後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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三章 湯泉宮と雲嵐の過去

7、困った人

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 今から十六、七年前のことだ。
 十一歳になった雲嵐は、宦官としての修行をしていた。

 本来、子供のうちに宦官になった者は、女性のような声になる。つるりとした肌と、中性的な外見になる。
 雲嵐は、妖艶な宦官というよりも均衡のとれた体つきの武官に見える。声も高くはない。

「光柳さまが十歳の頃でしたね。後宮にいらっしゃった頃も、離宮に移られてからも。同年代の遊び相手もおらず、大人の中に、子供ひとりでいらっしゃいました」

 なるほど、雲嵐は光柳の話し相手に任命されたわけか。
 主従であり、友としてふるまえと命じられる。
 母が女官とはいえ、父は帝の子。かたやかつては奴隷であった異民族の子。
 なかなかに大変だ。

 翠鈴はうなずいた。

「仲よくなるのは、難しかったのでは?」
「はい。光柳さまはクソ生意気なガキ……いえ、お子さまでいらっしゃいましたよ」

 うわぁ。言いたい放題だ。
 翠鈴はちらっと横目で、椅子に座る光柳に目を向けた。

 そんなことは重々承知なのか。光柳は、山査子条さんざしじょうをつまんでいる。
 山査子の実と砂糖、水飴を煮詰めて、棒状に固めたものだ。

 甘酸っぱくておいしいのだが。まだ菜包ツァイパオ肉包ロウパオも食べ終えていないのに。
 女装のままだから、山査子条も似合うけれど。やっぱり摘まみ方が雑というか、男性だ。

(まぁ、ほかの人がいる前では雲嵐さまも、光柳さまには丁寧に接してるし。ここだけで、かな?)

 そこに雲嵐の信頼があることを、翠鈴は気づいていない。

 翠鈴はふだんから口が堅く、余計なことを言いふらしもしない。無神経に、ずかずかと心の中に踏み込まない。
 それらは翠鈴の美点ではあるが。彼女にとっては当たり前のこと過ぎて、自分では長所であることに気づいていない。

「ところで光柳さま。もうお着替えになってはいかがですか? 動きづらくありませんか?」

 いまだ女装のままの光柳に、雲嵐が声をかける。

「このままでいい」
「着替えの部屋を借りれるように、わたしが店の人に頼んできましょうか」

 椅子から立とうとした翠鈴の袖を、光柳がつまんだ。

「あの?」
「宿に着くまで、このままでいい」

「どうしてですか? 後宮どころか、杷京もかなり遠いですよ。光柳さまが、司燈しとうであるわたしを連れていても、誰も気にしません」
「私が気にする!」

 思いがけない大きな声だった。
 翠鈴も雲嵐も、いや近くの席に座っている男性たちも、光柳に注目する。

「お待たせしましたぁ」と、接客係の娘の声が響いて聞こえた。

 これはどうしたことかな?
 翠鈴は、茶壺チャフに入ったお茶を、光柳の碗についだ。

 茉莉花ジャスミンの香りはするが、うすい緑茶だ。
 それでも後宮の食堂で供されるような、茎の多い茶葉ではない。

(手間のかかる人だなぁ。きっと子供の頃の話を、わたしに聞かれたくないんだろうなぁ)

 そう翠鈴は考えた。
 けれど彼女にしては珍しく見当違いだった。

「私が長く席を外すのは避けたい」
「料理が冷めるからですか? 頼めば、包子は蒸しなおしてくれるかもしれませんよ」

 菜包も肉包も温かさが命だ。都会は勝手が違うだろうが。冷めて固くなったものを、蒸籠であたためてくれる茶館もある。

「……だ」
「はい?」

 問い返す翠鈴を、光柳はキッとにらんだ。
 美人だから、怖くない。むしろ美人に睨まれて喜ぶ、特殊な男性もいるだろう。翠鈴は喜ばないが。

「私が席を外すと、雲嵐と君が懇意になる。それが嫌なんだ」

 一息に言ったあと。光柳ははっと目を見開いた。

「わ、私はなにを」

 とりかえしのつかない失態でも犯したかのように、光柳の目が泳いでいる。
 とうとう光柳は、卓に肘をついて両手で顔を覆った。

 翠鈴と雲嵐は、顔を見あわせる。

「困った人ですね」

 ふっと翠鈴は笑みをこぼした。

(この人は、口よりも指のほうが雄弁だから)

 手から生み出される詩も。去ろうとする翠鈴を引き留めるために、服を掴む指も。
 手も指も素直で、彼の感情と直結している。

「わたしに側にいてほしいのですね?」
「たぶん、そうだ」

 恋に疎い翠鈴には、光柳の感情が何なのかはうまく分析できない。
 ただの人恋しさなのか、寂しさなのか。
 他の女官や宮女と違い、光柳に心酔しないからなのか。

 とはいえ「この私になびかないとは、面白い奴だ」と言うほど、光柳の性格はひどくはない。口は悪いけど。

(まぁ、光柳さまを前にしても、見惚れてしまう女官や宮女がほとんどだよね)

 甘い物ばかり食べていると飽きてしまって、しょっぱい漬物が欲しくなるようなものかもしれない。

(きっと、わたしは漬物女。しょっぱい女)

 翠鈴は、そう結論づけた。

「光柳さまが、女装が窮屈でないのなら、問題ありませんよ」
「問題はない」

 周囲の席のざわめきに、まぎれるほどの小さな声だった。
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