85 / 171
七章 毒の豆
2、花園【1】
しおりを挟む
後宮には、花園がいくつかある。
花壇だけの造りもあるが。中には楼閣や四阿を備えた庭園もある。四季ごとの花が咲き誇るので、いずれも花園と呼ばれている。
晴れた午後のこと。後宮の奥にある花園で、光柳と雲嵐は柱の赤い四阿で座っていた。光柳と雲嵐は、柱の赤い四阿で座っていた。
休日という訳でもないのだが。陛下から、詩の依頼が入ったのだ。
「ふつうな、詩というのは心が動いたときに詠むものではないのか? ほら、琴線に触れる場面に遭遇した時とか」
「そういう呑気な詩作は、隠居なさってからするものです」
雲嵐は、光柳の向かいに座っている。
今日は風が冷たくない。葉の裏にでも潜んでいたのだろう。白い蝶が飛んできて、光柳の隣にとまった。
「隠居かぁ。いつになることだか」
筆を手に、つまらなさそうな声を出した光柳だが。次の瞬間、明るい笑顔を浮かべた。
「別に老人になるまで勤める必要はないよな」
「は?」
「つまり、若いうちに引退すればいい。そして各地を旅して詩を詠む。そのために必要なものは何だと思う?」
あ、現実逃避を始めた。
雲嵐は、呆れた表情で光柳を眺めた。
(この人は恋愛には疎いし、興味もないのに。恋の詩だけは上手に詠めるのだから)
「好き」と「得意」が一致しないのは、よくあることだ。
自分の特性に本人が気づかぬままに「下手」なのに「好き」だと錯覚して、苦労することもよくある。
麟美の偽の詩として、売りさばかれていた女官の宋雨桐がそうだった。
三十年も詩を作り続けて。決して諦めることなく、詩を詠んで。なのに、どれほど言葉を連ねても、上達はしない。
むしろ雨桐は、詩を作るときに身構えてしまったのだろう。だから、人の心を打つものができない。
(光柳さまは、詩に関しては恵まれた環境でお育ちになったから。息をするように、恋の詩が詠める。苦もなく簡単にできることが、長所であるとは気づかないんだよな)
怪我をして歩けなくなって初めて、歩けることが当たり前ではなかったと気づくように。
「雲嵐?」
返事を得られなかった光柳が、不安そうな表情を浮かべて雲嵐の顔を覗きこむ。
(まったく。困った人だ。甘え上手なのだから)
甘えが許される。それは愛されて育った者が、当たり前に持つものだ。
普通なら、嫉妬もするだろうが。
光柳は、親に売られた子供であった雲嵐を大事にしてくれた。
母親の麟美から受け継いだのは、美意識や繊細な気持ちを言葉に変換する術ばかりではなく。優しさや思いやりもだろう。
「……お金ですかね。生活のための」
雲嵐はそう答えたが。陛下の弟君でいらっしゃる光柳は、生活費の心配をする必要などないのではないか。
ふと、雲嵐は意地悪を言いたくなった。
「では、今のうちにしっかりと稼いでおかねばなりませんね。麟美さまの恋の詩は、高い値がつきますし。陛下からの謝礼もかなりの額になりますからね」
「ふむ。雲嵐の言うとおりだな」
結局、光柳は好きでもない恋の詩を詠みはじめた。
(いくつになっても、手のかかる主だ)
だが、子供の頃のように光柳に頼られるのは、悪くはない。雲嵐は小さく微笑んだ。
花園の道を歩く足音が近づいてきた。
光柳が顔を上げると、足音が止まる。白い蝶が、ふわりと飛び去った。
「翠鈴」
「あー、奇遇ですね」
一緒に座ってもいいですか? と声をかけてから、翠鈴は四阿に入ってきた。
いいもなにも。大歓迎だ。という言葉を、光柳は飲みこむ。
きっと雲嵐に冷ややかな目で見られそうだから。
今の自分は麟美として、仕事をしている。麟美は嬉しそうに尻尾をふってはならない。
「気まぐれな冬の蝶が、いま飛び去った。幸いにも私の隣は空いたところだ。さぁ、座りなさい」
翠鈴が、おや? と片方の眉を上げた。
「これは失礼しました。今の光柳さまは、麟美さまでしたか。詩作の邪魔をしてはいけませんね」
