思い出のチョコレートエッグ

ライヒェル

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復活祭と華麗なるベネチアングラス

交錯する飛行機雲の如く

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『およそ1時間ほどでアムステルダム中央駅に到着です』
車内アナウンスが聞こえたので、私はヘッドホンを外しテーブルの上を片付け始めた。
おばぁちゃんの住むデン・ハーグ駅へは、ベルリンからだと乗換えなしでは辿り着かない。今回は少し遠回りになるが、まずベルリンから直行でアムステルダムに向い、そこで普通電車に乗換え、1時間ほどかけてUターンするように南下してデン・ハーグへ向かうことにした。
ベルリンからおばぁちゃんの家まで、ドアツードアでおよそ8時間くらい。
飛行機でも行けたんだけど、私は時間に余裕がある時は陸路で旅をするほうが好きだ。
それに、新幹線だと、飛行機のチェックインや搭乗時間待ちのわずらわしさもないし、それに車窓に流れる景色を眺めるのが大好きだというのもある。飛行機だと離陸着陸の時以外は基本的に空の上で、建物や街の様子、田舎風景を楽しむということとは無縁だ。
昨晩はアナとの長電話で、かなり遅くまで起きていた上、なかなか寝付けなくて、眠ったのか眠ってないのかわからないような浅い眠りだったから、乗車中はヘッドホンで音楽を聞きながらうたた寝をしていた。
静かな車内と心地よい揺れで、随分と深く眠れた気がする。

私は昨晩のアナのある告白に度肝を抜かれたせいか、帰宅直後はかなりの興奮状態だったのにも関わらず、翌日の今日はもう随分と落ち着いている。
そう、アナは私がニッキーのことを激しくまくしたてるのを根気よく聞いてくれた後、実はね、と私が心底驚くことを話してくれた。
アナは、アダムに振られたことが有るというのだ。
最初、あのアダムじゃなくて他のアダムかと思ったくらい、びっくりした。
ふたりはいつも仲がいいので、そんなことが過去にあったとは想像も出来なかったからだ。
でもよくよく話を聞いてみたところ、正確には、ふられたという状況ではないと思う。
アナはゆっくりと記憶を巻き戻すように、順序よく話してくれた。
ベルリンに来て間もないころ、アートと音楽のコラボイベントでマリアと知り合い、その後別のイベントでアダムとも出会った。マリアもヨナスも含めた彼らの集まりに時折誘われるようになり、アナはアダムの描画に興味を持ち、だんだんアダム本人にも好意を持ちはじめたらしい。シャイとはほど遠い性格のアナは、ある日、アダムの絵画ギャラリーに行った時彼が数人の女性に囲まれていたので、タイミングを待って単刀直入に「恋人はいるのか」と聞いたらしい。すると「いない」というので、「じゃぁ私と付き合って」と文字通りそのまま言ったらしい。
それに対するアダムの答えはこんな感じだったらしい。
自分は3年前にキャリアチェンジをしてアーティストの道を選んだ。新しい世界で自分が認められるのかどうか、10年をかけて挑戦すると期間を定めた。これから不安定な生活環境をすると決めた時に、特定の誰かと真剣に付き合うことはやめることにしたんだと。なぜなら、将来の約束は出来ないから。
それを聞いて、アナはさらにつっこんだ質問をしたらしい。
もし、アーティストとして世界に認められるようになったら変わるのかと。
すると、アダムはそれには答えず、かわりにこう言ったそうだ。「人間として後悔するような人生は選ばない」と。
『正直、言っている意味がよくわかんなかったのよねー、最後のところ。でもさ、逆に、他の誰もアダムの本当の彼女にはなれないんだ、と思うとなんかほっとして、じゃぁ誰ともデートしないわけね、と確認したわけ』
アナはそういって電話の向こうで笑った。
『そしたら、積極的に誘われたら、軽いデートをすることはあるって言ったんだよねー』
それを聞いて私は少しがっかりした。
ってことは、デートはしているわけで、いわゆる本命は作らないという都合のいい状態ってことか。
私の考えたことを読んだらしいアナがを言う。
『今、カノンが想像したと思うけど、デートする女友達は普通にいてさ、ただ絶対に、結婚とか約束とかしない軽い付き合いで留めているってことだったわけ』
なんだか急に、アダムに対する良いイメージがガラガラと崩れて行った。そんなの、私が知っているアダムじゃない。
『で、私はアダムに言ったのよ、私もそれでいいんだけどって』
耳を疑った。まさかアナが、そういう女友達集団のひとりでもいいとか言ったなんて、とても信じられなかった。
『私も特定の彼氏いなかったし、彼と一緒に過ごせるならそれでもいいと思ったし。なら、私ともたまにデートして、って食い下がったわけ』
絶句。
アナが時々、かなりぶっ飛んだことを言うとは思っていたが、まさかそこまでとは思わず、これがまさに寝耳に水ってやつだ。
『そしたらさ、あいつ、それは嫌だと言ったのよ。で、私は女としてさえ見てもらえないわけなのってすっごく傷ついて、プチ切れ状態になっちゃって』
確かに、侮辱された気分になる。普通の男なら、よほど嫌じゃなきゃそんな自分に都合のよい申し入れを断ることはないだろう。
『アダムのやつ、私はもっと大事にされる価値のある人間だから、って言うのよね。だったら、私と本気で付き合ってくれたらいいのに、って説得しようとしたんだけど』
ぐいぐいと押していくアナの性格にある種の感動を覚えた。なんて自分に素直な子なんだろうって。
『アダムはそれは出来ないって言ってさ。約束なんかいらないと言ったんだけど、すっごく頑固なやつで。で、ごねたら、私が納得出来るように交換条件にしようって。私に彼氏が出来るまで、誰ともデートしないって言ったの』
それを聞いた時、あぁやっぱりアダムはまっすぐな人だと思った。
『で、それ以降、私もオープンに彼氏募集中。アダムのことは諦めてないけど、アーティストと評価されるまでか、残る7年の期限が切れるまではどうせ付き合えないんだし、なんていうのかな、なるようにしかならないって感じ?』
今のところ、アダムもアナも誰ともデートもしていないということになるらしい。お茶とか食事するくらいの異性の友人はいても、男女の関係を持つ相手は誰もいないという。
『アダムよりいい男が現れたらアタックするつもりよ。でもなんか、アダムが女断ちを貫いていると思うと安心しちゃって、もし彼氏出来ても秘密にしちゃおうか、なーんて、ズルいこと考えたりしちゃうんだけどね』
アナは明るく笑いながらそう言った。アナの演奏会に花束を持ってくる男達を私は何人も見て来ている。彼らの想いは全く彼女には通じないようで、アナは彼らのことは話題にさえしない。環境と、気持ちが同時に通じ合う。そういう相手に出会うのはなかなか難しいものだ。
そんな話を聞かせてくれた後、アナは私にアドバイスをくれた。
『カノンはそのニッキーってやつに惹かれてきてると思う。話を聞いてたらそうとしか思えない。彼だって同じなんじゃない?あくまで今の段階ではってことだけど。この先どうなるにしても、自分の気持ちは自分しか認めてあげられないんだから、自分自身にだけはいつも正直にいるべきだよ。ニッキーとか他の人に嘘をついてもいいから、自分には素直になって。今日と明日、全く違う気持ちでもそれがその時の気持ちということに変わりないんだからね』
アナって、想っていることを言葉で表現することがとても上手だと思う。
私はもっと、私自身を知るべきらしい。

