんな風に言ってうまく相手を交わしたってわけだ。
耳にした時は思わず驚いたけど、付き合ってもいないのにドキッと反応する私がおかしいんだ!!!絶対、おかしい、私っ!自意識過剰っ!
それにしても、やっぱりドイツ語はネイティブなんだ。
英語も完璧なアメリカ英語に聞こえるけど……もしかして、アメリカとドイツのハーフとか?
下降中の沈んだ気分で歩いていると、ニッキーが立ち止まって言う。
「道路はかなり混んで来たようだ。Sバーンで帰ろう」
橋を渡ればもう電車の駅だ。こちらではチケットさえあれば、自転車も乗せることが出来る。正直なところ、二人乗りをしなくて済むことでほっとした。
ニッキーはすぐに自転車を引いて戻って来た。自転車を挟んで歩きながら、大きな橋を渡る。まだまだ観光客も多く、これからきっとナイトクルージングの時間になるんだろう。
駅の構内にはいると、ニッキーは軽々と自転車を肩に担いで階段を上って行く。
こちらの人は本当に階段慣れしていて、時々70代くらいの人が自転車を担いで階段を上り下りしているのも見かけるくらいだ。
プラットフォームは少し混み始めていたが、到着していた電車の自転車専用車両にはまだ余裕があった。
自転車を押して乗り込むニッキーに続いて車内に入る。もう既に4台ほど自転車を持ち込んでいる乗客がいた。
自転車と、反対側の扉の間に挟まれる感じで二人並んで立つと、電車が発車する。
騒々しいオランダの電車と違って、ベルリンの電車はかなり静かだ。電車の走る音くらいしか聞こえないことさえある。
皆誰も話す様子もなく静寂を保っているので、私も黙ってただ、周りを見渡す。
座席のほうにはカップルも多いようで、じっと見つめ合っていたり、手を握っていたりとぴったりよりそうように座っている。その合間に、携帯ゲームに忙しい少年や、新聞を読むおじさん、果てには編み物に忙しいおばぁさんが座っていていたりする。
面白い光景だなぁと思いながら眺めていると、頭になにか違和感を感じて顔をあげた。見れば、ニッキーが私の頭に触れている。
「カノン、髪にカラー入れてる?」
あぁ、それか。夕方になると普段より、部分的に赤みがかっているところがさらにはっきりと見えるようだ。今は丁度、夕日が車窓から差し込んでいた。
「これ、生まれつき。夕方だと目立つみたい」
そう答えると、彼は一度私を見てからまた髪のほうへ視線を動かした。
その手はするりと髪を撫でて、そして私の肩で止まる。視界に入った肩を掴んだニッキーの手にどきりとして息を飲んだ時、電車が大きく左右に車体が揺れ、ふいをつかれた弾みでバランスを崩し思い切りニッキーに寄りかかってしまった。あっと思ったが、彼は力強く私の肩を支えてバランスを直し、左腕を私の首に巻き付けるようにして私を抱き寄せた。
これって、今ここで揺れるとわかっていたから前もって支えてくれたのかもしれない。
そう思ったけれど、後ろから包み込まれるように片腕で抱かれて立っているこの状態。
とても、正気でいられないくらい、ド緊張して身動きできない。
絶対に普通の友人関係より距離が近すぎるんじゃないかと思うスキンシップは居心地悪い限りなのに、でもドキドキしてその腕から逃れようともしない自分がいる。
背中に感じるニッキーの胸から、彼の心臓の音が聞こえてきそうだった。
早く駅に到着してほしい。これ以上、心臓が持たない!
そんなことを必死に考えているうちに、ようやく最寄り駅に到着。
下車するとごく普通に階段を上り、カフェのほうへ歩く。散々喋った一日だったからもうこれ以上話すネタも尽きた感じで、特に喋ることもなく、でも居心地の悪い沈黙じゃなかった。
カフェに戻り、ニッキーが先にドアの鍵を開けてくれたので中に入り、自分の荷物をまとめてショルダーに入れた。表に出て来るとちょうどニッキーも自転車を停めて戻って来ていて、彼はカフェに鍵をかけるとまた、自然に私の手を取って歩き出した。
今日も送ってくれるつもりなんだ。
しばらく無言で歩いていたが、また赤信号で立ち止まった時に私は口を開いた。
「ニッキー、いろいろ楽しかった。ありがとう。いっぱいご馳走になっちゃったね」
財布と携帯を忘れたのは大失敗だったけど、今更後悔してもどうしようもない。
ニッキーはとても優しい目をして、本当に嬉しそうに微笑んだ。これが本当の彼の笑顔なのかもしれない、と思わず見とれる。
いたずらっ子のような意地悪な目つきも嫌いじゃないけど、やっぱりこっちのほうがステキ……なんて考えて、あわてて理性を取り戻そうと前方を向いた。
ダメだ。
さっきから私、おかしくなっている!!!なにかが変だ。
私はそう確信し、同時にかなり緊張してしまいそれ以上なにも言えなくなった。
数分歩くと私のアパートの前までついて、ニッキーがやっと口を開いた。
「明日からオランダに行くんだろう?いつまで?」
「金曜日に帰って来る」
指で何日か数えようとしたら、
「カノン」
「はい?」
返事をした時にはもう、ニッキーに肩を抱き寄せられていた。すっぽりと彼の胸の中に全身が埋まるくらい、両腕でぎゅうっと。
き、きたっ!また、お別れのあいさつが……!
その一瞬で緊張が電流の如く全身を走り抜け、雷に打たれたように動けなくなる。
そして数秒後、耳元で囁くような声が聞こえた。
「……おやすみ、カノン」
一気に鳥肌が立ち、膝からガクン、と崩れ落ちそうになるのを必死で持ちこたえる。
もう、いやだ!!!私ばっかりこんなに動揺させられてっ!!!
突然逆ギレ半分にニッキーを押し返し、紅潮しているだろう自分の顔を背けた。
「なんか、ニッキーってひどいっ」
我慢が出来ずにそう言って彼を睨む。ニッキーは少しまた意地悪そうな笑みを浮かべた。
「俺がひどいって?」
「そ、そ、そうやって私をからかって、楽しんでるんでしょっ」
びしっと指を突きつけて言い放った。
そうだ、言いたいことはしっかり言うべきだ。
ニッキーは肩をすくめてクスッと笑いを漏らし、自分を指す私の指を掴んで下ろす。そしてまっすぐに私の目を見つめて言った。
「からかってはいない。楽しんではいる」
「楽しむって、ゲームやおもちゃじゃないんだから!」
「ゲームなわけないだろう」
「だったら何なの?楽しむって、意味わからないっ」
私をからかって遊ぶのはやめて、と言おうとしたら、ニッキーが掴んでいた私の手を開き、そっと自分の左の頬にあてた。
無精ひげが少しくすぐったく、そして男らしいカーブを描く頬骨を手のひらに感じてまた不覚にもドキリとする。
ニッキーは灰色が強い美しい青い瞳でまっすぐに私を見た。
「耐久レース。いつか君が俺にこうしてくれる時を待っているんだ。君がだんだんと変わっていくその変化を楽しんでいる」
「耐久……レース?」
その吸い込まれるような澄んだ眼でじっと見つめられ、私はもう耐えられなくなって一気に自分の手をもぎとり、大慌てで扉の鍵を開けて中に逃げ込んだ。
「ばいばいっ!」
振り返って大声でそう叫ぶと、楽しそうに笑って片手を上げるニッキーの姿が閉まる扉の向こうへ消えた。
私は走って中庭を突っ切り、全速力で階段を駆け上がった。
5階に着いた時にはものすごく息切れしていたが、大急ぎで鍵を開けて部屋に入ると、バッグから携帯を取り出してどすんとソファに座った。ロック解除ももどかしく苛立ちながら電話番号を探し、ダイヤルする。たった2回の呼び出し音で『カノン?』と聞こえた。
私は携帯を握りしめ、枯れる声で訴えた。
「アナ!もう、頭がおかしくなりそうっ」
『えええっ、どうしたの?!?』
もうこれ以上、1人でジレンマを抱えきれず、その晩アナを相手にこれまでのことを長々と愚痴ったのだった。
連絡が来たカフェの取材と、同時進行で進める執筆。取材先の都合に合わせるため、不本意ながら学校も一日欠席した。
オーナーやスタッフのインタビューをメモしたものと、取材同日夜にはアダムがアップロードしてくれる写真をダウンロードしてチェックしつつ、作業をすすめるものの、卒論以来初めての執筆作業は予想以上に困難を極めた。
各カフェごとに文字数が定められているので、盛り込みたい情報を絞り、伝えたい情報を簡潔にまとめる。
こんな単純なルールなのに、どうしても文字数をオーバーしてしまう。
削るというのがこれほど難しいとは思わなかった。
修正が入るのは必至だとわかってはいるが、せめて文字数くらいはきちんと揃えておきたいので、PCで文章を入力しては読み直し、また削除しては新たに追加する。いたちごっこの作業のようだった。
母国語の日本語ではあるが、ひとつのことを表現するために使える言葉がいくつもあり、その数多い選択肢の中からひとつ、ふたつくらい、自分が伝えたい言葉にしっくり当てはまるものを選ぶ。
文章を書くことを職業としている人達は、日々こういう作業をしているわけで、彼らはきっと、自分が使いたい言葉が頭の中で瞬時に浮かび上がって来るのかもしれない。
木曜日の夜は徹夜して、イースター休暇の初日であるGood Fridayの金曜日の明け方、ようやく3件分の記事をはるに送信。そして、先に送っておいた写真からはるが選んだ掲載用写真につけるキャプションに取りかかった。こちらのほうは、思ったよりすいすいと進む。文字数が少ないせいもあるが、基本的に説明書きだからそれほど苦労することはなかった。
キャプションをひとつのファイルにまとめて、はるへ送信出来たのは昼過ぎのことだった。
はぁー……ものすごく疲れた。
これが、正真正銘、疲労困憊という状態だ。
受験以来かもしれない、これほど精魂尽き果てたのは……頭の中も書いた文字が交差しまくって爆発しそうだ。
ヨロヨロのままシャワーを浴びて、ドライヤーも適当にベッドに潜り込んだ。
明日は、寿司パーティだ。今日中に買い物をしておかなくてはならない。
さすがに久しぶりの完徹の身でそのまま買い物に行く気力と体力は残っていないので、目覚ましを4時半にセットして目を閉じた。
仕事を終えた後に惰眠をむさぼる。ああ、なんて幸せなんだろう……
あっという間に暗い夢の世界へ落ちて行った。
しばらくして、ドンッという鈍い音と背中の痛みで目を覚ました。
びっくりして目を開いて時計を見ると、あと数分でアラームが鳴り始めるところだ。
「いたたたた……」
腰に手をやりながら身を起こす。固いフロアに受け身なしで落ちたようだ。
信じられないことだが、寝返りのはずみでベッドから転がり落ちたという状況のようだ。人間って大人になると無意識の間でもベッドから落ちないはずなのに!
