後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

文字の大きさ
86 / 171
七章 毒の豆

3、花園【2】

しおりを挟む
 光柳の右手が、翠鈴の頭を撫でる。
 男性にしてはたおやかに動く指。せめて優しく触れれば、翠鈴の心の隙間を埋めることができるのではないか。そんな風に考えて。

「あ、あのっ」

 翠鈴の声が裏返った。きっと悩みを訴えたくて、それでも言うべきかどうか迷っているのだろう。

(鋭い目つきに似合わず、翠鈴は健気なところがあるんだよな)

 そんなところも可愛く思える。

「青竹の幻のが過ぎゆけど みどり染みゆく 今朝がまた来る」

 光柳の口からぽつりとこぼれたのは、長歌ちょうかにもならぬ短い詩だった。

 すっと伸びたすがしい竹にも似た薬師が消えた朝。後宮という世界は、彼女の残したみどりに染まる。夢のような一瞬の夜が失せて、翠の余韻の中で人は孤独を感じるのだ。

「どこへ行っても、人に見られるのは疲れるだろう。むろん、ほとんどの女性は、君が夜更けの薬売りと気づいても黙っているだろう。だが、そうではない者もいる」

 翠鈴を薬売りと認識している者は、まだいい。
 だが彼女を女炎帝として、熱狂的に妄信する宮女もいる。
 たとえ直接翠鈴に声をかけずとも、視線が彼女を追いかける。

 大理寺卿だいりじけいであった陳天分チェンティエンフェンに宮女たちが捕まった時。宮女たちを解放したのは光柳だが。その裏で翠鈴が動いていたことは、広く知られている。

(君はただ、おいしいお茶や薬の材料を買いたいだけなのにな)

 雲嵐を気にかけるのは、光柳にとっては当然だ。兄弟同然なのだから。半分は血の繋がっている皇帝、劉傑倫リウジエルンよりも、何百倍も何千倍も近いし大切だ。

 これまで雲嵐しかいなかった至近距離に、今は翠鈴もいる。
 手を伸ばせば触れられる。呟く声ですらも聞き取れる。
 とても大事な存在だ。

「人に見られたくないなら、ここに来ればいい。後宮の裏にあり、訪れる者も少ないからな。私の隣で休んでいけばいい」

 この花園かえんは、光柳が麟美の詩を作るときによく訪れる。静かで、季節ごとの花が咲き、心が安らぐのだ。
 人には教えたくない穴場だ。だが、翠鈴なら大歓迎だ。

「あの、光柳さまっ。手、手が。頭に」
「うん。知っているぞ」

 なぜか翠鈴は、向かいに座る雲嵐に視線を向ける。
 なにゆえ彼に助けを求める?

 そう考えて、はっとした。

「あ……っ」

 光柳は、かつて翠鈴に頭を撫でられたことを思いだした。それは接吻と同じ意味を持つ。

 あの時、自分はあまりにも恥ずかしくて。熱が出たんじゃないかと思うほど、顔が火照って。耳もちぎれそうなほどに熱かったのに。

「やってしまった。どうしよう、雲嵐」
「知りませんよ。翠鈴から手を離したらどうなんです?」

 雲嵐は冷たい。

「手が、離れたくないと言っている」
「へーぇ。光柳さまの手には、口がついていらっしゃるんですか。『山海経せんがいきょう』に、王都の妖怪として記されてしまいますよ」

 やっぱり冷たい。

「言葉は通じるのに。話が通じない人がいますよね」

 ようやく光柳が手を離したので。翠鈴は、ぽつりぽつりと話しはじめた。
 自分が何に悩んでいるのか、頭の中で整理しているかのように。

「わたしは女炎帝でないことなど、当たり前のことです。薬の勉強をしてきただけの司燈しとうなんですから」

 もちろん、手荒れや医局を頼りにくい症状を助けてあげたい気持ちはある。困っている女官や宮女が、翠鈴の薬で笑顔になるのは嬉しいに違いない。それに当然、お金も入る。
 顧客も助かり、自分も助かる。

 けれど、中には翠鈴が薬を売ることに意味を見出そうとする者がいる。考察ともいえるが。

「今の時期は、肌が乾燥して荒れます。だから手荒れの紫根しこんを売るのは当然です。しもやけの薬だって、寒さが厳しい冬だからこそです」
「まぁ、そうだろうな」

 光柳は同意した。
 翠鈴とて、夏場にしもやけの薬を売ったりはしないだろう。どんなに安くしても、需要がないからだ。
 季節ごとに、客が求める物が分かるから。だから、翠鈴は事前に用意する。ただそれだけだ。

「なのに『どうして私が困っているのが分かるんですか?』『きっと薬の女神さまだからですね』『私を見守ってくださるんですね』と、買いかぶられても困るんです」

 翠鈴の目は、空を飛ぶ鳥の行方を追っている。

 陳天分は、女炎帝を妄信する集団を恐れて、女官や宮女を捕らえた。
 牢獄の中の女性たちは、翠鈴の名を出さないように「女炎帝」と言葉を選んでいた節があるが。真に狂信的な者は、仲間を作らないのではないか? 

「この花園はいいですね」

 気持ちが和らいだのか、翠鈴の声が明るくなった

「息がしやすいですね。今は冬枯れで、花が咲いているわけでもないのに。気持ちが晴れます」

 不思議ですね、と翠鈴は苦笑した。

「おそらくですが。ひとりで訪れても、あまり気は紛れないと思いますよ」

 珍しく雲嵐が、翠鈴に意見した。
 翠鈴とて鈍いわけではない。雲嵐の真意は伝わったのだろう。

「そうですね」と、翠鈴はうなずいた。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。

Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。 そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。 そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。 これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。 (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。