その日の夕方、私は無事におばぁちゃんの家に到着した。
本当ならば、前日の日曜日がイースターホリデー中の一番重要な日だが、翌日の月曜日も続けてお祝いをする日。
おばぁちゃんは、ヒヨコのチョコプレートをあしらった、大きな林檎のタルトを焼いて待っていてくれた。数日前から下ごしらえしてくれていたというワイルドサーモンのディル風味マリネに、ちょっと甘めの粒マスタードを添えた、特別なディナー。おばぁちゃん特製のドイツ風ポテトサラダも私の大好きな一品。キャンドルの火が揺れるテーブルで復活祭を祝う。
窓際やコーヒーテーブルには、木製の卵型オーナメントで飾られた小枝が生けてある壷が並ぶ。室内の至る所に、ウサギの置物やヒヨコ、卵のインテリア雑貨が飾ってあって、まるで童話に出てきそうなかわいいお家になっていた。
日本ではあまりイースターのお祝いを本格的にしたことはなくて、子供の頃は美妃と一緒に卵の色づけをして楽しんだくらい。勿論、連日エッグサラダのサンドイッチを食べたことはしっかり覚えている。
おばぁちゃんと話をしていたらあっと言う間に時間が過ぎて行く。学校の生活、終ったばかりの取材のこと、お茶屋の話。お気に入りのレストランや参加したイベント、仲の良い友達などの話。おばぁちゃんは延々に続く私の話に耳を傾け、何度も何度も頷きながら、「それで?」と話を促してくれる。

火曜日は、お店も殆ど通常通りの営業に戻っていたので、一緒にショッピングに出かけた。
おばぁちゃんが、ジーンズばかり穿かないでたまには女性らしいものを着なさいと言う。日本に居た時は仕事に行く時にたまにスカートやワンピも着ていたけれど、また学生に戻ることになってなんとなくジーンズばかり持って来てしまっていた。ベルリンで買い足そうと思っていたのに、忙しくて時間が取れずまだ何も買ってないので、せっかくのチャンスだ、と私も積極的にお店を回っては試着した。
「どうもしっくりこないわねぇ」
いくつもの店で何度も試着を繰り返して、流石におばぁちゃんも疲れを隠せなくなって来た。
もうこれで最後と決めた老舗デパートのde Bijenkorfでも、おばぁちゃんは「おかしいわねぇ、どうしてかしらねぇ」と言い続けている。
これまで、既に気に入ったトップスとかサンダルやパンツ類はいくつか購入したが、おばぁちゃんが買いたがっているワンピースが1枚も見つからないのだ。
「どうしてかしら。前はかわいいワンピースとか似合ってたのに、おかしいわね」
おばぁちゃんが疲れた様子で私を眺める。もう3時間以上、街を歩き続けているのだから無理も無い。
「うーん、やっぱり毎日ジーンズやパンツばかり穿いていると、自然とスカートが似合わなくなるのかも……」
私も少し疲れてきた。
ふわふわ広がるワンピや、透け素材で乙女チックなものとか、ステキだなーと思って試着するものがどれもしっくりこない。個人的には、流れるドレープが裾に向かってきれいな曲線を描いているラインとか好きなのに。
もう、どうでも良くなって来た。
そう思って、今試着しているものを脱ごうと試着室へ戻りかけると、店員さんが1枚のドレスを持ってやってきた。
「こちらなどはお似合いかもしれないですよ」
それは、See By Chloeのミニワンピースだった。
コットン生地のシンプルなラインのオフホワイトワンピースの上に、同じ色のフラワーパターンレースがドレスを覆うレイヤーのように全体を覆っていている。胸元と背中部分が少し大きめに丸くカットされ、袖部分もちょうどひじに届くかどうかという長さの柔らかいドレープ。丈も膝より少し上、と27歳でも許されそうな短さだ。ウエストの黒のレザーベルトが、全体的にスイートなデザインを甘過ぎないよう引き締めているのもポイント高し。
「これ、好きかも!」
私は一目見て気に入って、店員さんにお礼をいって早速試着室へもどる。
さっき着ていたオレンジ色のドレスを脱いで、そのミニワンピースに着替えてみた。
上でお団子に束ねていた髪を下ろしてみて、鏡の中の自分を眺めてみた。
うん、これだったら十分女の子らしいし、かといって子供っぽくもない!
「カノン、もう着てみたかい?」
「おばぁちゃん」
私はカーテンを開けて、サンダルをつっかけて試着室を出てみた。
おばぁちゃんが私を上から下まで見て、それから嬉しそうに笑顔を見せた。
「似合ってる!カノンらしさが出るね、健康的でそれでちゃんとレディに見えているわ」
「うん!これ、私もいいと思う」
それから背中のタグに取り付けてあるタグをおばぁちゃんに見てもらい、値段を確認してもらった。
それは500ユーロを超えていて、それを聞いた私は買うのを止めようとした。
「いくらなんでも、いつ着るかわからないワンピに500ユーロは絶対無理!!!」
せめて200ユーロくらいなら買うかもだけど、出番の少なそうなワンピをそこまで出して買う必要はない。
それに500ユーロのワンピだと思うと、汚れやダメージが気になって、怖くて着れないかもしれない。
丈夫なコートやジャケットならともかく、こんな繊細な生地なんだから、いつどこでひっかけて破れるかわからない。
店員さんに返却しようと思って、ワンピをハンガーにかけ試着室を出ると、おばぁちゃんが私の手からそのワンピをむしりとった。
「おばぁちゃんたら!ダメ!いらないの、返すんだから、やめて!」
これを買ってくれようと言うに違いない。
それを阻止すべくワンピに手を伸ばすと、おばぁちゃんが私の手をぴしゃりと叩いた。
「だーめ!あんなに長々時間をかけて最後の最後でやっと見つけた1枚だよ。これは私が買う」
「おばぁちゃん!500ユーロは高すぎるのよ!いつ着るかもわからないし」
「だったら、着ればいいでしょう!?タンスの肥やしにしないよう、たまには着なさい。普段着になるデザインだと思うわよ」
「えー、これ着て学校には行かないよー。お茶屋にも場違いだと思うし」
「とにかく、口答えは許しません。これは買うことに決めました」
おばぁちゃんはぴしゃりとそう言って、ワンピを持ってレジのほうへ歩いて行った。
あーあ、500ユーロも使わせてしまった……
おばぁちゃん孝行しようと思って来たのに、これじゃ逆に脛かじりに来たようなものだ。
「悪いなー、なんて思うなら、これを着て私を喜ばせることだね」
おばぁちゃんはそう言って、包装されたドレスの紙袋を私に差し出し、満足気ににっこりした。
「おばぁちゃん……うん、ありがとうね。正直、とってもステキなワンピだなとは思ってる」
私も素直にお礼を言って、おばぁちゃんから紙袋を受け取った。
オランダ滞在はあと二日。しっかりおばぁちゃん孝行をしたい!


