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七章 毒の豆
2、花園【1】
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後宮には、花園がいくつかある。
花壇だけの造りもあるが。中には楼閣や四阿を備えた庭園もある。四季ごとの花が咲き誇るので、いずれも花園と呼ばれている。
晴れた午後のこと。後宮の奥にある花園で、光柳と雲嵐は柱の赤い四阿で座っていた。光柳と雲嵐は、柱の赤い四阿で座っていた。
休日という訳でもないのだが。陛下から、詩の依頼が入ったのだ。
「ふつうな、詩というのは心が動いたときに詠むものではないのか? ほら、琴線に触れる場面に遭遇した時とか」
「そういう呑気な詩作は、隠居なさってからするものです」
雲嵐は、光柳の向かいに座っている。
今日は風が冷たくない。葉の裏にでも潜んでいたのだろう。白い蝶が飛んできて、光柳の隣にとまった。
「隠居かぁ。いつになることだか」
筆を手に、つまらなさそうな声を出した光柳だが。次の瞬間、明るい笑顔を浮かべた。
「別に老人になるまで勤める必要はないよな」
「は?」
「つまり、若いうちに引退すればいい。そして各地を旅して詩を詠む。そのために必要なものは何だと思う?」
あ、現実逃避を始めた。
雲嵐は、呆れた表情で光柳を眺めた。
(この人は恋愛には疎いし、興味もないのに。恋の詩だけは上手に詠めるのだから)
「好き」と「得意」が一致しないのは、よくあることだ。
自分の特性に本人が気づかぬままに「下手」なのに「好き」だと錯覚して、苦労することもよくある。
麟美の偽の詩として、売りさばかれていた女官の宋雨桐がそうだった。
三十年も詩を作り続けて。決して諦めることなく、詩を詠んで。なのに、どれほど言葉を連ねても、上達はしない。
むしろ雨桐は、詩を作るときに身構えてしまったのだろう。だから、人の心を打つものができない。
(光柳さまは、詩に関しては恵まれた環境でお育ちになったから。息をするように、恋の詩が詠める。苦もなく簡単にできることが、長所であるとは気づかないんだよな)
怪我をして歩けなくなって初めて、歩けることが当たり前ではなかったと気づくように。
「雲嵐?」
返事を得られなかった光柳が、不安そうな表情を浮かべて雲嵐の顔を覗きこむ。
(まったく。困った人だ。甘え上手なのだから)
甘えが許される。それは愛されて育った者が、当たり前に持つものだ。
普通なら、嫉妬もするだろうが。
光柳は、親に売られた子供であった雲嵐を大事にしてくれた。
母親の麟美から受け継いだのは、美意識や繊細な気持ちを言葉に変換する術ばかりではなく。優しさや思いやりもだろう。
「……お金ですかね。生活のための」
雲嵐はそう答えたが。陛下の弟君でいらっしゃる光柳は、生活費の心配をする必要などないのではないか。
ふと、雲嵐は意地悪を言いたくなった。
「では、今のうちにしっかりと稼いでおかねばなりませんね。麟美さまの恋の詩は、高い値がつきますし。陛下からの謝礼もかなりの額になりますからね」
「ふむ。雲嵐の言うとおりだな」
結局、光柳は好きでもない恋の詩を詠みはじめた。
(いくつになっても、手のかかる主だ)
だが、子供の頃のように光柳に頼られるのは、悪くはない。雲嵐は小さく微笑んだ。
花園の道を歩く足音が近づいてきた。
光柳が顔を上げると、足音が止まる。白い蝶が、ふわりと飛び去った。
「翠鈴」
「あー、奇遇ですね」
一緒に座ってもいいですか? と声をかけてから、翠鈴は四阿に入ってきた。
いいもなにも。大歓迎だ。という言葉を、光柳は飲みこむ。
きっと雲嵐に冷ややかな目で見られそうだから。
今の自分は麟美として、仕事をしている。麟美は嬉しそうに尻尾をふってはならない。
「気まぐれな冬の蝶が、いま飛び去った。幸いにも私の隣は空いたところだ。さぁ、座りなさい」
翠鈴が、おや? と片方の眉を上げた。
「これは失礼しました。今の光柳さまは、麟美さまでしたか。詩作の邪魔をしてはいけませんね」
気を利かせた翠鈴が、四阿から出ていこうとする。
その上衣の裾を、光柳は掴んだ。
ひとつに結んだ翠鈴の黒髪がなびく。艶のある髪が、午後の光を宿した。
まるで春風を、指でとらえたかのような心地がした。
「邪魔にはならない。大丈夫だ」
「では、お言葉に甘えて」
翠鈴が光柳の隣に腰を下ろす。言葉に力がない。疲れているのとは、少し違うような気がする。
「悩みごとでもあるのか?」
「分かりますか? 悩みというのかどうか……」
翠鈴は、膝の上で左右の指を組んだり外したりしている。
いつもははっきりと物を言うのに。珍しい。
光柳と雲嵐は、視線を交わした。
「女炎帝、か?」
どうやら当たっていたらしい。光柳の言葉に、翠鈴が顔を上げる。
