後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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五章 女炎帝

11、陳燕の後悔

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「わたしが、光柳さまからいただいた圍巾ウェイジンを使っているだけで、喜んでもらえるなんて」

 夕暮れの仕事を終えて、翠鈴は宿舎に戻った。

 食事に行く前に、上質な圍巾ウェイジンを首から外す。廊下からは、食堂へと向かう宮女たちのはしゃぐ声が聞こえる。
 まだ由由ヨウヨウの戻っていない部屋は翠鈴ひとりきりで。とても静かだ。

 室内だというのに、露わになったうなじがひんやりする。
 春の雲のような、あるいは光柳の腕で包んでもらっているかのような優しいぬくもりは。それが失せたとたんに、寒さを感じるのだろう。

 光柳が喜ぶと、翠鈴の心に温かな光が生まれる。まるで自分の心にも、灯籠があるかのように。
 翠鈴の灯籠に火をつけるのは、光柳だ。しかも事あるごとに、丹念に着火していく。

「ずるいですよ」

 ぽつりとこぼした言葉は、顔を覆う両手の中に消えた。

「なんでそんなに素直なんですか。人を振り回すくせに。わたしを見かけただけで、笑顔になるなんて……ずるいです」

 そんな風にまっすぐに愛情を向けられて。気づかないわけがない。

 ◇◇◇ 

 皆が夕餉を終えた夜。甘露宮の侍女の部屋で、陳燕チェンイェンはうなだれていた。

 見つからないのだ。大事な腕輪が。
 箪笥の引き出しは、隅から隅まで探した。そのせいで、衣や簪が、床に散乱している。

 この時の陳燕は、まだ知らなかった。
 すでに腕輪を盗んだ犯人が、未央宮に逃げこんでいたことを。とうに捕まっていることを。

「こんなこと、叔父さまに知られたら。また怒られる」

 陳燕は、部屋の隅に並べて置いてある、花盆沓かぼんくつにちらりと目を向ける。もしかして、誤って沓の中に入りこんだのでは? と期待を込めて沓を逆さにして振るが。何もない。

(もう、こんなくついらないのに)

 鳥の刺繍が施された、底の高い沓を陳燕は握りしめる。
 右頬がまだ痛む。腫れは引いたはずなのに。

 先日。大理寺卿だいりじけいに昇進した祝いに、陳燕は叔父の元を訪れた。

「やぁ、元気そうだね……陳燕」

 祝いならと、装いも派手にと意気込んでだ陳燕を見て、叔父の陳天分チェンティエンフェンは、眉をひそめた。

 親族とはいえ、後宮で働く侍女が男性と会うには許可がいる。
 それに陳燕は、大理寺の中には入れない。久しぶりの再会なのに、叔父と姪は外にいた。

「叔父さまに昇進のお祝いを申しあげに来たんですもの。地味では景気が悪いでしょう?」

 ふふん、と自慢げに陳燕が口の端を上げる。

 陳燕の父であれば、華やかに着飾った娘のことを褒め称えただろう。だが、叔父は違う。商家を継いでいない。
 むしろ陳天分は、華美や虚飾を嫌う。
 残念ながら陳燕には、叔父の好みが分かっていない。分かるほどには親しくもない。

「景気、ね」

 陳天分の口調に皮肉が混じる。
 そんな些細な変化を気づくほど、陳燕は繊細ではない。

「君はマー貴妃に仕える侍女だろう。そんな仰々しい飾りをつける必要があるのか?」

 おめでとうございます、と言いかけた陳燕は口を閉ざした。
 通りがかった文官が、ちらりと陳燕に視線を送った。

「聞いたぞ。君は失態をふたつ犯したそうじゃないか。ひとつは衣裳を盗まれたこと。ふたつは偽の麟美リンメイの詩を掴まされたこと」

 暑くもないのに、むしろ凍えるほどに寒いのに。
 陳燕のこめかみを、汗が伝う。

「明らかな駄作だったそうだな。使われている紙も、高級な竹紙ちくしではなく、麻紙だったと。陳家の娘ならば、伝説の詩人が使う紙の違い、作風の違いくらい知っておくべきだ。勉強不足ではないのか」

 叔父に怒鳴られているわけではない。ただ、反論の隙もなく、くどくどと説教される。

 あの時は、未央宮の陸翠鈴ルーツイリンに助けられた。
 翠鈴に麟美の詩を見せびらかしに行ったから。ちょうど彼女がいたから、自分の手は毒から守られた。

 高慢な陳燕の行為に、翠鈴は腹を立てただろうに。瞬時に麻紙に毒が塗られていることを見抜いて、翠鈴は対処してくれた。
 たしか秋明菊の毒だと指摘していた。

 あのまま知らずに放置していれば、陳燕の皮膚はかぶれてしまっていただろう。

(毒のことを叔父さんが知れば、激怒したはずだわ)

 翠鈴に感謝すべきなのに。
 自分からケンカをふっかけた手前、ちゃんと礼を告げることもできない。

「兄さんは、子供を甘やかしすぎだ。ろくに躾もできていない。何でも買い与えて我慢をさせない。勉強が嫌だと君が訴えれば、無理しなくてもいいと言う」

 そんなことはないです、と陳燕は抗議したかった。
 だが、まるで陶酔するかのように、歌うように、陳天分は話し続ける。止まらない。

「侍女の君が着飾る理由は何だ。もし下位の側室が空席になれば、その座を狙ってでもいるのか。だが残念だったな。陛下は、知的な女性がお好みだ。まるで燕尾蝶あげはちょうのようにゴテゴテした女性になど、興味がおありではないのだ」

 そんなの当たり前じゃない、と陳燕は主張したかった。
 自分は、四夫人の中でも最も高貴な貴妃の侍女なのだ。主に甘露宮に陛下がお越しになる夜ではあるが。お目にかかることだってある。

 女官から側室になった者もいる。下位の側室よりも大商家の出身の陳燕の方が、よほど華やいで美しい。

「浅ましいことだ。貴妃にお仕えしながら、いずれは自分ものし上がろうと考えているのだろう。汚らしい考えだ」

 汚らしい? 
 後宮に入った女ならば、帝に愛されることを望んで当然だ。そうでないのなら、臣下に下賜されて嫁入りをする。

 甘露宮には初老になるまで勤めている女官もいるが。哀れ以外の何物でもない。
 後宮を出ても、行く当てすらない者もいる。ならば、死ぬまで後宮で働き続けなければならないのだ。

「叔父さまには分からないわ。わたくしが……わたくし達がどれほど」

 陳燕が言いかけた時。風が吹いた。

 冷たい風に枯葉が足もとを舞う。くんの裾が揺れて、底の高い花盆沓がのぞいた。
 陳天分が、姪の足もとに目を向ける。そして足を動かした。
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