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時空が重なる奇跡
天使、再び
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ピンポン、と小さなアラームが鳴ると、オランダ語、続けて英語の機内アナウンスが流れる。ややオランダ語訛りの機長の声も、今日は心なしか楽しげに弾んでいるようだ。
『We will be landing at Schipol Airport in about 20minutes. The local time is 16:30 in the afternoon. The latest weather information reports ....』
間も無くオランダの国際空港、スキポール空港に到着する。
小窓から外を覗くと、当機はすでに高度を落とし始めたらしく、私達は現在雲の中を飛んでいるようだ。時折透けて隙間の見える雲の割れ目を見下ろすと、遥か下方に地上が見え隠れする。もう陽が暮れ始め、薄暗い地上の高速を走る車のライトが流れる光の川のように見えた。
もう少しで着陸だ。
クリスマスイブの、オランダ。
ドキン、と心臓が大きく跳ねた気がして、思わず胸に両手をあてる。
今朝、ベルリンのアパートを出る前に、おばぁちゃんに出発前連絡の電話を入れたあたりから、どうしても胸の高鳴りが収まらない。カフェインを一切摂取していないにも関わらず、まるでエナジードリンクを大量に飲んだかと思うほどそわそわと落ち着かないのだ。
多分、私達の来訪を心待ちにしているおばぁちゃんの興奮が電話から伝わってきたせいもあるけれど、クラウスをおばあちゃんに紹介するという瞬間が目前に迫っているからだとわかっている。
もちろん、おばあちゃんは絶対に彼を気に入ってくれるだろう。
いや、多分、気に入りすぎるくらいに受け入れてくれる確信はあるけれど、今回、来年の2月半ばには、正式に2人で一緒に住み始める予定であることも伝える予定なので、そのあたりが1番緊張する理由だろう。
美妃にはすべて状況は知らせているけれど、日本の両親には、交際相手がいること、フリーランスビザで滞在延長を決めたことしか伝えておらず、同棲の許可は得ていない。言おうと思っていたけれど、結局今日この日に至るまで言い出せていない。
でも、おばあちゃんが賛成してくれたら、日本の両親が反対することは絶対にないのは確かなのだ。
文化的に開けたオランダに住んでいるおばあちゃんだから、同棲自体に反対することはないとは思う。でもやっぱり、実際にどんな反応をされるかは、その時になってみないとわからない。
美妃に不安を愚痴ると、彼女は明るく笑い飛ばした。
「やだー、心配するだけ無駄じゃん!だって反対されたって同棲するつもりでしょ?だったら悩む意味ないってば」
確かにその通りだけど、でもやっぱり、叱られながら同棲を決行するのは心地悪いものだろう。大体、1年で帰国し再就職する予定だった私が、ベルリン滞在を延長したことを伝えた時、両親は表だって反対こそしなかったものの、事後報告だったことをやんわり指摘されたし、それに30歳を過ぎたら日本での再就職が難しくなるのではと心配していた。
やれやれ、親の心子知らずとは言ったものだ、と呟いた父の声がまだ耳にこびり付いている。
本当にその通りだと思う。
ごめんなさい。
電話口で呟いた言葉をもう一度、心の中で繰り返す。
罪の意識を感じつつ、隣の彼に目を向けると、彼はちょうど、こちら側の窓を見ているところだった。目が合うと、彼が柔らかい笑みを浮かべ、少し身を乗り出して窓の外を覗く。
「カノン、恐らく今晩は雪が積もるだろう」
「ほんと?」
「摂氏2度を切ると雪になる可能性が高い。よく見てごらん、霧のような雪が降っている。明日の朝はあたりが白く染まるくらいは積もりそうだ」
窓の外をよく見てみると、確かにまるで霧のような白いものが窓ガラスの枠に貼り付いていた。二重ガラスの窓から伝わる冷気も確かに外の気温がかなり低いことを証明している。
首回りがぞくぞくして肩をすくめながらも、真っ白に染まるオランダの街並みを想像して笑顔になる。オランダにはいつも初夏に来ていたから、この国の冬景色は写真でしか見たことがない。きっと幻想的な冬景色になることだろう。
クラウスに促され、座席のリクライニングを定位置に戻し、シートベルトを締めた。
機体が下降している証拠に、耳が詰まるような感覚がする。隣のクラウスと目が合うとどちらからともなく手を伸ばしそっと繋ぐ。彼の大きくて頼もしい手にの温かさに包まれて、初めて手を繋いだ時のことを思い出した。タイ料理に行った帰りの、信号待ちの時。
気温が下がり、冷える夜だった。
彼は、行き先を示そうと前方を指した私の手を掴み、そのまま、繋いだ手を彼のパーカーのポケットに突っ込んだ。あの時の驚きと動揺は今でも鮮明に覚えている。
きっと、あれが恋に落ちた瞬間だったのだろう。
「何を考えている?」
はっとして隣を見上げると、美しいブルーグレーの瞳を煌めかせた彼が私の顔を覗き込んでいた。私の心の中を読もうと、真っ直ぐな視線を向ける彼に、少しだけ意地悪したくなる。
「ひ、み、つ」
ちょっとだけすました顔でそう答えると、彼は訝しげに眉を潜めた。
「カノン、クリスマス休暇の間は、仕事や学校のことを考えるのは禁止だ」
「え、クラウス、そんなこと言って、貴方こそ……」
いつも仕事してるじゃない、と言おうとして、ふと、今回のフライト中、彼は一度もラップトップや携帯などの電子機器を触っておらず、代わりに本を開いていたことに気づく。その事実に驚いて目を丸くした私。
彼は目を細めて優しく微笑んだ。
「この休暇中は、完全に仕事から離れることが出来るよう、全て手配済みだ」
バースからベルリンに戻って以来、昨日の夜遅くまで、彼が仕事で普段以上に忙しくしていたことを思い出す。このところ彼は毎晩、私が寝付いた後にベッドに来ていたから、きっと連日真夜中まで仕事をしていたに違いなかった。
あの尋常じゃない忙しさは、つまり、この休暇前に年内仕事を終わらせるだけではなく、彼が不在の間に何か緊急の問題が起きた場合でも、各地域の担当者だけでスムースに対応出来るように、体制を整えていたからだったというわけだろう。
基本的に仕事中毒の傾向にある彼が、私と過ごすために、仕事から完全に離れる時間を作ってくれる。その優しさと心遣いに感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。
愛しい彼の頰に手を伸ばし、そっと触れた。男らしくも美しいカーブを描く彼の頰は、温かくて少しざらざらとしている。このところ彼は無精髭を数ミリ伸ばしたままで、以前、定期的にすっきり剃っていた習慣を止めている。ともかく、男性らしい魅力に更に磨きがかかり、危険な色気が半端ないのだ。
だから私は、そんな彼の何気ない流し目を食らうだけでドキドキしてしまう。見慣れているはずの私でさえつい、うっとり見惚れてしまうのだから、初めて彼に会う人なんてその魅力に瞬殺されてしまうのではと心配になってしまう。
私を虜にする美しいブルーグレーの瞳。
絹のように柔らく波打つダークブロンドの髪を撫で、彼の頬にそっとキスをした。
彼の全てが愛おし過ぎて、胸が苦しい。
こんなに激しく彼に恋い焦がれていることが時々怖くなる。
もし、彼を失うなんてことが未来に起きた時、果たして私は生きていけるのだろうか。
愛を得ることは、同時に、その愛を失う恐れと戦い続けることだ。
こんな恐怖を常に抱えることになるのなら、いっそのこと、愛なんて知らなければよかったかもしれないと思ったこともある。
でも、愛を得た奇跡がもたらした幸福感は、愛を失う恐怖を超越するほど偉大なものだった。
「カノン」
耳元で彼が静かに囁いた。
「忘れられない休暇にしよう」
彼の言葉に私は大きく頷く。
情熱的な光を含む彼の美しい瞳を見つめた。
「あのね、ほんとはね……朝からずっと、貴方のことしか考えてないの」
そっと打ち明けると彼は目を見開き、そして照れたように目元を染め微笑んだ。
「いい子だ。それでいい」
彼は満足気にそう呟くと、繋いだ手を引き寄せ私の手の甲にそっとキスを落とす。
私だけの、愛しい王子様。
通りかかったキャビンクルーが私達を見て、にっこりと微笑む。
私はくすぐったい気持ちを隠そうと彼の肩に顔を埋めながら、この幸せが永遠に続くことを強く願うのだった。
スキポール空港に着陸した時、もうあたりは夜の暗闇に包まれ、点滅する管制塔や発着陸する飛行機の明かりで、まるで空港全体がクリスマスのイルミネーションのようだった。
私が日本で教会に通っていたのは小学生のころまでだったので、敬虔なクリスチャンとまでは言えないけれど、もともとプロテスタント系キリスト教の家系だったことから、毎年この時期のなるといつも、滅多に読まない聖書を開いたりして、厳粛な気持ちになっていた。
普段自分と自分の周りのことしか見ていなかったのに、広い世界に思いを馳せるようになる。
日々の忙しさにかまけてつい頭の隅へ追いやってしまう国際ニュースや時事問題。
世界で起きている紛争や、貧しい国で続く深刻な貧困に病など、平和で何不自由ない生活を送っている自分が忘れがちになることを思い出す。自分が幸せに過ごしているこの瞬間、世界のどこかには苦しみと悲しみに囚われている人々がたくさん存在するのだ。
この、理不尽で不公平な世の中。