へにゃっと、情けない笑みを翠鈴が浮かべる。
自分でも気づかぬうちに、光柳は筆を置いていた。
花壇だけの造りもあるが。中には楼閣や四阿を備えた庭園もある。四季ごとの花が咲き誇るので、いずれも花園と呼ばれている。
晴れた午後のこと。後宮の奥にある花園で、光柳と雲嵐は柱の赤い四阿で座っていた。光柳と雲嵐は、柱の赤い四阿で座っていた。
休日という訳でもないのだが。陛下から、詩の依頼が入ったのだ。
「ふつうな、詩というのは心が動いたときに詠むものではないのか? ほら、琴線に触れる場面に遭遇した時とか」
「そういう呑気な詩作は、隠居なさってからするものです」
雲嵐は、光柳の向かいに座っている。
今日は風が冷たくない。葉の裏にでも潜んでいたのだろう。白い蝶が飛んできて、光柳の隣にとまった。
「隠居かぁ。いつになることだか」
筆を手に、つまらなさそうな声を出した光柳だが。次の瞬間、明るい笑顔を浮かべた。
「別に老人になるまで勤める必要はないよな」
「は?」
「つまり、若いうちに引退すればいい。そして各地を旅して詩を詠む。そのために必要なものは何だと思う?」
あ、現実逃避を始めた。
雲嵐は、呆れた表情で光柳を眺めた。
(この人は恋愛には疎いし、興味もないのに。恋の詩だけは上手に詠めるのだから)
「好き」と「得意」が一致しないのは、よくあることだ。
自分の特性に本人が気づかぬままに「下手」なのに「好き」だと錯覚して、苦労することもよくある。
麟美の偽の詩として、売りさばかれていた女官の宋雨桐がそうだった。
三十年も詩を作り続けて。決して諦めることなく、詩を詠んで。なのに、どれほど言葉を連ねても、上達はしない。
むしろ雨桐は、詩を作るときに身構えてしまったのだろう。だから、人の心を打つものができない。
(光柳さまは、詩に関しては恵まれた環境でお育ちになったから。息をするように、恋の詩が詠める。苦もなく簡単にできることが、長所であるとは気づかないんだよな)
怪我をして歩けなくなって初めて、歩けることが当たり前ではなかったと気づくように。
「雲嵐?」
返事を得られなかった光柳が、不安そうな表情を浮かべて雲嵐の顔を覗きこむ。
(まったく。困った人だ。甘え上手なのだから)
甘えが許される。それは愛されて育った者が、当たり前に持つものだ。
普通なら、嫉妬もするだろうが。
光柳は、親に売られた子供であった雲嵐を大事にしてくれた。
母親の麟美から受け継いだのは、美意識や繊細な気持ちを言葉に変換する術ばかりではなく。優しさや思いやりもだろう。
「……お金ですかね。生活のための」
雲嵐はそう答えたが。陛下の弟君でいらっしゃる光柳は、生活費の心配をする必要などないのではないか。
ふと、雲嵐は意地悪を言いたくなった。
「では、今のうちにしっかりと稼いでおかねばなりませんね。麟美さまの恋の詩は、高い値がつきますし。陛下からの謝礼もかなりの額になりますからね」
「ふむ。雲嵐の言うとおりだな」
結局、光柳は好きでもない恋の詩を詠みはじめた。
(いくつになっても、手のかかる主だ)
だが、子供の頃のように光柳に頼られるのは、悪くはない。雲嵐は小さく微笑んだ。
花園の道を歩く足音が近づいてきた。
光柳が顔を上げると、足音が止まる。白い蝶が、ふわりと飛び去った。
「翠鈴」
「あー、奇遇ですね」
一緒に座ってもいいですか? と声をかけてから、翠鈴は四阿に入ってきた。
いいもなにも。大歓迎だ。という言葉を、光柳は飲みこむ。
きっと雲嵐に冷ややかな目で見られそうだから。
今の自分は麟美として、仕事をしている。麟美は嬉しそうに尻尾をふってはならない。
「気まぐれな冬の蝶が、いま飛び去った。幸いにも私の隣は空いたところだ。さぁ、座りなさい」
翠鈴が、おや? と片方の眉を上げた。
「これは失礼しました。今の光柳さまは、麟美さまでしたか。詩作の邪魔をしてはいけませんね」
気を利かせた翠鈴が、四阿から出ていこうとする。
その上衣の裾を、光柳は掴んだ。
ひとつに結んだ翠鈴の黒髪がなびく。艶のある髪が、午後の光を宿した。
まるで春風を、指でとらえたかのような心地がした。
「邪魔にはならない。大丈夫だ」
「では、お言葉に甘えて」
翠鈴が光柳の隣に腰を下ろす。言葉に力がない。疲れているのとは、少し違うような気がする。
「悩みごとでもあるのか?」
「分かりますか? 悩みというのかどうか……」
翠鈴は、膝の上で左右の指を組んだり外したりしている。
いつもははっきりと物を言うのに。珍しい。
光柳と雲嵐は、視線を交わした。
「女炎帝、か?」
どうやら当たっていたらしい。光柳の言葉に、翠鈴が顔を上げる。
へにゃっと、情けない笑みを翠鈴が浮かべる。
自分でも気づかぬうちに、光柳は筆を置いていた。
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