翌日の水曜日は、おばぁちゃんのアートクラブに同行したり、家の近所の森をお散歩したりして、夕方は私が料理をした。大したものじゃないけれど、ロールキャベツを作って、ベーカリーで買って来たバゲットと一緒に食べた。私はあまり料理は得意なほうではないのだけど、自分が好きなもので簡単なレシピのメニューなら、レパートリーはいくつかある。
ナポリタン、ハンバーグ、オムライス、ロールキャベツにミートソースなどのパスタ系全般。お寿司、親子どんぶり、肉じゃがや八宝菜などの煮物。お菓子も、チーズケーキ、ロールケーキとか、マフィン、クッキーにシュークリームくらいなら、家族や友人に出せるレベルのものは作れると思う。結局、自分が好きなもので、分量を細かく計る必要がないものばかりではあるけれど。
おばぁちゃんは私が作ったロールキャベツを、美味しい美味しいととても喜んで食べてくれた。夜にお友達から電話がかかってきた時に、ロールキャベツの話をしているのが聞こえたので、本当に嬉しかったみたいだ。
失敗しなくてよかった!
私はリビングのソファーにだらりと身を横たえて、テレビを見ながら一口サイズのチョコレートプレートをつまんだ。ベルギーの老舗ショコラティエ「Leonidas」はオランダのいたるところで買うことができる一品だ。
またひとつ、箱からオレンジ風味のほろ苦いビターチョコレートを取りながらうーんと伸びをする。
こんな格好、ワンピを着ていたら絶対出来ない。やっぱりジーンズは楽ちんだ。
ベルリンの自分のアパートも好きだけど、やっぱりおばぁちゃんの家はとても居心地がよくてリラックスしてしまう。
窓辺に飾ってある写真も、亡くなったおじいちゃんだったり、私達や親戚の皆の歴史がわかるようなものばかりだというのも、アットホームに感じる理由のひとつだろう。
まさにイースター休暇って感じだなーと思ったら、大きなあくびがでた。少し涙目になる。
もう明日が最終日だ。明後日はベルリンに帰る日。
明日あたり、なにかお土産を買わなきゃ。
「カノン」
おばぁちゃんが電話を終えてキッチンから戻って来た。
「明日はビーチに行きましょう」
「うん、いいね!天気良さそうなの?」
「それはこれからチェックするけど、多分、大丈夫でしょう。さっきの電話はモニカだったんだけど」
おばぁちゃんはチョコレートに手を伸ばし、ひとつつまんでからソファに腰掛けた。
モニカって、確かおばぁちゃんと同じように未亡人のテニス仲間で、1人で大きな豪邸に住んでいて、時々娘さん家族が子供を5人連れて遊びにくる人だ。
「モニカの友人にロイヤルファミリーの親戚がいるらしいんだけど、なんでもその家の人がnordwijkのビーチに新しいレストランをオープンさせるとかで、今ちょうど工事しているらしいのよ」
「ふうん、オランダのロイヤルファミリーのこと?そういえば、王室の人はデン・ハーグに住んでいるしね」
おばぁちゃんの家から車で10分も走れば、ハウステンボス、つまり王家の屋敷に着いちゃうくらいご近所なのだ。勿論、王宮の門前には警備員が何人も立っていて、民間人が勝手に中に入れるわけではないし、屋敷もはるか遠くにあるようで、森ほどに大きい庭に生い茂る木々に遮られ、外からじゃ何も見えない。
「nordwijkにはロイヤルファミリーも遊びにくることあるようだしね」
「王族専用のプライベートビーチってやつよね」
「そりゃそうだろうよ。それで、明日、モニカが工事の様子をのぞきに行くっていうから、ついでに私達も行ってみましょう」
「うん、面白そう」
ロイヤルファミリー関係の人がオープンするレストランと聞くと、私も興味があった。インテリアとか、やっぱり王家っぽくキラキラとゴージャス?それとも、オランダの国民色のオレンジに染まったレストランになるのだろうか。
そうだ、もしかしたら明日はその工事の写真を撮るかもしれないから、寝る前に携帯の空きメモリをチェックしておこう!
私はテレビのチャンネルを変えて、天気予報を探した。
うん、明日は最高20度の予報だ。雨は降らないようだし、砂浜で波打ち際を散歩するのには丁度いい気温だろう。
オランダ滞在3日目の夜は、おばぁちゃんとチョコレートを食べながらテレビを見ておしゃべりして、10時過ぎにはベッドへ行ったのだった。


翌日の木曜日は朝から空は快晴と申し分ない海日和だった。
お昼ご飯を食べてすぐ、おばぁちゃんが出かける準備をしながら、モニカに電話をしている。
現地で待ち合わせるようだ。
日よけのためにおばぁちゃんの大きな帽子を借りて、車に乗り込み出発。
ラジオで音楽を探していると、ちょうど天気予報が流れて来た。それによると、午後は少し雨が降るらしい。
「海沿いの国だからね。海風の関係で天気なんてころころ変わるから、今、こんなに晴れていても数時間後に雨が降ることだってあるもんだよ」
「ふーん、海洋性気候?」
「そういうもんだろうねぇ。そういえばカノン、誕生日が近づいてきたね」
「あー、それはあんまり話題にしたくないなぁ……」
どっちかというと忘れたい。気乗りしない話題なので、ラジオをいじってごまかそうとした。
おばぁちゃんはそんな私の心を解っているのか解っていないのか、楽しそうに続ける。
「日本だとまだ梅雨っぽさが残っている時期だけど、ヨーロッパは最高の季節だからいいシーズンに生まれたもんだよ」
「そう言われてみればそうかも。日本じゃいっつもジメジメベタベタしている時期で、子供のころは誕生会もいつも室内でつまんなかったなぁ」
私の誕生日は6月の終わり。日本ではしとしとと雨が振ってどんより空が多い時期だ。
「そういえば、フーゴが夏休みにベルリンへ遊びに行きたいって言ってたよ」
「フーゴが?」
アメリカの親元を離れて、カナダのバンクーバーに住んでいる私の従兄だ。私より一つ上で、今はバンクーバーでCGデザイナーをしているらしい。お互い成人してからは行き来していないので、もう7年くらい会っていない。
「そうだ、フーゴにカノンのメールアドレスを聞かれていたのに、すっかり忘れていたよ。後で連絡してやらなきゃ」
おばぁちゃんが、しまった、というようにそう呟いた。

ビーチにはモニカおばぁちゃんが、娘さんのマライケと孫を5人連れて来ていた。マライケは今、デンハーグの隣街、デルフトに住んでおり、休みがある度にモニカおばぁちゃんのところに遊びに来ているらしい。さすがに5人も子供がいると一日中戦争状態のようで、しかも5人のうち男の子が4人だから、しょっぱなから大騒ぎになっていた。マライケは挨拶もそこそこに、お腹が空いただのトイレだのと騒ぎ続ける子供の世話に明け暮れていて、とても工事のところには行けないからと、子供の遊び場があるカフェに留まることにしたようだ。
レストランの工事現場のほうは、今は基礎工事、主体工事が終って、仕上げ工事の段階に来ているらしい。床や壁、天井などの内装や、各種設備のインストールなど内側の部分と、屋根、外壁の工事をやっている様子が見えた。
かなり大きな敷地面積で、海を臨む絶景ポイントを確保しているあたり、さすがロイヤルファミリーの親戚らしい。
まだインテリアも何もないので、全体的な雰囲気がわかるまでにはなっていないが、予定では初夏、7月半ばオープンとのこと。
写真を撮ろうと思って来ていたけど、結局1枚も撮らなかった。
「夏にこっちに来たら、ちょうど出来上がっているだろうねぇ」
おばぁちゃんが少しウキウキしたように言う。
「カノンはもちろん夏休みはこっちに来るんでしょう?ベルリンは海はないしね?」
モニカが私に聞く。
「ベルリンには、泳げる湖はあるみたいだけどね。うん、私は多分こっちに遊びに来ると思う!」
その時にはこのレストラン、オープンしているはずだ。
どんなインテリアで、どんなメニューが提供されるのか気になる。
モニカとおばぁちゃんが工事のおじさん達と話を始めたので、私は波打ち際を歩いて来ると言って1人で砂浜へ向かった。

