後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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十一章 蓖麻子《ひまし》

19、女炎帝を捜して

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 夜更け。宿舎の暗い廊下を、ぼうっとした橙色の明かりが動いていた。
 油灯ようとうを手にした卓鳩児ズオジウアーが、廊下を歩いている。

 ――蓖麻子ひまし、蓖麻子。どうやったらあれを自然に、疑われないように陸翠鈴ルーツイリンが口にすることができるん?

 糸で連ねた蓖麻子のことばかり気になって。床に入っても眠ることもできない。寝返りを何度も打っては、同室の宮女を起こしてしまう。 
 鳩児は仕方なく外に出ることにした。

 宿舎を入ったところの壁に、紙が貼ってある。
 鳩児が油灯ようとうで壁を照らすと、ひたいを手で押さえて顔をしかめた人の絵が描いてある。どうやら頭痛を示しているようだ。
 他にもむくんだ足も描かれている。添えてある文字は、鳩児には読めない。

「買えてよかったわよね。女炎帝さまのお薬」
「まさかこの頭痛が、雨のせいだなんて思わなかったわ」
「貼り紙は逐一確認しておかないとね。お薬を買いそびれたら大変だもの」

 じょえんてい? 鳩児は首をかしげた。
 外から帰ったばかりの宮女たちは、鳩児の顔を見て立ちどまった。
 驚きに目を見開いて、息を呑んでいる。

「大丈夫? あなた」

 何が大丈夫なんだろう。問いかけられた鳩児は、ぼんやりと考えた。

(女炎帝って聞いたことがある。どこでだった? いつだった?)

 ――女炎帝は、我らの元へ帰ってくるべきだ。

 誰かがそう話していた。
 頭の中にぼうっと白い霧がかかったみたいで、思考が鈍る。もともと賢いわけでもないのに、さらに頭が悪くなってしまったのかもしれない。

(ああ、そうだ。女炎帝は確か薬の神さまの娘だったはず。死んで女神になったんじゃなかったっけ)

 こんな夜の外に女炎帝がいるってこと? それは女神が降臨しているってこと?
 鳩児はふらりと表へ出た。提げ灯籠とは違い、屋外での移動には向かない油灯の火が揺れる。

「ねぇ、あの子平気なの?」という宮女の声が微かに聞こえた。

 ◇◇◇

 上空の雲が流れて、時おり月光が池の水面にこぼれてくる。
 池にかかる橋の上で、翠鈴は空になった籠を持ちあげた。

 まさに千客万来、薬も完売。表情を引き締めようとしても、笑みがこぼれてしまう。
 就寝は遅くなってしまうが、何の茶葉を買おうかと想像する時間がいつも楽しい。

「今夜もよく売れましたね。翠鈴姐ツイリンジェ

 隣にいるのは医官の胡玲フーリンだ。翠鈴とは同郷の幼なじみで、翠鈴のことを姉のように慕ってくれる。

「ありがとうね、胡玲。でもこんな遅くまで付き合ってくれなくてもいいのよ? 明日も仕事でしょ」

「いいんですっ」と、胡玲が身を乗り出してきた。

「翠鈴姐と二人きりでゆっくりできる時間はあまり取れないんですから。眠いのなんて平気です」

 見た目も性格も固い胡玲だが、翠鈴の前でだけはあどけない少女に戻る。
 薬売りを手伝ってくれた胡玲にも、お礼に茶葉を贈ろうと翠鈴は考えた。

「胡玲が五苓散ごれいさん猪苓湯ちょれいとうに調合する生薬を安く分けてくれたから、助かったわ」
湿邪しつじゃによって引き起こされる水帯すいたいの体調不良なら、医局に相談に来てくれたらいいのですけど。まぁ、皆なかなか医局を訪れてはくれませんね」

 胡玲は小さなため息をつく。
 どうやら症状が重くなってから、仕方なく医局を尋ねる人が多いらしい。そうなると対応が大変だ。
 症状が軽いうちに診断できれば、薬を処方の処方と休養で治ることも多いのに。

