87 / 171
七章 毒の豆
4、出入りのよろず屋
しおりを挟む
まだ夕食の準備に取りかかる前の食堂は、がらんとしている。
「こんにちはー。商品を持ってきたわよ」
食堂に入ってきた女性を見て、厨房から宮女たちが現れた。
口々に「待ってたわ」とはしゃぎだす。
「さすが夏雪さん。しょっちゅう来てくれるから助かるわ」
「そうよぉ。仕事は丁寧迅速、さらに信用が一番だからね」
にっこりと微笑みながら、許夏雪は荷物を卓の上で広げた。波打った髪は、夏の間に日に灼けたのか黒に茶色が混じっている。
「えーと。櫛は誰だっけ? あとお菓子に高粱酒。それから黄酒。甘いものとお酒が多いわねー」
夏雪は、後宮に出入りしているよろず屋だ。よろず屋といっても店舗は持たない。後宮の外に出られない女性に必要な物を庫に保管し、消耗品と共に注文のあった品も持ってくる。
女一人、城市で店を構えるのは大変だ。だが庫であれば人通りのない路地裏でも問題ない。
(店番をしながら客を待つなんて、呑気な商売をする奴は馬鹿だよね。後宮には客がこんなにいるのにさ)
それにこの甘ったるい脂粉とお香。それに澱んだ女のいやらしさの満ちた場所を堪能しないなんて、つまらない。
夏雪は、糸のように細い目で微笑んだ。
高価な品を好む妃嬪はさすがに顧客にはならないが。侍女ならば、たまに仕事を依頼されることもある。
「なんて言ったっけ昭媛の宮って。あそこの侍女は元気かしら。范敬とかいったかな」
「さぁ。よく知らないわ」
「でも、昭媛さまは永仁宮をお出になったって聞くわよ。あそこは今は無人だって」
夏雪の問いかけに、宮女たちが言葉を返す。
(ふーん? 毒芹を使ってばれたのかな? 主ともども後宮を追いだされたのかしら)
後宮に入り浸ることができれば、事の次第を詳しく知ることができたのだが。
最近は、ずっと世話になっていた宦官の顔も見かけない。いろいろ教えを請いたいのに。あの宦官がいれば、もっと稼ぐことができるのに。
ふと、夏雪はひとりの宮女の手に目を向けた。
以前会った時は、彼女の手はかさついてあかぎれも切れていた。指の関節あたりが、何か所も割れて痛々しかったのだけれど。
「へぇ。手荒れが、治ってるじゃない」
夏雪の言葉に、宮女の表情が輝いた。
「そうなんです! 紫根の油を塗ったら治ったんです。それから、すぐに手を拭くようにって教えてもらって。水分が肌に残るのがよくないみたいですね」
「ふぅん? 医官にでも教えてもらったの?」
「いえ。そういうわけじゃないんですけど。その親切な人がいて……」
さっきまで雄弁だったのに。宮女は言葉を濁した。
夏雪が見たところ他の宮女の手荒れも治っている。不思議なくらいに。
「紫根、効いたわよね」「でも数が限られているから。大事に使わないと」と宮女同士で囁きあいながら、夏雪に買い物のお金を払う。
「遠慮しなくてもいいわよ。依頼してくれたら、薬を盛ってくるから。紫根を仕入れてもいいわよ」
「え、うん。ありがとう。でも、大丈夫」
「ね」
夏雪の提案に、宮女たちは乗ってこない。日用品どころか、酒や菓子でさえ気軽に頼むというのに。
面白くない。まるで夏雪が後宮で暮らしていないから、教えてやらないとでも言いたげだ。
「あなたたちが使っている紫根には、特別な秘密でもあるのかしら」
意味のある問いかけではなかった。
なのに。食堂が一瞬、しんと静まり返った。
外部の人間である夏雪は知らない。教えてももらえない。
この宮女の中には、大理寺卿の陳天分のせいで投獄されていた者がいることを。
翠鈴のことを「女炎帝」と呼ぶのは、大半の宮女がためらっているが。
それでも宮女たちの共通認識として、夜更けの薬売りのことは大切な秘密にしたい。
(後宮なんて窮屈で、自由もなくて。宮女なんて、くたくたになってもこき使われて。あわよくば皇帝の目に留まるなんて、馬鹿げた夢を見ているような女の集まりのはずでしょ)
なんで楽しそうなの?