今日は、沖から吹き付ける風が強い。まだ、頬が痛く感じるくらいの冷たい風だけれど、空気は透き通ってまるで体を通り抜けて行くようだ。
空は半分が真っ青で、沖の向こうは真っ白い入道雲がもくもくと広がっていた。
ここは昨年マリアに声をかけられて、写真を撮ってもらった場所だ。
あの時はまさか、自分がベルリンに行くことになるなんて思ってもいなかったなぁと懐かしく思い出す。
あの時、マリアに出会っていなかったら、私は今、ここにはいなかった。今頃、会社で仕事をしていて、電話やら会議やら、バタバタした一日を過ごしていたことだろう。
あのひとときで、未来が大きく変わった。
あの時、美妃とオランダに来ていなかったら。
あの時、おばぁちゃんにビーチに連れて来てもらっていなかったら。
あの時、マリアにメールで悩みを伝えてなかったら。
たった一瞬のことで、未来はころころと変わっていく。
これって、すごいことだなぁ……と不思議な感動に胸がいっぱいになる。
やがて、空の向こうが少し暗くなってきたような気がして、やっぱりもうすぐ雨だろうかと思って見ていると、ゆっくりと空の真上から虹色の光が現れて、それがどんどん伸びて来て、あっと言う間に大きな虹の橋となった。見たことがないくらいはっきりとした7色の虹が、青空に大きな半円を描き、灯台の根元から海の向こうへかかっている。じっと見ていると、その虹の橋の上に、もうひとつの虹が浮かび上がって来た。
ダブルレインボーだ!!!
ふたつの大きな半円を描く虹の橋が、雄大な海にかかっている。そして沖のずっと後ろのほうには灰色の雨雲が広がり、その雲の隙間から明るい青い空の輝きが見え隠れしていた。
なんて美しい自然の創造物なんだろう。
感動のあまり我を忘れ、ダブルレインボーに心を奪われる。
後方で、散歩に来ていた人達が同じく騒いでいるのが聞こえ、振り返ってみると皆、携帯やカメラを空に向けていた。
そうだ、写真!
今こそ写真を撮らねば!
「見た人は幸せになる」「願いが叶う」と言われるダブルレインボー。
次に見れるのはいつかわからない!!!
急いで携帯を取り出し、虹がまだ消えないことを願いながらカメラモードを選択し、レンズを空へ向けた。
ゆっくりと、手を動かさないように慎重に、数枚撮影してみる。
データを確認したところ、きちんと写っているようだったので、携帯から目を離し、もう一度現実のダブルレインボーに見入る。
永遠に見続けていても絶対に飽きることはない美しい7色の光の橋が、同時に2つも空にかかっているなんて。自然が生み出す芸術の素晴らしさに圧倒された。
5分くらいしただろうか。
ついに、虹が薄くなって来た。
周りで残念がる声があがる。
私もあーぁと思いながら、少しずつその神々しい姿を消す虹を見つめ、完全に消えるまで一生懸命目をこらして残像を追った。
本当に跡形も無くなった時、悲しくなるかなと思っていたけれど、この5分の間に私の心はすっかり満たされたようで、とても幸せな気持ちになっていた。
その時、ふとなぜか、ニッキーの顔が脳裏に浮かんだ。
楽しかったね、と言った時にみせた、優しい目と本当に嬉しそうな顔。
ニッキーにこの写真を見せてあげたら、きっとまた、嬉しそうに微笑む。
なぜか妙な確信を持った私はメールを開き、ニッキーのアドレスを選択して写真を1枚添付した。件名はAmazing、とだけ。
そのまま送信ボタンを押した。
送っちゃった……
いきなりこんなことしたら、ニッキーも困るかな?
もう一度ダブルレインボーの写真を見る。
そのうちなんだか後悔の念が出て来て、さっきまでの満たされた心が怪しい影に浸食され始める。
変だったかもしれない。いきなり、こんな写メ。突飛すぎたかもしれない。
やめとけばよかった。送信するべきかどうか、もっとよく考えてから決めればよかった。
あーぁ……自己嫌悪。
もう、送ったものはキャンセル出来ないんだから、考えるのはやめよう。
そう思って携帯をポケットにしまう。すると、携帯がバイブしてメールの受信を伝えた。
まさか。ニッキーだったりする?!
まだ数分しか経ってないから、ニッキーじゃないだろう。
少し動揺して携帯を開くと、それはニッキーからだった。どんな返信だろうとドキドキして開封してみると、写真が1枚添付してあった。
添付ファイルをクリックして開いてみる。
透明な海水が押し寄せる真っ白な砂浜の波打ち際に、大きなハートが描かれている写真だった。
ファイル名が、今日の日付と1分前の時刻。たった今、撮ったばかりの写真。
急にほっと安心する。
さっき送ったダブルレインボーの写真、喜んでくれたんだ!
送ってよかったなと思いながらその写真にもう一度目を落とす。
ニッキーも今、どこかの海にいるんだ。透明な海水が静かに押し寄せる白い砂浜にきらきらする小石が散らばっていた。
イースターホリデーは家族が集まる時間。復活祭は、キリスト教徒にとってクリスマスと同じくらい大事なお祝い事だ。
ニッキーも自分の家族と過ごしているのだろう。
そんなことを考えて、彼が家族に囲まれている姿を想像してみる。
私は彼のことがもっと知りたいんだ。
アナに言われたことを思い出す。
自分に素直になる。自分には嘘をつかない。
さっき深く悩むことも無く咄嗟にあの写真をニッキーに送ったのは、きっと、虹で浄化された私の心がその時の気持ちの赴くままにやったことだったのかもしれない。もうすでに、邪念も雑念も戻って来てはいるけれど、少しだけ、本当の自分が見えた気がした。


「おばぁちゃん、送ってくれてありがとう!」
朝早くから高速を飛ばしてアムステルダム駅まで送ってくれたおばぁちゃんが、駅のプラットホームで私を抱きしめた。
「また夏に来るんだよ」
「うん」
私がしっかり頷くと、おばぁちゃんが私を上から下までじっくりと見て、満足そうな顔をする。
今日は、あのワンピを着てみた。
おばぁちゃんがどうしてもジーンズ以外を穿いている私が見たいというので、ワンピは買ったその日に洗濯してもらい、アイロンをかけておいた。せっかくなので、最後の日に着ることにしていたのだ。
たまたま持って来ていた黒のレザーパンプスもこのワンピースのデザインに合うものだったし、久しぶりのワンピースで足下がスカスカして落ち着かないが、寒いというほとの気温でもなかった。勿論、ワンピースだけだと寒いので、上には黒のコットンジャケットを羽織っている。
それでも、いつもジーンズというラフな格好の私からしてみれば、久しぶりに背筋がしゃんと伸びる服装だった。
「じゃぁまた夏にね!ばいばい!」
新幹線ICEの窓から見えていたおばぁちゃんの姿が少しずつ小さくなっていった。
私はスーツケースを空いている隣の席のほうへ寄せて、自分のテーブルを下ろした。
車内では有料のPCネット接続サービスがあるけれど、特にラップトップを使うつもりはない。
前の座席のポケットに入っている車内雑誌を読んだり、携帯で音楽を聞いたり、暇つぶしに流行のジェリービーンズ携帯ゲームをやったりしていると、どんどん移動時間が過ぎて行く。おばぁちゃん宅では毎日ぐっすり寝たので、今回は眠くなることもない。
ベルリンに到着するのは午後の3時半。
冷蔵庫の中はほとんど空っぽなので、一度帰宅したら買い物に行こうか。
それとも、冷凍庫のパンをトーストするくらいの簡単な夕食にしようか。
ふと、このすっかり重くなったスーツケースを5階まで運ばなくてはならないことに気がついてどーんと落ち込む。しかも、パンプスなんか履いている!!!ベルリンに来てから細いヒールの靴なんて履いて歩かなかったせいか、東京ではこれでさっさと歩けたのに、今日はどうも足首がぐらつく気がする。
アパートの階段を登る前に、スーツケースからスニーカーを出して履き替えたほうがいいかもしれない。