恵まれた日々を与えられていることを神に深く感謝し、世界のどこかで絶え間なく流される血と涙を拭うために、何か自分に出来ることはないかと思う。
遥か遠くの地に目を向けるその前に、まずは身近な問題に取り組むべきだ。街のあちこちで見かけるジプシー、ホームレスや、平和の地を求めて命がけで欧州へ渡ってきた移民達……私でもきっと、少しくらいは助けになれるはずだ。
いや、助けたいなんて表現は不適切。
彼等に対して失礼だ。
押し付けがましいにもほどがある。
まるで上から目線じゃないか。
自分の身をわきまえ、こんな私でもせめて、役に立つ努力をさせてもらいたいというのが妥当だ。
「ねぇ、クラウス?」
機体が滑走路からゲートへ向けてゆっくり移動する中、本をバッグに片付けている彼に話しかけた。
「来年から、私、なにか具体的に社会貢献したいと思うの」
「社会貢献?」
興味深げに彼がその言葉を繰り返した。
「今年は私、自分のことだけで精一杯だった。貴方に出会って今は、夢のように幸せな毎日を過ごしてて……周りには、お水一杯、パンのひとつもないような生活を強いられている人がいること、知っていながら何もしなかった。たまに小銭を寄付したりはしてたけど、それはその一瞬だけの、自己満足のための行いに過ぎないし……こんなの、ただの偽善者だよね」
そう言いかけて、私は自分に何が出来るだろうと考える。
今私が自信を持って言える、「具体的に出来ること」は、取材して記事にすることぐらいだ。それもとても、世論に影響を与えるジャーナリストというレベルではない。珍しくもない、せいぜい現地レポーターという立場だろう。
残念ながら抜きん出た才能らしきものはないと再認識して、がっかりする。
アダムやマリアはアートを使い難民支援を行なっているし、アナは音楽を通してチャリティ活動をしているし、ヨナスだってアンティークの家具の修理や塗装で特殊な技術を必要としない作業の一部を失業者や言葉の通じない移民の人々に委託し、また、希望者には無償で技術取得の訓練コースを提供している。
一体この私に何が出来るのだろう。
気持ちとヤル気だけではなにも実現出来ない。
凡人の私が、具体的に何を出来るか……まずは、そこから考えなくては。
思わず腕組みをして考え込んでいると、彼がクスクスと笑いながら私の頭を撫でた。
「今回はどうやら君に先を越されたようだ」
「?」
何のことだかさっぱり分からず首を傾げて彼を見上げた。
「実は君に協力を頼もうと思っていたプロジェクトがあって、年明けに話そうと思っていた」
「プロジェクト?どんなプロジェクトなの?」
「来年からは利益の一部を寄付に充てることを検討していて、その方法について君にも意見を聞こうと思っていたんだ。例えば、マネジメントしているカフェやレストランのメニューの一部を、価格の数%は寄付金として扱うことにするとか、アパレル店舗のほうでは、シーズンを過ぎた新品の衣料を実費で買い上げて寄付するとか、様々なアイデアが欲しい。プロジェクトの概要が決まれば、ビジュアルはアダムやマリアに協力してもらい、君にプロジェクトをアナウンスするリリース記事を書いもらうのはどうだろう。記事を関連店舗の公式サイトで公開したり、業界紙や地域誌に掲載して広めて行きたいと思っている。マネジメントしている店舗との交渉は俺やアカウントマネージャーの担当だ。君さえ興味があるのなら、プロジェクトローンチのスタートアップメンバーになってもらおうと考えていた」
思いがけない話に半ば呆然としながら聞いていたが、彼の言葉が切れるなり、私は考えるより早く即答していた。
「もちろん!ぜひ、参加させて!経験値低くて迷惑かけちゃうかもだけど、一生懸命やるから、お願いします!」
彼の手を両手で握り締め、つい勢いにのって頭を下げたら、クラウスが噴き出した。
「君が日本人だってこと、いつも忘れがちだが、こういう時の君はやはり日本人っぽい」
頭を下げてお願いしますと言ったことが典型的な日本人の動作だったことに気がつき照れて笑うと、クラウスはにっこり微笑んだ。
「経験値が低くて迷惑をかけるなんて、自分を過少評価することはない。君には他の誰にも負けない情熱があるし、人一倍努力家だっていうことは俺が良く知っている。実際のところ、君が執筆している記事が好評だから担当ページ数も増えているのだし、事実、他の出版社からも執筆依頼の問い合わせが来ているんだ。残念ながら俺は日本語の記事は読めないが、きっと君の書く文章には、君の気持ちや情熱がこもっていて、読者を惹きつける魅力があるはずだ」
かなり贔屓目に見てくれているとはいえ、誰でもない彼からの褒め言葉と励ましが嬉しくて、頰が熱くなる気がした。
満面の笑みを浮かべた私に彼は楽しげに微笑みかけ、いつものようにウインクする。
「来年のプロジェクトについては分からないことは俺がサポートしていくから、君らしくいつも通りに頑張ってくれたらいい」
「ありがとう……クラウス、ほんとに、ありがとう!」
他に言葉が見つからず、繰り返しお礼を言いながら、新しいプロジェクトの構想に気持ちが向いていく。スパルタ上司のクラウスの管理下での仕事は緊張するが、彼のサポートがあれば絶対に成功させることが出来るだろう。
あぁ本当に、私臨む未来の先にはいつもクラウスが居る。
彼の側にいてやっと一人前になれるような、まだまだ未熟な自分を反省しつつ、いつも助けの手を差し伸べてくれる頼もしい彼の存在に深く感謝した。
「オフィスの奴らも君が来ると喜んでいるし、君が使えるワークステーションの準備やらは年明けに整えよう。それから、プロジェクトの進み具合を見て、お茶屋のほうはそろそろ辞めることも考えたらどうだ?時間には限りがあるし、君が体調を崩すようなことになってはならない」
「うん……そうだね」
クラウスの助言はもっともだ。私もいずれは辞めることも考えていないわけではなかった。それに、エミールに日本語を教えはじめてから、私がお茶屋のバイトに行くことを彼はあまり喜んでいなかったし……でも、お世話になっているオーナーや、私に会いに来てくれるお得意さん、毎週のようにメールや電話で話す日本の取引先の方々を思うと、無責任な辞め方だけはしたくない。
「心配してくれてありがとう。でも、とりあえず様子を見てみるよ。ドイツ語の検定試験が終われば、語学学校に行かなくていいようになるし、それにまだしばらくは、お茶の勉強もしたい」
曖昧な返事をすると、クラウスはやや不満げに眉をひそめたが、やがて、諦めたように小さくため息をつく。そして、ふと思い出したように言う。
「そういえば、アルバートが、年明けから金曜日はベーキング・デーになったと周りに触れ回っていたようだが」
「あ、そうそう、オフィスのクリスマスパーティーの時にそんな話になって」
クラウスに報告するのを忘れていた。
オフィスのクリスマスパーティー用に、ケータリングの食事や飲み物の手配を手伝って、デザートは自分で作って持って行ったのだ。
日持ちのする、胡桃キャロットケーキ、バナナブレッド、ブラウニー、オレンジチーズケーキの4種類をパーティーの前日から焼いて、当日の朝には、バニラプディングのチェリーソース添えを大きなガラス容器で作った。足りないより余るほうがいいだろうと、かなりの量を提供したつもりだったのだが、これが嬉しいことに好評で、社員の家族やパートナー、友人達も招待されていたこともあり、最終的に一切れも残らなかった。
オフィスのスタッフで一番の甘党を自負するイタリア人、アルバートが、オフィスの立地は最高だし、カフェ並みのイタリア製エスプレッソマシン、毎朝届けられる新鮮な果物の山も嬉しいけれど、焼き菓子類がないことだけが残念だとぼやいていた。クラウスが、スタッフの健康面を配慮して、意図的にケーキやクッキー類はオフィスに常備しないよう取り決めたのは聞いていた。甘党のヨナスとかなり揉めたらしいが、マリアがヨナスを一喝したため、結果、無料提供するのは果物だけになったとか。
アルバートが、ケーキを買えるカフェまで数分歩かないとならないから面倒で、甘いものが食べたくなっても我慢している時があるとボヤくので、こういうのでよければ、時々焼いて持って行こうかと提案したところ、いつの間にか毎週金曜日に2種類くらい届けることに同意してしまっていた。
「ケーキ専門店みたいな凝ったものは作れないけど、家で簡単に焼けるケーキとかマフィンでも喜んでもらえるなら、たまには持って行こうかなと思って。それに、私達2人だけのために大きなケーキを焼く機会は滅多にないし、オフィスのみんなが味見してくれるなら、新しいレシピにチャレンジする楽しみにもなるから」
今度は是非、抹茶や、小豆を使った和スイーツものとか、ヴィーガンやグルテンフリーのレシピにもチャレンジしてみたい。
「クラウスに許可もらうのすっかり忘れて、勝手に約束しちゃってごめんね。でも、出来るだけ材料に気をつけて、健康的なものを作るようにするから、いい?」
両手を合わせてお願いすると、クラウスはオーケー、と笑って頷いた。
「マリアがね、ドーナツを食べたいっていうから、今度、一緒に作る予定なの。ダイエット向けの揚げずに焼くドーナツ。ベーキングパウダーを使わない、天然酵母の生地で。そうだ、クラウスが食べたいケーキがあったら、教えて」
彼がチョコレートやアイスクリームが好きでたまに口にするのは知っているけれど、筋金入りの甘党ヨナスと違って、ケーキ類を食べているのはあまり見たことがなかった。彼が好きなケーキは絶対に上手に焼けるようになりたい。
一体どんなケーキが好きなんだろう?
ティラミス?
フォンダンショコラかな?
