107 / 171
八章 陽だまりの花園
7、休日の夜
しおりを挟む
夜になった。
宿舎の別棟で、布団に入った光柳は天井を見上げている。
月明りが窗から射しこみ、床に四角い光が落ちている。
昼間の温かさは薄れたが。それでも寒いというほどではない。心地よい夜だ。
「眠れませんか?」
隣の寝台から、雲嵐が声をかけてきた。最近、光柳は不眠症だから。こうして「眠れないか」と訊かれるのには慣れているのだが。
今夜は雲嵐の口調が、いつもと違う。語尾が軽やかなのだ。ふだんはもっと心配した風であるのに。
「眠れないな」
「今日は、よかったですね」
暗さに目が慣れたせいだろうか。横になっている雲嵐が、微笑んでいるのが分かった。
「翠鈴は、私と一緒に来てくれるのだな」
後宮を出て、共に暮らすということ。それは一生を共にすることに他ならない。
宦官であっても、妻を持つことはある。
公には認められてはいないが。職を辞した宦官は、一生を孤独に暮らすこととなる。ゆえに女官と結婚する者もいる。
男としての体ではないからなのか。あるいは子をなして、子孫を望むことができないからなのか。宦官は、ふつうの男よりも妻に格別の愛情をもつ。
妻と死別した場合は、再婚をする男は多いのだが。宦官の場合は、再婚を望まぬ者が多いと聞く。
一生にひとりだけの、最愛の女性。そんな人に出会えるとは、これまでの人生で考えたこともなかった。
「そういえば、不眠に効く花を翠鈴からもらっていましたね」
雲嵐の言葉に、光柳は起きあがった。
花園での別れぎわに、麻の小袋を翠鈴がくれたのだ。
「薫衣草と冬菩提樹だと言っていたな」
聞いたことのない植物の名だ。漢方というわけでもなさそうだ。
不思議なことに翠鈴は、一般には知られていない生薬にも詳しい。
光柳は寝台から降りて、棚の上に置いていた小袋を手に取った。
すっきりとした涼しい香りだった。
――お茶の代わりに飲んでもいいですし、枕元に置いておくのもいいですよ。安眠の効果があります。
翠鈴の説明を、光柳は思い出した。
手で小袋を握る。夜の静けさに、かすかな音が染みた。
「どうだ? 眠いか?」
雲嵐の鼻に小袋を差しだしてみる。
「よくは分かりませんが。翠鈴が勧めるのでしたら、きっと効果があるのでしょう」
「雲嵐は、翠鈴を信頼しているのだな」
ふと、不安が光柳の胸をよぎった。
雲嵐の寝台に腰を下ろして、薫衣草を再びかいでみる。知らない匂いなのに。初夏の香りがした。
「なぁ、雲嵐。私が後宮を出る時は、一緒に来てくれるか?」
これまで尋ねたことのなかった問いだ。
子供の頃から、共に育ったから。後宮に入るのも一緒だったから。寄り添いながら生きてきたから。
けれど、自分が翠鈴を見つけたように。雲嵐もまた、最愛の人を見つけるに違いない。
そうなれば、彼を縛りつけることはできない。
「もし……だな、雲嵐が誰かを」
誰かを好きになって、その女性と暮らしたいと願うのなら。
言いかけた言葉が、途中で止まる。
返事を聞くのが怖い。光柳は、急に喉の渇きを覚えた。
「光柳さま?」
「いや、いい。何でもない。おやすみ」
光柳は立ちあがった。背中に視線を感じる。ふり返ることができない。
「誤解をなさっておいでのようですが。私は、主従の関係に縛られているとは思っていませんよ」
穏やかな声だった。まるで今夜の月明りのような。
「これまで散々、わがままをおっしゃってきたのに。今さら、聞き訳がよくなると怖いですね」
「待て、怖いってなんだよ。まるで私が性格が悪いみたいじゃないか」
「よくはないですよ」
うっ、と光柳は言葉に詰まった。
自覚はある。確かに雲嵐の方が、自分よりも何倍も何十倍も性格がいい。
再び、光柳は雲嵐の寝台に腰かけた。
「今日、花園で翠鈴にも話しましたが。私は馬で後宮に荷を運んだり、書状を各地に届ける仕事ができます。翠鈴は、薬を商いにできるでしょう。皆、それぞれ稼ぐ力は持っております。ですから、光柳さまがおひとりで背負うことはないんですよ」