ベルリン中央駅に着いて、まだ昼間だったのでタクシーは使わずにバスで帰ることにした。
私も公共交通機関の一ヶ月定期を持っているし、ちょうど家の近くの大通りまで行くバスがあるから便利だ。
ゴロゴロとスーツケースを押してバスに乗り込む。ベルリンを走るバスは、半分くらいは2階建てだ。最初に見た時はてっきり観光バスだと思って、なんだかすごい数の2階建て観光バスが市内を走っていると思ったが、すぐにそれが普通の交通バスだと知った。たまに2階席に乗ることがあるが、これが結構スリルがあって面白い。
今日はスーツケースもあるので上には上らず、つり革に掴まってスーツケースと一緒に立つ。
たった5日ぶりだというのに、もう懐かしい気持ちで外の景色を見ていると、携帯がSMSの受信音を立てた。バッグから出してチェックすると聡君からだった。
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かのん、いつ戻ってくるんだった?
日曜日にはもう帰ってるはずだよね?
夕方一緒に行ってほしい所あるんだ。
日独友好お喋り会!!!
一緒に行くはずだった友達がいけなくなって、
1人で行くのもつまらないからさ。
4時にZoo駅前のマクドナルドで集合だって。
行ける?
oxoxox さとし
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あー、あれか。
ドイツ語を喋りたい日本人と、日本語を喋りたいドイツ人が集合するイベントだ。
確か、月1回くらいの頻度で集まってカフェに行ったり、BBQしたりしてるとか聞いたやつ。
聡君が、たまにあれに行ってるとは聞いていた。アナはこの間誘われたけど断ったとか言ってた気がする。
どうしようかと少し迷ったけれど、まぁ、一度くらいのぞくのもいいかなと思ってOKと返信したら、すぐに待ち合わせ場所の連絡を送って来た。
聡君はドイツ語で授業を受けるくらいの語学力だから、こういう集まりに行く必要もなさそうだけど、単にネットワーク作りで行ってるのかもしれない。ベルリンに住む他の日本人と知り合う機会にもなるし、意外と楽しいものかもしれない。
最寄りの停留所について、バスを下車する。
ここまでスムースに帰って来たが、問題はあの魔の階段、102段。
上に辿り着くまでにぎっくり腰にならなければいいけど、、、
ゴロゴロとスーツケースを引きながら5日ぶりの地元を歩く。天気も良く気持ちは軽いけど、荷物は重い!!!
歩いていると、後方から車のクラクションが聞こえた。なんだろうと思って足を止めて振り返ると、シルバーのMercedes-Benzが路肩よりにゆっくり停車して、運転席のガラスが下りる。
「あ、イヴァン」
窓から見えたのはイヴァンだった。視線を感じて車の奥を見ると、助手席に奥さんらしい女性と、後部座席にはチャイルドシートで熟睡中の3歳くらいの男の子が見えた。
「今帰って来たのか」
イヴァンが私のスーツケースに目をやって聞く。
「さっきバスを下りたところです」
なるべく失礼のない言葉遣いで答えながら、奥さんのほうに会釈する。奥さんが少し微笑んで小さく会釈を返した。
ミディアムロングのブロンドが美しい美人で、イヴァンの奥さんらしく上品なベージュのスーツを着ていた。こんな品の良さそうな物静かに見える奥さん、イヴァンとお似合いに見えるのになぁ、なんてお節介なことを考えてしまう。
「ご家族でお出かけですか?」
いかにも社交辞令っぽいけど、一応聞いて見たら、イヴァンが首を振る。
「今から帰る所だ」
「そうでしたか。ではまた」
そう言って会釈して別れようとしたら、イヴァンが言う。
「そこで一時駐車する。スーツケース、1人じゃ無理だろう」
「えっ、大丈夫です!平気ですから」
そんなこと手伝ってもらうわけにはいかない!
今は家族の時間の最中だっていうのに、他人にサービスしてどうするんだ!そんなことしたら後で自分がどうなるか想像できないわけじゃないだろうに。もしかして、わからないんだろうか?!イヴァンってこういう普通の思考回路は持ち合わせてないんだろうか?!
「お気遣いありがとうございます、でも本当に大丈夫なので!」
丁重にお断りをして、もう一度頭を下げて歩き出した。
が、そのシルバーのMercedes-Benzが私を追い越して少し先の路肩に停車し、私が通り過ぎるより早くイヴァンは車を下りて待っていた。
なんで、そんなことするんだ!
奥さんの顔が引きつっているの、見えないの?!
必死で目配せしてそれを伝えようとしたけれど、イヴァンは私の顔を見て露骨に眉をしかめた。
「流行の顔ヨガでもやっているつもりか知らないが、人前ではやめたほうがいい」
「違うっ」
侮辱されて思わずつい声を荒げてしまったが、もうイヴァンがスーツケースに手をかけて私の先を歩き始めていた。どうしようもないので、仕方なく急いで後を追いかける。
もう、知らないから!
後で奥さんにこってり絞られても、私のせいじゃない!
イヴァンは歩くのが早い。2分ほどでアパートの前に着いた。扉の鍵を開けて中に入り、中庭を通って、私の棟へ到着。
「イヴァン、ほんっとに有り難いけど、でもすごーく申し訳なくって、いい言葉が思いつかない」
そう後ろから声をかけたら、イヴァンは片手で、横向きにしたスーツケースのハンドルを軽々と持ち上げ私を振り返った。
「気にすることはない。俺は基本的に弱者を放っておけないだけだ」
あ、正義の味方?
まぁ、弁護士だからそういうポリシーがあっても不思議では無いけど……
はっとした時には、イヴァンはもうどんどん階段を上っている。あわてて後を追いかけたが、5日ぶりの階段を久しぶりのヒールで上るのは思ったよりしんどかった。あんなに重いスーツケースを運んでいたのに、イヴァンは私が3階あたりを上っている時に上から下りて来た。
「部屋の前に置いてある」
「あ、ありがとう」
あまりの早さに目が点。イヴァンは通り過ぎ様に、にっと小さく笑ってそのまま滑るように階段を下りて行った。
上るのも下りるのも早いっ!!!息切れなんて無関係な体力らしい。
やっと5階に着いた時には、くるぶしが痛くなっていた。慣れないヒールは履くものじゃない。
今頃イヴァンは奥様から厳しく叱責されていることだろうが……でも、運んでもらってすごく助かった。
いつか、なにかお礼をさせてもらわないと。
深呼吸をしながら5日ぶりのマイホームのドアを開けた。