興味津々でじっと彼を見つめて答えを待つ。クラウスは、まるで重大な秘密を明かすかのように低い声で囁いた。
「Schwarzwälder Kirschtorte」
シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ。
ドイツの伝統的な、黒い森のチェリーケーキ。
確か、フライブルク地方のケーキだったはずだ。
そう言えば私はまだ、食べたことがない。
チョコレートのスポンジに、生クリームとチェリーのフィリングが特徴のケーキだとは知っている。
チェリー酒も使われていて大人の味がするケーキだと思う。
ベルリンのどこかのケーキ専門店で見たはずけれど、それがどこだったかは思い出せない……
「わかった!教えてくれてありがとう。シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ、絶対に上手に焼けるようになってみせるからね」
両手で拳をつくり、ぎゅっと握りしめる。
固い決意とともにクラウスを見上げると、彼は優しい微笑みを浮かべて私の額に小さなキスを落としてくれた。
飛行機が完全に停止してシートベルトサインが消えると、一斉に乗客が立ち上がり始めた。
ザワつき始めた機内。
「さぁ、行こう」
彼が差し伸べてくれた手を取り立ち上がった。
私を進むべき未来へと導いてくれるこの大きな温かい手。
私は永遠に、この愛しい手を離したりはしないだろう。
スキポール空港も至るところがクリスマスのデコレーションで溢れ、ショップからはクリスマス音楽が流れている。駐車場への長い通路の途中にあるベンチの側にもクリスマスツリーが飾ってあった。空港の至る所で、カートにスーツケースやクリスマスプレゼントを乗せて集まっている家族連れを見かける。それはとても楽しげで微笑ましい光景だった。
空港内とはいえ、駐車場へ降りるエレベーター内はすでに冷凍庫のような寒さで、ウールのストールをしっかりと巻きなおした。
クラウスによると、もともとオランダには現地採用のアカウントマネージャーがいたため、彼がここへ来ることは滅多になく、その為、他の主要都市の空港とは違い、この空港の駐車場には出張時に使う車を置いていないそうだ。
今回、彼はレンタカーの手配をしていた。アントワープに小旅行するにも、車での移動が楽だからとのこと。
ずっと彼に運転手をさせることが申し訳なくて、電車での移動がいいのではないかと提案したけれど、寒い駅で私を立たせ電車待ちをさせたくないし、運転は全然苦にならないと彼が言うので、結局彼の言葉に甘えてしまった感じだ。
リースしていたのは、彼がベルリンで乗っているベンツと同じ車種だが、カラーがブラック。
トランクに彼がスーツケースを積む間に私がカートをカート置場へ戻しに行く。たったそれだけで剥き出しの手がかじかむくらいの気温だ。当然、吐く息も白い。
車へ戻って来ると、彼が助手席のドアを開けてくれた。
お礼を述べて車内に入ると、すでにエンジンがついて暖房が入っていた。こういった心遣いが本当に細かくて、彼の優しさに胸がじんとする。
運転席に乗り込んで来た彼を見上げて、再度お礼を言おうとしたら、彼がすっと身を屈めてキスをした。不意打ちにドキンと胸が弾み、反射的に彼の腕を掴みきゅっと目を閉じた。
朝からバタバタしていたから、今日初めてのキスだった。優しいけれど情熱的な彼のキスに翻弄され、私の意識の全てが彼に魅了されていく。彼の愛を受け止め、自分の愛も同じように伝えたくて、無意識に両腕を彼の首に巻きつけた。
愛してる。
熱にうかされるようにお互いを求めあい、すっかり夢心地になった時、ようやく彼が私を解放した。彼の熱い唇が離れて、濡れた唇に感じたのはまだ少し冷んやりした空気。
私の胸の高鳴りはそう簡単にはおさまらなさそうだ。
熱で潤んだ目で彼を見つめる。
満足気に私の様子を見ている彼の瞳は落ち着いていて、余裕たっぷりに見えた。
「私ばっかりこんなにドキドキさせられて……」
独り言のように呟くと、彼が面白そうに瞬きをして私の顔を覗き込んだ。
「なにを言っているんだ。君がそんな目で俺を煽るからだろう」
「もう!そんなことを言ってるけど、貴方はまた、私が動揺しているのを見て愉しんでるでしょ」
普段からこういうイタズラ好きな彼に、いい加減慣れない自分も情けないのだけど、ドキマギしている自分とは対照的に余裕たっぷりな彼が恨めしい。
未熟な己がいつまでも成長しないせいだと分かっているものの、八つ当たり的な非難の気持ちを込めて彼を睨んでみた。
いつか絶対に私が彼を動揺させてみせるから。
今はこんなにドキドキさせられてしまっているけれど……
彼がそっと手を伸ばし温かな指で私の首筋に触れた。思わずビクッと首をすくめた私の耳元に唇を寄せて囁く。
「可愛い俺のカノン」
私の全身を包み込むような甘美な響き。
突然、シートのリクライニングが倒れ始め、彼が私の首筋に顔を埋めた。
「……っ!」
驚きで心臓がドッキンと、すごい音をたてて跳ねた。
彼にリベンジなんて到底無理!
慌てる私に覆いかぶさってくる彼の肩を掴む。
「あ、ま、待って……!」
頰が燃えるように熱くなる。
更に追い討ちをかけるように彼は私の首に唇を寄せた。
首筋を伝う熱い唇とくすぐったい息遣いに、鳥肌が立つ。
「カノン……今すぐ、君が欲しい」
「ク、クラウス!」
咄嗟に彼の口を手で塞いだ。
それ以上聞くと正気を保てなくなる!
口を塞がれた彼を見上げると、その目は楽しそうに笑っていた。
あぁ、完敗だ。
クラウスにまた、してやられた。
からかわれていると分かっていたはずなのに!
悔しさより、ここまで動揺してしまう自分が滑稽ですっかり可笑しくなってしまい、思わず吹きだしたら、彼も同じように肩を揺らして笑い出す。
この迫真のラブシーン、クラウスが俳優顔負けの演技力を持っていることを証明したようなものだ。
シートのリクライニングをもとに戻して、私はひとつ、大きな深呼吸をする。
「あぁ、ほんとにドキドキさせられちゃった……」
笑いが落ち着いた彼は両手をハンドルに伸ばしながら、ちらりと挑戦的な視線を寄越す。
「この車がもう少し人気のないところにあれば躊躇しなかったのに、とても残念だ」
冗談ともつかない声音に目を丸くしていると、呆気にとられた私を見て彼はクスクスと笑いつつ車を発進させた。
どこまで本気にしていいのやら、見当もつかない。
何事もなかったかのように落ち着き払い、堂々と車を走らせる生粋の紳士が隣にいる。淡い微笑みを浮かべた口元も、大人の余裕たっぷり。
こういう時、これまで多くの女性と恋愛してきたであろう彼の過去を想像して、やりきれない切なさに胸が痛くなる。本人は断固否定するけれど、天性のプレイボーイ気質持ちの彼のことだ、きっと数えきれないほどのロマンティックな場面を経験しているに違いない。
こんな風に、誰かと車内でキスしたりしたことなんて、いくらでもあるだろう。
それもきっと、とても魅力的な大人の女性と……
これ以上想像しちゃダメだと、慌てて脳裏に浮かぶ画像を掻き消す。
いつになったら、過去の彼に嫉妬しなくなるんだろう!
未だに彼の過去に嫉妬する醜い自分が嫌で堪らない。
結局のところ、自分に自信がないから卑屈になるのだ。
自分に自信が持てるよう、努力するしか解決の道はない。
彼に釣り合うような女性になる。
とてつもない大きな目標だ。
果たして生きてる間に達成出来るのかさえ怪しい。
そんなことを真剣に考えつつ、じっと彼の涼しげな横顔を見つめていると、車線変更の合間に彼がちらりとこちらに流し目を寄越す。
「どうした?何か聞きたいことでも?」
「……ううん、何も。運転、有難う」
邪念を振り切るべく努めて明るく答えると、彼は、粉雪が吹き付ける前方を見つめながらふと思い出したかのように聞く。
「今の時間は?」
車の時計を見る。
「17時15分」
この調子なら、18時にはおばあちゃん宅には到着しそうだ。粉雪が降っているとはいえ、道路も溶けた粉雪で濡れている程度で今の所積もるほどではない。この様子なら、渋滞に巻き込まれることもないだろう。
少し考えるような様子で黙っていたクラウスが、ふと、前方を睨むように目を細めた。
「少しだけ寄り道していこう」
「寄り道?」
「通り道に見たいところがある」
「うん、分かった。おばあちゃんに連絡しておこうか?」
「そうだな、夕食の準備をしてくれているだろうから……19時くらいには着くと連絡しておいてくれ」
「オッケー」
私はバッグの中から携帯を出し、おばあちゃんにSMSを送っておく。きっと今頃、キッチンで1人、大忙しの真っ只中だろう。想像するに、今朝からずっと、友人達から電話がかかってきたり、近所の人が訪れたりと、なんだかんだと中断を余儀なくされながら今晩の準備をしているに違いない。おばあちゃんの家にいる時はいつも、そんな感じだ。外から帰宅したら、必ず留守電に1、2件はメッセージが入っていたし。おばあちゃんは友達が多くて人気者だ。
携帯をバッグに戻した後、代わりに私は小さな小箱を取り出して、そっと手の中を覗き込んだ。おじいちゃんがくれた古いマッチ箱。中をスライドさせると、コットンの上に横たわる、ギュンター・ライヒェルのエンジェルがこちらを見上げている。
ベルリンを出る時にふと思いついて、持ってきたのだ。
これまでいつもクリスマスに毎年飾っていたエンジェルだから、今年も離れたくなくて、オランダにまで持ってきた。おばあちゃんのクリスマスツリーに飾らせてもらって、また、ベルリンに持って帰ればいい。
今年はこれまでの人生の中で最も大きな変化があった年。毎年のように、その年に起きた出来事をエンジェルと一緒にに振り返り、新しい年への願いや想いを共有したかった。可愛らしい表情のエンジェルに自然と頰が緩み、幸せな気持ちが胸いっぱいに広がるのを感じる。
そっとマッチ箱をバッグに戻し、ふぅとため息をついて顔をあげると、吹き付ける粉雪がヘッドライトに照らされて、どことなく非現実的な空想の世界を走っているような感覚に陥る。そういえば、いつもは車内には必ずなにか音楽が流れているのだが、今日はなにもついていないことに気がついた。レンタカーに乗っているせいもあるだろう。
静かな暖房の音くらいしか聞こえない。
でも、この静かな空間はとても心地よくて、わざわざラジオ音楽をつけようとも思わなかった。
既に暗闇に包まれた景色を眺めていて、車が海の近くを走っていることに気がついた。やがて、高速を降りると、明かりの灯る住宅街を通り抜け、どこかで見たような広々とした丘が遠くに見えてくる。粉雪で雪化粧しはじめた丘や木が、ぼんやりと霞む街灯の灯りに照らされてあたりはメルヘンチックな街並みに変わりはじめていた。
「あ……」
見覚えのある教会の横の交差点を曲がり、雪ゾリを引っ張り出して騒ぐ子供達がいる住宅街を通り抜けると、急にまた、景色が開けてきた。この広い丘には記憶がある。
「もしかして……」
びっくりしてクラウスを見ると、彼がちらりとこちらを向き、いたずらっ子のようにウインクした。
「私達、La Galleria Nordwijkに行くの?!」
思わず彼の腕に触れてそう聞くと、彼はクスッと笑って頷いた。
「君の写真を見に行こう」
オランダ王室の親戚がオープンさせた海辺のカフェ・レストラン。マリアが撮った私の写真が飾ってあるところだ。夏におばあちゃんとフーゴと訪れ、海の見える窓際に飾ってあるあの写真に気がついて驚いた時の興奮が蘇る。
あの写真を見たクラウスが、一目で気に入って、著作権ごと買い取り、私がマリアとヨナスに出会ったこの海辺のレストランに飾ったと知った時の驚きも思い出した。
「見に行くチャンスを逃し続けていたが、ようやくその日が来た」
独り言のようにそう呟いたクラウスを見て、ふと重要なことを思い出した。
「ね、でも、今日はもう閉まっているんじゃないの?今日はクリスマスイブだし……ベルリンでは、24日は午後からお店は全部閉まるって聞いたよ?」
せっかく素敵な寄り道だと思ったけれど、祝祭日でも殆どどこでも営業している日本とは違い、ヨーロッパではきっちり休むのが常識らしい。恐らく、祝日営業は法律でも規制がされているのではないだろうか。
心配になって落ち着かず、思わず身を乗り出して前方を見ようとしたら、クラウスがそっと片手を私の膝に乗せて笑った。
「カノン、君はこの俺がそんなヘマをすると思う?」
どういうことだと思って彼を見ると、クスクス笑いながらハンドルを切り、慣れた様子で交差点を曲がる。
「閉まっているのは分かっているから、オーナーに連絡して、この時間帯だけ特別に開けてもらっている」
「えっ」
驚いて思わず声をあげた。
さすがというか、当然というか。
私みたいな凡人が考えつくことのずっと先を読む頭脳と行動力の人だったことを再認識する。
それにしてもいつの間にそんな連絡入れてたんだろう?
