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十章 青い蓮
11、帰り道【1】
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もし南蕾が天堂教の信者であれば、宮を移っても指先は染まったままだろう。
だが、未央宮で働くようになった南蕾の指はもう青くない。
「皇后陛下は、日頃から頭痛をお持ちでした。呂充儀《ルーじゅうぎ》さまはそのことを知って、痛みに効く夏白菊を贈ってくれたのでは?」
翠鈴は、皇后の侍女に問うた。
天堂教がどのような教義かは知らないが。宗教なのだから、祈りの時間はあるはずだ。
ひとりだけではなく、信者同士が集まって祈りを捧げることもあるに違いない。その時に、皇后の侍女は呂充儀と頻繁に会っているのだろう。
「そう。呂充儀さまからいただいたお茶よ。茶外茶だから、皇后陛下のお体にもいいでしょう、と親切に分けてくださったの」
侍女は手にした盆を、胸の前で抱きしめている。とても強く。
「充儀さまは、ご自身もつらいはずなのに。皇后陛下のことを案じてくださったわ。青蓮娘娘のお茶は薬湯でもあるのだから。弱った体にたいそう効くのよ」
その薬湯が問題なのだ、と翠鈴は思った。
だが、まずは侍女にすべてを説明させる必要がある。怒りがこみあげても、ただ黙って聞くしかない。
「なのに……」
侍女は、ぐっと唇を噛んだ。
「せっかくの夏白菊のお茶を、呂充儀さまの侍女頭である晩溪が止めているって聞いたわ。苦しむ人をあまねく救うという青蓮娘娘の教義をないがしろにされたと、充儀さまは怒っていらっしゃったのよ」
「なぜ、その晩溪という侍女頭が止めたのか。呂充儀から理由は訊かなかったのですか? 制止するに足る根拠があると、考えなかったのですか?」
質問を挟んだのは、皇后だった。
後宮内で最高位の女性であり、主である皇后に詰問されて、侍女はうなだれた。
「呂充儀さまは、青蓮娘娘の熱心な信者でいらっしゃいますから。なにも間違いはございません」
態度は遠慮がちなのに。侍女の言葉は不遜に聞こえた。
(もしかすると。この侍女は皇后陛下よりも、同じ教徒である呂充儀を尊敬しているのだろうか)
それは危険だ。
皇后陛下は蘭淑妃と目を合わせて、深く息をついた。
「陛下は後宮内での信仰の自由をお認めになっています。ですが。それは布教をしてよいということではありません」
「布教だなんて、そんなつもりはございません。呂充儀さまは、ほんとうに真心から、親切心でお茶をくださったんです」
たしかに侍女は、皇后に青蓮娘娘を祀るように勧めてはいない。礼拝に参加するべきだとも、経典を読むようにとも言っていないだろう。
肉食や、五葷といった葱や大蒜、韮などを禁ずる宗教があるが。たとえ経典を読むように命じられずとも、食生活にまで口出しをするようであれば。それは教義の押しつけに他ならない。
たしかに呂充儀は布教をしたわけではない。だが、ここにいる誰もが、彼女の親切など信じていない。
翠鈴や呂充儀の侍女であった南蕾、未央宮の侍女頭である梅娜は、呂充儀のわがままに振りまわされた。
社交的な蘭淑妃でさえ、呂充儀とは顔を会わせないようにしていた。
今回の夏白菊のお茶に関しては、皇帝陛下と皇后陛下が判断を下すだろう。
蘭淑妃は、皇后が横になるのを手伝っている。
四夫人の内で、蘭淑妃にだけ心を許している皇后。それほどにこの後宮では信じられる者が少ないのだろう。
「呂充儀に話を聞きたいところだけれど。わたくしの体調では、先に伸ばした方がよさそうですね」
「どうか、呂充儀さまを信じてください」
侍女は言い募るが。皇后は静かに首をふる。
「もうよい。わたくしは疲れました。出ていきなさい」と、皇后は侍女に命じた。
「お前の主は、どうやらわたくしではないようね」
◇◇◇
寿華宮からの帰り道。蘭淑妃と梅娜、翠鈴は言葉少なだった。
小雨はすでにやんでいる。だが雲はまだ厚く、塀の瓦も道の敷石もしっとりと濡れていた。
鳥が涼しい声で鳴いている。
だが、重苦しい雰囲気が三人を包んでいた。当然だ。呂充儀の親切心など、誰も信じていない。
「もしかすると。呂充儀は、お生まれになる御子を狙ったのではなく。皇帝陛下の気を引こうとしたのかもしれませんね」
「どういうこと?」
梅娜が、ふり返って翠鈴に尋ねる。
「流産した呂充儀のもとへ、皇帝陛下がお通いになるとは思えません。充儀の心を慰めることはあっても、体を重ねるとは考えにくいのです」
「それはまあ……そうよね」
「慰めることもあるのかどうか」と、蘭淑妃が立ちどまった。
「主上は厄介ごとをお嫌いになるから。しばらくは呂充儀を避けるでしょうね」
蘭淑妃は、なかなかに辛辣だ。
だが、この三人のなかで最も皇帝の気質や性格を把握しているのだから。間違いではないのだろう。
桃莉公主は父親に懐いていないが。淑妃は、そんな娘を咎めることもない。
