59 / 171
五章 女炎帝
10、光柳の圍巾
しおりを挟む
向かいの席に座る光柳は、翠鈴をじっと見つめた。
音がしない。雲嵐も微動だにしない。
遠くから、微かに鳥の鳴く声が聞こえる。火鉢の炭が崩れたのだろう。窗から射す午後の光に、灰が軽く舞うのが見えた。
「翠鈴。今回は侵入者が反撃してこなかったから、問題はなかったが。あの宮女が、君に襲い掛かってくる可能性もあった」
相手が身動きできないように、ひたいに棒の先端を押し当てていたのだが。
翠鈴はその言葉を飲みこんだ。湯圓の薔薇の香りとともに。
たまたま不審者がひとりであっただけだ。背後にもうひとり隠れていたなら。翠鈴の方がやられていたに違いない。
「何でもひとりで解決しようとするな。抱え込まずに、私や雲嵐に相談してくれ」
「光柳さまのおっしゃる通りです」
雲嵐が言葉を添えた。とても静かな声だった。
「わたしは……」
なんて答えていいのか、翠鈴は分からなかった。
女性扱いしてもらっている? それもあるかもしれないが。もっと深い部分で、光柳から大事に思ってもらっているのが伝わってくる。
蘭淑妃や桃莉公主を守ったことを褒められるのは嬉しい。でも、侵入者に立ち向かった自分を案じてくれると。背中がもぞもぞするし、胸の奥がほわっと温かくなる。
湯泉宮へ行く途中。舟を乗り降りするときに光柳は翠鈴に手を差し伸べてくれた。
確かに一人でも舟には乗れる。それでも光柳が手を取ってくれたことを、翠鈴は時々思い出す。
翠鈴は、碗を手に取りお茶をひとくち飲んだ。
薔薇の香気を邪魔しないように、薄めの緑茶だ。
「騒ぎが大きくなって、人は集まってきました」
「ああ、そうだったな」
光柳も碗を手にした。
「ですが、何事かと遠巻きに眺める人ばかりで。わざわざ介入してくる人はいませんでした」
それはつまり、見物人にとっては翠鈴がどうなろうが関わるつもりはないということだ。
警備の宦官は来てくれた。それでも侍女の一人が勇気を出して、未央宮の裏から助けを呼びに行ってくれたから。
「光柳さまと雲嵐さまがいらしてくださって、よかったです」
翠鈴は心からそう思った。
その言葉に、座っている光柳と立っている雲嵐が顔を見合わせる。
ふたりの表情が緩んだ。まだ遠い春の花がほころぶように。
「私の圍巾を使ってくれているのだな」
光柳の言葉に、翠鈴はうなずいた。
圍巾は、たたんで膝に載せているから。卓の陰になって、光柳の位置からは見えないはずだ。
けれど、気づいていたのだろう。光柳の圍巾を、翠鈴が首に巻いていたことに。
あれは湯泉宮から帰ってすぐのことだった。
夜明け前に回廊の灯を消していた翠鈴の元に、光柳がやって来たのだ。
雲嵐はいないので。起床時間の前に、自室を抜け出したのだろう。
(あまり勝手に動かれては、雲嵐さまもお困りなんじゃないのかなぁ)
白い息を吐きながら、翠鈴は仕事の手を止めた。
回廊から庭に降りると、足の裏でさくりと霜柱がはかなく崩れた。
「まだ杷京は寒いからな。これを使うといい」
そう言って、光柳は首に巻いていた圍巾を外した。
外して、ぬくもりの残る襟巻を翠鈴の首にかけたのだ。ついでにぐるぐる巻きにされた。
「どうだ? 暖かいだろう。薄いが保温性は抜群だ」
光柳は得意げにあごを上げた。
だが、すぐに寒そうに身を震わせる。
首と顔の半分を圍巾で巻かれた翠鈴は「何をするんですか」と言いそうになったが。あまりの温かさに、思わず瞼を閉じてしまった。
いけない。これは布団よりも心地いい。
ほわほわの綿雲に包まれたら、こんな感じなのだろうか。首と口元だけに、春が訪れたかのようだ。
瞼の裏に、黄色く咲き乱れるいちめんの菜の花畑が見える。ミツバチの翅音が聞こえたような気がした。
ぬくもりに、溶けてしまいそう。
「……暖かいです」
「そうだろう? この圍巾を私と思って大事にするがいい」
「大事にするなら、宿舎の竹籠に入れてしまっておきます」
「あ、いや。そうではなく」
光柳は、腕を組んで「うーん」と唸った。
「冗談です。ありがたく使わせていただきます」
翠鈴は微笑んだ。
それから毎日、仕事の時は圍巾を巻いている。寒さ対策だけではなく、説明はしにくいが、気持ちがほっとする。
音がしない。雲嵐も微動だにしない。
遠くから、微かに鳥の鳴く声が聞こえる。火鉢の炭が崩れたのだろう。窗から射す午後の光に、灰が軽く舞うのが見えた。