 それでも宮女たちがなかなか医局を訪れないのには理由がある。
 感染する病の場合には、宿舎を出され隔離されてしまうからだ。
 隔離先の衛生面が悪いわけではない。ちゃんと治療を受けることもできる。けれど、世間体が悪いのだ。

 彼女たちはぎりぎりまで己が病であることを隠そうとする。そのために重症化するまで放置してしまうこともある。

「翠鈴姐を頼ることで、初期のうちに薬を飲んでもらえるのなら、結果的にはいいのでしょうね。実際に翠鈴姐が薬を売りはじめてから、女性たちの病気は減っているみたいです」
「それはよかったわ。この時期は水帯の症状が出る人が多いから。よけいに医局を訪ねにくいわよね」

 体に過剰な湿気が溜まったり、水分が偏在する水帯の症状はつらい。
 手足の冷えや頭痛、足がむくむ。そればかりか排尿時に痛みが伴ったり、頻尿にもなる。医師や医官に相談しづらいが、睡眠不足になり余計に具合が悪くなる。

 橋を渡り切った翠鈴は、空になった籠を眺めた。今日は手荒れの薬もよく売れた。紫根しこんを浸けた油が、手荒れにはよく効く。

「あかぎれに困っている人も多かったわね」
「ああ、確かに。夏は食あたりが増えますからね。用心して何度も手を洗う人が多いんですね」

 さすがに医官の胡玲は察しがいい。

 食あたり予防以外にも、手洗いの後にちゃんと手の水分を拭きとらないのも荒れる原因となる。
 ひどい場合はてのひらや指に湿疹が現れ、ひどくかゆくなる。その湿疹を掻き潰して、手が爛れてしまう宮女もいるほどだ。

 夜の後宮は静かだ。翠鈴と胡玲の話す声は大きいわけではないのに、昼間よりもよく通る。
 ふと、前方から明かりが近づいてくるのに翠鈴は気づいた。
 提げ灯籠のような動きではない。点された火は左右に揺れることなく、まっすぐに動いている。

「あ、翠鈴、さん」

 声をかけてきたのは卓鳩児だった。寝間着のままで、途方に暮れたようなぼんやりとした表情をしている。
 言葉は途切れ途切れで聞き取りにくい。

「どうしたの。眠れないの?」

 問いかけた翠鈴に、鳩児はふるふると首を振る。

「人を……人をっていうか、女炎帝を、探してるんです」

 翠鈴と胡玲は顔を見合わせた。ふたりの困惑に、鳩児は気づかない。

「女炎帝さまなら……うちを、助けてくれるかもしれないから。薬の神さまの、娘だから。く、薬と毒って遠いようで近いんでしょ」

 鳩児の声は震えている。油灯が、彼女の顔を照らした。頰が腫れている。
 おそらくは口の中も切れているのだろう。そのせいで、言葉が滑らかではないのかもしれない。

「誰にやられたの? 襲われた?」
「医局で手当てをしましょうか? 鍵を開けますよ」

 翠鈴と胡玲に問われた鳩児は、瞬きをくり返した。

「殴られた? いいえ、顔を踏みつけられたのかしら。左の頰に擦過傷さっかしょうがあるわ」
「傷口を洗って、それから手当てをしましょう」

 傷が痛くて洗顔もろくにできなかったのだろう。鳩児の顔は、傷の周辺だけが汚れたままだ。

「胡玲。籠とこの子の明かりを持ってちょうだい」

 そう告げると、翠鈴は鳩児を抱えた。痩せている鳩児は軽い。医局まで彼女に歩かせるよりも、運んだ方が早いと判断したのだ。

「門の方には行かないで。門は、今夜はあいつが番をしているから」
「あいつって、暴行を加えた相手ね。誰か教えてもらえる?」

 翠鈴が頼んでも、鳩児はぶるぶると首を振った。よほど恐ろしい目に遭ったのか、脅されているのか。
 同じ司燈であることも、女炎帝を捜していたことも。そのどちらもあって、翠鈴は鳩児を放っておくことができなかった。
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