その無意識の中に働くべき感覚さえOFFになってたなんて、よほど疲れていたとしか思えない。
アラームが鳴り始める前にスイッチを消しておく。
3時間ほどしか寝ていないが、思ったより頭もすっきりしているので、予定通り買い物に行くことにした。
明日は、マリアが心待ちにしている寿司パーティだ。
私とアナがメインで仕切り、参加するのはヨナスとアダム、あと聡君という日本人の学生。都合がつけばイヴァンも来るとのことだった。
寿司飯は、日本の炊飯器を持っているアナがまとめて炊いて来ることになっていて、私は巻寿司の野菜類の材料を下準備しておくことと、デザートのシュークリームのシューを焼いて持って行く担当だ。聡君が新鮮なマグロやサーモンなど魚介類を仕入れて来てくれるらしい。なんでも日本で居酒屋でバイトしていたとかで料理には詳しいらしく、心強い助っ人だ。シュークリームは、カスタードと生クリームの両方をフィリングにするダブルシューというやつ。これも、当日デザートとしてコーヒーを煎れる時に仕上げることになっている。
考えていたらワクワクしてきて、私は自分の担当食材リストを確認し、ちょっと遠方のアジア系スーパーへ出かけたのだった。
翌日の土曜日の昼下がり、私達は以前、マリアのパーティで集まっていたエスプレッソ・バーにいた。
今日は特別に貸し切りしてもらったらしい。
キッチンも広々として使い易く、私達はわいわい騒ぎながら作業をしていた。
「卵なら僕にまかせて」
聡君が冷蔵庫から卵を出しながら言った。
「居酒屋で毎日だし巻玉子を作っていたから、得意なんだよね~」
「さすがぁ!ステキだわー料理が出来る男の子って」
アナが巻寿司の具をすし飯の上に並べながらそう言うと、聡君は切れ長の眼でちらりとこちらを見て、うふふっと笑う。
「でしょー?基本、和食系は完璧なんだっ」
そう言いながら、手際よく卵を片手で割りボウルの中へどんどん落として行く。これまでかなりの数の卵を扱って来たんだろう。
あれくらい奇麗にそしてリズミカルに卵を割れるなんて、プロの料理人のようだ。
「四角のフライパンはないけど、大丈夫?」
大きな丸いフライパンしか見当たらないのでそう言うと、聡君はくるりと周りを見渡して、オーブン用のテフロン加工がされた四角のプレートを指差した。
「あれでいけると思う。オーブンを下だけONにして温度調節しながら時々取り出して巻いてみる」
「なるほど!」
さすがだ。感心して聡君を見る。
大学の専攻はシンセサイザープログラマーとか聞いたが、クリエイティブな人は発想も自由でやっぱり凡人とは頭の作りが違うようだ。
「調子はどうだい?あっちはもう、すっかり出来上がっているようだ」
アダムがキッチンに入ってきたので、アナが眉を潜めてちらりと私を見た。
出来上がっているってなにが?
私達の様子を見たアダムが、にっと唇のはじを上げて笑う。
「マリアもヨナスもすでに酔っぱらってご機嫌だ」
あー、そういうことか。
私達はおかしくなって笑いながら作業の手を進める。
すると、なんだか甘くていい匂いがぷうんと鼻をかすめた。匂いがする方を見ると、いつの間にか聡君が、立派なだし巻玉子をオーブンから取り出したところだった。
「すっごい!ほんとになってる!」
「わっ、カステラみたいな甘い匂いですっごく美味しそう~!!」
私達はびっくりして、自慢げにこちらにそれを見せる聡君を賞賛した。
「へぇ、たいしたもんだね」
私達の背後からアダムが眼を丸くして、聡君が両手で持つまな板の上でほかほかと湯気をたてている玉子を見た。
聡君はふふん、と自慢げに笑うと、ちょっと下目使いでアダムを見あげて言う。
「アダムなら、毎日でも作ってあげちゃうけど、どう?」
……私とアナは顔を見合わせた。
そう、聡君はゲイだ。
見た目は結構普通のかわいい男の子だが……
ナンパされた当の本人、アダムは慣れたもので、大げさにため息をつくと、私とアナの肩を両方からがばっと抱いて聡君を見た。
「ありがとう、気持ちはうれしいよ。でも、残念ながら俺はキュートな女の子に作ってもらう方がいいかな」
そうさらっと言って、チャーミングにウインクをする。アダムの青い瞳がきらりと光った。
聡君が、きゃぁっと小さく声をあげて照れる。
「じゃぁ、僕も本物の女の子になっちゃおうかな~」
おっと、これは半分以上は本気じゃないだろうか。
私とアナは苦笑しながら、自分の担当の作業へと戻ったのだった。
しばらくして、ラウンジのほうに料理がずらっと並び、パーティというか宴会というか、よくわからないが私達はかなり盛り上がっていた。
お寿司も、サラダも美味しく出来ているし、マリアなんて最初からかなりの量を食べている。
わさびの粉を水で練ったのはマリアだったのだが、その出来がよほど満足いくものだったらしく、マリアはやたらヨナスの皿にわさびをこんもりと盛って、もっと使えという。アダムまでマリアに強制される羽目になり、時折わさびを付けすぎて涙眼になるやら、激しく咳き込むやら、その滑稽な姿に他の者は笑い転げるやらと、酒も入って騒々しいことこの上ない。
そろそろ皆、笑い疲れて来たなと思った頃、入り口のドアが開く気配がして、「ハロー!」と声がする。
私以外は皆お酒が入っていて、ソファに根が生えた様に座り込んでいるので、率先して様子を見に行く。
見れば、イヴァンがこちらへ来るところだった。
「イヴァン!来れたんだね」
すでに開始から2時間以上過ぎていたが、まだお寿司も残っているからよかった。
イヴァンは相変わらずビシッとした身なりだ。いつも、シワなんか全くない折り目正しいシャツを着ていて、いかにも潔癖そうだ。でもだから、仕事が出来るんだろうなと思う。マリアの話だと、イヴァンは弁護士らしい。どういう分野の弁護士なのかまでは知らないらしいが……
イヴァンはちらりとラウンジのほうを見ると、黒いジャケットを脱ぎながら私に笑いかけた。
「あちらはすっかり沈没した感じらしいな」
「沈没?うーん、そうね、どろどろの海って感じ?」
おかしくなって笑いながらそう答えると、イヴァンはふん、と鼻で笑い、奥のほうへ行く。
ソファに埋もれている皆の様子を見ると、彼は少し大げさに両手を広げ、呆れた様子で言う。
「やれやれ、ひどい有様だな。誰も俺には電話さえしてこないと思えば、こういうことだったか」
「やぁイヴァン。君の分も残っているから、そう怒るな」
ヨナスが眠そうにあくびをしながらソファで伸びをする。マリアに至ってはもう、ヨナスのひざを枕代わりにうたた寝をしていた。
アダムは聡君とアナの間でなんだかんだと二人に絡まれている。
イヴァンは素面の私を話相手に、お寿司に手を伸ばした。
「もっと早く来る予定だったんだけどね。まぁ、皆、わかっているとは思うが」
「うん」
奥さんがきっといい顔しなかったんだろう。なんたって土曜日の午後、普通なら家族サービスの時間帯だろうし。
イヴァンの気持ちもわからなくもないが、残される奥さんと子供も気の毒ではある。
でも、彼らには私達他人には解らない事情があるんだろうし、家族以外の人間が口出していい内容でもない。
「このところ大きな案件があって、連日連夜遅くまで仕事だったんだ。やっと昨日、法廷で決着がついてね」
「あ、昨日だったんだ。どうだったの?」
どんな事件だったのか、案件だったのか聞こうかと思ったが、やっぱりそれは止めておいた。あまり怖い話は聞きたくない。
イヴァンは少し驚いたように眼を開き、私を見た。
「どうだったって、もちろん俺が勝つに決まっているじゃないか」
「え、あ、そう?」
当然のことだといわんばかりの言葉になんだか拍子抜けして変な声が出てしまった。
随分、やり手なんだなぁ。頭良さそうだし。
笑っていても眼の鋭さは変わらない。絶対にこの人と法廷で対峙したくないかも。あの強い眼力で睨まれただけで足がすくみそうだ。
「ところで、アパートのほうはどうだ?」
「あ、いい感じ。階段も慣れてきた」
「階段?まだそんなことを言っているのか」
「そんな言い方しなくても……あ、でも問題がひとつあって」
丁度良かった!
