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十章 青い蓮
6、蘭淑妃の名
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「わたくしの食事に、毒でも盛られたのかと考えたのです」
皇后である施暁慶は、かすれた声で告げた。とうにつわりの時期も過ぎ、むしろ食欲が増す頃だろう。
常に空腹を感じ、食べ過ぎて太ることもあるのが普通なのではないか? 妊婦の体につく肉は、何も外から見える部分に限らない。
産道に肉がつけば、赤子を生むときの妨害となる。ゆえに食べ過ぎぬように、しかし栄養不足にならぬようにと注意が必要だ。
だが皇后は、妊婦とは思えぬほどにほっそりとしていた。その顔も手首も指も。
「ですが。わたくしが口にするものは、すべて毒見が確認しております」
そこまで言うと、皇后の顔に憂いが浮かんだ。眉根を寄せて、小さくため息をつく。
長年待ち望まれた、陛下の御子を身ごもった幸せな様子は窺えない。
「最近こそありませんが。わたくしが立后した頃、毒を盛られました。そのせいで、毒見が命を落とすこともあったのです」
当時のことを思い出したのだろう。皇后の声は沈んでいる。
「何も食べなければ、飲まなければ。自分も毒味役も毒に倒れることはない。いっそ仙人のように霞だけを食べて生きていけたらいいのに。何度、そう思ったことでしょう」
皇后陛下は優しい人だと、蘭淑妃は話していた。
凛として威厳があって。皇后は一見すると、穏やかな雰囲気からは遠い人のように見える。
けれど。自身のために宮女を犠牲にしてはならぬという、人としての真っ当な心は優しさそのものだ。
「阿春、あなたの桃莉が以前、山査子に紛れさせた毒の実にあたりましたね」
「は、はい。娘娘」
蘭淑妃は、胸の前でこぶしを握りしめている。
「この陸翠鈴が、桃莉を助けてくれたのだったわね」
こくりと蘭淑妃はうなずいた。
桃莉公主が蝮草の実で苦しんだことを、蘭淑妃は皇帝のみならず皇后にも話したのだろう。だから翠鈴の名をふたりはご存じなのだ。
「わたくしは身ごもってから、蜜柑ですらひと房ごとに毒見が確認したものを食べています。口をゆすぐ水も同様です。甕に毒が入れられないとも限りません」
「畏れながら。陛下が指示なさったのですね」
「ええ、そうですよ」
翠鈴の問いに、皇后は苦笑した。
かなり慎重だ。だが、当然だろう。男児がお生まれになれば太子に、ゆくゆくは次代の皇帝におなりなのだから。
現に、皇后はかつて毒を盛られたことがあると話した。皇帝が細心の注意を払うのも無理はない。
ふと、翠鈴の頭を考えがよぎった。
(皇后陛下のご懐妊で、皇帝陛下はかなり神経質になっていらっしゃる。その気持ちを紛らわすために、呂充儀の元へ頻繁にお通いになっていたのかもしれない)
数多くの妃嬪や側室を住まわせる皇帝だから、誰からも咎められることもない。むしろ歓迎される。
それが後宮だ。
「腹痛に関しては、今すぐに原因は分かりません。産医の診立てのように、安静になさって治まるようでしたら問題はないように思われます」
翠鈴は告げた。
皇后が自ら重い物を持ちあげることはない。長時間立って作業をすることなどあり得ない。
毒も考えづらい。
「翠鈴。明日も来てちょうだい。いいわね、阿春」
皇后は蘭淑妃に尋ねた。
「はい。皇后娘娘」
「困ったわね。いつになったら暁慶姐と呼んでくれるのかしら」
皇后は微笑んだ。とても柔らかく。
「阿」は、親しい年下の者への愛称だ。かつては南方で主に使われていたそうだが。今は国全体で用いられる。
だが、后妃の間で呼び名として使われているのを、翠鈴は見聞きしたことがない。
「姐」という呼称にしてもそうだ。
翠鈴と幼なじみである医官の胡玲は「翠鈴姐」と呼ぶが。こちらも后妃や妃嬪の間では耳にしたことがない。
それほどに皇后陛下と蘭淑妃は親しいのだ。
