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三章 湯泉宮と雲嵐の過去
12、眠れぬ夜
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道中、簡素な宿で翠鈴たちは一泊した。
朝には出発。そして次の町でまた一泊だ。
さすがに光柳も、もう女装はしていない。
「宵柳さまは、もう飽きたんですか?」
「足もとがすうすうするんだよな、あれ」
問いかける翠鈴に、光柳が応える。
光柳と雲嵐の部屋を、翠鈴が訪れている。翠鈴と由由が暮らす部屋よりはずいぶんと広いが。それでも光柳が詰めている書令史の部屋よりは狭い。
寝台がふたつと、机に椅子。調度品も飾りもない、そっけない部屋だ。
「雲嵐、見えるか? 離宮だ。懐かしいな」
開いた窗から、光柳が身を乗りだした。
夜というには、少し早い時間だ。宵の明星が寂しそうにひとつ、空に輝いている。
雲嵐は「本当ですね。懐かしいです」と頷いた。
けれど翠鈴には、地の果てに少し盛り上がったらない。
「光柳さま。離宮にお寄りにならなくて、よろしいのですか?」
「いい。面倒だ。今は誰も離宮で暮らしていないし、管理の者しかおらぬだろう。私が行っても迷惑なだけだ」
そう言いながらも、光柳は果ての離宮から目を逸らさない。
彼らが見ているのは、きっと過去なのだろう。
今が不幸なわけではないが。それでも、過去は水晶のかけらを散りばめたように、きらきらと輝いている。
戻ることは叶わない。
子供だった光柳と雲嵐が遊んでいた毬。今はどこにあるのか、雲嵐は話さなかった。
もしかすると離宮に置いてきたのかもしれない。
麟美を喪って、後宮へと移された光柳に、毬のことを考える余裕などなかったに違いない。
翠鈴の故郷は、西の山のふもとにある薬師の里だ。
後宮で生まれた光柳には、故郷の概念は薄いのだろう。だからこそ、子供の頃に母親や雲嵐と一緒にいた離宮こそが故郷なのではないか? と、翠鈴は感じた。
そう感じるほどに、光柳は幻のような離宮を見つめ続けていた。琥珀の瞳が、玻璃であるかのように、さらに澄みきっている。
いつのまにか雨が降ったのだろう。
夜中。翠鈴は屋根に落ちる雨音で目が覚めた。
後宮と雨の音が違って聞こえるのは、屋根の瓦が違うからだろうか。
釉薬を使った後宮の瓦は、雨音が高く聞こえる。
おそらくこの宿の瓦は、釉薬を施していないのだろう。雨粒が叩くような音を立てない。
宿ではひとりの部屋だ。
この一年は由由と同室だったから。誰かの寝息を聞くことなく休むなど、久しぶりのことだった。
(実家はどうだったかな。ああ、姉さんが生きていた頃は、同じ部屋だったな)
翠鈴は横になったまま、低い天井をぼうっと見あげた。
子供の頃。ある日突然、使う者のいなくなったもうひとつの寝台。
この部屋は、今日は使う者がいないもうひとつの寝台がある。
(もしかしたら、ひとりは苦手なのかもしれない)
翠鈴は布団にもぐりこんだ。
群れるのも好きじゃないくせに。ひとりも嫌だなんて。我ながら矛盾していて呆れてしまう。
光柳と雲嵐は、隣の部屋だ。
とぎれとぎれに聞こえてくるのが雨音なのか。あるいはふたりの話し声なのか、判別できない。
(でも……)
翠鈴はやわらかく微笑んだ。
眠れない光柳と雲嵐が、しゃべっているといいなと思ったのだ。
後宮でのふたりは、やはり主としもべだ。
けれど離宮に近いこの場所では、その壁は曖昧にぼやけるのだろう。
翠鈴は瞼を閉じた。
光柳の声が、かすかに聞こえたような気がした。「おやすみ」と、同室の雲嵐に告げたような。
翠鈴は「おやすみなさい」と、唇だけを動かした。
音にならぬ声。自分ではない人にかけられた言葉に、返事をする。
彼らの部屋を出る時に「おやすみなさい」との挨拶は済ませた。
でも、本当は寝る寸前に言いたかったのだ。
――どうか、いい夢を。
まるで水の中をたゆたうように、翠鈴は眠りに落ちた。
◇◇◇
「しまった。寝坊だ」
朝日が眩しすぎて、翠鈴は目を覚ました。
瞼を橙色に透かした光に、まっさきに感じたのは「やってしまった」だ。
夜明け前には回廊の灯を消さなければならないのに。
寝台から跳び起きた翠鈴は、混乱した。
明かりを消すための棒がない。
「あれ? ここ、どこ?」
見知らぬ窗に見知らぬ部屋だ。
「そうか。温泉に行く途中で、宿で泊ったんだった」
はぁぁーと長い息をついて、翠鈴は寝台にへたりこんだ。
翠鈴が留守の間の司燈の仕事は、由由ともうひとり宮女が手伝ってくれるとのことだ。
心配する必要はないのだけれど。慣れとは恐ろしい。
気持ちが落ち着いたからなのか。これまで聞こえなかった鳥の声が、翠鈴の耳に届いた。
