後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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十章 青い蓮

7、梅蜜の飲み物

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 未央宮に戻った翠鈴は、緊張が解けて回廊の床に座りこんでしまった。
 困った。足に力が入らない。どれほど緊張していたのかと自分でも呆れてしまうほどだ。

「怖い人ではなかったでしょう? 皇后陛下は」
「それはそうですけど」

 問うてくる梅娜メイナーに答える翠鈴の声は情けない。
 壁にもたれて座る翠鈴が見あげると、梅娜はにやにやしている。もの言いたげな表情だ。

「今なら聞きますよ? 立ちあがれないですから、梅娜さまも言いたい放題ですよ」
「あー、悪口じゃないのよ。ちょっとほっとしたの」

 さすがに梅娜はにやけた表情を戻した。

「翠鈴でも怖いものがあるのねぇと思ってね」
「怖いものくらいありますよ。皇帝陛下にお声をかけられた時も、膝ががくがくしましたし。口から心臓が飛び出るかと思いましたよ」
「意外よね」

 意外もなにも。梅娜は侍女頭であるから良家の出身だ。しかも常に蘭淑妃のお側にいる。高貴な身分に慣れているという感覚が、梅娜にはないのだろう。

「でも、弱っている翠鈴を見るのもいいわね。ほら、ふだんは負け知らずって感じじゃない?」

 なんと、そんな風に思われていたのか。他人からの評価は、自分ではよく分からない。

「別に誰とも勝負なんてしてませんよ」

 答える翠鈴の声は拗ねていた。

「あなたはしなくても、相手から勝負を吹っかけられることは多いでしょ」
「そうですか?」

 翠鈴に自覚はない。ただ、よく突っかかられるなと思うことはある。

「戦い続けて無敗の人が、ふとした瞬間に見せる弱さ。ほら、ぐっとくるでしょ。手を差し伸べたくなるじゃない?」

 梅娜は頬に手を添えて、うっとりと目を細めた。
 くるってなにが? と訊きたい気持ちをこらえる。
 梅娜は性格はいいのだが。どうやら性癖が歪んでいそうだ。

「とにかくじょ……えっと、翠鈴はふつうの人間だったんだなって思ったわけなのよ」

 今、女炎帝って言おうとしましたね。
 翠鈴はぎろりと梅娜を睨みつけた。相手を凍りつかせるほどの目つきの悪さだが。いかんせん、床にへばっている状態では威力も半減だ。

 ちょうど折悪しく、光柳と雲嵐まで未央宮にやって来た。

「どうした、翠鈴。具合が悪いのか?」

 駆けつけてきた光柳が、翠鈴の前にしゃがんで顔をのぞきこむ。
 困ったことに、光柳がひたいに手を当ててきた。

「熱はないな」

 次に下瞼を指で引っぱって、瞼の裏を確認される。

「貧血でもなさそうだ。ほら、べーって舌を出しなさい」
「……お医者さんごっこですか」

 舌の表面がブツブツしている場合は、臓器の炎症が考えられる。これを芒刺舌ぼうしぜつという。
また舌が白い場合は免疫が下がったり、胃が弱っている。

(光柳さまに舌診ぜつしんができるとも思えないんだけど)

 光柳自身は、皇帝や雲嵐から大事にされているせいか。翠鈴に対しては、ときどき過保護になりたがる。

「違うんですよ、光柳さま。翠鈴は皇后陛下に頼られて。今になって緊張の糸が切れてしまったんです」

 梅娜の説明に、光柳の表情が輝いた。

「すごいじゃないか。なぁ雲嵐」
「本当ですね。翠鈴、たいしたものです」

 褒めてほしいわけじゃないんだけど。梅娜と光柳、雲嵐は、まるで翠鈴が出世でもしたかのようにはしゃいでいる。
 いや、いいんだけど。

「梅娜さま、翠鈴。おかえりなさい」

 南蕾ナンレイが、盆を手に回廊を渡って来た。盆には碗がふたつ載せてある。聞けば梅蜜うめみつを水で割ったものだそうだ。

「疲れが取れるから飲んでね。光柳さまと雲嵐さまは、お部屋へどうぞ。そちらにお持ちします」

 南蕾は働き者だ。未央宮の侍女は仕事を南蕾に押しつけることはない。
 残念ながら文彗宮ぶんけいきゅうでは、こまめに動いて働くせいで南蕾はこき使われていた。

「そういえば、文彗宮の侍女頭の具合はどうなんですか?」

 梅蜜の礼を告げながら、翠鈴は盆から碗を取った。

 去年の梅を砂糖でじっくりと浸けたのだろう。梅蜜は淡い琥珀色をしている。
 口に含むと、水よりもとろりとして。爽やかな甘さが広がっていく。
 梅は疲れを取ってくれる。南蕾の気遣いを翠鈴は嬉しく思った。
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