私は前からイヴァンに言わなくてはと思っていたことを思い出した。
「窓のひとつがきちんと閉まらないの。開閉用のハンドルがガタガタいうだけで動かなくて、窓は閉まっているけどロックされていない状態で」
「窓がロックされていないというのは良くない」
イヴァンは真面目な顔でそう言って、少し怒ったように私を見た。
「そういうことはすぐに連絡してくれ。だが、タイミング悪く家主はバケーション中だ」
「イースター休暇明けでも全然平気」
どうせ私も月曜日の朝一番でオランダのおばぁちゃんのところへ行くから、留守中になる。
イヴァンは少し考えるように右手にあるビールのボトルを眺めていたが、やがてゆっくりと首を左右に振って言った。
「いや、こういうのは放置しておくことじゃない。明日の朝、10時くらいに俺が行こう。多分、少しいじれば直せるだろう」
「え、明日?日曜日の朝にそんなことやってもらったら……」
まずいんじゃないの、あなたが立場的に。
そう言いかけて黙った。
イヴァンの家族のことはあまり口出ししない。マリアもそう言っていたし、人にあーしろこーしろと指図されるのはイヴァンは大嫌いらしいし、変に意見しないほうがいい。
「明日の10時。とにかく、今後はなにかアパートで不都合があれば迅速に連絡するように」
まるで上司のように上から目線でそう言われ、思わず姿勢を正した。
「は、はいっ」
そうこうしているうちに、やがて泥酔状態から復活したマリアがやれ音楽だと騒ぎだし、ラウンジに明るいサンバの曲が大音響で流れ始め、寿司パーティは最後の盛り上がりへと突入していったのだった。
翌日の日曜日。
気持ちよく目覚め、まず一番にメールをチェックするとはるから「手直し依頼」メールが来ていた。
〆切前だから、彼女は週末返上で出勤しているようだ。
手直しの内容を見てみると、思っていたより少ないので、1時間もあれば出来そうだ。
よかった、無事に入稿まで辿り着けそうだ。これで安心しておばぁちゃんのところへ遊びにいける。
ほっとしてラップトップを閉じた。手直しのほうは午後にやることにする。
もうまもなくしたら、イヴァンが窓の修理に来るはずだ。
キッチンの小さなテーブルで簡単な朝食を食べていると、携帯が鳴る。壁掛けの時計をみると、もうまもなく10時だ。
コーヒーをカップに注ぎ入れながら片手で携帯を取った。
「おはよう、イヴァン」
冷蔵庫を開き、バニラ風味の豆乳と牛乳を見比べる。
『……』
ん?聞こえなかったかな?
バニラ豆乳のほうをコーヒーに注ぎながら、もう一度声をかけた。
「イヴァン?もう下にいるの?」
すると、携帯の向こうからため息が聞こえて来た。
『……君ってやつは』
耳に入ってきた低い声に思わず手に持っていた豆乳を落としそうになった。
ニッキーの声だ。
イヴァンじゃなかった!
「ごめんなさいっ!ニッキー」
慌ててそう言いながら、一瞬にして先週末のディナーの記憶が鮮明に蘇りドキンとして言葉に詰まる。
『……イヴァンだって?』
「え?あ、そう、10時に窓の修理に来る人で」
何故か動揺してしまって早口になっている!
私、どうしてこんなに慌ててしまってるんだ?!
『……気に入らないな。遅くとも10時半には追い出せ』
「え?」
追い出す?いきなり何を言い出すんだ、この人は。
返事をしかねて呆然としていると、それを肯定と受け取ったのか、少し機嫌の良さそうな声が聞こえた。
『今日は何している?』
話がころっと変わる。
「えー、原稿の手直しを……」
『オッケー』
私の声を遮るようにニッキーが唐突に言う。
『カフェにラップトップを持ってくればいい。11時だ』
「ええっ、ちょっと」
驚いて携帯を握りしめたその時、玄関のブザーが鳴った。今度こそイヴァンだ。表の呼び鈴を鳴らしている。
電話と、玄関の呼び鈴、両方を同時対応は出来ないじゃないか。
中腰になって立ち上がったら、
『11時。チャオ』
と携帯から聞こえて直後に通話が切れる。この間のバイクの時と同じだ。人の返事なんて待つ人じゃないらしい。
仕方が無いのでとりあえず急いで玄関へいき、そちらの受話器を取る。
「イヴァン?」
『おはよう。開けて』
解錠のボタンを押すと、ビビーっと警告音がなった。
表の通りに面した扉が解錠された音だ。これから中庭を通って上まで上がって来る。イヴァンのことだ、あっと言う間に到着するだろう。
すぐに玄関の鍵も開けて階下をのぞくと、1分も経たないうちにイヴァンが現れた。
珍しく、薄手の青と白のストライプシャツにブルージーンズと軽装で、私はびっくりした。いつもビシッとスーツ姿しか見たことがなかったので、知らない人が来たのかと思うくらいだ。
「なんだか別人みたい」
「?」
イヴァンが怪訝な顔をして私を見下ろす。気のせいか、あの堅苦しい厳しさが漂う顔立ちもいつもより明るく爽やかに見える。
「なんか、若そうに見える」
「なんだって」
イヴァンはぐっと眉を潜めて聞き返した。
「どういう意味だ。俺は年寄りじゃない」
「いや、そういうんじゃなくって、なんていうのかな」
うまく説明が出来ず、このままだとイヴァンの怒りをかってしまいそうだ。妥当な説明が思い浮かばず、仕方なく思った通りに言う。
「20代前半の学生みたいに、若々しいって言いたかったんだけど」
「学生か?」
少し機嫌が良くなったようで、イヴァンはそれ以上追求することもなく部屋の中に入って来た。品のよい香水が一緒に室内に流れ込む。
「あいかわらず物がないな」
あたりをぐるりと一瞥し、一言、そう言った。
「うん、あまり買わないようにしてる。クリスマス過ぎたらもう契約期限だし」
「そうだな。無駄がないのはいいことだ」
褒めてもらったのかよくわからないが、少なくとも馬鹿にされたわけではないようだ。
イヴァンと話していると、どうも上司と部下のような会話になってくる気がする。
彼の地雷を踏まないよう、自然と言葉を選んでいる時点ですでに上下関係が決まっている。
几帳面なイヴァンはすぐに鍵がおかしい窓のチェックをして、持って来た工具箱からスクリュードライバーなどを取りだした。
頭の良い人はなんでも出来るらしい……
イヴァンを見ていると脳裏に浮かぶ絵画がある。赤いマントを羽織り軍馬にまたがる雄々しいナポレオンの肖像画だ。
「余の辞書に不可能という文字はない」これってまさに、イヴァンを表す明言じゃないだろうか。
うん、似てる。この二人、かなり似てる。もしかして生まれ変わり?
私は特にすることもないので、ラップトップの前に座る。
さっきの電話のことを思い出した。
会話らしい会話もしないうちに、何故か約束をしてしまったことになっている。
なんだろう、この強引さ。ワンマンってやつ?自己中?俺様?