後宮よりも鳥の数が多いのだろう。さえずりが重なっている。
朝には出発。そして次の町でまた一泊だ。
さすがに光柳も、もう女装はしていない。
「宵柳さまは、もう飽きたんですか?」
「足もとがすうすうするんだよな、あれ」
問いかける翠鈴に、光柳が応える。
光柳と雲嵐の部屋を、翠鈴が訪れている。翠鈴と由由が暮らす部屋よりはずいぶんと広いが。それでも光柳が詰めている書令史の部屋よりは狭い。
寝台がふたつと、机に椅子。調度品も飾りもない、そっけない部屋だ。
「雲嵐、見えるか? 離宮だ。懐かしいな」
開いた窗から、光柳が身を乗りだした。
夜というには、少し早い時間だ。宵の明星が寂しそうにひとつ、空に輝いている。
雲嵐は「本当ですね。懐かしいです」と頷いた。
けれど翠鈴には、地の果てに少し盛り上がったらない。
「光柳さま。離宮にお寄りにならなくて、よろしいのですか?」
「いい。面倒だ。今は誰も離宮で暮らしていないし、管理の者しかおらぬだろう。私が行っても迷惑なだけだ」
そう言いながらも、光柳は果ての離宮から目を逸らさない。
彼らが見ているのは、きっと過去なのだろう。
今が不幸なわけではないが。それでも、過去は水晶のかけらを散りばめたように、きらきらと輝いている。
戻ることは叶わない。
子供だった光柳と雲嵐が遊んでいた毬。今はどこにあるのか、雲嵐は話さなかった。
もしかすると離宮に置いてきたのかもしれない。
麟美を喪って、後宮へと移された光柳に、毬のことを考える余裕などなかったに違いない。
翠鈴の故郷は、西の山のふもとにある薬師の里だ。
後宮で生まれた光柳には、故郷の概念は薄いのだろう。だからこそ、子供の頃に母親や雲嵐と一緒にいた離宮こそが故郷なのではないか? と、翠鈴は感じた。
そう感じるほどに、光柳は幻のような離宮を見つめ続けていた。琥珀の瞳が、玻璃であるかのように、さらに澄みきっている。
いつのまにか雨が降ったのだろう。
夜中。翠鈴は屋根に落ちる雨音で目が覚めた。
後宮と雨の音が違って聞こえるのは、屋根の瓦が違うからだろうか。
釉薬を使った後宮の瓦は、雨音が高く聞こえる。
おそらくこの宿の瓦は、釉薬を施していないのだろう。雨粒が叩くような音を立てない。
宿ではひとりの部屋だ。
この一年は由由と同室だったから。誰かの寝息を聞くことなく休むなど、久しぶりのことだった。
(実家はどうだったかな。ああ、姉さんが生きていた頃は、同じ部屋だったな)
翠鈴は横になったまま、低い天井をぼうっと見あげた。
子供の頃。ある日突然、使う者のいなくなったもうひとつの寝台。
この部屋は、今日は使う者がいないもうひとつの寝台がある。
(もしかしたら、ひとりは苦手なのかもしれない)
翠鈴は布団にもぐりこんだ。
群れるのも好きじゃないくせに。ひとりも嫌だなんて。我ながら矛盾していて呆れてしまう。
光柳と雲嵐は、隣の部屋だ。
とぎれとぎれに聞こえてくるのが雨音なのか。あるいはふたりの話し声なのか、判別できない。
(でも……)
翠鈴はやわらかく微笑んだ。
眠れない光柳と雲嵐が、しゃべっているといいなと思ったのだ。
後宮でのふたりは、やはり主としもべだ。
けれど離宮に近いこの場所では、その壁は曖昧にぼやけるのだろう。
翠鈴は瞼を閉じた。
光柳の声が、かすかに聞こえたような気がした。「おやすみ」と、同室の雲嵐に告げたような。
翠鈴は「おやすみなさい」と、唇だけを動かした。
音にならぬ声。自分ではない人にかけられた言葉に、返事をする。
彼らの部屋を出る時に「おやすみなさい」との挨拶は済ませた。
でも、本当は寝る寸前に言いたかったのだ。
――どうか、いい夢を。
まるで水の中をたゆたうように、翠鈴は眠りに落ちた。
◇◇◇
「しまった。寝坊だ」
朝日が眩しすぎて、翠鈴は目を覚ました。
瞼を橙色に透かした光に、まっさきに感じたのは「やってしまった」だ。
夜明け前には回廊の灯を消さなければならないのに。
寝台から跳び起きた翠鈴は、混乱した。
明かりを消すための棒がない。
「あれ? ここ、どこ?」
見知らぬ窗に見知らぬ部屋だ。
「そうか。温泉に行く途中で、宿で泊ったんだった」
はぁぁーと長い息をついて、翠鈴は寝台にへたりこんだ。
翠鈴が留守の間の司燈の仕事は、由由ともうひとり宮女が手伝ってくれるとのことだ。
心配する必要はないのだけれど。慣れとは恐ろしい。
気持ちが落ち着いたからなのか。これまで聞こえなかった鳥の声が、翠鈴の耳に届いた。
後宮よりも鳥の数が多いのだろう。さえずりが重なっている。
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