後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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三章 湯泉宮と雲嵐の過去

13、舟に酔う人

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 翠鈴たちが一泊した町は、ちょうど離宮と温泉地への分岐点だ。

「御者には、この宿で待っていてもらいます。我々は舟で温泉地へと向かいます」

 朝食の席で、雲嵐が説明してくれた。

「酔いませんか?」
「大丈夫だろう。この辺りの水路は人工的に開削したものだからな。運河といったところだ」

 舟に不安を感じて問う翠鈴に、光柳が説明する。

(運河なら高低差も少ないから、流れも急じゃないかな)

 持参していた南天は、夜の間に碗に張った水に差しておいたので、まだ萎れてはいない。

「それが最近、舟に酔う人が増えてるんですよ」

 豆腐脳トウフナオ油条ヨウティヤオを運んできてくれた女給が、光柳に声をかけた。

「雨で増水した日とか?」
「うーん。そういうわけでもないかな。まぁ、町のお医者さまが診てくださるから。問題もないと思いますけど」

 近頃の人は、体力が落ちてるんですかね。と、女給は皿を並べてくれた。
 これまでは舟酔いの人が少なかったのに。急に増えているとは不思議なことだ。

「舟頭の腕の問題ですか?」と、翠鈴が問いかける。
「そうでもないと思うんだけど。急流じゃないし、流れも緩やかなのにね。他の宿のお客さまでも、具合が悪くなって一泊延長する人もいるくらいよ」

 女給に「どうぞ」と勧められて、翠鈴は「いただきます」と匙を手にした。

 食べなれている豆腐脳だが。醤油が甘いのか、少し味が違う。

 南天を持っていてよかったと思う反面。翠鈴は目をすがめて考えを巡らせた。

(これは単純に、舟の客の問題じゃないかもしれない)

「翠鈴。朱欒ざぼんが気になるのか?」
「は?」

 翠鈴は、自分が巨大な毬のような柑橘を睨みつけていることに気づいた。光柳に声をかけられなければ、知らぬままだった。

朱欒ざぼんですか。やたらと大きな柑橘ですね」

 淡い黄色の果実を持ちあげてみると、ずっしりとした重みがある。

「剥いてさしあげましょう」

 雲嵐は、翠鈴から朱欒を受けとった。短刀で、真ん中あたりにぐるりと一周するように刃を入れた。
 めりっと音を立てて、上半分の皮が外れる。
 翠鈴と光柳は、興味深く果実を覗いた。

「真っ白です」
「触ってみるがいい。ふかふかなんだぞ」

 自分で剥いたわけでもないのに、光柳は得意げだ。

「食べるのは蜜柑と一緒で、房の中ですよ。翠鈴さま。ワタを口に入れたら苦いですよ」

 ついクセで、珍しい物を口に運んだ翠鈴を、雲嵐が止める。

 植物は、基本的に本と照らし合わせて同定するが。知らぬものが毒かどうかは、ほんの少しだけ口に入れる。
 痺れたり、違和感があればすぐに吐きだす。

 時間差で効く毒もあるから。知らぬ物を、呑み込むことはしない。

「よし。私が房を外してやろう」

 袖をめくって立ち上がる光柳に、雲嵐は「えー? 大丈夫ですかぁ?」と、怪訝なまなざしを向けた。

「光柳さまは、お箸と筆くらいしか扱えないでしょう?」
「む。失礼だぞ、雲嵐」

 人は真実を突かれると、腹を立てるようだ。

(でも、いいな)と翠鈴は思う。

 いつもの朝食は、仕事を終えた翠鈴や由由はともかくとして。他の宮女たちは、仕事前に慌ただしく食べている。
 誰もが急いで、今日やるべきことを考えながら、ただ黙々と朝食をとる。

 こんな風に落ち着いて、のんびりできることなんて稀だ。休みの日だって、できるかぎり寝てたい。とはいえ遅くなれば、朝食は残っていない。

「本来は、こういうゆったりとした時間が必要なのかもしれませんね」
「そうだろう?」

 少し息が上がった光柳が、満面の笑みを浮かべる。
 翠鈴の目の前に、朱欒ざぼんの大きな房が差しだされた。色の薄い巨大な蜜柑だ。

 爽やかな香りが、ふわっと立つ。

「ありがとうございます。明日は筋肉痛ですね」
「子供の頃は剥いてもらっていたからな。こんなにも力がいるとは思わなかった」

 薄皮をとって、翠鈴は果実を口に運ぶ。
 涼しい甘さが広がった。果汁が溢れる。しかも実の半分も食べていないのに。

(おいしい)

 きっと翠鈴が目を輝かせていたのだろう。光柳と雲嵐が、うんうんと頷いた。

「これ、おいしいうえに、体にもよさそうですよね。酸味は血液を浄化しますし。皮は苦いでしょうから、利用できそうですね」

 しかも朱欒は大きい。風邪に効く陳皮ちんぴを作るには、干した蜜柑の皮を大量に裏返さなければならないが。朱欒の皮ならば、手間が省ける。

「いかんな、雲嵐」
「ええ、いけませんね」

 光柳と雲嵐は顔を見あわせた。
 せっかく休みに来ているというのに。翠鈴が商機を見つけてしまったことに、気づいたのだ。

「この朱欒を、杷京はきょうでも育てられませんか?」

 ああ、早く帰って木を植えたい。苗? それとも接ぎ木?
 どこに行けば苗や枝が手に入るの?

 温暖な気候で育つというのなら、後宮で日当たりのいい場所を探そう。
 冬の風が冷たいというのなら、朱欒の木を毛布で囲ってあげよう。

 どんな病に効くのか。どんな効能があるのか。
 調べたい。

「あー、気持ちは分かるが。まだ往路だ。落ち着きなさい」
「翠鈴は、仕事が好きというよりも商売が好きですよね。薬という点で、人の役には立っているようですが」

 知らぬ間に翠鈴は椅子から立ち上がっていたようだ。
 ふたりに止められて、ようやく自分が立っていることに気づいた。

「自分への素敵なおみやげができました。誘ってくださって、ありがとうございます」

 翠鈴に輝く笑みで感謝されて、光柳は頭を抱えた。

「……だから、まだ湯泉宮とうせんぐうに着いていないと」

 光柳は気づいていない。
 これまで人を振りまわしてきた彼が、翠鈴に初めて振りまわされていることを。
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