「翠鈴。今回は侵入者が反撃してこなかったから、問題はなかったが。あの宮女が、君に襲い掛かってくる可能性もあった」
相手が身動きできないように、ひたいに棒の先端を押し当てていたのだが。
翠鈴はその言葉を飲みこんだ。湯圓の薔薇の香りとともに。
たまたま不審者がひとりであっただけだ。背後にもうひとり隠れていたなら。翠鈴の方がやられていたに違いない。
「何でもひとりで解決しようとするな。抱え込まずに、私や雲嵐に相談してくれ」
「光柳さまのおっしゃる通りです」
雲嵐が言葉を添えた。とても静かな声だった。
「わたしは……」
なんて答えていいのか、翠鈴は分からなかった。
女性扱いしてもらっている? それもあるかもしれないが。もっと深い部分で、光柳から大事に思ってもらっているのが伝わってくる。
蘭淑妃や桃莉公主を守ったことを褒められるのは嬉しい。でも、侵入者に立ち向かった自分を案じてくれると。背中がもぞもぞするし、胸の奥がほわっと温かくなる。
湯泉宮へ行く途中。舟を乗り降りするときに光柳は翠鈴に手を差し伸べてくれた。
確かに一人でも舟には乗れる。それでも光柳が手を取ってくれたことを、翠鈴は時々思い出す。
翠鈴は、碗を手に取りお茶をひとくち飲んだ。
薔薇の香気を邪魔しないように、薄めの緑茶だ。
「騒ぎが大きくなって、人は集まってきました」
「ああ、そうだったな」
光柳も碗を手にした。
「ですが、何事かと遠巻きに眺める人ばかりで。わざわざ介入してくる人はいませんでした」
それはつまり、見物人にとっては翠鈴がどうなろうが関わるつもりはないということだ。
警備の宦官は来てくれた。それでも侍女の一人が勇気を出して、未央宮の裏から助けを呼びに行ってくれたから。
「光柳さまと雲嵐さまがいらしてくださって、よかったです」
翠鈴は心からそう思った。
その言葉に、座っている光柳と立っている雲嵐が顔を見合わせる。
ふたりの表情が緩んだ。まだ遠い春の花がほころぶように。
「私の圍巾を使ってくれているのだな」
光柳の言葉に、翠鈴はうなずいた。
圍巾は、たたんで膝に載せているから。卓の陰になって、光柳の位置からは見えないはずだ。
けれど、気づいていたのだろう。光柳の圍巾を、翠鈴が首に巻いていたことに。
あれは湯泉宮から帰ってすぐのことだった。
夜明け前に回廊の灯を消していた翠鈴の元に、光柳がやって来たのだ。
雲嵐はいないので。起床時間の前に、自室を抜け出したのだろう。
(あまり勝手に動かれては、雲嵐さまもお困りなんじゃないのかなぁ)
白い息を吐きながら、翠鈴は仕事の手を止めた。
回廊から庭に降りると、足の裏でさくりと霜柱がはかなく崩れた。
「まだ杷京は寒いからな。これを使うといい」
そう言って、光柳は首に巻いていた圍巾を外した。
外して、ぬくもりの残る襟巻を翠鈴の首にかけたのだ。ついでにぐるぐる巻きにされた。
「どうだ? 暖かいだろう。薄いが保温性は抜群だ」
光柳は得意げにあごを上げた。
だが、すぐに寒そうに身を震わせる。
首と顔の半分を圍巾で巻かれた翠鈴は「何をするんですか」と言いそうになったが。あまりの温かさに、思わず瞼を閉じてしまった。
いけない。これは布団よりも心地いい。
ほわほわの綿雲に包まれたら、こんな感じなのだろうか。首と口元だけに、春が訪れたかのようだ。
瞼の裏に、黄色く咲き乱れるいちめんの菜の花畑が見える。ミツバチの翅音が聞こえたような気がした。
ぬくもりに、溶けてしまいそう。
「……暖かいです」
「そうだろう? この圍巾を私と思って大事にするがいい」
「大事にするなら、宿舎の竹籠に入れてしまっておきます」
「あ、いや。そうではなく」
光柳は、腕を組んで「うーん」と唸った。
「冗談です。ありがたく使わせていただきます」
翠鈴は微笑んだ。
それから毎日、仕事の時は圍巾を巻いている。寒さ対策だけではなく、説明はしにくいが、気持ちがほっとする。
38
あなたにおすすめの小説
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います
こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。
※「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。