操り人形のように転がされているような気がするが、でも私、心のどこかでそれを楽しく感じている……
現代のナポレオン、もとい、イヴァンは手際よく窓の修理をし、もう一度「不都合があればすぐ連絡するように」と私に説教をすると、次の用事があるとかで慌ただしく去って行った。
そして私は時計を見ながら出かける準備をする。
少し温かくなってきたので、お気に入りのG-Starストレートジーンズに、コットン生地のグレーにピンクがポイントカラーになっているリバーシブルパーカーを着た。PCケースに入れたラップトップを大きめのショルダーバッグに入れて、外へ出た。
今日はいつもよりさらに日差しを強く感じて、空の真上に登っている太陽を見上げた。
もう、春だ。街の至る所で花々が咲き始め景色が色づいて行く。イースターの訪れと共にベルリンは一気に春めいていた。
そして10分後。
私はまたもや、Café Bitter-Süßの前に到着していた。もうまもなく11時になるところだ。
よく考えればどこもイースター休暇中で、カフェもレストランも殆ど閉まっている。
Café Bitter-Süßも見た所閉まっているようだけど。
入り口のほうへ近寄ってみると、奥でニッキーがラップトップを開いて何かやっているのが見えた。ドアをそーっと押すと、ちりん、と上の鈴が小さい音をたてた。
ニッキーがこちらを見ると片手をあげて微笑んだ。
「いい子だ。11時きっかり」
なんと答えたらいいのか解らず、とりあえず中に入る。
「お仕事中なの?」
ラップトップの上を彼の指が軽快にすべっていて、ただメールを書いているとかそういう暇つぶしには見えない。
「そんなものだ。君もそこに座って」
「あ、うん、ありがとう」
勧められるままに、この間と同じモスグリーンの椅子に腰をかけて向いのニッキーを見る。彼は片手で顎の無精髭を触りつつ、スクリーンの中をじっと見ている。カフェだって経営とか数字関係の管理とかいろいろあるんだろうな、などと思いながら、自分もショルダーからPCケースを取り出す。
ニッキーはラップトップのキーをものすごいスピードで叩きつつ、眼はスクリーンを見たままで言う。
「お互いやるべき仕事はさっさと終らせよう」
「はい……」
なんだろう、この変な会話と固い空気。
微妙にテンションが下がるのは、ついさっきまでナポレオンに説教され虐められ(?)、ここに来たらまた別の俺様が私に指令をする。私って、生まれながらに人に部下扱いされる人間なのだろうか。
でも言われていることは正論で、間違っていない。
「カノン?」
名前を呼ばれて顔をあげると、ニッキーがキーを叩きながら言う。
「ここのWifiのパスワード、今メールで君の携帯に送る」
「あ、助かる。ありがとう!」
Wifiが使えると、手直しが終り次第すぐにはるへ送信出来て助かる。ほっとして思わず笑顔でニッキーを見ると、彼がスクリーンから顔をあげ、片目でウインクした。
思わずドキッとして慌てて自分のラップトップに眼を落とす。
不意打ちにしてはあまりに可愛すぎるウインクだ!
あんな、奇麗な眼をしていたんだ……!
この間は夜だったし、最初に会った時は店内が薄暗くて色まで良く見えなかったけど、ニッキーの眼はグレーっぽい青色で、長いまつげに縁取られたその瞳はとても美しかった。
雑念が頭の中に広がって行く。
ダメだ。今は仕事。
一度、眼をぎゅうっと固くつぶって、自分に言い聞かせる。
深呼吸をして、私は手直し用に送られて来た原稿ファイルを開けた。
無言のまま、キーを叩く音だけが響く。
やり始めたら思ったより早く集中力が戻って来て、私もネット辞書を画面半分に、もう半分に原稿をという状態で作業を続けた。
ニッキーも息をしているのかしていないのか分からないほどの静けさでキーを叩き続けている。
やがて1時間くらいして私のほうは手直しを終え、ふうと息をついた。
これで、送信ボタンを押せば終わりだ。
ニッキーを見ると、彼も一段落したのか、さっきまでキーを叩いていた手が止まっている。
その手を見て、あの時手を繋がれたことを思い出し、思わずカッと頭に血が上った。
ダメだ!!!
なんでさっきからやたら心拍数が上がることばかり考えてしまうんだろう。
他の所を見ればいいと思って、外のほうに目をやる。表はイースター休暇のせいか、散歩したり家族で過ごす人も多いのだろう、楽しそうな笑い声や子供の叫ぶ声が聞こえて来る。
「終った?」
ニッキーがラップトップを閉じながら私のほうを見た。
「うん、あとは送信するだけ……」
今、送信すればそれで終わりだ。そう思いながらスクリーンに目をやる。もう一度最後に原稿を読み直してから送信しようかな。
「飲み物を持ってこよう。ラテ?」
「あ、はい。ラテで……ありがとう」
ニッキーが立ち上がってカウンターの向こうへ行く。
私はもう一度、原稿を読み直してから、メールを送信した。
やがてニッキーが温かいラテとエスプレッソを運んで来た。ラテのカップの横に添えられた丸っこいスプーンの上に、四角いクッキーが添えられていた。赤いドライクランベリーが生地に練り込まれているようだ。
「美味しそう」
そう言うと、ニッキーがにっこりと微笑んだ。
食べてみると、オレンジとクランベリーの甘酸っぱいクッキーで、爽やかな酸味と香りが広がっていく。
「私、クランベリーは大好きなんだけど、オレンジと一緒になるともっと美味しいみたい!」
クランベリーだけのクッキーより、断然こちらのほうが美味しい!
ニッキーはくすっと笑いながらゆっくりとエスプレッソを飲む。
私もふわふわのミルクが優しいラテに口をつけた。仕事の後のコーヒーってやっぱり格別かもしれない。
美味しいな。
〆切に追われる感じで毎日が慌ただしく過ぎた直後に訪れた、ぼーっとする時間。
忙しい日々の後だからこそ、こういう時間は心地いいんだろう。
毎日がぼーっとしてたらつまらなくて死にそうになるわけだから、仕事で忙しい期間があるというのはいいことだ。
そんなことを考えていると、ニッキーがじっとこちらを見ているのに気がついて、少しドキッとする。
「なに?」
思わずそう聞いてしまった。なにか、顔についているとか?
落ち着かなくて手で自分の頬を触ってみる。
ニッキーはちょっと考えるように視線を止めた後、エスプレッソのカップをテーブルに置いた。
「運河沿いにはもう行った?」
「運河?あの、中央駅の周辺?Friedrichstraßeのあたり?」
中央駅を囲むように、東西を分けるように流れる運河があったと思う。
「電車の中から見たことはある」
「そう」
ニッキーは頷いて立ち上がった。つられるように思わず立ち上がると、彼は楽しそうに微笑み、ポケットから鍵を取り出して私の眼の前でそれを揺らした。
「行こう。荷物はそのままでいい」
「えっ、今?!」
びっくりしていると、ニッキーはエスプレッソのカップに添えてあったクッキーを取りぐいっと私の口に突っ込むと、眼を白黒している私の腕を掴みそのまま表に出る。クッキーを飲み込みつつ、ニッキーがカフェの入り口に鍵をかけるのを眺めた。
この唐突な流れに動揺しなくなっている自分が微妙に怖いかも。
振り回されるのを楽しみ始めている私って、もしかしてマゾ体質?
どうやって行く気なんだろう?さっき見せた鍵は車じゃなかったけど……そう思ってあたりを見渡すと、ニッキーは近くの街灯にロックしてあった自転車のところへ行き、私を呼んだ。
近寄ると彼はヘルメットを私の頭に乗せ、ぐいと顎を押し上げながら留め具の調整をする。
まるで親に世話をやかれている幼児みたいだなと思いつつ、動かずに横目で自転車を見た。
これで行くってわけ……?!
いや、あの暴走族みたいなバイクは怖いけど、大人になって自転車の二人乗りというのもちょっと……重量オーバーしてタイヤがパンクなんてなったら……
「さあ」
ニッキーはすでに自転車に股がって、斜めに車体を傾けた。
「これ、大丈夫かな?」
心配になってそう聞くと、ニッキーはむっとした。
「大丈夫じゃないものに乗れとはいわない」
「それはそうだけど」
サドルもハンドルもふたつある二人乗り専用でもない、普通の自転車だし……もちろん、フレームも大きくてがっちりしたデザインだけど、バランスとか、重量とか、ほんとに大丈夫なんだろうか……
ぐずぐずしていると、ニッキーが顎で私に乗れ、と指示する。
はぁ……どうしてこう、やたら命令されるのか。
しぶしぶその傾いている自転車の後方に股がってみる。当然、おじょうさんよろしく横座りなんてありえない状況だろう。
一応そこが座れるような形になっているので、二人乗りしてよいように作られた自転車なのかもしれない。
そう思った瞬間、ぐいっと自転車が体勢を戻した。
「わっ」
バランスを崩して思わずニッキーの服を掴む。その途端、自転車は大きく動き出した。
結構なスピードが出る。しかも、カーブなどは車体が斜めになるし、急ブレーキに急発進で、これじゃあの暴走族バイクとさして変わらない怖さかもしれない。気を抜くと本当に振り落とされそうなので、半分目をつぶりながらニッキーにしがみつく。
街の喧噪がものすごいスピードで後方へ消えて行く。人の声や車の音も、耳をかすめて途切れ途切れ。時折薄目を開けた時に見える景色がどんどん変わって行き、20分ほどで運河沿いに到着していた。
「カノン?」
ニッキーが車体を斜めにしながら振り向いた。わかっている。下りなきゃ。
「ちょ……ちょっとだけ待って」
膝がガクガクだ。私が自転車を漕いだわけじゃなく、ただ乗っていただけなんだけど。
完全にびびってしまったらしい。
私はのろのろと自転車を下り、壁のへこみに寄りかかった。
まだ膝が笑っている!