そして日曜日。聡君との約束の日が来た。
待ち合わせのZoo駅周辺は、高級デパートからファストファッションまで連立した商業と観光の中心だ。当然ながら有名なホテルも至る所に建ち、街は常に観光客に溢れ、彼らをもてなす娯楽施設も賑わっている。巨大な動物園、アクアリウムも駅近くにあるらしい。東京で言えば銀座や表参道エリアに似た場所だろう。
その日の午後3時50分、私は聡君とZoo駅の構内で待ち合わせ、一緒にその日独友好お喋り会の参加者が集合するマクドナルドの前まで一緒に行った。およそ30人くらいが集まったところで、開催者の誘導にて駅にほど近いカフェに移動し、数カ所に散らばりつつテーブルを囲み、新参者は簡単な自己紹介をしてお喋り会が始まった。
予想していた通り、参加している日本人は殆どが音大の学生だったり、アーティスト活動をしている20代~30代の人達で、ドイツ人のほうはアニメ好きや日本文学を勉強している学生などバラバラ。半分以上は日本語を話してしまった感があるけれど、何人かとドイツ語でも話すことができたし、まぁ次に参加するかどうかはともかくとして、それなりに興味深い集まりだった。
途中から聡君は顔見知りのドイツ人のところに行ってしまったが、私も話し相手に困るわけでもなくヒマを持て余すことがないまま気がついたらもう終了時間の6時になっていた。
聡君が、ドイツ人二人と一緒にこれから食事してクラブに行くので、一緒に行こうと誘ってくれたが、明日はもう通常通りに学校も始まるので断った。
「なんだかごめん!誘っておいて1人で帰らせるなんて悪いよね、僕」
聡君が子犬のような目をして謝った。
「全然!気にしないでよー、結構楽しかったし。じゃぁまたね」
聡君に別れを告げて、カフェを出た。せっかくなので、電車を使わずに自宅方向への路線バスが走るこの通りを少しを散策してから帰ることにした。
まっすぐとミッテ地区に伸びるStrasse des 17. Juni、通称6月17日通りを歩く。森のように巨大な庭園、Tiergartenのど真ん中をつっきる大通りだ。日曜日はこの通りの近くで有名な蚤の市も開かれるが、もうこの時間は閉まっている。緑豊かな森の中央にまっすぐ直線を描くこの道をゆっくりと歩いていたら、乗ろうと思っていたバスが後ろから通り過ぎて行った。あっと思ったけれど、まだ夕暮れ時だし歩くのも気持ちがいいので、このままもう少し歩いてからバスに乗ることにした。
10分くらい歩いてTiergartenの外に出ると、やがて見えたのはあの有名なブランデンブルグ門。ギリシアの古代建築物を思わせるその美しい門は、東西ドイツが統合されるまではベルリンの分断の象徴だったらしいが、現在では東西統一のシンボルとなっている。ライトアップされたこの巨大な門は、夕暮れに浮かび上がってそれは見事なものだ。
ヨーロッパにいるんだなぁとしみじみ思う瞬間が、こういう歴史的な建造物を見る時だ。
たまにはこうやって、散歩がてらに歴史のある場所を歩くのもよさそう。
このまま歩けば、家まで行けそうな気がして、とりあえず携帯のGPS機能をONにし、自宅方向へ向けて歩き続けてみることにした。
疲れたらバスや電車に乗ればいいことだし、思いつきで行動することも時には面白いものだ。
GPSの方向を確認しながら歩いて行くと、前方にベーベル広場、そしてそれに面するように建つ立派な建築物が見えて来た。このへんにある史上の建物のひとつかなと思ったが、近づくに連れてそれがホテルだと気がついた。洗練されたクラシックな外観が一際目を引く。上品な高級感の中に溢れる豪華さ。中央のエントランスに掲げてある旗のひとつがイタリアの旗。Rocco Forte Hotel de Romeというホテルのようだ。見れば、確かにここだけイタリアのローマのように見えなくもない。こういうところはいわゆるVIPが利用するところなんだろう。
すごいなぁーと感心しながら歩いていると、エントランスの近くに並ぶリムジンやタクシーのところへ、ベルボーイが一台のバイクを押してくるのが見えた。ここの宿泊客のバイクをパーキングから移動しているようだ。
そのまま通り過ぎようとして、何かがひっかかり足を止めてもう一度そのバイクを見た。
「あれっ?」
記憶に残る深紅のボディ。エンジンの隣にapriliaの名前が見えた。
大きさから言ってもあれはニッキーが乗っていたものと全く同じバイクだ。
まさか、ニッキーのバイク?!
一瞬びっくりしたが、すぐに思い直した。
いや、他にも同じバイクに乗っている人はいるだろうし、大体ベルリンに住んでいるだろうニッキーがわざわざこんなホテルに泊まっているとも思えない。
そう思って、また歩き出そうとしたけれど、なんだか気になってまた足を止めた。
バイクが出て来たってことは、もうすぐ所有者もホテルから出て来るはずだよね?
どんな人が、あの同じバイクに乗っているのかちょっと見てみたい気がする……
単純な好奇心から、エントランスから離れた通りの端で立ち止まって、しばらく様子を見てみることにした。
5分くらい人の出入りを眺めていたが、バイクの所有者らしい人は現れない。やっぱり無意味なことをしたかな、と思って歩き出そうとした時、私の進行方向から歩いて来るカップルが目に入った。そのひとりがニッキーと似た影だったので驚いて、反射的に街灯の後ろへ身を隠した。
え?え?えええっ?
あれは、ニッキー?!?!
20mくらい先で夕暮れ時なので、明瞭に見えるわけではないが、やっぱりあれはニッキーだ。
なんだかものすごい美女を連れて歩いている!パリコレのキャットウォークを歩くモデル二人、みたいな、完全に一般人から浮いたカップル。長いブロンドを風になびかせた美女が、ニッキーにぴったりしがみつくように腕をからませていて、彼は携帯を耳にあて何か話しながら歩いている。風にのって、なんだか甘ったるい香水の香りが私のところまで漂って来た。
ニッキーもいつもと雰囲気が違い、白い光沢のあるシャツと明るいオレンジブラウンのロングパンツ。脱いだダークグレーのジャケットを片腕にかけ、ぱっと見たらイタリア人かと思うファッションだ。いつもは自然に流していたダークブロンドの髪も、今日は紳士っぽくスタイリングされていて、見た目は完全なビジネスマン。再度、他人の空似、そっくりさんかと思ったけど、でも、あのサングラスは、この間見たものと同じだった。