雲嵐の言葉に、光柳は目を見開いた。
「妙なことを申し上げましたか?」
「いや、何も」
光柳の口元がほころぶ。
そうだった。雲嵐に「ついてきてくれるか」などと、確かめると逆に怒られてしまう。雲嵐は仕方なく自分に従ってくれているのではない。
「もう寝るとするか」
薫衣草の袋を、光柳は再び雲嵐の鼻に近づけた。
「不思議ですね。今度は眠く感じます」
「よかった。私もだ」
子供の頃なら、こんな夜は雲嵐と一緒に夜更かしをして、語り明かしていた。
取り置きの冬糖の飴を舐めながら。つまらないことを言っては笑いころげ。母や侍女に「もう夜中ですよ」とたしなめられたものだ。
だが、ここは離宮ではないし。自分たちはもう子供ではない。
明日は仕事だ。無茶はするまい。
宿舎の別棟で、布団に入った光柳は天井を見上げている。
月明りが窗から射しこみ、床に四角い光が落ちている。
昼間の温かさは薄れたが。それでも寒いというほどではない。心地よい夜だ。
「眠れませんか?」
隣の寝台から、雲嵐が声をかけてきた。最近、光柳は不眠症だから。こうして「眠れないか」と訊かれるのには慣れているのだが。
今夜は雲嵐の口調が、いつもと違う。語尾が軽やかなのだ。ふだんはもっと心配した風であるのに。
「眠れないな」
「今日は、よかったですね」
暗さに目が慣れたせいだろうか。横になっている雲嵐が、微笑んでいるのが分かった。
「翠鈴は、私と一緒に来てくれるのだな」
後宮を出て、共に暮らすということ。それは一生を共にすることに他ならない。
宦官であっても、妻を持つことはある。
公には認められてはいないが。職を辞した宦官は、一生を孤独に暮らすこととなる。ゆえに女官と結婚する者もいる。
男としての体ではないからなのか。あるいは子をなして、子孫を望むことができないからなのか。宦官は、ふつうの男よりも妻に格別の愛情をもつ。
妻と死別した場合は、再婚をする男は多いのだが。宦官の場合は、再婚を望まぬ者が多いと聞く。
一生にひとりだけの、最愛の女性。そんな人に出会えるとは、これまでの人生で考えたこともなかった。
「そういえば、不眠に効く花を翠鈴からもらっていましたね」
雲嵐の言葉に、光柳は起きあがった。
花園での別れぎわに、麻の小袋を翠鈴がくれたのだ。
「薫衣草と冬菩提樹だと言っていたな」
聞いたことのない植物の名だ。漢方というわけでもなさそうだ。
不思議なことに翠鈴は、一般には知られていない生薬にも詳しい。
光柳は寝台から降りて、棚の上に置いていた小袋を手に取った。
すっきりとした涼しい香りだった。
――お茶の代わりに飲んでもいいですし、枕元に置いておくのもいいですよ。安眠の効果があります。
翠鈴の説明を、光柳は思い出した。
手で小袋を握る。夜の静けさに、かすかな音が染みた。
「どうだ? 眠いか?」
雲嵐の鼻に小袋を差しだしてみる。
「よくは分かりませんが。翠鈴が勧めるのでしたら、きっと効果があるのでしょう」
「雲嵐は、翠鈴を信頼しているのだな」
ふと、不安が光柳の胸をよぎった。
雲嵐の寝台に腰を下ろして、薫衣草を再びかいでみる。知らない匂いなのに。初夏の香りがした。
「なぁ、雲嵐。私が後宮を出る時は、一緒に来てくれるか?」
これまで尋ねたことのなかった問いだ。
子供の頃から、共に育ったから。後宮に入るのも一緒だったから。寄り添いながら生きてきたから。
けれど、自分が翠鈴を見つけたように。雲嵐もまた、最愛の人を見つけるに違いない。
そうなれば、彼を縛りつけることはできない。
「もし……だな、雲嵐が誰かを」
誰かを好きになって、その女性と暮らしたいと願うのなら。
言いかけた言葉が、途中で止まる。
返事を聞くのが怖い。光柳は、急に喉の渇きを覚えた。
「光柳さま?」