「そこに停めて来る」
ニッキーは自転車を少し先の街灯のほうへ停めに行く。
膝丈の細身のコットンパンツの下からすらりと伸びるニッキーの脚は、まるで針金のように引き締まったバネのよう。ぱっと見た感じだと細いように見えるけど決して細くはない。がっしりとした筋肉が美しくついた頑丈そうな脚だ。私を乗せてあのスピードで走れるんだから、かなりの脚力なんだろう……
ヘルメットも自転車と一緒にロックして、ニッキーは手ぶらで戻って来ると、まだ体に力が入らない私を見て苦笑した。
「本当は、大人の二人乗りは禁止されている」
「えっ」
驚いて顔をあげると、彼は全く気にする様子もない。
「君は子供のようなものだから、平気だろう」
私は呆然として彼を見上げた。
それはないだろう!
どこから見たって子供じゃない!
「……警察のお世話になるのは、困るんだけど」
ビザというもので滞在している私にとって、交通違反でもなんでも、警察に関わることはまずい。
「以後は気をつけよう。今日はこれしかなかったから仕方がない」
いたずらっ子のように目を煌めかせてニッキーが笑った。
私はそれを見て、大きく溜め息をした。
この人って、本当に心臓に悪いかも。
怖いもの知らずというか、本当に自由奔放な人だ。
交通違反の事実を全く気にする様子もない彼が、運河の向こうを眩しそうに見た。
「シュプレー川岸の芝生に行こう」
そしてすっと私の手を取り歩き出した。
あまりに自然な動きだったので私も特に違和感もなく歩き出したが、よく考えたらこれってまるでデートみたいじゃないか!
これって一体……?
もしかしてデート?
いや、違うはず。
どちらも告白とかそういうのしてないし、大体そんな雰囲気でもないから、デートじゃないはずだ。
でも、この手は……
振りほどこうと思えば出来たけれど、なぜかそういう行動をする気分になれず、黙って引っ張られるままに歩く。
一緒に歩くというよりは、引っ張られている感じ。親子?まさか。
家族連れやカップル、観光客のグループがたくさん歩いていて、人の間を縫うように歩いて行くと、博物館島やベルリン大聖堂が見える芝生沿いのカフェに到着した。なんだかリゾートっぽいBGMが流れて、ベルリンの市内にいるのを忘れてしまいそうな雰囲気が新鮮だ。
ニッキーは手を離して店内のほうへ入っていったので、私はひとり、ゆっくりとあたりを見渡した。
間近で大聖堂を見るのは初めてだったので、その壮観をじっくりと見る。歴史を感じさせるその威厳に満ちた姿に感動する。さすが、大国ドイツという感じだ。キラキラと波打つ運河を何隻もの観光船が行き交う。多くの観光客が船からこちらを見ている。
「カノン」
呼ばれて振り返ると、すでに飲み物とサンドイッチを手にしたニッキーが目でこちらに来いと合図していた。
後をついていくと、運河沿いに並べられたリゾートチェアの空き席のほうへ歩いて行く。彼はその一対のリゾートチェアのひとつに身を預けて、隣のテーブルにランチを置き、両手を頭の後ろで組むとぐいっと四肢を伸ばした。
うわ、似合うっ!
リゾートチェアがこんなに似合う人、見たこと無いかも!
思わずニコニコと笑ってニッキーを見下ろすと、彼が片目を閉じたままもう片方の目で私を見上げた。
「適当に選んでおいた。さぁ食べよう」
「うん、ありがとう」
素直にお礼を述べて、私もリゾートチェアに腰掛ける。私が座ると少しサイズが大きいように見えて、どうもニッキーのようにかっこいい様にはならないようだ。もっと、大人っぽく、こういうリゾートルックが似合うようになるべき年齢なのに!!!
ニッキーが選んで来てくれたのは、新鮮なハムや輪切りのゆで卵、チーズが重ねられ、青々としたレタスと真っ赤なスライストマトがたっぷり挟まれたバゲット。かなりのボリュームだ!炭酸水のボトルが2本あったので、ちょっと気になってニッキーに尋ねてみた。
「そういえば、タイ料理店でも炭酸水だったよね。アルコールは飲まないの?」
ニッキーはバゲットを片手に持ったまま目だけこちらに向けた。
「いや、アルコールはかなり飲む」
「あ、そうなんだ」
そういえば、もうひとつ、聞こうと思っていたことがあった。
「ニッキーってドイツ語どうなの?ネイティブ並み?」
彼がドイツ語を話しているのは聞いたことが無い。タイ料理店でも英語で注文していたから、どうなんだろうと思ったんだった。
ニッキーは炭酸水の蓋を開けて、勢い良く半分くらいを飲み干し、それからにやっと不敵な笑みを浮かべ私の目を覗き込んだ。
「どうやら、俺のことが知りたくなってきたようだな」
「ニッキー!なんでそんな言い方するのよっ」
急に恥ずかしくなるじゃないか!
別に、ドイツ語がどうなのかを聞いただけなのに、そんな言い方されるとまるで彼のプライベートを根掘り葉掘り聞いている様じゃないのっ。
憤慨してプイと横を向き、私は自分のバゲットにかじりついた。
もう、二度と聞かない!!!
きっとドイツ語なんかペラペラなんだろうし、聞くだけ野暮だ。
隣で笑いをかみ殺している気配を感じてイライラするが、ここまで連れて来てもらって、きっとこのランチもご馳走してくれることになるんだろうと思うと、今ここで振り返って嫌みを言うほど私も気は強くない。このままバゲットと一緒に、苛立ちを飲み込むしかない。
サンドイッチは作りたてでとても美味しかった。全部は食べきれないのじゃないかと思っていたけど、結局すべてお腹におさまる。
隣が静かになっているのでちらりと振り返ると、いつのまにかサングラスをして昼寝をしているようだ。
細いゴールドの縁取りサングラス。一歩間違えたらマフィア?でも、悔しいことにやっぱりさまになっている……
特にすることもなく、リゾートチェアで膝を抱えて運河のほうを眺める。
風に乗って聞こえて来る音楽が耳に心地よい。
何か話し声が聞こえるなと思ってそちらのほうを見ると、日本人らしき観光客グループが私達の前を通り過ぎるところだった。OLか大学生のグループだろうか。ちょうど、美妃くらいの年齢の女の子達だ。ガイドブックらしきものを4、5人で覗き込みながら歩いている。
ちょうど私の2m先くらい前方を通り過ぎた時、そのうち1人のバッグにひっかけてあったウインドブレーカーが芝生に落ちた。
「あっ、落ちましたよっ」
思わず立ち上がってウインドブレーカーに駆け寄った。風が吹いたら、軽いウインドブレーカーなどあっという間に飛ばされて、運河に落ちたらもう拾えない。
「すみません、有り難うございます」
驚いて振り返った彼女がびっくりして戻って来た。
そしてウインドブレーカーを受け取りながら、なんだか嬉しそうに私を見た。
「あの、日本の方ですね?こちらに住まれてます?」
「あ、はい。ベルリンに住んでます」
「よかったー!ちょっと聞きたいことがあって」
彼女は少し先のグループに声をかけ、皆がこちらへやってきた。そして、私にガイドブックを見せて質問する。
「ここです。この通りの先あたりにあるらしいDas Wunder Museumという場所に行きたいんでけど、地図がちょうどそこで切れていて」
見れば、地図のはじっこにその通りらしい名前があって、丁度そこでページが切れている。
「うーん、私もそんなに詳しくなくって……あ、でも携帯で調べられるかも」
携帯でGPS機能をONにして行き先入力したら、ダイレクションが見えるはずだ。
くるりと自分が座っていたリゾートチェアのほうを向いて、その時、致命的なことに気がつく。
あ、携帯、忘れた!
そうだった。全部、カフェに置きっぱなしのまま出て来たんだった。
財布も携帯もない。
呆然としている私に何が起こっているかは、彼女達が知る由もなく、私の後ろで全員黙って待っている。
携帯忘れた……って言うの、かなり気まずいな。
そう思ったけど、事実は事実だ。
仕方なく振り返って、そのことを告げようとした時、昼寝中だったニッキーがサングラスをずらしながら上半身を起こした。
「どうした?」
「ニッキー!私、携帯忘れた」
「携帯?必要ないだろ」
ま、普通ならなくても困らないけど、今は緊急時ってやつなのよ。
私は少し考えてから、わかりやすく説明した。
「彼女達が行きたい所にどうやって辿り着けるか、携帯で調べようと思ったんだけど」
「あぁ」
ニッキーは頷いて、サングラスを外してちらっと彼女達のほうをみると、とても紳士的にさわやかな笑顔を見せた。
急に色めき立ち、会釈しながらこそこそと話す女性達。
そりゃそうだろう。
確かにハンサムだし。
しかし、あんな紳士な微笑み方もするんだ。計算しつくされた完璧な笑顔がなんだかムカつく。
ニッキーは胸のポケットから自分の携帯を取り出し、ロック解除のパスワードを入れ、なにか操作をした。
途端、メールの受信音みたいなのが連続で聞こえたので、びっくりして携帯のほうを見た。
「どうしたの?アラームみたいにすごい音」
「ん」
ニッキーは軽くスクリーンを指で流して受信リストをチェックしながら答えた。
「機内モードにしておいたから、まとめて入って来ただけだ」
「機内モード?そしたら誰も繋がらないじゃない。携帯の意味なくなるよ」
変なことを言っているなと思ったら、ニッキーはちらりと私を見て、まるで私を試すかのような甘い微笑みを向けた。
「こうしないと、君との時間に邪魔が入るだろう?」
「えっ」
耳を疑うセリフに馬鹿正直に驚く。
ニッキーはくすっと笑いながら、目がまんまるになっているだろう私に、ぽいっと携帯を投げてよこしす。
「今はネット繋がるから、調べものをすればいい」
そう言うと、何事もなかったようにまた、炭酸水のボトルに手を伸ばす。
一体、なんだんだ、この人は!!!!