もしかして、空港で私がLeonidasのチョコレート屋を覗いていた時?でも、そんなの、立ち止まって少し眺めただけだから、ものの1、2分。それ以外の時間は、今朝からずっと一緒だったはずだ。
まるで狐につままれたような気持ちになりながら、彼に尊敬の眼差しを向けると、彼はちらりとこちらを見て、何かを確かめるように注意深く私を眺めた。
「……なに?どこか変かな?」
どこか変だろうかと気になって聞くと、彼は小さく笑って首を振った。
「いや。海辺はさすがに凍えると思うが、大丈夫そうだな」
「うん、しっかり防寒してるよ」
おばあちゃん宅に着いたら、ディナーの前にはきちんとドレスアップしようと思っていたから、移動中は防寒と動きやすさ重視。温かいウール生地のオレンジブラウンのパンツに、チョコレートブラウンのロングブーツ。オフホワイトのロールネックセーターに、オリーブグリーンのロングコート。チョコレートブラウンのストールも厚めのウールだ。
彼も今日はカジュアルな装い。スリムなブラックのパンツに、光沢のある同じくブラックのショートブーツ。ワインレッドのエレガントなセーターが彼の大人っぽい色気を引き立てて、思わずうっとりと見とれてしまう。彼はスリムなブラックのロングコートを着ていたけれど、運転時はコートやジャケット類を脱ぐ人なので、いつものように後部座席に置いてある。
やがて、車のヘッドライトの明かりの先しか見えない冬の海辺に到着。車が2台しか停まっていない、だだっ広い駐車場に車を停めた。
車外に出ると、海から吹き付けてくる風と粉雪の冷たさに思わず身震いしたけれど、あたり一面が既に銀世界になっていて、その美しい景色に感嘆のため息をこぼす。
クラウスはコートの襟元をかき合わせると、私の手を取り先を歩き始めた。前から粉雪が吹き付けてくるので、まともに目を開けていられないけれど、大柄な彼に手を引かれて少し後ろを歩けば安心だ。
「カノン、滑りやすいから気をつけて」
一度彼が振り返ってそう念を押す。
顔に吹き付ける風で声が出ないので、返事の代わりに彼の手をぎゅっと握り返した。
粉雪でやや滑りやすくなっているウッドデッキの道をゆっくり歩く。
頰に当たる粉雪がチクチク刺すようだ。
口元をストールで覆い、目を細めて前方を見る。
舞い上がる粉雪で白くぼやける視界の先に、明かりの付いたLa Galleria Nordwijkが見えてきた。夏に見た華やかさとは印象が違い、真っ白に雪化粧した砂浜の上に佇むその建物はとても幻想的だった。
海辺のレストランの多くは夏季営業のみだが、観光地では一部のレストランは冬季も開いている。でも、この海辺はそれほどメジャーな観光地ではないから、多分、冬季に営業しているのはこのLa Galleria Nordwijkを含めても数えるほどではないだろうか。
入り口まで来ると、まるで待っていたかのように直ぐにドアが開いて、ウェイトレスが出迎えてくれた。
中は春のようにポカポカと温かい。
暖色系のキャンドル型ランプが点いた絢爛豪華なシャンデリアの美しさに溜息をつく。私達以外は誰もいないのに、すべてのテーブルにはキャンドルが灯されている。中央には一際目立つ大きなクリスマスツリー。ホワイトとゴールド、シルバーのオーナメントで飾り付けられた見上げるほど大きなそのもみの木は、それはそれは存在感のある豪華なツリーだった。
耳を澄ませば聴こえるくらいの音量で流れるクリスマスジャズ。
こんなロマンチックな空間を二人で独占出来るなんて……
ドキドキしながら周りを見渡すと、視線の先に暖炉の火が見えて、思わず笑顔になる。
ゆらゆらと燃える暖炉の火を見つめながらコートを脱ぐと、クラウスがまとめてウェイトレスに渡してくれた。ほんの少し外を歩いただけなのにすっかり冷えてしまった指先を温めようと、暖炉に近づいて、ちょうどその暖炉の隣が私の写真を飾ってある窓辺であることに気がついた。
夏以来に見る私の写真。
一瞬にして、この写真を撮ってもらった時のことが脳裏に蘇った。
夕暮れに染まり始めていた海辺の空の下。
マリアの情熱的なスカウトを断り切れず、美妃にからかいの視線を浴びせられつつ、恥ずかしさを堪えてヨナスと一緒に被写体になったあの時。
失恋したばかりで、未来なんて描くこともできなかった当時の自分が写っている。
セピアカラーに変換されているその写真の中、大きく見開いている私の目は、オレンジ色に強く輝いている。荒々しく挑戦的な、眩い炎のようだ。その視線は何かを追い求めるようにまっすぐにこちらを見つめている。
まさかの「カニ」の一言に驚いた時の表情がこれだなんて。
マリアの腕のなせる魔法としか説明が出来ない。
それでも、あの時の私の不安な気持ち、抱えていた悲しみと、希望や夢を追い求めたいという情熱がこの目に宿っているのは確かだろう。
時折、パチパチと火花が散る薪の音が暖炉から聞こえてくる。
カタン、と足音が聞こえ、いつの間にか隣に立っているクラウスに気がついた。優しい微笑みを浮かべた彼はそっと私の肩を抱き寄せると、目の前の写真を見つめながら呟いた。
「この写真をマリアが見せてくれた時、俺は一瞬にして君の視線に捕らわれ、時さえも忘れたように長い間動けなかった。まるで、ずっと探していた宝物を見つけたような、そんな気持ちになったんだ」
クラウスはじっと私の目を覗き込むと、嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「カノン、暖炉の炎に照らされた君の瞳は、今もまるで夕陽のように眩しく輝いている」
優しく囁く彼の瞳も、暖炉の炎が映り込んで星のようにキラキラと瞬いていた。
「写真の中の君でなく、生身の君をこうして現実にこの腕に抱くことが出来て、本当に幸せだ」
私の存在を確かめるように、しっかりと抱きしめてくれる彼。
「クラウス……」
こんな風に気持ちを言葉にしてくれる彼への感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、何か言おうとしたけれどうまく表現出来ず、代わりに思い切りの笑顔で彼を見つめた。
私も、こんなに幸せだ。怖いくらいに。
笑顔で見つめあっていると、ふと緩やかな風が私達の間をすり抜けた。少しだけ潮の香りがする、初夏の夕暮れに吹く海風を思い出す。
真冬の室内なのにと不思議に思いながら、なんとなく辺りを見渡してみる。
「ゾマーフェルド様」
ウェイトレスに声をかけられてふと我にかえる。
ホワイトとブラックのタキシードのようなユニフォームを着たウェイトレスが、シルバーのトレイを持って、にっこりと輝くような笑顔を見せてくれた。
クラウスに促されて暖炉前の心地よいソファに腰を下ろす。夏に来た時は真っ白な麻の生地のソファだったけれど、今は光沢のあるベルベット生地に代えられている。まるで純白のゲレンデのように滑らかな手触りだ。
ガラスのローテーブルの上に、ウェイトレスが飲み物の準備をしてくれる。彼の前にはエスプレッソ、そしてキラキラと照明に反射して輝くクリスタルグラスと、ミネラルウォーターのボトル。ウェイトレスは、湯気の立つ、熱々のホットミルクが注がれたガラスのカップをそっと私の前に置いてくれた。
「こちらが、今晩のホットチョコレートです」
彼女がミルクの隣に置いたシルバーの小さなカゴ。のりのきいた純白のクロスが敷かれ、その上にコロンとひとつ、チョコレートエッグが転がっていた。
「わぁ、綺麗!」
ピカピカと光沢が艶やかなダークチョコレートの卵。一面に散りばめられた、ホワイトチョコレートで描かれた大小の雪の結晶。その中央に、大きな美しい羽を持った一際美しい天使が、胸に金色の光を抱く姿がある。細部まで正確に描かれた繊細で美しい絵柄に、感嘆のため息が溢れる。
チョコレートエッグに繋がっている金糸を指でつまみ、注意深くその重みのあるチョコレートエッグを持ち上げてじっと見つめる。
なんて綺麗なチョコレート細工なんだろう。
これは、一流のチョコレート職人が手掛けた一品に違いない。
いや、一品ではなく、これはもう芸術品だ。
あまりの素晴らしさに感動していると、ウェイトレスがにこにこと微笑みながら、湯気のあがるミルクの入ったグラスを勧めた。
「その卵をこちらのミルクに浸してくださいね」
「え……でも、こんな綺麗な卵を溶かすなんて……」
私はこんな美しいチョコレートエッグを溶かすなんてあり得ない、と躊躇した。
このまま持って帰って、おばあちゃんにも見せてあげたい。
「あの、ホットミルクをこのまま頂いて、チョコレートを持って帰ることは出来ませんか……?」
なんとかならないかという思いでそうお願いしてみたが、ウェイトレスはにっこりと微笑みながらも首を横にふる。
困ったと思い隣のクラウスに助けを求めようと目を向けたが、彼はただ、静かに微笑み返すだけだ。
諦めきれずに金色の糸にぶら下がる美しいチョコレートエッグを見つめていると、ウェイトレスがクラウスに声をかけた。
「もしよろしかったら、写真を撮りましょうか?」
あ、それはいいアイデアだ。
このまま溶かして2度と見ることが出来ないより、写真を撮ってもらったほうがいい。
私が笑顔で頷くと、クラウスが携帯をウェイトレスに渡してくれた。
彼女は、真っ白なクロスの上に置いたチョコレートエッグの写真と、私が金糸を持って、それを恐る恐る湯気の立つホットミルクの中へ沈め始める瞬間の写真を撮ってくれた。
ゆっくりと純白の海に沈み、ついにその姿を消してしまったチョコレートエッグ。
あぁ、溶け始めてしまった!