「いや、いい。何でもない。おやすみ」
光柳は立ちあがった。背中に視線を感じる。ふり返ることができない。
「誤解をなさっておいでのようですが。私は、主従の関係に縛られているとは思っていませんよ」
穏やかな声だった。まるで今夜の月明りのような。
「これまで散々、わがままをおっしゃってきたのに。今さら、聞き訳がよくなると怖いですね」
「待て、怖いってなんだよ。まるで私が性格が悪いみたいじゃないか」
「よくはないですよ」
うっ、と光柳は言葉に詰まった。
自覚はある。確かに雲嵐の方が、自分よりも何倍も何十倍も性格がいい。
再び、光柳は雲嵐の寝台に腰かけた。
「今日、花園で翠鈴にも話しましたが。私は馬で後宮に荷を運んだり、書状を各地に届ける仕事ができます。翠鈴は、薬を商いにできるでしょう。皆、それぞれ稼ぐ力は持っております。ですから、光柳さまがおひとりで背負うことはないんですよ」
雲嵐の言葉に、光柳は目を見開いた。
「妙なことを申し上げましたか?」
「いや、何も」
光柳の口元がほころぶ。
そうだった。雲嵐に「ついてきてくれるか」などと、確かめると逆に怒られてしまう。雲嵐は仕方なく自分に従ってくれているのではない。
「もう寝るとするか」
薫衣草の袋を、光柳は再び雲嵐の鼻に近づけた。
「不思議ですね。今度は眠く感じます」
「よかった。私もだ」
子供の頃なら、こんな夜は雲嵐と一緒に夜更かしをして、語り明かしていた。
取り置きの冬糖の飴を舐めながら。つまらないことを言っては笑いころげ。母や侍女に「もう夜中ですよ」とたしなめられたものだ。
だが、ここは離宮ではないし。自分たちはもう子供ではない。
明日は仕事だ。無茶はするまい。
124
あなたにおすすめの小説
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
番を辞めますさようなら
京佳
恋愛
番である婚約者に冷遇され続けた私は彼の裏切りを目撃した。心が壊れた私は彼の番で居続ける事を放棄した。私ではなく別の人と幸せになって下さい。さようなら…
愛されなかった番。後悔ざまぁ。すれ違いエンド。ゆるゆる設定。
※沢山のお気に入り&いいねをありがとうございます。感謝感謝♡
三回目の人生も「君を愛することはない」と言われたので、今度は私も拒否します
冬野月子
恋愛
「君を愛することは、決してない」
結婚式を挙げたその夜、夫は私にそう告げた。
私には過去二回、別の人生を生きた記憶がある。
そうして毎回同じように言われてきた。
逃げた一回目、我慢した二回目。いずれも上手くいかなかった。
だから今回は。
下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~
イシュタル
恋愛
王宮から突然嫁がされた18歳の少女・ソフィアは、冷たい風の吹く屋敷へと降り立つ。迎えたのは、無愛想で人嫌いな騎士爵グラッド・エルグレイム。金貨の袋を渡され「好きにしろ」と言われた彼女は、侍女も使用人もいない屋敷で孤独な生活を始める。
王宮での優雅な日々とは一転、自分の髪を切り、服を整え、料理を学びながら、ソフィアは少しずつ「夫人」としての自立を模索していく。だが、辻馬車での盗難事件や料理の失敗、そして過労による倒れ込みなど、試練は次々と彼女を襲う。
そんな中、無口なグラッドの態度にも少しずつ変化が現れ始める。謝罪とも言えない金貨の袋、静かな気遣い、そして彼女の倒れた姿に見せた焦り。距離のあった二人の間に、わずかな波紋が広がっていく。
これは、王宮の寵姫から孤独な夫人へと変わる少女が、自らの手で居場所を築いていく物語。冷たい屋敷に灯る、静かな希望の光。
⚠️本作はAIとの共同製作です。
【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。