だからこそ、皇后は翠鈴を頼った。蘭淑妃が信じる薬師だから。
蘭春景。こんな時になって初めて、翠鈴は蘭淑妃の名を知った。
皇后である施暁慶は、かすれた声で告げた。とうにつわりの時期も過ぎ、むしろ食欲が増す頃だろう。
常に空腹を感じ、食べ過ぎて太ることもあるのが普通なのではないか? 妊婦の体につく肉は、何も外から見える部分に限らない。
産道に肉がつけば、赤子を生むときの妨害となる。ゆえに食べ過ぎぬように、しかし栄養不足にならぬようにと注意が必要だ。
だが皇后は、妊婦とは思えぬほどにほっそりとしていた。その顔も手首も指も。
「ですが。わたくしが口にするものは、すべて毒見が確認しております」
そこまで言うと、皇后の顔に憂いが浮かんだ。眉根を寄せて、小さくため息をつく。
長年待ち望まれた、陛下の御子を身ごもった幸せな様子は窺えない。
「最近こそありませんが。わたくしが立后した頃、毒を盛られました。そのせいで、毒見が命を落とすこともあったのです」
当時のことを思い出したのだろう。皇后の声は沈んでいる。
「何も食べなければ、飲まなければ。自分も毒味役も毒に倒れることはない。いっそ仙人のように霞だけを食べて生きていけたらいいのに。何度、そう思ったことでしょう」
皇后陛下は優しい人だと、蘭淑妃は話していた。
凛として威厳があって。皇后は一見すると、穏やかな雰囲気からは遠い人のように見える。
けれど。自身のために宮女を犠牲にしてはならぬという、人としての真っ当な心は優しさそのものだ。
「阿春、あなたの桃莉が以前、山査子に紛れさせた毒の実にあたりましたね」
「は、はい。娘娘」
蘭淑妃は、胸の前でこぶしを握りしめている。
「この陸翠鈴が、桃莉を助けてくれたのだったわね」
こくりと蘭淑妃はうなずいた。
桃莉公主が蝮草の実で苦しんだことを、蘭淑妃は皇帝のみならず皇后にも話したのだろう。だから翠鈴の名をふたりはご存じなのだ。
「わたくしは身ごもってから、蜜柑ですらひと房ごとに毒見が確認したものを食べています。口をゆすぐ水も同様です。甕に毒が入れられないとも限りません」
「畏れながら。陛下が指示なさったのですね」
「ええ、そうですよ」
翠鈴の問いに、皇后は苦笑した。
かなり慎重だ。だが、当然だろう。男児がお生まれになれば太子に、ゆくゆくは次代の皇帝におなりなのだから。
現に、皇后はかつて毒を盛られたことがあると話した。皇帝が細心の注意を払うのも無理はない。
ふと、翠鈴の頭を考えがよぎった。
(皇后陛下のご懐妊で、皇帝陛下はかなり神経質になっていらっしゃる。その気持ちを紛らわすために、呂充儀の元へ頻繁にお通いになっていたのかもしれない)
数多くの妃嬪や側室を住まわせる皇帝だから、誰からも咎められることもない。むしろ歓迎される。
それが後宮だ。
「腹痛に関しては、今すぐに原因は分かりません。産医の診立てのように、安静になさって治まるようでしたら問題はないように思われます」
翠鈴は告げた。
皇后が自ら重い物を持ちあげることはない。長時間立って作業をすることなどあり得ない。
毒も考えづらい。
「翠鈴。明日も来てちょうだい。いいわね、阿春」
皇后は蘭淑妃に尋ねた。
「はい。皇后娘娘」
「困ったわね。いつになったら暁慶姐と呼んでくれるのかしら」
皇后は微笑んだ。とても柔らかく。
「阿」は、親しい年下の者への愛称だ。かつては南方で主に使われていたそうだが。今は国全体で用いられる。
だが、后妃の間で呼び名として使われているのを、翠鈴は見聞きしたことがない。
「姐」という呼称にしてもそうだ。
翠鈴と幼なじみである医官の胡玲は「翠鈴姐」と呼ぶが。こちらも后妃や妃嬪の間では耳にしたことがない。
それほどに皇后陛下と蘭淑妃は親しいのだ。
だからこそ、皇后は翠鈴を頼った。蘭淑妃が信じる薬師だから。
蘭春景。こんな時になって初めて、翠鈴は蘭淑妃の名を知った。
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