思わずため息をつく。
「では、ごゆっくりお寛ぎください」
ウェイトレスはにっこりと素敵な微笑みを浮かべ、足音も静かに去っていく。
ミルクの表面に、少しずつ、溶けたチョコレートの渦が浮かび始めた。ゆっくりと弧を描くチョコレートの渦模様が、まるで意思を持っているかのようにミルクの表面に絵を描きはじめたのを、不思議な気持ちで眺める。
やがて、きめ細かい繊細な波模様を包むように、筆で描いたような大きな渦が広がっていく。
あぁ、これは。
思わず息を飲む。
「天使の羽……」
『We will be landing at Schipol Airport in about 20minutes. The local time is 16:30 in the afternoon. The latest weather information reports ....』
間も無くオランダの国際空港、スキポール空港に到着する。
小窓から外を覗くと、当機はすでに高度を落とし始めたらしく、私達は現在雲の中を飛んでいるようだ。時折透けて隙間の見える雲の割れ目を見下ろすと、遥か下方に地上が見え隠れする。もう陽が暮れ始め、薄暗い地上の高速を走る車のライトが流れる光の川のように見えた。
もう少しで着陸だ。
クリスマスイブの、オランダ。
ドキン、と心臓が大きく跳ねた気がして、思わず胸に両手をあてる。
今朝、ベルリンのアパートを出る前に、おばぁちゃんに出発前連絡の電話を入れたあたりから、どうしても胸の高鳴りが収まらない。カフェインを一切摂取していないにも関わらず、まるでエナジードリンクを大量に飲んだかと思うほどそわそわと落ち着かないのだ。
多分、私達の来訪を心待ちにしているおばぁちゃんの興奮が電話から伝わってきたせいもあるけれど、クラウスをおばあちゃんに紹介するという瞬間が目前に迫っているからだとわかっている。
もちろん、おばあちゃんは絶対に彼を気に入ってくれるだろう。
いや、多分、気に入りすぎるくらいに受け入れてくれる確信はあるけれど、今回、来年の2月半ばには、正式に2人で一緒に住み始める予定であることも伝える予定なので、そのあたりが1番緊張する理由だろう。
美妃にはすべて状況は知らせているけれど、日本の両親には、交際相手がいること、フリーランスビザで滞在延長を決めたことしか伝えておらず、同棲の許可は得ていない。言おうと思っていたけれど、結局今日この日に至るまで言い出せていない。
でも、おばあちゃんが賛成してくれたら、日本の両親が反対することは絶対にないのは確かなのだ。
文化的に開けたオランダに住んでいるおばあちゃんだから、同棲自体に反対することはないとは思う。でもやっぱり、実際にどんな反応をされるかは、その時になってみないとわからない。
美妃に不安を愚痴ると、彼女は明るく笑い飛ばした。
「やだー、心配するだけ無駄じゃん!だって反対されたって同棲するつもりでしょ?だったら悩む意味ないってば」
確かにその通りだけど、でもやっぱり、叱られながら同棲を決行するのは心地悪いものだろう。大体、1年で帰国し再就職する予定だった私が、ベルリン滞在を延長したことを伝えた時、両親は表だって反対こそしなかったものの、事後報告だったことをやんわり指摘されたし、それに30歳を過ぎたら日本での再就職が難しくなるのではと心配していた。
やれやれ、親の心子知らずとは言ったものだ、と呟いた父の声がまだ耳にこびり付いている。
本当にその通りだと思う。
ごめんなさい。
電話口で呟いた言葉をもう一度、心の中で繰り返す。
罪の意識を感じつつ、隣の彼に目を向けると、彼はちょうど、こちら側の窓を見ているところだった。目が合うと、彼が柔らかい笑みを浮かべ、少し身を乗り出して窓の外を覗く。
「カノン、恐らく今晩は雪が積もるだろう」
「ほんと?」
「摂氏2度を切ると雪になる可能性が高い。よく見てごらん、霧のような雪が降っている。明日の朝はあたりが白く染まるくらいは積もりそうだ」
窓の外をよく見てみると、確かにまるで霧のような白いものが窓ガラスの枠に貼り付いていた。二重ガラスの窓から伝わる冷気も確かに外の気温がかなり低いことを証明している。
首回りがぞくぞくして肩をすくめながらも、真っ白に染まるオランダの街並みを想像して笑顔になる。オランダにはいつも初夏に来ていたから、この国の冬景色は写真でしか見たことがない。きっと幻想的な冬景色になることだろう。
クラウスに促され、座席のリクライニングを定位置に戻し、シートベルトを締めた。
機体が下降している証拠に、耳が詰まるような感覚がする。隣のクラウスと目が合うとどちらからともなく手を伸ばしそっと繋ぐ。彼の大きくて頼もしい手にの温かさに包まれて、初めて手を繋いだ時のことを思い出した。タイ料理に行った帰りの、信号待ちの時。
気温が下がり、冷える夜だった。
彼は、行き先を示そうと前方を指した私の手を掴み、そのまま、繋いだ手を彼のパーカーのポケットに突っ込んだ。あの時の驚きと動揺は今でも鮮明に覚えている。
きっと、あれが恋に落ちた瞬間だったのだろう。
「何を考えている?」
はっとして隣を見上げると、美しいブルーグレーの瞳を煌めかせた彼が私の顔を覗き込んでいた。私の心の中を読もうと、真っ直ぐな視線を向ける彼に、少しだけ意地悪したくなる。
「ひ、み、つ」
ちょっとだけすました顔でそう答えると、彼は訝しげに眉を潜めた。
「カノン、クリスマス休暇の間は、仕事や学校のことを考えるのは禁止だ」
「え、クラウス、そんなこと言って、貴方こそ……」
いつも仕事してるじゃない、と言おうとして、ふと、今回のフライト中、彼は一度もラップトップや携帯などの電子機器を触っておらず、代わりに本を開いていたことに気づく。その事実に驚いて目を丸くした私。
彼は目を細めて優しく微笑んだ。
「この休暇中は、完全に仕事から離れることが出来るよう、全て手配済みだ」
バースからベルリンに戻って以来、昨日の夜遅くまで、彼が仕事で普段以上に忙しくしていたことを思い出す。このところ彼は毎晩、私が寝付いた後にベッドに来ていたから、きっと連日真夜中まで仕事をしていたに違いなかった。
あの尋常じゃない忙しさは、つまり、この休暇前に年内仕事を終わらせるだけではなく、彼が不在の間に何か緊急の問題が起きた場合でも、各地域の担当者だけでスムースに対応出来るように、体制を整えていたからだったというわけだろう。
基本的に仕事中毒の傾向にある彼が、私と過ごすために、仕事から完全に離れる時間を作ってくれる。その優しさと心遣いに感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。
愛しい彼の頰に手を伸ばし、そっと触れた。男らしくも美しいカーブを描く彼の頰は、温かくて少しざらざらとしている。このところ彼は無精髭を数ミリ伸ばしたままで、以前、定期的にすっきり剃っていた習慣を止めている。ともかく、男性らしい魅力に更に磨きがかかり、危険な色気が半端ないのだ。
だから私は、そんな彼の何気ない流し目を食らうだけでドキドキしてしまう。見慣れているはずの私でさえつい、うっとり見惚れてしまうのだから、初めて彼に会う人なんてその魅力に瞬殺されてしまうのではと心配になってしまう。
私を虜にする美しいブルーグレーの瞳。
絹のように柔らく波打つダークブロンドの髪を撫で、彼の頬にそっとキスをした。
彼の全てが愛おし過ぎて、胸が苦しい。
こんなに激しく彼に恋い焦がれていることが時々怖くなる。
もし、彼を失うなんてことが未来に起きた時、果たして私は生きていけるのだろうか。
愛を得ることは、同時に、その愛を失う恐れと戦い続けることだ。
こんな恐怖を常に抱えることになるのなら、いっそのこと、愛なんて知らなければよかったかもしれないと思ったこともある。
でも、愛を得た奇跡がもたらした幸福感は、愛を失う恐怖を超越するほど偉大なものだった。
「カノン」
耳元で彼が静かに囁いた。
「忘れられない休暇にしよう」
彼の言葉に私は大きく頷く。
情熱的な光を含む彼の美しい瞳を見つめた。
「あのね、ほんとはね……朝からずっと、貴方のことしか考えてないの」
そっと打ち明けると彼は目を見開き、そして照れたように目元を染め微笑んだ。
「いい子だ。それでいい」
彼は満足気にそう呟くと、繋いだ手を引き寄せ私の手の甲にそっとキスを落とす。
私だけの、愛しい王子様。
通りかかったキャビンクルーが私達を見て、にっこりと微笑む。
私はくすぐったい気持ちを隠そうと彼の肩に顔を埋めながら、この幸せが永遠に続くことを強く願うのだった。
スキポール空港に着陸した時、もうあたりは夜の暗闇に包まれ、点滅する管制塔や発着陸する飛行機の明かりで、まるで空港全体がクリスマスのイルミネーションのようだった。
私が日本で教会に通っていたのは小学生のころまでだったので、敬虔なクリスチャンとまでは言えないけれど、もともとプロテスタント系キリスト教の家系だったことから、毎年この時期のなるといつも、滅多に読まない聖書を開いたりして、厳粛な気持ちになっていた。
普段自分と自分の周りのことしか見ていなかったのに、広い世界に思いを馳せるようになる。
日々の忙しさにかまけてつい頭の隅へ追いやってしまう国際ニュースや時事問題。
世界で起きている紛争や、貧しい国で続く深刻な貧困に病など、平和で何不自由ない生活を送っている自分が忘れがちになることを思い出す。自分が幸せに過ごしているこの瞬間、世界のどこかには苦しみと悲しみに囚われている人々がたくさん存在するのだ。
この、理不尽で不公平な世の中。
