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四章 猛毒草
7、美しすぎて目が痛い
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「あーもう。ぜんぜん聞こえない」
蔡昭媛の侍女、范敬は、部屋の外で扉に耳をつけていた。
目つきの悪い生意気な薬師の声は、切れ切れに聞こえる。何を言っているのかは分からないが。
主である蔡昭媛に関しては、声すら届かない。
背伸びをして、耳をつける場所変えても無理だ。
「もうちょっと下なら、聞こえるのかしら」
今度は廊下にしゃがんでみる。
今日もまた指先が痺れている。ここのところ続いている寒さのせいだろうか。
盗み聞きに夢中になりすぎて、范敬は気づかなかった。
足音が近づいてくることに。
「何をしておいでですか?」
「ひっ」
背後から声をかけられて、侍女は固まってしまった。
この未央宮に仕える侍女が、怪訝そうに眉をひそめている。
(言えない。主の話の邪魔をするなと、部屋を追いだされたなんて。しかもあんな位の低い宮女に)
淑妃や、その侍女に咎められるなら話も聞こう。だが、あの翠鈴という女はただの司燈というではないか。
少し薬に詳しいだけ。医官ですらないのに。なぜ我が主は、どこの馬の骨とも知れぬ宮女に頼るのか。
「ははぁ。なるほど。翠鈴に部屋を追いだされたか」
頭上から、不躾な声が聞こえた。
キッと睨みつけようと顔をあげた范敬だが。今度は凍りついてしまった。
「松光柳さま……」
吐息のように范敬は言葉を洩らした。その声にはきらきらした星が宿っている。
女官や宮女たちが噂している麗しの宦官が、目の前にいる。
「ほら、雲嵐。わざわざ昭媛の宮まで行く必要など、なかったではないか。先にこの未央宮に来れば早かったんだ」
「光柳さま。蔡昭媛さまが、たまたまこちらにいらしたというだけですから」
雲嵐にたしなめられて、光柳は少し肩をすくめた。
(ああ。目が。目が痛い。美しすぎると、目が痛くなるものなのね)
范敬は気づかなかった。
夜の月光を集めたような、清らかな光柳と、草原を渡る風をまとったような雲嵐。このふたりをあまりにも凝視しすぎて、瞬きすらも忘れてしまっていたことに。
光柳と雲嵐のふたりを、侍女はこれまで遠目で見たことがあるだけだ。
だからこそ間近で見た破壊力は凄まじい。
目がひりつく。自然と涙がこぼれる。真に美しいものを見ると、泣けてくるのか。
やはり范敬は知らなかった。
単に目が乾燥しているので、防御のために涙が溢れてくることを。
「しかし立ち聞きはいただけないな。嬪の侍女ともあろう者が、はしたないぞ」
光柳は、廊下にしゃがんだままの侍女に手を差し伸べた。
「立ちなさい。それとも足が痺れてしまったか?」
「い、いいえ」
恐る恐る范敬は、光柳の手を取る。
(ひんやりとして、さらりと乾いていらっしゃる。見た目だけではなく、肌までお綺麗なのだわ)
范敬は混乱してしまって、脳内の語彙が怪しくなってしまった。
「そなたの主は、翠鈴に診てもらっているのか」
「は、はい。確かそのような名前の宮女でした」
「では、終わるまで待つしかないな。邪魔をしては怒られてしまう」
「なぜあのような身分の低い宮女の言うことをお聞きになるのですか?」
范敬にとっては、麗しの光柳が翠鈴を尊重するのが納得できないのだろう。素直に問いかけた。
「ふむ。異なことを言う」
光柳は侍女の手を離した。
ゆったりとした動きだったのに。宙に放たれた自分の手が、急に寂しさを覚えたように、范敬は感じた。
「私はただの書令史だ。階級も低い。なのに、なぜそなたは私には礼節を忘れぬのに、翠鈴には無礼な態度をとるのだ?」
「それは……」
范敬は口ごもった。
確かに書令史は流外三等。光柳がただ美しいというだけでは、丁寧に接する理由にはならない。
彼女は知らない。
光柳がどんなに身分を偽ろうとも。尊大な態度をとらずとも。彼自身から溢れる気品に、圧倒されてしまっていることを。
品性は生まれ持ったものではない。
日々、教養を身につけ、感性を磨くからこそ得られるのだ。
「まぁいい。翠鈴の診立てが終わるまで、そなたに話を聞くとしよう」
光柳の言葉を受けて、未央宮の侍女が急いで部屋を用意させた。
麗しの宦官と話をするなんて。
范敬は足もとがふわふわとした。まるで雲に乗ったかのようだ。