ぎりっと夏雪は奥歯を噛みしめた。
(もっともっと不満を蓄積させなさいよ。ふさぎ込みなさいよ。私が届ける酒に溺れなさいよ)
この塀に囲まれた、狭い世界から見上げる空が、いかに高くて遠いのかを、宮女たちは実感すべきだ。
あんた達は、恵まれた妃嬪ではないのだから。
「ありがとう。夏雪さん」
商品を受けとると、宮女たちはそそくさと厨房へ戻った。
以前、夏雪が荷物を届けた時と雰囲気が違う。
騒がしいのは、これまでと同じなのに。皆がひっそりとした秘密を共有しているように思えるのだ。
そして、部外者である夏雪は仲間に入れてもらえない。
ただのよろず屋だから。
「あの……夏雪さん」
か細い声で話しかけられて、夏雪はふり返った。
人の気配がしなかった。もう宮女はすべて厨房へと戻ったのだと思っていた。それほどに、その宮女は影が薄い。
「頼んでいたもの、今日はありましたか?」
「こんにちはー。商品を持ってきたわよ」
食堂に入ってきた女性を見て、厨房から宮女たちが現れた。
口々に「待ってたわ」とはしゃぎだす。
「さすが夏雪さん。しょっちゅう来てくれるから助かるわ」
「そうよぉ。仕事は丁寧迅速、さらに信用が一番だからね」
にっこりと微笑みながら、許夏雪は荷物を卓の上で広げた。波打った髪は、夏の間に日に灼けたのか黒に茶色が混じっている。
「えーと。櫛は誰だっけ? あとお菓子に高粱酒。それから黄酒。甘いものとお酒が多いわねー」
夏雪は、後宮に出入りしているよろず屋だ。よろず屋といっても店舗は持たない。後宮の外に出られない女性に必要な物を庫に保管し、消耗品と共に注文のあった品も持ってくる。
女一人、城市で店を構えるのは大変だ。だが庫であれば人通りのない路地裏でも問題ない。
(店番をしながら客を待つなんて、呑気な商売をする奴は馬鹿だよね。後宮には客がこんなにいるのにさ)
それにこの甘ったるい脂粉とお香。それに澱んだ女のいやらしさの満ちた場所を堪能しないなんて、つまらない。
夏雪は、糸のように細い目で微笑んだ。
高価な品を好む妃嬪はさすがに顧客にはならないが。侍女ならば、たまに仕事を依頼されることもある。
「なんて言ったっけ昭媛の宮って。あそこの侍女は元気かしら。范敬とかいったかな」
「さぁ。よく知らないわ」
「でも、昭媛さまは永仁宮をお出になったって聞くわよ。あそこは今は無人だって」
夏雪の問いかけに、宮女たちが言葉を返す。
(ふーん? 毒芹を使ってばれたのかな? 主ともども後宮を追いだされたのかしら)
後宮に入り浸ることができれば、事の次第を詳しく知ることができたのだが。
最近は、ずっと世話になっていた宦官の顔も見かけない。いろいろ教えを請いたいのに。あの宦官がいれば、もっと稼ぐことができるのに。
ふと、夏雪はひとりの宮女の手に目を向けた。
以前会った時は、彼女の手はかさついてあかぎれも切れていた。指の関節あたりが、何か所も割れて痛々しかったのだけれど。
「へぇ。手荒れが、治ってるじゃない」
夏雪の言葉に、宮女の表情が輝いた。
「そうなんです! 紫根の油を塗ったら治ったんです。それから、すぐに手を拭くようにって教えてもらって。水分が肌に残るのがよくないみたいですね」
「ふぅん? 医官にでも教えてもらったの?」
「いえ。そういうわけじゃないんですけど。その親切な人がいて……」
さっきまで雄弁だったのに。宮女は言葉を濁した。
夏雪が見たところ他の宮女の手荒れも治っている。不思議なくらいに。
「紫根、効いたわよね」「でも数が限られているから。大事に使わないと」と宮女同士で囁きあいながら、夏雪に買い物のお金を払う。
「遠慮しなくてもいいわよ。依頼してくれたら、薬を盛ってくるから。紫根を仕入れてもいいわよ」
「え、うん。ありがとう。でも、大丈夫」
「ね」
夏雪の提案に、宮女たちは乗ってこない。日用品どころか、酒や菓子でさえ気軽に頼むというのに。
面白くない。まるで夏雪が後宮で暮らしていないから、教えてやらないとでも言いたげだ。
「あなたたちが使っている紫根には、特別な秘密でもあるのかしら」
意味のある問いかけではなかった。
なのに。食堂が一瞬、しんと静まり返った。
外部の人間である夏雪は知らない。教えてももらえない。
この宮女の中には、大理寺卿の陳天分のせいで投獄されていた者がいることを。
翠鈴のことを「女炎帝」と呼ぶのは、大半の宮女がためらっているが。
それでも宮女たちの共通認識として、夜更けの薬売りのことは大切な秘密にしたい。
(後宮なんて窮屈で、自由もなくて。宮女なんて、くたくたになってもこき使われて。あわよくば皇帝の目に留まるなんて、馬鹿げた夢を見ているような女の集まりのはずでしょ)
なんで楽しそうなの?