恵まれた日々を与えられていることを神に深く感謝し、世界のどこかで絶え間なく流される血と涙を拭うために、何か自分に出来ることはないかと思う。
遥か遠くの地に目を向けるその前に、まずは身近な問題に取り組むべきだ。街のあちこちで見かけるジプシー、ホームレスや、平和の地を求めて命がけで欧州へ渡ってきた移民達……私でもきっと、少しくらいは助けになれるはずだ。
いや、助けたいなんて表現は不適切。
彼等に対して失礼だ。
押し付けがましいにもほどがある。
まるで上から目線じゃないか。
自分の身をわきまえ、こんな私でもせめて、役に立つ努力をさせてもらいたいというのが妥当だ。
「ねぇ、クラウス?」
機体が滑走路からゲートへ向けてゆっくり移動する中、本をバッグに片付けている彼に話しかけた。
「来年から、私、なにか具体的に社会貢献したいと思うの」
「社会貢献?」
興味深げに彼がその言葉を繰り返した。
「今年は私、自分のことだけで精一杯だった。貴方に出会って今は、夢のように幸せな毎日を過ごしてて……周りには、お水一杯、パンのひとつもないような生活を強いられている人がいること、知っていながら何もしなかった。たまに小銭を寄付したりはしてたけど、それはその一瞬だけの、自己満足のための行いに過ぎないし……こんなの、ただの偽善者だよね」
そう言いかけて、私は自分に何が出来るだろうと考える。
今私が自信を持って言える、「具体的に出来ること」は、取材して記事にすることぐらいだ。それもとても、世論に影響を与えるジャーナリストというレベルではない。珍しくもない、せいぜい現地レポーターという立場だろう。
残念ながら抜きん出た才能らしきものはないと再認識して、がっかりする。
アダムやマリアはアートを使い難民支援を行なっているし、アナは音楽を通してチャリティ活動をしているし、ヨナスだってアンティークの家具の修理や塗装で特殊な技術を必要としない作業の一部を失業者や言葉の通じない移民の人々に委託し、また、希望者には無償で技術取得の訓練コースを提供している。
一体この私に何が出来るのだろう。
気持ちとヤル気だけではなにも実現出来ない。
凡人の私が、具体的に何を出来るか……まずは、そこから考えなくては。
思わず腕組みをして考え込んでいると、彼がクスクスと笑いながら私の頭を撫でた。
「今回はどうやら君に先を越されたようだ」
「?」
何のことだかさっぱり分からず首を傾げて彼を見上げた。
「実は君に協力を頼もうと思っていたプロジェクトがあって、年明けに話そうと思っていた」
「プロジェクト?どんなプロジェクトなの?」
「来年からは利益の一部を寄付に充てることを検討していて、その方法について君にも意見を聞こうと思っていたんだ。例えば、マネジメントしているカフェやレストランのメニューの一部を、価格の数%は寄付金として扱うことにするとか、アパレル店舗のほうでは、シーズンを過ぎた新品の衣料を実費で買い上げて寄付するとか、様々なアイデアが欲しい。プロジェクトの概要が決まれば、ビジュアルはアダムやマリアに協力してもらい、君にプロジェクトをアナウンスするリリース記事を書いもらうのはどうだろう。記事を関連店舗の公式サイトで公開したり、業界紙や地域誌に掲載して広めて行きたいと思っている。マネジメントしている店舗との交渉は俺やアカウントマネージャーの担当だ。君さえ興味があるのなら、プロジェクトローンチのスタートアップメンバーになってもらおうと考えていた」
思いがけない話に半ば呆然としながら聞いていたが、彼の言葉が切れるなり、私は考えるより早く即答していた。
「もちろん!ぜひ、参加させて!経験値低くて迷惑かけちゃうかもだけど、一生懸命やるから、お願いします!」
彼の手を両手で握り締め、つい勢いにのって頭を下げたら、クラウスが噴き出した。
「君が日本人だってこと、いつも忘れがちだが、こういう時の君はやはり日本人っぽい」
頭を下げてお願いしますと言ったことが典型的な日本人の動作だったことに気がつき照れて笑うと、クラウスはにっこり微笑んだ。
「経験値が低くて迷惑をかけるなんて、自分を過少評価することはない。君には他の誰にも負けない情熱があるし、人一倍努力家だっていうことは俺が良く知っている。実際のところ、君が執筆している記事が好評だから担当ページ数も増えているのだし、事実、他の出版社からも執筆依頼の問い合わせが来ているんだ。残念ながら俺は日本語の記事は読めないが、きっと君の書く文章には、君の気持ちや情熱がこもっていて、読者を惹きつける魅力があるはずだ」
かなり贔屓目に見てくれているとはいえ、誰でもない彼からの褒め言葉と励ましが嬉しくて、頰が熱くなる気がした。
満面の笑みを浮かべた私に彼は楽しげに微笑みかけ、いつものようにウインクする。
「来年のプロジェクトについては分からないことは俺がサポートしていくから、君らしくいつも通りに頑張ってくれたらいい」
「ありがとう……クラウス、ほんとに、ありがとう!」
他に言葉が見つからず、繰り返しお礼を言いながら、新しいプロジェクトの構想に気持ちが向いていく。スパルタ上司のクラウスの管理下での仕事は緊張するが、彼のサポートがあれば絶対に成功させることが出来るだろう。
あぁ本当に、私臨む未来の先にはいつもクラウスが居る。
彼の側にいてやっと一人前になれるような、まだまだ未熟な自分を反省しつつ、いつも助けの手を差し伸べてくれる頼もしい彼の存在に深く感謝した。
「オフィスの奴らも君が来ると喜んでいるし、君が使えるワークステーションの準備やらは年明けに整えよう。それから、プロジェクトの進み具合を見て、お茶屋のほうはそろそろ辞めることも考えたらどうだ?時間には限りがあるし、君が体調を崩すようなことになってはならない」
「うん……そうだね」
クラウスの助言はもっともだ。私もいずれは辞めることも考えていないわけではなかった。それに、エミールに日本語を教えはじめてから、私がお茶屋のバイトに行くことを彼はあまり喜んでいなかったし……でも、お世話になっているオーナーや、私に会いに来てくれるお得意さん、毎週のようにメールや電話で話す日本の取引先の方々を思うと、無責任な辞め方だけはしたくない。
「心配してくれてありがとう。でも、とりあえず様子を見てみるよ。ドイツ語の検定試験が終われば、語学学校に行かなくていいようになるし、それにまだしばらくは、お茶の勉強もしたい」
曖昧な返事をすると、クラウスはやや不満げに眉をひそめたが、やがて、諦めたように小さくため息をつく。そして、ふと思い出したように言う。
「そういえば、アルバートが、年明けから金曜日はベーキング・デーになったと周りに触れ回っていたようだが」
「あ、そうそう、オフィスのクリスマスパーティーの時にそんな話になって」
クラウスに報告するのを忘れていた。
オフィスのクリスマスパーティー用に、ケータリングの食事や飲み物の手配を手伝って、デザートは自分で作って持って行ったのだ。
日持ちのする、胡桃キャロットケーキ、バナナブレッド、ブラウニー、オレンジチーズケーキの4種類をパーティーの前日から焼いて、当日の朝には、バニラプディングのチェリーソース添えを大きなガラス容器で作った。足りないより余るほうがいいだろうと、かなりの量を提供したつもりだったのだが、これが嬉しいことに好評で、社員の家族やパートナー、友人達も招待されていたこともあり、最終的に一切れも残らなかった。
オフィスのスタッフで一番の甘党を自負するイタリア人、アルバートが、オフィスの立地は最高だし、カフェ並みのイタリア製エスプレッソマシン、毎朝届けられる新鮮な果物の山も嬉しいけれど、焼き菓子類がないことだけが残念だとぼやいていた。クラウスが、スタッフの健康面を配慮して、意図的にケーキやクッキー類はオフィスに常備しないよう取り決めたのは聞いていた。甘党のヨナスとかなり揉めたらしいが、マリアがヨナスを一喝したため、結果、無料提供するのは果物だけになったとか。
アルバートが、ケーキを買えるカフェまで数分歩かないとならないから面倒で、甘いものが食べたくなっても我慢している時があるとボヤくので、こういうのでよければ、時々焼いて持って行こうかと提案したところ、いつの間にか毎週金曜日に2種類くらい届けることに同意してしまっていた。
「ケーキ専門店みたいな凝ったものは作れないけど、家で簡単に焼けるケーキとかマフィンでも喜んでもらえるなら、たまには持って行こうかなと思って。それに、私達2人だけのために大きなケーキを焼く機会は滅多にないし、オフィスのみんなが味見してくれるなら、新しいレシピにチャレンジする楽しみにもなるから」
今度は是非、抹茶や、小豆を使った和スイーツものとか、ヴィーガンやグルテンフリーのレシピにもチャレンジしてみたい。
「クラウスに許可もらうのすっかり忘れて、勝手に約束しちゃってごめんね。でも、出来るだけ材料に気をつけて、健康的なものを作るようにするから、いい?」
両手を合わせてお願いすると、クラウスはオーケー、と笑って頷いた。
「マリアがね、ドーナツを食べたいっていうから、今度、一緒に作る予定なの。ダイエット向けの揚げずに焼くドーナツ。ベーキングパウダーを使わない、天然酵母の生地で。そうだ、クラウスが食べたいケーキがあったら、教えて」
彼がチョコレートやアイスクリームが好きでたまに口にするのは知っているけれど、筋金入りの甘党ヨナスと違って、ケーキ類を食べているのはあまり見たことがなかった。彼が好きなケーキは絶対に上手に焼けるようになりたい。
一体どんなケーキが好きなんだろう?
ティラミス?
フォンダンショコラかな?