ただ光柳の聞きたい内容が、蔡昭媛に対する虐めだとは知らずに。
蔡昭媛の侍女、范敬は、部屋の外で扉に耳をつけていた。
目つきの悪い生意気な薬師の声は、切れ切れに聞こえる。何を言っているのかは分からないが。
主である蔡昭媛に関しては、声すら届かない。
背伸びをして、耳をつける場所変えても無理だ。
「もうちょっと下なら、聞こえるのかしら」
今度は廊下にしゃがんでみる。
今日もまた指先が痺れている。ここのところ続いている寒さのせいだろうか。
盗み聞きに夢中になりすぎて、范敬は気づかなかった。
足音が近づいてくることに。
「何をしておいでですか?」
「ひっ」
背後から声をかけられて、侍女は固まってしまった。
この未央宮に仕える侍女が、怪訝そうに眉をひそめている。
(言えない。主の話の邪魔をするなと、部屋を追いだされたなんて。しかもあんな位の低い宮女に)
淑妃や、その侍女に咎められるなら話も聞こう。だが、あの翠鈴という女はただの司燈というではないか。
少し薬に詳しいだけ。医官ですらないのに。なぜ我が主は、どこの馬の骨とも知れぬ宮女に頼るのか。
「ははぁ。なるほど。翠鈴に部屋を追いだされたか」
頭上から、不躾な声が聞こえた。
キッと睨みつけようと顔をあげた范敬だが。今度は凍りついてしまった。
「松光柳さま……」
吐息のように范敬は言葉を洩らした。その声にはきらきらした星が宿っている。
女官や宮女たちが噂している麗しの宦官が、目の前にいる。
「ほら、雲嵐。わざわざ昭媛の宮まで行く必要など、なかったではないか。先にこの未央宮に来れば早かったんだ」
「光柳さま。蔡昭媛さまが、たまたまこちらにいらしたというだけですから」
雲嵐にたしなめられて、光柳は少し肩をすくめた。
(ああ。目が。目が痛い。美しすぎると、目が痛くなるものなのね)
范敬は気づかなかった。
夜の月光を集めたような、清らかな光柳と、草原を渡る風をまとったような雲嵐。このふたりをあまりにも凝視しすぎて、瞬きすらも忘れてしまっていたことに。
光柳と雲嵐のふたりを、侍女はこれまで遠目で見たことがあるだけだ。
だからこそ間近で見た破壊力は凄まじい。
目がひりつく。自然と涙がこぼれる。真に美しいものを見ると、泣けてくるのか。
やはり范敬は知らなかった。
単に目が乾燥しているので、防御のために涙が溢れてくることを。
「しかし立ち聞きはいただけないな。嬪の侍女ともあろう者が、はしたないぞ」
光柳は、廊下にしゃがんだままの侍女に手を差し伸べた。
「立ちなさい。それとも足が痺れてしまったか?」
「い、いいえ」
恐る恐る范敬は、光柳の手を取る。
(ひんやりとして、さらりと乾いていらっしゃる。見た目だけではなく、肌までお綺麗なのだわ)
范敬は混乱してしまって、脳内の語彙が怪しくなってしまった。
「そなたの主は、翠鈴に診てもらっているのか」
「は、はい。確かそのような名前の宮女でした」
「では、終わるまで待つしかないな。邪魔をしては怒られてしまう」
「なぜあのような身分の低い宮女の言うことをお聞きになるのですか?」
范敬にとっては、麗しの光柳が翠鈴を尊重するのが納得できないのだろう。素直に問いかけた。
「ふむ。異なことを言う」
光柳は侍女の手を離した。
ゆったりとした動きだったのに。宙に放たれた自分の手が、急に寂しさを覚えたように、范敬は感じた。
「私はただの書令史だ。階級も低い。なのに、なぜそなたは私には礼節を忘れぬのに、翠鈴には無礼な態度をとるのだ?」
「それは……」
范敬は口ごもった。
確かに書令史は流外三等。光柳がただ美しいというだけでは、丁寧に接する理由にはならない。
彼女は知らない。
光柳がどんなに身分を偽ろうとも。尊大な態度をとらずとも。彼自身から溢れる気品に、圧倒されてしまっていることを。
品性は生まれ持ったものではない。
日々、教養を身につけ、感性を磨くからこそ得られるのだ。
「まぁいい。翠鈴の診立てが終わるまで、そなたに話を聞くとしよう」
光柳の言葉を受けて、未央宮の侍女が急いで部屋を用意させた。
麗しの宦官と話をするなんて。
范敬は足もとがふわふわとした。まるで雲に乗ったかのようだ。
ただ光柳の聞きたい内容が、蔡昭媛に対する虐めだとは知らずに。
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