人が赤面するようなことを、さらっと言うその神経。私、完全にからかわれてるっ!!!
胸の奥底で、侮辱されたような、逆に気恥ずかしい様な複雑な苛立ちを感じつつも、私はニッキーの携帯を使って無事、彼女達の必要としていた行き先案内情報を調べることに成功した。
彼女達は何度も「ニッキーに」お礼を言いながら、手を振り振り去って行った。
なんだか微妙に寂しい気分の私。
確かに、ニッキーの携帯だけど、調べたのは私。
……ま、いっか。
こんなしょうもないことで暗い気分になるのはもったいないくらい、とってもいい天気なんだし。
「はい、携帯。どうもありがとう」
ニッキーの携帯を返そうとした瞬間、バイブレーションと同時に呼び出し音が鳴りはじめた。
びっくりして思わず手が滑りそうになり、携帯を持ち直した瞬間、呼び出し音とバイブレーションがぴたりと止む。
『ハロー?!』
甲高い女性の声が響いた。
しまった!
誤ってスクリーンタッチしてしまったらしい。
大失敗に泣きそうになりつつ、ニッキーに携帯の画面を向ける。
電話の向こうで、『ハーーーローーーーッ!!!』と切れ気味の声が、漏れて来る。
ニッキーはそれを見て、うんざりしたような顔をした後、ゆっくり手に取り耳にあて「Ja」と低い声で応えた。
ほら。ドイツ語で返事してるじゃないか。
やっぱりドイツ語を話すんだ。
なんだかキンキン声が携帯からもれているが、ニッキーはリゾートチェアにふんぞり返って、聞いているのか聞いていないかのようないい加減な態度で、時折、静かに「Ja」と「Nein」、つまり、YesとNoだけを繰り返している。
これはなんとも、居心地の悪い状況だ。
電話の向こうで女性がなにかものすごく怒っている感じだ。
もしかして、まさか、あれは恋人とか、下手したら奥さんだったりとか……そんな想像をして背筋が寒くなる。
イヴァンがよく、鳴り響く電話を見て「Oh God!」を天を仰ぐ姿が脳裏に浮かび、ニッキーの今の様子とダブる。
バランスが悪すぎる一方的な会話がやっと終わり、ニッキーは携帯の電源を落とすとそれをテーブルにぽいっと投げた。
「あの、ごめんね?勝手に応答するつもりはなかったのに、アクシデントで……」
申し訳なくて頭を下げて謝る。自己嫌悪に落ち込む私を見て、ニッキーは大げさにため息をして空を見上げた。
「あれは継母」
「えっ?」
継母って言った?
意外な言葉にびっくりしていると、ニッキーがこちらを向いて、苦々しく眉を潜め、更に驚く事実を言った。
「父の4番目の妻」
「4番目?!」
それはすごい。すでに3回、離婚しているということなのか。
「4回目の離婚もそう遠くはなさそうだ」
人ごとのようにそう言って、ニッキーはまた、サングラスを掛け直してリゾートチェアにひっくかえった。
もしかして、父親の文句でも言うために息子のニッキーに電話をしているんだろうか。
継母かぁ……
まぁ、ニッキーのお父さんなら、かなりモテるんだろうし、こっちじゃ離婚なんてそう大したことでもないんだろう。
イヴァンもあんなにひょうひょうとして、「そろそろだ」なんて言うくらい冷めている。
すぐに別れるんなら、なんで毎回入籍するんだろう?面倒な手続きの繰り返しになるのに。
そんなどうでもいいことを考えながら、私もひなたぼっこに戻る。
もしかしたら初夏も近づいているんじゃないかと思うくらい、日差しが温かい。そろそろ、日焼けも気をつけないといけないシーズンになる。
「カノン?」
見れば、また両手を頭の後ろで組んで、サングラス着用中のニッキーがこちらを向いている。
彼は無言でポケットから財布をだすと、またぽいっと私に投げた。
「アイス買って来て」
「アイスクリーム?」
見渡すと、芝生の少し向こうにある広場に移動型のイタリアンジェラート屋が営業している。
ええ、もちろんですとも。
これくらいのパシリはやらせていただかないと!
散々おご馳走になり続けているので、お使いくらい喜んでやりますという気持ちですぐさま立ち上がった。
「どんなアイス?」
「ミントチョコ」
「え、ミントチョコ?」
思わず聞き返し、同時にぷっと笑ってしまった。なんか、似合わないというか、かわいいというか。
てっきり、ダークチョコとか、ピスタチオとかそういうのかと思い込んでいた。
「カノンの分はバニラで」
「は?」
いきなり何を言うんだ。大体、私も買うとは言ってないし、それにもし買うとしても私が決めることなのに。
変なことを言うなと思ったら、ニッキーがサングラスの向こうで、にやりと笑う。
「長々と悩まれたら俺のアイスが溶ける。シンプルなバニラなら後悔しない」
「……」
なるほど……そういう意味だったのか。
悔しくも言い返せなくて、憮然としながらくるりと背を向けズンズンとジェラート屋のほうへ歩く。
ニッキーの言っていることはごもっとも。だからなんだか歯がゆい。
ジェラート屋さんで注文をしながら、ずっしりと重い二つ折りの財布を開く。どこのブランドかわからないが、とても品質の良いライトブラウンカラーの革製で、デザインもオーダーメイドっぽい。中にたくさんのカードが挟んであるから重いらしい。
小銭入れを開けて4ユーロを支払い、コーン付アイスを持って戻る。
財布と一緒に、チョコミントのアイスを渡すと、ニッキーが体を起こした。
サングラスを上にずらし、私がバニラを持っているのを確認すると、やけに満足そうな笑みを浮かべた。
ほんの少し前まで寒くてとてもアイスクリームなんて食べたいと思わなかったけど、今日はこの陽気でやけにアイスが美味しそうに見える。
「ごちそうになります」
財布もない私なので自動的にご馳走してもらっている身分だ。
きちんとお礼を述べてから一口食べる。
つめたくて、濃厚なバニラの甘さが口の中いっぱいに広がった。
今年初めてのアイスだ。美味しい!
バニラビーンズの黒い粒がいっぱい見えるので、正真正銘のバニラアイスだ。人工香料なんか使ってなさそう!
ニッキーのほうを見ると、もう半分くらいミントチョコがなくなっている。リゾートチェアにひっくり返ってとても美味しそうにアイスを食べている姿が子供みたいで、ついまた、ニコニコと笑ってしまう。
美味しいものを食べているとどうしても顔が緩んでしまうようだ。
私が彼を見ているのに気がついたのか、ニッキーが食べるのをやめてこちらを見た。
あれ、気を悪くしたかな?