気を利かせた翠鈴が、四阿から出ていこうとする。
その上衣の裾を、光柳は掴んだ。
ひとつに結んだ翠鈴の黒髪がなびく。艶のある髪が、午後の光を宿した。
まるで春風を、指でとらえたかのような心地がした。
「邪魔にはならない。大丈夫だ」
「では、お言葉に甘えて」
翠鈴が光柳の隣に腰を下ろす。言葉に力がない。疲れているのとは、少し違うような気がする。
「悩みごとでもあるのか?」
「分かりますか? 悩みというのかどうか……」
翠鈴は、膝の上で左右の指を組んだり外したりしている。
いつもははっきりと物を言うのに。珍しい。
光柳と雲嵐は、視線を交わした。
「女炎帝、か?」
どうやら当たっていたらしい。光柳の言葉に、翠鈴が顔を上げる。
へにゃっと、情けない笑みを翠鈴が浮かべる。
自分でも気づかぬうちに、光柳は筆を置いていた。
花壇だけの造りもあるが。中には楼閣や四阿を備えた庭園もある。四季ごとの花が咲き誇るので、いずれも花園と呼ばれている。
晴れた午後のこと。後宮の奥にある花園で、光柳と雲嵐は柱の赤い四阿で座っていた。光柳と雲嵐は、柱の赤い四阿で座っていた。
休日という訳でもないのだが。陛下から、詩の依頼が入ったのだ。
「ふつうな、詩というのは心が動いたときに詠むものではないのか? ほら、琴線に触れる場面に遭遇した時とか」
「そういう呑気な詩作は、隠居なさってからするものです」
雲嵐は、光柳の向かいに座っている。
今日は風が冷たくない。葉の裏にでも潜んでいたのだろう。白い蝶が飛んできて、光柳の隣にとまった。
「隠居かぁ。いつになることだか」
筆を手に、つまらなさそうな声を出した光柳だが。次の瞬間、明るい笑顔を浮かべた。
「別に老人になるまで勤める必要はないよな」
「は?」
「つまり、若いうちに引退すればいい。そして各地を旅して詩を詠む。そのために必要なものは何だと思う?」
あ、現実逃避を始めた。
雲嵐は、呆れた表情で光柳を眺めた。
(この人は恋愛には疎いし、興味もないのに。恋の詩だけは上手に詠めるのだから)
「好き」と「得意」が一致しないのは、よくあることだ。
自分の特性に本人が気づかぬままに「下手」なのに「好き」だと錯覚して、苦労することもよくある。
麟美の偽の詩として、売りさばかれていた女官の宋雨桐がそうだった。
三十年も詩を作り続けて。決して諦めることなく、詩を詠んで。なのに、どれほど言葉を連ねても、上達はしない。
むしろ雨桐は、詩を作るときに身構えてしまったのだろう。だから、人の心を打つものができない。
(光柳さまは、詩に関しては恵まれた環境でお育ちになったから。息をするように、恋の詩が詠める。苦もなく簡単にできることが、長所であるとは気づかないんだよな)
怪我をして歩けなくなって初めて、歩けることが当たり前ではなかったと気づくように。
「雲嵐?」
返事を得られなかった光柳が、不安そうな表情を浮かべて雲嵐の顔を覗きこむ。
(まったく。困った人だ。甘え上手なのだから)
甘えが許される。それは愛されて育った者が、当たり前に持つものだ。
普通なら、嫉妬もするだろうが。
光柳は、親に売られた子供であった雲嵐を大事にしてくれた。
母親の麟美から受け継いだのは、美意識や繊細な気持ちを言葉に変換する術ばかりではなく。優しさや思いやりもだろう。
「……お金ですかね。生活のための」
雲嵐はそう答えたが。陛下の弟君でいらっしゃる光柳は、生活費の心配をする必要などないのではないか。
ふと、雲嵐は意地悪を言いたくなった。
「では、今のうちにしっかりと稼いでおかねばなりませんね。麟美さまの恋の詩は、高い値がつきますし。陛下からの謝礼もかなりの額になりますからね」
「ふむ。雲嵐の言うとおりだな」
結局、光柳は好きでもない恋の詩を詠みはじめた。
(いくつになっても、手のかかる主だ)