不思議なことにその時私はショックというより異様なほど冷静になっていた。
二人はエントランスの前で立ち止まって、ニッキーが一言、二言ベルボーイに何か言った後、また携帯で話をしている。連れの女性は退屈したようにニッキーの腕に両手を絡ませ、彼の左肩にあごを乗せてもたれかかっている。
あれは、どう見たって恋人。
見ているうちにどんどんと嫌な気分になってきて、このまま見ている意味もないし、気づかれないように帰ろうと、そっと彼らに背を向けるようにして街灯を離れ、逆方向へ歩きだした。歩き出してまもなく、私のバッグの中で携帯が振動し呼び出し音が聞こえてきたので、立ち止まってバッグに手を入れた。少し暗くなったせいで黒いバッグの中がよく見えず、音を頼りに手探りで携帯を探し出し、スクリーンを見る。
発信者名が「Nicky」と点滅していて、度肝を抜かれた。
えええっ?!
ニッキーって、さっき見たあっちにいる人?違うの?
あれはやっぱりそっくりさんなんだろうか?
確認しようとエントランスの方を振り返ると、その瞬間、文字通り心臓が止まるかと思う程驚く。
ほぼ同時に、あっちも、携帯を耳にあててこちらを振り返ったのだから。
私の携帯の呼び出し音があちらにも聞こえたのかもしれない。
3秒ほど、お互いを凝視していたと思う。彼は、携帯を耳にあてたままサングラスをはずしてこちらを見た。そして、携帯を持っていた手を下ろす。その途端、私の手にあった携帯の振動と呼び出し音がぴたりと止まった。
に……逃げ、逃げる?!?!
咄嗟に、猛スピードでダッシュした。
あれは、ニッキー本人!?!?!なんで今、電話?!?
わけのわからない状態に大パニックで、とにかく無我夢中で走った。
途中、歩行者や自転車にぶつかりそうになり、信号無視もして、右に左へと滅茶苦茶に走り続け、路地裏を右に曲がったところでついに足を止めた。
はぁはぁと前屈みになって荒い息を整え、少し落ち着いたところで身を起こすと、景色がゆらりと歪む。
お風呂上がりと同じ、立ち眩み。
血圧が急降下したときのあれだ。
目の前が真っ暗になり、このままガクンと下に崩れ落ちてしまう、と思った時、目の前に差し出された手が倒れかかる私を受け止めた。
血圧低下に伴う吐き気がしてそのまま身動きが出来ず、目を閉じて2分ほど頭を両手で抱えじっとする。
ようやく、吐き気が収まって視界も戻って来たら、支えてもらっているこの腕が、少し前に見たあの白いシャツのものだと気がつき、また一気に血の気が引いた。
ニッキー、私を追っかけて来たんだ……
「真っ青だ」
ニッキーが静かな声でそう言うと、ゆっくりと身を屈めて片膝をつき、心配そうな顔で私の顔を覗き込む。
「……血圧が下がっただけだから」
つい視線をそらし必死で絞り出した声は、さっきの暴走のせいか掠れていて、直後に数回咳き込んだ。
「アクション映画並みの逃走劇だった」
ニッキーはそう言いながら立ち上がり、しばらく黙って私が落ち着くのを待っていた。

パニックが収まってくると、今度は言いようの無い気まずさでいたたまれなくなる。
大体、自分でも逃げた意味がよくわからない。
普通に電話に応答するとか、挨拶するとか、他にも出来る行動があったのに。
ニッキーは片腕にかけていたジャケットを私の背中にかけると、ゆっくりと手を引いて路地裏から出た。
「こういう人気のないところは入ったらだめだ」
「……」
無言でただ歩く。
「何度も呼んだのに止まらなかった」
ニッキーはそう言うと、少し私を責めるような厳しい目でじっと見た。
いや、全然聞こえてないし。でも、もし聞こえてても、止まらなかったかな……
気が動転してとても普通の状態じゃなかった。
私は返答に困って沈黙を貫く。何を言えばいいのかわからない。
目の前を一組のカップルが通り過ぎた時、ニッキーと腕を組んでいた女の人のことを思い出した。
あの人は、どうしたんだろう?
そう思うと急に落ち着かなくなり、ちらりとニッキーを見上げた。
私の視線に気がついてニッキーが立ち止まって見下ろす。
「どうした?」
ニッキーはさっきよりは柔らかい表情をしていて、もう怒っているようには見えなかった。
「あの……お連れの人、怒らせてしまったんじゃないの?」
そう言った後、急にあの時の記憶が鮮明に戻って来る。
ホテルに戻って来たニッキーとあの女の人。やっぱり一緒に宿泊していたってことだよね?!?
恋人がいるなら、どうして私を連れ出したりこうやって追っかけて来たりするんだろう?
もしかして、やっぱり遊ばれてる?
いや、私は遊ぶ相手に選ばれるほどの美人でもないんだけれど。
頭の中でいろんな思惑がぐるぐると駆け巡る。
「あいつ?気にすることはない。ただの取引先の客だ」
さらりと答えたニッキーにびっくりして顔をあげた。
「パリから商談で来ていたから、ホテルまで送っただけのことだ」
「え、商談?」
そういえば、二人は外から帰って来た。
ニッキーも普段よりビジネスマンっぽい服装。
宿泊先に送り届けて、バイクで帰ろうとしていたってこと?
だから、ベルボーイがあのバイクを表に出していた?
言われてみればつじつまが合う。
けれど、ものすごくべったりしていたし、ただの取引先という感じではなかったような?
絶対、なにかある。ただの取引先の客じゃない。
私はきっと疑わしい目をしていたんだろう。ニッキーが少しだけきまり悪そうな顔をして、独り言のように言った。
「あの女とつきあったことはある」
「!」
やっぱり!やっぱりそうだったんだ!
思わず繋がれていた手を振りほどいてさっと後方へ後ずさった。
それを見たニッキーが驚いた顔で私を見る。
「カノン?」
「ニッキーって」
私の口は私の意思に反して勝手に喋りだした。
「ニッキーって、すごいプレイボーイだよね!女性の扱い上手そうだし。あっ、でも私はレディ扱いされるカテゴリにも入ってないけどっ」
言った直後に大きく後悔し、思わずぶいっと明後日のほうを向く。
まずい。すっごくひねくれたことを言ってしまった。
これじゃ、嫉妬していると自分で告白しているようなものじゃないか!!!
嫉妬?
私、嫉妬している?!
そう聞こえるよね、あんなこと言ったら!!!
あああ……穴があったら入りたい。
……誰か助けて……
恥ずかしさと自己嫌悪でうなだれる。もう走る気力もないし、逃げ場なんてない。
背後でニッキーがクスクスと静かに笑いを漏らす。
「本当に君には振り回されっぱなしだ」
「え、私?」
耳を疑う。私が振り回しているとはどういうことだ。
完全に逆じゃないか。
「何言っているの?振り回しているのはニッキーだと思うけど?」
そう反論すると、ニッキーが苦々しい笑みを浮かべる。
「あんな逃走劇を繰り広げた本人の口からよくそんなことが言えるものだ」
「それは、だって」
だって、なんだっていうんだ。なんて言うつもりなんだ、私は。
次に続ける言い訳が出てこなくて固まる。
「逃げたのは……俺が他の女を連れていたから?」
ド直球な質問に息が止まった。
肯定?
否定?
どうしたらいいんだろう?!
ニッキーは私を試すような目つきでじっと私の顔を見ている。その時、アナの言葉が頭に響いた。自分の気持ちは認めてあげなきゃ、と。
「……そう、かもしれない」
私の口から、ぽつりと言葉がこぼれた。
思わず手で口を押さえる。
今、何を言った?!私、なんて?!
さっきから自分の意思に反して、ぼろぼろと余計なことばかりが口から出て来るっ!
「カノン」
はっと見上げるとニッキーが私の右手を取り、ぎゅっと握りしめた。
この間見た時と同じ、透き通った奇麗な瞳が優しく見下ろしている。彼はゆっくりと私を引き寄せて両腕を私の背中へ回した。
大きな胸の中にすっぽりとくるまれて、心臓が止まるかと思うほど胸が苦しくなる。
彼は私の耳元に顔を寄せると、かすれるような優しい声で囁いた。
「俺はずっと君のことを考えていたよ」
ドキリとして息を飲む。
それって、どういう意味なの?
心の中でそう叫ぶ。でも言葉としては何故か出てこない。
こんな甘い言葉、今までも星の数ほど口にしてきたんじゃないの?
やっぱり、正真正銘のプレイボーイ?
やがて、ニッキーは私の肩に手を回し、そっと押す。特に逆らう気にもならず、促されるままに大通りを歩き始めた。
数分歩いたところで、ニッキーが立ち止まったので私も顔を上げてあたりを見渡すと、彼は格子が下ろされている靴屋さんを見ていた。
春物、夏物の靴が奇麗にディスプレイされていたので、私もちょっと気になってウインドウのほうを見た。
「生憎日曜日で閉まっている。残念だ」
「?」
買いたい靴でもあったんだろうか。そう思ってちらりとニッキーを見上げると、彼はずる賢そうな目で私を見下ろし、ウインドーに並ぶ美しいレディスの靴を指差した。
「これくらいのヒールを買えば、君はもう逃走出来ないだろう?」
「えっ」
そんな冗談には引っかからないとは思ったが、自分の履いているスニーカーを見て、あのホテルの前でニッキーと一緒に居た女の人が美しいハイヒールを履いていたことを思い出し、急にショックを受けた。
私ってレディとはほど遠い。最近はブーツやスニーカーばっかり履いてて、おばぁちゃんにも言われた通り、女性らしさに欠けている。
いや、女性らしく出来ないわけじゃない。私だってヒールくらい、履けるのに。
「……ヒールくらい、履くべきだよね……」
少し落ち込みながら言うと、ニッキーは私の足下を見下ろしてクスッと笑った。
「逃げ足が早いのは悪いことじゃない。このスニーカーだって君らしくて似合ってる」
あれっ、褒めてくれるんだ?
いや、それともある種の嫌味?
「でも」
でも、って?
びっくりして見上げると、彼は言葉を続けた。
「俺からまた逃走する気なら、今後はヒールを履いてもらう」
そう言って、いたずらっこのように目を開き、私の顔を覗き込んだ。
ドキンとして目を逸らした。
もう、どうしてこんなことを言うんだ!
やっぱり、プレイボーイじゃないか。
ドキマギしている私の反応に満足したらしいニッキーはまた私の肩を抱いて歩き出した。
「夕食は?まだ食べていないんだろう?」
「う……ん」
正直に頷くと、ニッキーが少し先のほうを指差した。
「そこで軽く食べよう」