興味津々でじっと彼を見つめて答えを待つ。クラウスは、まるで重大な秘密を明かすかのように低い声で囁いた。
「Schwarzwälder Kirschtorte」
シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ。
ドイツの伝統的な、黒い森のチェリーケーキ。
確か、フライブルク地方のケーキだったはずだ。
そう言えば私はまだ、食べたことがない。
チョコレートのスポンジに、生クリームとチェリーのフィリングが特徴のケーキだとは知っている。
チェリー酒も使われていて大人の味がするケーキだと思う。
ベルリンのどこかのケーキ専門店で見たはずけれど、それがどこだったかは思い出せない……
「わかった!教えてくれてありがとう。シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ、絶対に上手に焼けるようになってみせるからね」
両手で拳をつくり、ぎゅっと握りしめる。
固い決意とともにクラウスを見上げると、彼は優しい微笑みを浮かべて私の額に小さなキスを落としてくれた。
飛行機が完全に停止してシートベルトサインが消えると、一斉に乗客が立ち上がり始めた。
ザワつき始めた機内。
「さぁ、行こう」
彼が差し伸べてくれた手を取り立ち上がった。
私を進むべき未来へと導いてくれるこの大きな温かい手。
私は永遠に、この愛しい手を離したりはしないだろう。
スキポール空港も至るところがクリスマスのデコレーションで溢れ、ショップからはクリスマス音楽が流れている。駐車場への長い通路の途中にあるベンチの側にもクリスマスツリーが飾ってあった。空港の至る所で、カートにスーツケースやクリスマスプレゼントを乗せて集まっている家族連れを見かける。それはとても楽しげで微笑ましい光景だった。
空港内とはいえ、駐車場へ降りるエレベーター内はすでに冷凍庫のような寒さで、ウールのストールをしっかりと巻きなおした。
クラウスによると、もともとオランダには現地採用のアカウントマネージャーがいたため、彼がここへ来ることは滅多になく、その為、他の主要都市の空港とは違い、この空港の駐車場には出張時に使う車を置いていないそうだ。
今回、彼はレンタカーの手配をしていた。アントワープに小旅行するにも、車での移動が楽だからとのこと。
ずっと彼に運転手をさせることが申し訳なくて、電車での移動がいいのではないかと提案したけれど、寒い駅で私を立たせ電車待ちをさせたくないし、運転は全然苦にならないと彼が言うので、結局彼の言葉に甘えてしまった感じだ。
リースしていたのは、彼がベルリンで乗っているベンツと同じ車種だが、カラーがブラック。
トランクに彼がスーツケースを積む間に私がカートをカート置場へ戻しに行く。たったそれだけで剥き出しの手がかじかむくらいの気温だ。当然、吐く息も白い。
車へ戻って来ると、彼が助手席のドアを開けてくれた。
お礼を述べて車内に入ると、すでにエンジンがついて暖房が入っていた。こういった心遣いが本当に細かくて、彼の優しさに胸がじんとする。
運転席に乗り込んで来た彼を見上げて、再度お礼を言おうとしたら、彼がすっと身を屈めてキスをした。不意打ちにドキンと胸が弾み、反射的に彼の腕を掴みきゅっと目を閉じた。
朝からバタバタしていたから、今日初めてのキスだった。優しいけれど情熱的な彼のキスに翻弄され、私の意識の全てが彼に魅了されていく。彼の愛を受け止め、自分の愛も同じように伝えたくて、無意識に両腕を彼の首に巻きつけた。
愛してる。
熱にうかされるようにお互いを求めあい、すっかり夢心地になった時、ようやく彼が私を解放した。彼の熱い唇が離れて、濡れた唇に感じたのはまだ少し冷んやりした空気。
私の胸の高鳴りはそう簡単にはおさまらなさそうだ。
熱で潤んだ目で彼を見つめる。
満足気に私の様子を見ている彼の瞳は落ち着いていて、余裕たっぷりに見えた。
「私ばっかりこんなにドキドキさせられて……」
独り言のように呟くと、彼が面白そうに瞬きをして私の顔を覗き込んだ。
「なにを言っているんだ。君がそんな目で俺を煽るからだろう」
「もう!そんなことを言ってるけど、貴方はまた、私が動揺しているのを見て愉しんでるでしょ」
普段からこういうイタズラ好きな彼に、いい加減慣れない自分も情けないのだけど、ドキマギしている自分とは対照的に余裕たっぷりな彼が恨めしい。
未熟な己がいつまでも成長しないせいだと分かっているものの、八つ当たり的な非難の気持ちを込めて彼を睨んでみた。
いつか絶対に私が彼を動揺させてみせるから。
今はこんなにドキドキさせられてしまっているけれど……
彼がそっと手を伸ばし温かな指で私の首筋に触れた。思わずビクッと首をすくめた私の耳元に唇を寄せて囁く。
「可愛い俺のカノン」
私の全身を包み込むような甘美な響き。
突然、シートのリクライニングが倒れ始め、彼が私の首筋に顔を埋めた。
「……っ!」
驚きで心臓がドッキンと、すごい音をたてて跳ねた。
彼にリベンジなんて到底無理!
慌てる私に覆いかぶさってくる彼の肩を掴む。
「あ、ま、待って……!」
頰が燃えるように熱くなる。
更に追い討ちをかけるように彼は私の首に唇を寄せた。
首筋を伝う熱い唇とくすぐったい息遣いに、鳥肌が立つ。
「カノン……今すぐ、君が欲しい」
「ク、クラウス!」
咄嗟に彼の口を手で塞いだ。
それ以上聞くと正気を保てなくなる!
口を塞がれた彼を見上げると、その目は楽しそうに笑っていた。
あぁ、完敗だ。
クラウスにまた、してやられた。
からかわれていると分かっていたはずなのに!
悔しさより、ここまで動揺してしまう自分が滑稽ですっかり可笑しくなってしまい、思わず吹きだしたら、彼も同じように肩を揺らして笑い出す。
この迫真のラブシーン、クラウスが俳優顔負けの演技力を持っていることを証明したようなものだ。
シートのリクライニングをもとに戻して、私はひとつ、大きな深呼吸をする。
「あぁ、ほんとにドキドキさせられちゃった……」
笑いが落ち着いた彼は両手をハンドルに伸ばしながら、ちらりと挑戦的な視線を寄越す。
「この車がもう少し人気のないところにあれば躊躇しなかったのに、とても残念だ」
冗談ともつかない声音に目を丸くしていると、呆気にとられた私を見て彼はクスクスと笑いつつ車を発進させた。
どこまで本気にしていいのやら、見当もつかない。
何事もなかったかのように落ち着き払い、堂々と車を走らせる生粋の紳士が隣にいる。淡い微笑みを浮かべた口元も、大人の余裕たっぷり。
こういう時、これまで多くの女性と恋愛してきたであろう彼の過去を想像して、やりきれない切なさに胸が痛くなる。本人は断固否定するけれど、天性のプレイボーイ気質持ちの彼のことだ、きっと数えきれないほどのロマンティックな場面を経験しているに違いない。
こんな風に、誰かと車内でキスしたりしたことなんて、いくらでもあるだろう。
それもきっと、とても魅力的な大人の女性と……
これ以上想像しちゃダメだと、慌てて脳裏に浮かぶ画像を掻き消す。
いつになったら、過去の彼に嫉妬しなくなるんだろう!
未だに彼の過去に嫉妬する醜い自分が嫌で堪らない。
結局のところ、自分に自信がないから卑屈になるのだ。
自分に自信が持てるよう、努力するしか解決の道はない。
彼に釣り合うような女性になる。
とてつもない大きな目標だ。
果たして生きてる間に達成出来るのかさえ怪しい。
そんなことを真剣に考えつつ、じっと彼の涼しげな横顔を見つめていると、車線変更の合間に彼がちらりとこちらに流し目を寄越す。
「どうした?何か聞きたいことでも?」
「……ううん、何も。運転、有難う」
邪念を振り切るべく努めて明るく答えると、彼は、粉雪が吹き付ける前方を見つめながらふと思い出したかのように聞く。
「今の時間は?」
車の時計を見る。
「17時15分」
この調子なら、18時にはおばあちゃん宅には到着しそうだ。粉雪が降っているとはいえ、道路も溶けた粉雪で濡れている程度で今の所積もるほどではない。この様子なら、渋滞に巻き込まれることもないだろう。
少し考えるような様子で黙っていたクラウスが、ふと、前方を睨むように目を細めた。
「少しだけ寄り道していこう」
「寄り道?」
「通り道に見たいところがある」
「うん、分かった。おばあちゃんに連絡しておこうか?」
「そうだな、夕食の準備をしてくれているだろうから……19時くらいには着くと連絡しておいてくれ」
「オッケー」
私はバッグの中から携帯を出し、おばあちゃんにSMSを送っておく。きっと今頃、キッチンで1人、大忙しの真っ只中だろう。想像するに、今朝からずっと、友人達から電話がかかってきたり、近所の人が訪れたりと、なんだかんだと中断を余儀なくされながら今晩の準備をしているに違いない。おばあちゃんの家にいる時はいつも、そんな感じだ。外から帰宅したら、必ず留守電に1、2件はメッセージが入っていたし。おばあちゃんは友達が多くて人気者だ。
携帯をバッグに戻した後、代わりに私は小さな小箱を取り出して、そっと手の中を覗き込んだ。おじいちゃんがくれた古いマッチ箱。中をスライドさせると、コットンの上に横たわる、ギュンター・ライヒェルのエンジェルがこちらを見上げている。
ベルリンを出る時にふと思いついて、持ってきたのだ。
これまでいつもクリスマスに毎年飾っていたエンジェルだから、今年も離れたくなくて、オランダにまで持ってきた。おばあちゃんのクリスマスツリーに飾らせてもらって、また、ベルリンに持って帰ればいい。
今年はこれまでの人生の中で最も大きな変化があった年。毎年のように、その年に起きた出来事をエンジェルと一緒にに振り返り、新しい年への願いや想いを共有したかった。可愛らしい表情のエンジェルに自然と頰が緩み、幸せな気持ちが胸いっぱいに広がるのを感じる。
そっとマッチ箱をバッグに戻し、ふぅとため息をついて顔をあげると、吹き付ける粉雪がヘッドライトに照らされて、どことなく非現実的な空想の世界を走っているような感覚に陥る。そういえば、いつもは車内には必ずなにか音楽が流れているのだが、今日はなにもついていないことに気がついた。レンタカーに乗っているせいもあるだろう。
静かな暖房の音くらいしか聞こえない。
でも、この静かな空間はとても心地よくて、わざわざラジオ音楽をつけようとも思わなかった。
既に暗闇に包まれた景色を眺めていて、車が海の近くを走っていることに気がついた。やがて、高速を降りると、明かりの灯る住宅街を通り抜け、どこかで見たような広々とした丘が遠くに見えてくる。粉雪で雪化粧しはじめた丘や木が、ぼんやりと霞む街灯の灯りに照らされてあたりはメルヘンチックな街並みに変わりはじめていた。
「あ……」
見覚えのある教会の横の交差点を曲がり、雪ゾリを引っ張り出して騒ぐ子供達がいる住宅街を通り抜けると、急にまた、景色が開けてきた。この広い丘には記憶がある。
「もしかして……」
びっくりしてクラウスを見ると、彼がちらりとこちらを向き、いたずらっ子のようにウインクした。
「私達、La Galleria Nordwijkに行くの?!」
思わず彼の腕に触れてそう聞くと、彼はクスッと笑って頷いた。
「君の写真を見に行こう」
オランダ王室の親戚がオープンさせた海辺のカフェ・レストラン。マリアが撮った私の写真が飾ってあるところだ。夏におばあちゃんとフーゴと訪れ、海の見える窓際に飾ってあるあの写真に気がついて驚いた時の興奮が蘇る。
あの写真を見たクラウスが、一目で気に入って、著作権ごと買い取り、私がマリアとヨナスに出会ったこの海辺のレストランに飾ったと知った時の驚きも思い出した。
「見に行くチャンスを逃し続けていたが、ようやくその日が来た」
独り言のようにそう呟いたクラウスを見て、ふと重要なことを思い出した。
「ね、でも、今日はもう閉まっているんじゃないの?今日はクリスマスイブだし……ベルリンでは、24日は午後からお店は全部閉まるって聞いたよ?」
せっかく素敵な寄り道だと思ったけれど、祝祭日でも殆どどこでも営業している日本とは違い、ヨーロッパではきっちり休むのが常識らしい。恐らく、祝日営業は法律でも規制がされているのではないだろうか。
心配になって落ち着かず、思わず身を乗り出して前方を見ようとしたら、クラウスがそっと片手を私の膝に乗せて笑った。
「カノン、君はこの俺がそんなヘマをすると思う?」
どういうことだと思って彼を見ると、クスクス笑いながらハンドルを切り、慣れた様子で交差点を曲がる。
「閉まっているのは分かっているから、オーナーに連絡して、この時間帯だけ特別に開けてもらっている」
「えっ」
驚いて思わず声をあげた。
さすがというか、当然というか。
私みたいな凡人が考えつくことのずっと先を読む頭脳と行動力の人だったことを再認識する。
それにしてもいつの間にそんな連絡入れてたんだろう?