ぎりっと夏雪は奥歯を噛みしめた。
(もっともっと不満を蓄積させなさいよ。ふさぎ込みなさいよ。私が届ける酒に溺れなさいよ)
この塀に囲まれた、狭い世界から見上げる空が、いかに高くて遠いのかを、宮女たちは実感すべきだ。
あんた達は、恵まれた妃嬪ではないのだから。
「ありがとう。夏雪さん」
商品を受けとると、宮女たちはそそくさと厨房へ戻った。
以前、夏雪が荷物を届けた時と雰囲気が違う。
騒がしいのは、これまでと同じなのに。皆がひっそりとした秘密を共有しているように思えるのだ。
そして、部外者である夏雪は仲間に入れてもらえない。
ただのよろず屋だから。
「あの……夏雪さん」
か細い声で話しかけられて、夏雪はふり返った。
人の気配がしなかった。もう宮女はすべて厨房へと戻ったのだと思っていた。それほどに、その宮女は影が薄い。
「頼んでいたもの、今日はありましたか?」
147
あなたにおすすめの小説
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
番を辞めますさようなら
京佳
恋愛
番である婚約者に冷遇され続けた私は彼の裏切りを目撃した。心が壊れた私は彼の番で居続ける事を放棄した。私ではなく別の人と幸せになって下さい。さようなら…
愛されなかった番。後悔ざまぁ。すれ違いエンド。ゆるゆる設定。
※沢山のお気に入り&いいねをありがとうございます。感謝感謝♡
三回目の人生も「君を愛することはない」と言われたので、今度は私も拒否します
冬野月子
恋愛
「君を愛することは、決してない」
結婚式を挙げたその夜、夫は私にそう告げた。
私には過去二回、別の人生を生きた記憶がある。
そうして毎回同じように言われてきた。
逃げた一回目、我慢した二回目。いずれも上手くいかなかった。
だから今回は。
下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~
イシュタル
恋愛
王宮から突然嫁がされた18歳の少女・ソフィアは、冷たい風の吹く屋敷へと降り立つ。迎えたのは、無愛想で人嫌いな騎士爵グラッド・エルグレイム。金貨の袋を渡され「好きにしろ」と言われた彼女は、侍女も使用人もいない屋敷で孤独な生活を始める。
王宮での優雅な日々とは一転、自分の髪を切り、服を整え、料理を学びながら、ソフィアは少しずつ「夫人」としての自立を模索していく。だが、辻馬車での盗難事件や料理の失敗、そして過労による倒れ込みなど、試練は次々と彼女を襲う。
そんな中、無口なグラッドの態度にも少しずつ変化が現れ始める。謝罪とも言えない金貨の袋、静かな気遣い、そして彼女の倒れた姿に見せた焦り。距離のあった二人の間に、わずかな波紋が広がっていく。
これは、王宮の寵姫から孤独な夫人へと変わる少女が、自らの手で居場所を築いていく物語。冷たい屋敷に灯る、静かな希望の光。
⚠️本作はAIとの共同製作です。
【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。