そう思って見るのをやめ、自分のアイスを食べようとしたら、腕が固まって動かない。見れば、ニッキーが私の手首をがっちり掴んでいる。これじゃ食べれない。そう思ってぐいっと引いたら、逆に腕を引っ張られ、直後、ニッキーが私のバニラアイスにがぶりと喰いついた。
「あああっっ!!!そんなにいっぱい!」
見れば、残っていたアイスの半分くらいを一口で食べられてしまっていた。悲しくなってニッキーを睨みつけると、彼は素知らぬ顔で自分のミントチョコに戻る。
「君は運動していないからそれでいい」
「えー……」
そう来たか。
確かに、自転車を漕いだのは私じゃなくて、ニッキーだ。体の大きさから言っても、これくらいの対比で間違ってはいない。
でも、でも!デザートはそんなの関係ないんじゃないかなぁ。
ぶすっとしながら今度はニッキーに背を向けて残りを食べる。こうしておかないといつまた横取りされるかわからない。といっても、私が支払いをしたアイスではないんだけれど。
無事に残りを食べ終わり、またリゾートチェアに身を沈める。
ニッキーは今度は本当に寝てしまったようで、びくともしない。
こちらに来る前もラップトップでかなり忙しそうに仕事をしていたようだから、疲れているんだろう。
私も疲れてはいるけど、ここで昼寝するほどでもない。
こうしてぼーっと運河を眺めているのもいい。
行き交う観光船を何隻眺めただろう。空を見ればもう夕暮れが近づいているようだ。時間を見るにも時計も携帯もないけれど……明日は朝、早起きして、ドイツの新幹線ICEに乗ってオランダに行く予定だから、今晩は荷造りをしなくてはならない。といっても、ほんの数日の滞在だから用意もさして時間はかからないかな。
「カノン」
声をかけられて、ニッキーがこちらを見ているのに気がつく。
「そろそろ出よう」
「うん」
ニッキーも何かまた用事があるのかもしれない。
私はテーブルの上のものをまとめてゴミ箱へ持って行った。プラスチックとペーパーのゴミと分別していると、後ろに立っている男の人に声をかけられた。
「もう帰っちゃうのかい?」
「?」
振り返れば、酔っぱらっているような赤ら顔の男が少し左右に揺れながら立っている。両手にはやっぱりビール瓶。
「オレは今来たばっかりなのになぁ、さびしいじゃないか」
これは完全に酔っぱらいらしい。相手にしないで去ることだ。私は少しだけ微笑んで首を左右に振った。
なおも声をかけてくる酔っぱらいを今度は無視してUターンすると、ちょうど目の前にニッキーが立っていて、すぐに私の手を掴んで歩き出した。後ろから酔っぱらいがよろめきながら声をあげてついてくる。
「よう、横取りなんてひどいなぁ、アニキ!」
この時間からあの酔っぱらい具合は、アル中かもしれない。
こんなに飲まなくちゃやってられないくらい嫌なことでもあったのかな。
少しだけ気の毒に思えて振り返ってしまう。酔っぱらいがまだこちらのほうへ歩いて来る。
「ほんの一回だけ、かわいい女の子と乾杯したいんだよ~それくらいいいだろ~?」
ニッキーが私を見下ろすと目を細めて苦笑した。
そういえば、こういうことが昔にあったっけ。
元彼がものすごくキレて、乱闘になりそうな勢いだったけど……ニッキーは(といっても別に私は彼女でもないが)こういう状況でも特に動揺する様子もなくさすがに大人のようだ。
そう思って、彼はどう対応するんだろうと興味深く見守る。
酔っぱらいはこちらに来ると、ビール瓶のひとつの蓋を栓抜きでポンと空け、私のほうへ差し出す。一回だけ乾杯してあげれば満足するんだろうか。
寂しそうな酔っぱらいの切ない目つきに心を動かされ、つい手が動こうとした。
すると、ニッキーがさっとそのビール瓶を受け取る。
酔っぱらいが不満そうに声をあげる。
「アニキじゃないよ、おねぇちゃんのほう」
すると、ニッキーが明瞭な声ではっきりと言う。
「Tut mir Leid, aber sie ist meine Liebe」
えっ……
い、今、なんて言った?!
驚いてニッキーを見あげる。酔っぱらいが、ああ!と叫んだ。
「Oh, wie schade!」それは残念だ、と。
ニッキーは爽やかな笑顔でその酔っぱらいと乾杯をかわすと、ぐいと瓶を空に傾けて一気に飲み干した。
ものすごい勢いでビール1本が空になったのを見て驚く。
5秒かかったかどうか?!
瓶をゴミ箱に入れ、ニッキーはやっと大人しくなった酔っぱらいに「じゃぁ」と声をかけ、歩き出した。
見事な対応だったけど、さっき、明らかにネイティブなドイツ語で……「悪いけどこれはオレの彼女」って言ったよねぇ???
私もそれくらい理解出来るんだけど。
歩きながらちらりとニッキーを見たが、特に変わった様子はない。
そうだよね、あんな風に言ってうまく相手を交わしたってわけだ。
耳にした時は思わず驚いたけど、付き合ってもいないのにドキッと反応する私がおかしいんだ!!!絶対、おかしい、私っ!自意識過剰っ!
それにしても、やっぱりドイツ語はネイティブなんだ。
英語も完璧なアメリカ英語に聞こえるけど……もしかして、アメリカとドイツのハーフとか?
下降中の沈んだ気分で歩いていると、ニッキーが立ち止まって言う。
「道路はかなり混んで来たようだ。Sバーンで帰ろう」
橋を渡ればもう電車の駅だ。こちらではチケットさえあれば、自転車も乗せることが出来る。正直なところ、二人乗りをしなくて済むことでほっとした。
ニッキーはすぐに自転車を引いて戻って来た。自転車を挟んで歩きながら、大きな橋を渡る。まだまだ観光客も多く、これからきっとナイトクルージングの時間になるんだろう。
駅の構内にはいると、ニッキーは軽々と自転車を肩に担いで階段を上って行く。
こちらの人は本当に階段慣れしていて、時々70代くらいの人が自転車を担いで階段を上り下りしているのも見かけるくらいだ。
プラットフォームは少し混み始めていたが、到着していた電車の自転車専用車両にはまだ余裕があった。
自転車を押して乗り込むニッキーに続いて車内に入る。もう既に4台ほど自転車を持ち込んでいる乗客がいた。
自転車と、反対側の扉の間に挟まれる感じで二人並んで立つと、電車が発車する。
騒々しいオランダの電車と違って、ベルリンの電車はかなり静かだ。電車の走る音くらいしか聞こえないことさえある。
皆誰も話す様子もなく静寂を保っているので、私も黙ってただ、周りを見渡す。
座席のほうにはカップルも多いようで、じっと見つめ合っていたり、手を握っていたりとぴったりよりそうように座っている。その合間に、携帯ゲームに忙しい少年や、新聞を読むおじさん、果てには編み物に忙しいおばぁさんが座っていていたりする。
面白い光景だなぁと思いながら眺めていると、頭になにか違和感を感じて顔をあげた。見れば、ニッキーが私の頭に触れている。
「カノン、髪にカラー入れてる?」
あぁ、それか。夕方になると普段より、部分的に赤みがかっているところがさらにはっきりと見えるようだ。今は丁度、夕日が車窓から差し込んでいた。
「これ、生まれつき。夕方だと目立つみたい」
そう答えると、彼は一度私を見てからまた髪のほうへ視線を動かした。
その手はするりと髪を撫でて、そして私の肩で止まる。視界に入った肩を掴んだニッキーの手にどきりとして息を飲んだ時、電車が大きく左右に車体が揺れ、ふいをつかれた弾みでバランスを崩し思い切りニッキーに寄りかかってしまった。あっと思ったが、彼は力強く私の肩を支えてバランスを直し、左腕を私の首に巻き付けるようにして私を抱き寄せた。
これって、今ここで揺れるとわかっていたから前もって支えてくれたのかもしれない。
そう思ったけれど、後ろから包み込まれるように片腕で抱かれて立っているこの状態。
とても、正気でいられないくらい、ド緊張して身動きできない。
絶対に普通の友人関係より距離が近すぎるんじゃないかと思うスキンシップは居心地悪い限りなのに、でもドキドキしてその腕から逃れようともしない自分がいる。
背中に感じるニッキーの胸から、彼の心臓の音が聞こえてきそうだった。
早く駅に到着してほしい。これ以上、心臓が持たない!
そんなことを必死に考えているうちに、ようやく最寄り駅に到着。
下車するとごく普通に階段を上り、カフェのほうへ歩く。散々喋った一日だったからもうこれ以上話すネタも尽きた感じで、特に喋ることもなく、でも居心地の悪い沈黙じゃなかった。
カフェに戻り、ニッキーが先にドアの鍵を開けてくれたので中に入り、自分の荷物をまとめてショルダーに入れた。表に出て来るとちょうどニッキーも自転車を停めて戻って来ていて、彼はカフェに鍵をかけるとまた、自然に私の手を取って歩き出した。
今日も送ってくれるつもりなんだ。
しばらく無言で歩いていたが、また赤信号で立ち止まった時に私は口を開いた。
「ニッキー、いろいろ楽しかった。ありがとう。いっぱいご馳走になっちゃったね」
財布と携帯を忘れたのは大失敗だったけど、今更後悔してもどうしようもない。
ニッキーはとても優しい目をして、本当に嬉しそうに微笑んだ。これが本当の彼の笑顔なのかもしれない、と思わず見とれる。
いたずらっ子のような意地悪な目つきも嫌いじゃないけど、やっぱりこっちのほうがステキ……なんて考えて、あわてて理性を取り戻そうと前方を向いた。
ダメだ。
さっきから私、おかしくなっている!!!なにかが変だ。
私はそう確信し、同時にかなり緊張してしまいそれ以上なにも言えなくなった。
数分歩くと私のアパートの前までついて、ニッキーがやっと口を開いた。
「明日からオランダに行くんだろう?いつまで?」
「金曜日に帰って来る」
指で何日か数えようとしたら、
「カノン」
「はい?」
返事をした時にはもう、ニッキーに肩を抱き寄せられていた。すっぽりと彼の胸の中に全身が埋まるくらい、両腕でぎゅうっと。
き、きたっ!また、お別れのあいさつが……!
その一瞬で緊張が電流の如く全身を走り抜け、雷に打たれたように動けなくなる。
そして数秒後、耳元で囁くような声が聞こえた。
「……おやすみ、カノン」
一気に鳥肌が立ち、膝からガクン、と崩れ落ちそうになるのを必死で持ちこたえる。
もう、いやだ!!!私ばっかりこんなに動揺させられてっ!!!