だが、子供の頃のように光柳に頼られるのは、悪くはない。雲嵐は小さく微笑んだ。
花園の道を歩く足音が近づいてきた。
光柳が顔を上げると、足音が止まる。白い蝶が、ふわりと飛び去った。
「翠鈴」
「あー、奇遇ですね」
一緒に座ってもいいですか? と声をかけてから、翠鈴は四阿に入ってきた。
いいもなにも。大歓迎だ。という言葉を、光柳は飲みこむ。
きっと雲嵐に冷ややかな目で見られそうだから。
今の自分は麟美として、仕事をしている。麟美は嬉しそうに尻尾をふってはならない。
「気まぐれな冬の蝶が、いま飛び去った。幸いにも私の隣は空いたところだ。さぁ、座りなさい」
翠鈴が、おや? と片方の眉を上げた。
「これは失礼しました。今の光柳さまは、麟美さまでしたか。詩作の邪魔をしてはいけませんね」
気を利かせた翠鈴が、四阿から出ていこうとする。
その上衣の裾を、光柳は掴んだ。
ひとつに結んだ翠鈴の黒髪がなびく。艶のある髪が、午後の光を宿した。
まるで春風を、指でとらえたかのような心地がした。
「邪魔にはならない。大丈夫だ」
「では、お言葉に甘えて」
翠鈴が光柳の隣に腰を下ろす。言葉に力がない。疲れているのとは、少し違うような気がする。
「悩みごとでもあるのか?」
「分かりますか? 悩みというのかどうか……」
翠鈴は、膝の上で左右の指を組んだり外したりしている。
いつもははっきりと物を言うのに。珍しい。
光柳と雲嵐は、視線を交わした。
「女炎帝、か?」
どうやら当たっていたらしい。光柳の言葉に、翠鈴が顔を上げる。
へにゃっと、情けない笑みを翠鈴が浮かべる。
自分でも気づかぬうちに、光柳は筆を置いていた。
155
あなたにおすすめの小説
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
番を辞めますさようなら
京佳
恋愛
番である婚約者に冷遇され続けた私は彼の裏切りを目撃した。心が壊れた私は彼の番で居続ける事を放棄した。私ではなく別の人と幸せになって下さい。さようなら…
愛されなかった番。後悔ざまぁ。すれ違いエンド。ゆるゆる設定。
※沢山のお気に入り&いいねをありがとうございます。感謝感謝♡
三回目の人生も「君を愛することはない」と言われたので、今度は私も拒否します
冬野月子
恋愛
「君を愛することは、決してない」
結婚式を挙げたその夜、夫は私にそう告げた。
私には過去二回、別の人生を生きた記憶がある。
そうして毎回同じように言われてきた。
逃げた一回目、我慢した二回目。いずれも上手くいかなかった。
だから今回は。
下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~
イシュタル
恋愛
王宮から突然嫁がされた18歳の少女・ソフィアは、冷たい風の吹く屋敷へと降り立つ。迎えたのは、無愛想で人嫌いな騎士爵グラッド・エルグレイム。金貨の袋を渡され「好きにしろ」と言われた彼女は、侍女も使用人もいない屋敷で孤独な生活を始める。
王宮での優雅な日々とは一転、自分の髪を切り、服を整え、料理を学びながら、ソフィアは少しずつ「夫人」としての自立を模索していく。だが、辻馬車での盗難事件や料理の失敗、そして過労による倒れ込みなど、試練は次々と彼女を襲う。
そんな中、無口なグラッドの態度にも少しずつ変化が現れ始める。謝罪とも言えない金貨の袋、静かな気遣い、そして彼女の倒れた姿に見せた焦り。距離のあった二人の間に、わずかな波紋が広がっていく。
これは、王宮の寵姫から孤独な夫人へと変わる少女が、自らの手で居場所を築いていく物語。冷たい屋敷に灯る、静かな希望の光。
⚠️本作はAIとの共同製作です。
【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。