もしかして、空港で私がLeonidasのチョコレート屋を覗いていた時?でも、そんなの、立ち止まって少し眺めただけだから、ものの1、2分。それ以外の時間は、今朝からずっと一緒だったはずだ。
まるで狐につままれたような気持ちになりながら、彼に尊敬の眼差しを向けると、彼はちらりとこちらを見て、何かを確かめるように注意深く私を眺めた。
「……なに?どこか変かな?」
どこか変だろうかと気になって聞くと、彼は小さく笑って首を振った。
「いや。海辺はさすがに凍えると思うが、大丈夫そうだな」
「うん、しっかり防寒してるよ」
おばあちゃん宅に着いたら、ディナーの前にはきちんとドレスアップしようと思っていたから、移動中は防寒と動きやすさ重視。温かいウール生地のオレンジブラウンのパンツに、チョコレートブラウンのロングブーツ。オフホワイトのロールネックセーターに、オリーブグリーンのロングコート。チョコレートブラウンのストールも厚めのウールだ。
彼も今日はカジュアルな装い。スリムなブラックのパンツに、光沢のある同じくブラックのショートブーツ。ワインレッドのエレガントなセーターが彼の大人っぽい色気を引き立てて、思わずうっとりと見とれてしまう。彼はスリムなブラックのロングコートを着ていたけれど、運転時はコートやジャケット類を脱ぐ人なので、いつものように後部座席に置いてある。
やがて、車のヘッドライトの明かりの先しか見えない冬の海辺に到着。車が2台しか停まっていない、だだっ広い駐車場に車を停めた。
車外に出ると、海から吹き付けてくる風と粉雪の冷たさに思わず身震いしたけれど、あたり一面が既に銀世界になっていて、その美しい景色に感嘆のため息をこぼす。
クラウスはコートの襟元をかき合わせると、私の手を取り先を歩き始めた。前から粉雪が吹き付けてくるので、まともに目を開けていられないけれど、大柄な彼に手を引かれて少し後ろを歩けば安心だ。
「カノン、滑りやすいから気をつけて」
一度彼が振り返ってそう念を押す。
顔に吹き付ける風で声が出ないので、返事の代わりに彼の手をぎゅっと握り返した。
粉雪でやや滑りやすくなっているウッドデッキの道をゆっくり歩く。
頰に当たる粉雪がチクチク刺すようだ。
口元をストールで覆い、目を細めて前方を見る。
舞い上がる粉雪で白くぼやける視界の先に、明かりの付いたLa Galleria Nordwijkが見えてきた。夏に見た華やかさとは印象が違い、真っ白に雪化粧した砂浜の上に佇むその建物はとても幻想的だった。
海辺のレストランの多くは夏季営業のみだが、観光地では一部のレストランは冬季も開いている。でも、この海辺はそれほどメジャーな観光地ではないから、多分、冬季に営業しているのはこのLa Galleria Nordwijkを含めても数えるほどではないだろうか。
入り口まで来ると、まるで待っていたかのように直ぐにドアが開いて、ウェイトレスが出迎えてくれた。
中は春のようにポカポカと温かい。
暖色系のキャンドル型ランプが点いた絢爛豪華なシャンデリアの美しさに溜息をつく。私達以外は誰もいないのに、すべてのテーブルにはキャンドルが灯されている。中央には一際目立つ大きなクリスマスツリー。ホワイトとゴールド、シルバーのオーナメントで飾り付けられた見上げるほど大きなそのもみの木は、それはそれは存在感のある豪華なツリーだった。
耳を澄ませば聴こえるくらいの音量で流れるクリスマスジャズ。
こんなロマンチックな空間を二人で独占出来るなんて……
ドキドキしながら周りを見渡すと、視線の先に暖炉の火が見えて、思わず笑顔になる。
ゆらゆらと燃える暖炉の火を見つめながらコートを脱ぐと、クラウスがまとめてウェイトレスに渡してくれた。ほんの少し外を歩いただけなのにすっかり冷えてしまった指先を温めようと、暖炉に近づいて、ちょうどその暖炉の隣が私の写真を飾ってある窓辺であることに気がついた。
夏以来に見る私の写真。
一瞬にして、この写真を撮ってもらった時のことが脳裏に蘇った。
夕暮れに染まり始めていた海辺の空の下。
マリアの情熱的なスカウトを断り切れず、美妃にからかいの視線を浴びせられつつ、恥ずかしさを堪えてヨナスと一緒に被写体になったあの時。
失恋したばかりで、未来なんて描くこともできなかった当時の自分が写っている。
セピアカラーに変換されているその写真の中、大きく見開いている私の目は、オレンジ色に強く輝いている。荒々しく挑戦的な、眩い炎のようだ。その視線は何かを追い求めるようにまっすぐにこちらを見つめている。
まさかの「カニ」の一言に驚いた時の表情がこれだなんて。
マリアの腕のなせる魔法としか説明が出来ない。
それでも、あの時の私の不安な気持ち、抱えていた悲しみと、希望や夢を追い求めたいという情熱がこの目に宿っているのは確かだろう。
時折、パチパチと火花が散る薪の音が暖炉から聞こえてくる。
カタン、と足音が聞こえ、いつの間にか隣に立っているクラウスに気がついた。優しい微笑みを浮かべた彼はそっと私の肩を抱き寄せると、目の前の写真を見つめながら呟いた。
「この写真をマリアが見せてくれた時、俺は一瞬にして君の視線に捕らわれ、時さえも忘れたように長い間動けなかった。まるで、ずっと探していた宝物を見つけたような、そんな気持ちになったんだ」
クラウスはじっと私の目を覗き込むと、嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「カノン、暖炉の炎に照らされた君の瞳は、今もまるで夕陽のように眩しく輝いている」
優しく囁く彼の瞳も、暖炉の炎が映り込んで星のようにキラキラと瞬いていた。
「写真の中の君でなく、生身の君をこうして現実にこの腕に抱くことが出来て、本当に幸せだ」
私の存在を確かめるように、しっかりと抱きしめてくれる彼。
「クラウス……」
こんな風に気持ちを言葉にしてくれる彼への感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、何か言おうとしたけれどうまく表現出来ず、代わりに思い切りの笑顔で彼を見つめた。
私も、こんなに幸せだ。怖いくらいに。
笑顔で見つめあっていると、ふと緩やかな風が私達の間をすり抜けた。少しだけ潮の香りがする、初夏の夕暮れに吹く海風を思い出す。
真冬の室内なのにと不思議に思いながら、なんとなく辺りを見渡してみる。
「ゾマーフェルド様」
ウェイトレスに声をかけられてふと我にかえる。
ホワイトとブラックのタキシードのようなユニフォームを着たウェイトレスが、シルバーのトレイを持って、にっこりと輝くような笑顔を見せてくれた。
クラウスに促されて暖炉前の心地よいソファに腰を下ろす。夏に来た時は真っ白な麻の生地のソファだったけれど、今は光沢のあるベルベット生地に代えられている。まるで純白のゲレンデのように滑らかな手触りだ。
ガラスのローテーブルの上に、ウェイトレスが飲み物の準備をしてくれる。彼の前にはエスプレッソ、そしてキラキラと照明に反射して輝くクリスタルグラスと、ミネラルウォーターのボトル。ウェイトレスは、湯気の立つ、熱々のホットミルクが注がれたガラスのカップをそっと私の前に置いてくれた。
「こちらが、今晩のホットチョコレートです」
彼女がミルクの隣に置いたシルバーの小さなカゴ。のりのきいた純白のクロスが敷かれ、その上にコロンとひとつ、チョコレートエッグが転がっていた。
「わぁ、綺麗!」
ピカピカと光沢が艶やかなダークチョコレートの卵。一面に散りばめられた、ホワイトチョコレートで描かれた大小の雪の結晶。その中央に、大きな美しい羽を持った一際美しい天使が、胸に金色の光を抱く姿がある。細部まで正確に描かれた繊細で美しい絵柄に、感嘆のため息が溢れる。
チョコレートエッグに繋がっている金糸を指でつまみ、注意深くその重みのあるチョコレートエッグを持ち上げてじっと見つめる。
なんて綺麗なチョコレート細工なんだろう。
これは、一流のチョコレート職人が手掛けた一品に違いない。
いや、一品ではなく、これはもう芸術品だ。
あまりの素晴らしさに感動していると、ウェイトレスがにこにこと微笑みながら、湯気のあがるミルクの入ったグラスを勧めた。
「その卵をこちらのミルクに浸してくださいね」
「え……でも、こんな綺麗な卵を溶かすなんて……」
私はこんな美しいチョコレートエッグを溶かすなんてあり得ない、と躊躇した。
このまま持って帰って、おばあちゃんにも見せてあげたい。
「あの、ホットミルクをこのまま頂いて、チョコレートを持って帰ることは出来ませんか……?」
なんとかならないかという思いでそうお願いしてみたが、ウェイトレスはにっこりと微笑みながらも首を横にふる。
困ったと思い隣のクラウスに助けを求めようと目を向けたが、彼はただ、静かに微笑み返すだけだ。
諦めきれずに金色の糸にぶら下がる美しいチョコレートエッグを見つめていると、ウェイトレスがクラウスに声をかけた。
「もしよろしかったら、写真を撮りましょうか?」
あ、それはいいアイデアだ。
このまま溶かして2度と見ることが出来ないより、写真を撮ってもらったほうがいい。
私が笑顔で頷くと、クラウスが携帯をウェイトレスに渡してくれた。
彼女は、真っ白なクロスの上に置いたチョコレートエッグの写真と、私が金糸を持って、それを恐る恐る湯気の立つホットミルクの中へ沈め始める瞬間の写真を撮ってくれた。
ゆっくりと純白の海に沈み、ついにその姿を消してしまったチョコレートエッグ。
あぁ、溶け始めてしまった!
思わずため息をつく。
「では、ごゆっくりお寛ぎください」
ウェイトレスはにっこりと素敵な微笑みを浮かべ、足音も静かに去っていく。
ミルクの表面に、少しずつ、溶けたチョコレートの渦が浮かび始めた。ゆっくりと弧を描くチョコレートの渦模様が、まるで意思を持っているかのようにミルクの表面に絵を描きはじめたのを、不思議な気持ちで眺める。
やがて、きめ細かい繊細な波模様を包むように、筆で描いたような大きな渦が広がっていく。
あぁ、これは。
思わず息を飲む。
「天使の羽……」
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