突然逆ギレ半分にニッキーを押し返し、紅潮しているだろう自分の顔を背けた。
「なんか、ニッキーってひどいっ」
我慢が出来ずにそう言って彼を睨む。ニッキーは少しまた意地悪そうな笑みを浮かべた。
「俺がひどいって?」
「そ、そ、そうやって私をからかって、楽しんでるんでしょっ」
びしっと指を突きつけて言い放った。
そうだ、言いたいことはしっかり言うべきだ。
ニッキーは肩をすくめてクスッと笑いを漏らし、自分を指す私の指を掴んで下ろす。そしてまっすぐに私の目を見つめて言った。
「からかってはいない。楽しんではいる」
「楽しむって、ゲームやおもちゃじゃないんだから!」
「ゲームなわけないだろう」
「だったら何なの?楽しむって、意味わからないっ」
私をからかって遊ぶのはやめて、と言おうとしたら、ニッキーが掴んでいた私の手を開き、そっと自分の左の頬にあてた。
無精ひげが少しくすぐったく、そして男らしいカーブを描く頬骨を手のひらに感じてまた不覚にもドキリとする。
ニッキーは灰色が強い美しい青い瞳でまっすぐに私を見た。
「耐久レース。いつか君が俺にこうしてくれる時を待っているんだ。君がだんだんと変わっていくその変化を楽しんでいる」
「耐久……レース?」
その吸い込まれるような澄んだ眼でじっと見つめられ、私はもう耐えられなくなって一気に自分の手をもぎとり、大慌てで扉の鍵を開けて中に逃げ込んだ。
「ばいばいっ!」
振り返って大声でそう叫ぶと、楽しそうに笑って片手を上げるニッキーの姿が閉まる扉の向こうへ消えた。
私は走って中庭を突っ切り、全速力で階段を駆け上がった。
5階に着いた時にはものすごく息切れしていたが、大急ぎで鍵を開けて部屋に入ると、バッグから携帯を取り出してどすんとソファに座った。ロック解除ももどかしく苛立ちながら電話番号を探し、ダイヤルする。たった2回の呼び出し音で『カノン?』と聞こえた。
私は携帯を握りしめ、枯れる声で訴えた。
「アナ!もう、頭がおかしくなりそうっ」
『えええっ、どうしたの?!?』
もうこれ以上、1人でジレンマを抱えきれず、その晩アナを相手にこれまでのことを長々と愚痴ったのだった。
0
あなたにおすすめの小説
行き遅れのお節介令嬢、氷の公爵様と結婚したら三人娘の母になりました
鳥柄ささみ
恋愛
お節介焼きで困っている人を放っておけないシアは、数多のご令嬢達から人気の令嬢だ。毎日ファンレターが届き、社交界に出れば令嬢に取り囲まれるほどである。
けれど、それに反比例するように男性からの人気はなく、二十七だというのに嫁の貰い手もないため、毎日母から小言をもらっていた。
そんなある日のこと、突然公爵家から縁談の話が。
シアは公爵家がなぜ自分に縁談など持ち掛けるのかと訝しく思いつつ話を受けると、なんと公爵の後妻として三人の娘の母代わりになれと言われる。
困惑するも、自分へ縁談を持ちかけた理由を聞いて、お節介なシアは嫁ぐこと決めたのだった。
夫になるレオナルドはイケメンなのに無表情で高圧的。三人の娘も二女のアンナを除いて長女のセレナも三女のフィオナもとても反抗的。
そんな中でもお節介パワーを発揮して、前向きに奮闘するシアの物語。
※他投稿サイトにも掲載中
今さらやり直しは出来ません
mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。
落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。
そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……
高嶺の花の高嶺さんに好かれまして。
桜庭かなめ
恋愛
高校1年生の低田悠真のクラスには『高嶺の花』と呼ばれるほどの人気がある高嶺結衣という女子生徒がいる。容姿端麗、頭脳明晰、品行方正な高嶺さんは男女問わずに告白されているが全て振っていた。彼女には好きな人がいるらしい。
ゴールデンウィーク明け。放課後にハンカチを落としたことに気付いた悠真は教室に戻ると、自分のハンカチの匂いを嗅いで悶える高嶺さんを見つける。その場で、悠真は高嶺さんに好きだと告白されるが、付き合いたいと思うほど好きではないという理由で振る。
しかし、高嶺さんも諦めない。悠真に恋人も好きな人もいないと知り、
「絶対、私に惚れさせてみせるからね!」
と高らかに宣言したのだ。この告白をきっかけに、悠真は高嶺さんと友達になり、高校生活が変化し始めていく。
大好きなおかずを作ってきてくれたり、バイト先に来てくれたり、放課後デートをしたり、朝起きたら笑顔で見つめられていたり。高嶺の花の高嶺さんとの甘くてドキドキな青春学園ラブコメディ!
※2学期編4が完結しました!(2025.8.4)
※お気に入り登録や感想、いいねなどお待ちしております。
運命には間に合いますか?
入海月子
恋愛
スペイン建築が大好きな設計士
大橋優那(おおはし ゆな) 28歳
×
せっかちな空間デザイナー
守谷翔真(もりや しょうま) 33歳
優那はスペイン建築を学ぶという夢が実現するというときに、空間デザイナーの翔真と出会った。
せっかちな彼は出会って二日目で優那を口説いてくる。
翔真に惹かれながらも、スペインに行くことが決まっている優那はその気持ちに応えられないときっぱり告げた。
それでも、翔真はあきらめてくれない。
毎日のように熱く口説かれて、優那は――
【完結】何もできない妻が愛する隻眼騎士のためにできること
大森 樹
恋愛
辺境伯の娘であるナディアは、幼い頃ドラゴンに襲われているところを騎士エドムンドに助けられた。
それから十年が経過し、成長したナディアは国王陛下からあるお願いをされる。その願いとは『エドムンドとの結婚』だった。
幼い頃から憧れていたエドムンドとの結婚は、ナディアにとって願ってもいないことだったが、その結婚は妻というよりは『世話係』のようなものだった。
誰よりも強い騎士団長だったエドムンドは、ある事件で左目を失ってから騎士をやめ、酒を浴びるほど飲み、自堕落な生活を送っているため今はもう英雄とは思えない姿になっていた。
貴族令嬢らしいことは何もできない仮の妻が、愛する隻眼騎士のためにできることはあるのか?
前向き一途な辺境伯令嬢×俺様で不器用な最強騎士の物語です。
※いつもお読みいただきありがとうございます。中途半端なところで長期間投稿止まってしまい申し訳ありません。2025年10月6日〜投稿再開しております。
花も実も
白井はやて
恋愛
町で道場を営む武家の三男朝陽には最近、会うと心が暖かくなり癒される女性がいる。
跡取り問題で自宅に滞在したくない彼は癒しの彼女に会いたくて、彼女が家族と営む団子屋へ彼は足しげく熱心に通っているのだが、男と接客している様子を見ると謎の苛立ちを抱えていた。
妖狐の嫁入り
山田あとり
恋愛
「――おまえを祓うなどできない。あきらめて、俺と生きてくれ」
稲荷神社の娘・遥香(はるか)は、妖狐の血をひくために狐憑きとさげすまれ、ひっそり生きてきた。
ある日、村八分となっている遥香を探して来たのは怨霊や魔物を祓う軍人・彰良(あきら)。
彼は陰陽師の名門・芳川家の男だった。
帝国陸軍で共に任務にあたることになった二人だったが、実は彰良にもある秘密が――。
自己評価は低いが芯に強さを秘める女が、理解者を得て才能を開花させる!
&
苦しみを抱え屈折した男が、真っ直ぐな優しさに触れ愛を知る!
明治中期風の横浜と帝都を駆ける、あやかし異能ロマンス譚です。
可愛い妖怪・豆腐小僧も戦うよ!
※この作品は、カクヨム・小説家になろうにも掲載しています
明日のために、昨日にサヨナラ(goodbye,hello)
松丹子
恋愛
スパダリな父、優しい長兄、愛想のいい次兄、チャラい従兄に囲まれて、男に抱く理想が高くなってしまった女子高生、橘礼奈。
平凡な自分に見合うフツーな高校生活をエンジョイしようと…思っているはずなのに、幼い頃から抱いていた淡い想いを自覚せざるを得なくなり……
恋愛、家族愛、友情、部活に進路……
緩やかでほんのり甘い青春模様。
*関連作品は下記の通りです。単体でお読みいただけるようにしているつもりです(が、ひたすらキャラクターが多いのであまりオススメできません…)
★展開の都合上、礼奈の誕生日は親世代の作品と齟齬があります。一種のパラレルワールドとしてご了承いただければ幸いです。
*関連作品
『神崎くんは残念なイケメン』(香子視点)
『モテ男とデキ女の奥手な恋』(政人視点)
上記二作を読めばキャラクターは押さえられると思います。
(以降、時系列順『物狂ほしや色と情』、『期待ハズレな吉田さん、自由人な前田くん』、『さくやこの』、『爆走織姫はやさぐれ彦星と結ばれたい』、『色ハくれなゐ 情ハ愛』、『初恋旅行に出かけます』)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる