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八章 陽だまりの花園
9、高潔さと鈍さ
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五苓散を入手した翠鈴は、夜更けの薬売りを再開した。
商いをしない夜に、女官や宮女たちに無駄足を踏ませてはいけない。なので生薬っぽい根や葉の絵と、日付を書いた紙を宿舎や食堂に貼っておく。
文字が読めなくとも、薬を売ると分かるし。数字ならば理解できる人もいる。
とくに今回は鼻の文字と絵を描いておいたので、意図は伝わるだろう。
ついでに、鼻から鼻水の垂れた絵をつけ加えた。
――翠鈴姐。さすがにこれはどうかと思います。
宮女の宿舎を訪れた胡玲が、呆れた声を出した。
分かりやすさが一番だと思うんだけどなぁ。胡玲はちょっと潔癖なところがある。
「じゃあ、行ってくるね。由由」
翠鈴は宿舎の部屋の扉を開けた。廊下から、しんと冷えた空気が流れこんでくる。
「うん。がんばってねー」
寝る支度をしながら由由が手をふる。もう鼻を押さえなくてもよい。
数日前に、翠鈴から五苓散を買ったからだ。即効性があるわけではないが、五苓散は体の中の水分を調整するのでマシになったようだ。
「いつもありがとうね。同室だから安くしてもらって」
「本当に具合の悪い時だけ飲むようにね。気になるようなら、医局に行くのよ」
「はぁい」
由由に見送られて、翠鈴は部屋を出た。
今夜は手さげ提灯に、明かりを灯している。火袋の色を透かした赤が、夜を進んでいく。
橋の上には、すでに人が集まっていた。水があるからか、あるいは橋の上は風が通るからか。足下がすうすう冷える。
「女炎帝さま」
「お待ちしておりました」
「お会いしたかったです」
十人ほどの女性たちが、翠鈴を見つけて駆け寄ってくる。橋面の板が軋んだ音を立てた。
(うーん。女炎帝じゃないんだけど。訂正したところで、呼び名を改めてくれそうにもないし)
そもそも翠鈴の本名を、呼ばないようにしてくれているのだろう。だから切り出しにくくもある。
夜更けの薬売りの顧客は様々だが。彼女たちは、昼間に翠鈴を見かけても「女炎帝さま」と声をかけることはない。
ただひとり、翠鈴と親しい胡玲に毒を盛ろうとして失敗した、宮女の辺妮以外は。
「寒い中を待たせてしまってごめんね」
翠鈴はひとりひとりの症状を聞きながら、薬を渡した。やはりほとんどが、寒暖差が激しいせいで体調を崩していた。あとは手荒れに紫根を浸けた油も。
「しばらく飲み続けても効果がないようなら、医局に行ってね。別な原因があるかもしれないから」
手荒れの薬やかゆみ止めと違い、内服する薬は特に注意が必要だ。ただ売ればいいわけではない。翠鈴は、何度も念を押した。由由にも告げたことだが、薬に頼りきるのもよくない。
用意した五苓散はすぐに売り切れた。
思えば、夜更けの薬売りを始めた頃は自分から「何かお悩みではありませんか?」と声をかけていたというのに。商売はとても楽になった。
(皆が、気を遣ってくれているからだよね)
顧客の女官や宮女たちは、この橋を商いの目印にして静かに待ってくれている。
とくに最近は、表立って女炎帝の話をしている人を見ない。かつて大理寺卿であった陳天分に権力はないが、女官や宮女は自重しているのだろう。
橋を渡ってくる足音が聞こえた。
「すみません。五苓散は売り切れなんです。手荒れの紫根ならありますが」
翠鈴はふり返った。
「どうだ? 雲嵐。手は荒れているか?」
「いえ。特には」
月の光が、金色の粒となって光柳と雲嵐に注いでいる。まるで神の祝福を受けたかのように。
「こんな時間に散歩とは。まだ不眠は治りませんか?」
平静を装って問いかけたが。実のところ、翠鈴の胸はとくとくと音を立てていた。
努力して表情を硬くしていないといけない。顔がほころんでしまうから。
「不眠は治ったさ。翠鈴が贈ってくれた薫衣草のおかげで、最近はよく眠れる。ありがとう」
「それはよかったです」
ふと、視界が翳った。
翠鈴の目の前に、光柳が立っていたから。微かに涼しい香りがする。薫衣草の匂いだ。
「今夜は君に会いに来た。会いたかったから、夜更かしをした」
もうダメだ。翠鈴は両手で顔を覆った。
光柳のことを、夜の静寂に気高く咲く白い月下美人の花だと称える人がいるが。
ようやくその意味が分かった。
(わたしって、鈍かったんだ)
見た目が麗しいだけでは、翠鈴は人を好きにならない。
月下美人は花が見えなくとも、その香りだけで在処を主張する。
光柳は気高くあろうとしているその心こそが、美しいのだ。
実際の光柳は、弱いところがある。
それでもなお高潔であり続けようとする彼の姿に、自分は惹かれてしまったのだ。
商いをしない夜に、女官や宮女たちに無駄足を踏ませてはいけない。なので生薬っぽい根や葉の絵と、日付を書いた紙を宿舎や食堂に貼っておく。
文字が読めなくとも、薬を売ると分かるし。数字ならば理解できる人もいる。
とくに今回は鼻の文字と絵を描いておいたので、意図は伝わるだろう。
ついでに、鼻から鼻水の垂れた絵をつけ加えた。
――翠鈴姐。さすがにこれはどうかと思います。
宮女の宿舎を訪れた胡玲が、呆れた声を出した。
分かりやすさが一番だと思うんだけどなぁ。胡玲はちょっと潔癖なところがある。
「じゃあ、行ってくるね。由由」
翠鈴は宿舎の部屋の扉を開けた。廊下から、しんと冷えた空気が流れこんでくる。
「うん。がんばってねー」
寝る支度をしながら由由が手をふる。もう鼻を押さえなくてもよい。
数日前に、翠鈴から五苓散を買ったからだ。即効性があるわけではないが、五苓散は体の中の水分を調整するのでマシになったようだ。
「いつもありがとうね。同室だから安くしてもらって」
「本当に具合の悪い時だけ飲むようにね。気になるようなら、医局に行くのよ」
「はぁい」
由由に見送られて、翠鈴は部屋を出た。
今夜は手さげ提灯に、明かりを灯している。火袋の色を透かした赤が、夜を進んでいく。
橋の上には、すでに人が集まっていた。水があるからか、あるいは橋の上は風が通るからか。足下がすうすう冷える。
「女炎帝さま」
「お待ちしておりました」
「お会いしたかったです」
十人ほどの女性たちが、翠鈴を見つけて駆け寄ってくる。橋面の板が軋んだ音を立てた。
(うーん。女炎帝じゃないんだけど。訂正したところで、呼び名を改めてくれそうにもないし)
そもそも翠鈴の本名を、呼ばないようにしてくれているのだろう。だから切り出しにくくもある。
夜更けの薬売りの顧客は様々だが。彼女たちは、昼間に翠鈴を見かけても「女炎帝さま」と声をかけることはない。
ただひとり、翠鈴と親しい胡玲に毒を盛ろうとして失敗した、宮女の辺妮以外は。
「寒い中を待たせてしまってごめんね」
翠鈴はひとりひとりの症状を聞きながら、薬を渡した。やはりほとんどが、寒暖差が激しいせいで体調を崩していた。あとは手荒れに紫根を浸けた油も。
「しばらく飲み続けても効果がないようなら、医局に行ってね。別な原因があるかもしれないから」
手荒れの薬やかゆみ止めと違い、内服する薬は特に注意が必要だ。ただ売ればいいわけではない。翠鈴は、何度も念を押した。由由にも告げたことだが、薬に頼りきるのもよくない。
用意した五苓散はすぐに売り切れた。
思えば、夜更けの薬売りを始めた頃は自分から「何かお悩みではありませんか?」と声をかけていたというのに。商売はとても楽になった。
(皆が、気を遣ってくれているからだよね)
顧客の女官や宮女たちは、この橋を商いの目印にして静かに待ってくれている。
とくに最近は、表立って女炎帝の話をしている人を見ない。かつて大理寺卿であった陳天分に権力はないが、女官や宮女は自重しているのだろう。
橋を渡ってくる足音が聞こえた。
「すみません。五苓散は売り切れなんです。手荒れの紫根ならありますが」
翠鈴はふり返った。
「どうだ? 雲嵐。手は荒れているか?」
「いえ。特には」
月の光が、金色の粒となって光柳と雲嵐に注いでいる。まるで神の祝福を受けたかのように。
「こんな時間に散歩とは。まだ不眠は治りませんか?」
平静を装って問いかけたが。実のところ、翠鈴の胸はとくとくと音を立てていた。
努力して表情を硬くしていないといけない。顔がほころんでしまうから。
「不眠は治ったさ。翠鈴が贈ってくれた薫衣草のおかげで、最近はよく眠れる。ありがとう」
「それはよかったです」
ふと、視界が翳った。
翠鈴の目の前に、光柳が立っていたから。微かに涼しい香りがする。薫衣草の匂いだ。
「今夜は君に会いに来た。会いたかったから、夜更かしをした」
もうダメだ。翠鈴は両手で顔を覆った。
光柳のことを、夜の静寂に気高く咲く白い月下美人の花だと称える人がいるが。
ようやくその意味が分かった。
(わたしって、鈍かったんだ)
見た目が麗しいだけでは、翠鈴は人を好きにならない。
月下美人は花が見えなくとも、その香りだけで在処を主張する。
光柳は気高くあろうとしているその心こそが、美しいのだ。
実際の光柳は、弱いところがある。
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