私達が入ったのは、ちょっとファーストフードっぽいピザ屋さん。
目の前でどんどん焼かれて、お持ち帰りのお客さんがひっきりなしに出入りする。
表にベンチとテーブルが整然と並べられ、数組のイートイン客が食事をしていた。
ニッキーは私を連れて中に入り、焼きたてのピザが並ぶカウンターを見せ、どれがいいかと聞いた。
普通のイタリアンピザとは違うのか、生地の形が長方形。種類もあきらかにマルゲリータとか分かるものもあるけれど、イタリアンピザでは見かけないようなハーブが乗ったものなどもあって、少し迷う。
店主とスタッフがトルコ語を話しているのが聞こえたので、これが多分、トルコ風ピザなのかもと納得する。
数あるピザの中で、マッシュルームとローズマリーのピザが一番美味しそうに見えたので、私はそのピザを指差した。
ニッキーがマルゲリータと2色オリーブのピザ、そして私が選んだマッシュルーム&ローズマリーのピザを注文し、レジの隣にあった冷蔵庫から炭酸水を2本取り出した。
今更だが財布を取り出そうとバッグに手をかけたら、ニッキーがすぐに私の手を掴んで制止したので、素直にバッグから手を離した。
なんだかおごってもらうのが当たり前になっているようで、まずい気がするけど……
焼きたての湯気が立つ3枚のピザ。店主が清潔なビザカッターをリズミカルに往復させた後、湯気が立つそれらをカウンターに置いた。
表の空き席に座り、私達は一言も喋ることなくピザに手を伸ばす。
まず一番に、私が注文したマッシュルームとローズマリーのピザを一切れ食べてみる。
オーブンで乾燥したローズマリーが香ばしくてびっくり。
ピザにローズマリーのトッピング、最高!!!
美味しくて続けて同じものを食べ、それから2色オリーブのピザを取る。
向いに座るニッキーは、シャツのボタンを二つはずして、かなりリラックスした様子でピザを食べている。
こちらもずっと無言。
急におかしくなってきて、思わずうつむいて笑いをこらえてしまう。
「ん?」
気づいたニッキーが食べるのを止めてこちらを見たので、私は耐えられなくなって笑い出した。
「ふふふっ、なんだか、いっつも食べてるよね」
本当に、私達が会う時は食べてばっかりの気がする。
「それにしても、このピザ、大当たりだった」
私がローズマリーのピザを指差すと、ニッキーがにっと微笑んで、残っていた最後の1枚を取る。

食事が終ったのはもう夜の8時半と辺りはすっかり夜になっていた。
私がペーパープレートや空のボトルを捨てて戻って来ると、ニッキーが携帯を眺めていた。
仕事?いや、もしかしたらさっきの女性が怒って連絡してきたとか?
どちらにせよ、バイクを取りにホテルへ戻らないといけないはず。
なんとなく気まずくなって、私は自分のバッグを肩に掛けながら言った。
「あっちに駅が見えるから、私、行くね」
するとニッキーが顔をあげて大通りのほうへ目を向け、それから私を振り返った。
「アパートまで送って行きたいが、俺は予備のヘルメットを持っていないんだ。今、タクシーを呼んだ」
「タクシー?」
ニッキーが携帯を私に見せた。
スクリーンに映る地図の上をひとつの○印が動いている。
「今呼んだタクシーの居場所。もうすぐそこに着くはずだ」
そういって私の手を掴むと路肩のほうへ歩きだした。
「タクシーじゃなくて平気!電車で帰れたのに」
困惑してそう言うと、ニッキーが首を振った。
「今日はだめだ。タクシーで帰ってもらう」
すぐに、ウインカーを出してタクシーが路肩のほうへ停車した。
ニッキーが運転手に行き先を告げてお金を渡してしまった。
「ニッキー、あの」
それくらい私が自分で払うのに、と言おうとする間もなく、ニッキーは後部座席のドアを開け私を車内に押し込んだ。
本当に頑固というか、俺様というか……
でも、きっと走りすぎて倒れかけた私を心配してのことだろう。
やっぱり優しい人なんだ。
座席に腰を下ろし、ありがとう、と言おうとした時、身を屈めたニッキーがふわりと私を抱きしめた。
ドキリとしてまた言葉を失う。
大きな手のひらがするりと私の髪を撫で、見上げるとニッキーが何かを企んでいる様な、とても楽しそうな笑顔で私を見つめた。
「金曜日の夜、また会おう」
「金曜日?」
聞き返すと、ニッキーがくすっと笑う。
「ナイトクルージングに行く」
思い掛けない話に目を丸くしていると、彼がすっと顔を寄せて私の耳元でささやいた。
「食事ばかりじゃつまらないだろう?」
「えっ」
さっき、私が「いつも食べてる」って言ったから?!
バタン、と音がしてドアが閉まる。
すぐに発車したタクシーの窓から後方を見ると、片手を上げて私を見送るニッキーの姿が見えた。
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