仕方がない。桃莉公主は女の子で、陛下の跡を継ぐわけでもなく、ただ外交の駒に利用される。そういう立場なのだから。
「あっ」と、蘭淑妃が声を上げた。
「翠鈴。わたくし、気づいてしまったかもしれないわ。善意よ、あれは」
「淑妃さまのお考えで合っていると思います」
翠鈴はうなずいた。
「え? なになに? わたしにも教えて」
梅娜が慌てて、翠鈴の前に立つ。
まぁ、確かに説明が必要だ。翠鈴は梅娜の背中に手を添えて「歩きながら話しましょう」と、促した。
だが、未央宮で働くようになった南蕾の指はもう青くない。
「皇后陛下は、日頃から頭痛をお持ちでした。呂充儀《ルーじゅうぎ》さまはそのことを知って、痛みに効く夏白菊を贈ってくれたのでは?」
翠鈴は、皇后の侍女に問うた。
天堂教がどのような教義かは知らないが。宗教なのだから、祈りの時間はあるはずだ。
ひとりだけではなく、信者同士が集まって祈りを捧げることもあるに違いない。その時に、皇后の侍女は呂充儀と頻繁に会っているのだろう。
「そう。呂充儀さまからいただいたお茶よ。茶外茶だから、皇后陛下のお体にもいいでしょう、と親切に分けてくださったの」
侍女は手にした盆を、胸の前で抱きしめている。とても強く。
「充儀さまは、ご自身もつらいはずなのに。皇后陛下のことを案じてくださったわ。青蓮娘娘のお茶は薬湯でもあるのだから。弱った体にたいそう効くのよ」
その薬湯が問題なのだ、と翠鈴は思った。
だが、まずは侍女にすべてを説明させる必要がある。怒りがこみあげても、ただ黙って聞くしかない。
「なのに……」
侍女は、ぐっと唇を噛んだ。
「せっかくの夏白菊のお茶を、呂充儀さまの侍女頭である晩溪が止めているって聞いたわ。苦しむ人をあまねく救うという青蓮娘娘の教義をないがしろにされたと、充儀さまは怒っていらっしゃったのよ」
「なぜ、その晩溪という侍女頭が止めたのか。呂充儀から理由は訊かなかったのですか? 制止するに足る根拠があると、考えなかったのですか?」
質問を挟んだのは、皇后だった。
後宮内で最高位の女性であり、主である皇后に詰問されて、侍女はうなだれた。
「呂充儀さまは、青蓮娘娘の熱心な信者でいらっしゃいますから。なにも間違いはございません」
態度は遠慮がちなのに。侍女の言葉は不遜に聞こえた。
(もしかすると。この侍女は皇后陛下よりも、同じ教徒である呂充儀を尊敬しているのだろうか)
それは危険だ。
皇后陛下は蘭淑妃と目を合わせて、深く息をついた。
「陛下は後宮内での信仰の自由をお認めになっています。ですが。それは布教をしてよいということではありません」
「布教だなんて、そんなつもりはございません。呂充儀さまは、ほんとうに真心から、親切心でお茶をくださったんです」
たしかに侍女は、皇后に青蓮娘娘を祀るように勧めてはいない。礼拝に参加するべきだとも、経典を読むようにとも言っていないだろう。
肉食や、五葷といった葱や大蒜、韮などを禁ずる宗教があるが。たとえ経典を読むように命じられずとも、食生活にまで口出しをするようであれば。それは教義の押しつけに他ならない。
たしかに呂充儀は布教をしたわけではない。だが、ここにいる誰もが、彼女の親切など信じていない。
翠鈴や呂充儀の侍女であった南蕾、未央宮の侍女頭である梅娜は、呂充儀のわがままに振りまわされた。
社交的な蘭淑妃でさえ、呂充儀とは顔を会わせないようにしていた。
今回の夏白菊のお茶に関しては、皇帝陛下と皇后陛下が判断を下すだろう。
蘭淑妃は、皇后が横になるのを手伝っている。
四夫人の内で、蘭淑妃にだけ心を許している皇后。それほどにこの後宮では信じられる者が少ないのだろう。
「呂充儀に話を聞きたいところだけれど。わたくしの体調では、先に伸ばした方がよさそうですね」
「どうか、呂充儀さまを信じてください」
侍女は言い募るが。皇后は静かに首をふる。
「もうよい。わたくしは疲れました。出ていきなさい」と、皇后は侍女に命じた。
「お前の主は、どうやらわたくしではないようね」
◇◇◇
寿華宮からの帰り道。蘭淑妃と梅娜、翠鈴は言葉少なだった。
小雨はすでにやんでいる。だが雲はまだ厚く、塀の瓦も道の敷石もしっとりと濡れていた。
鳥が涼しい声で鳴いている。
だが、重苦しい雰囲気が三人を包んでいた。当然だ。呂充儀の親切心など、誰も信じていない。
「もしかすると。呂充儀は、お生まれになる御子を狙ったのではなく。皇帝陛下の気を引こうとしたのかもしれませんね」
「どういうこと?」
梅娜が、ふり返って翠鈴に尋ねる。
「流産した呂充儀のもとへ、皇帝陛下がお通いになるとは思えません。充儀の心を慰めることはあっても、体を重ねるとは考えにくいのです」
「それはまあ……そうよね」
「慰めることもあるのかどうか」と、蘭淑妃が立ちどまった。
「主上は厄介ごとをお嫌いになるから。しばらくは呂充儀を避けるでしょうね」
蘭淑妃は、なかなかに辛辣だ。
だが、この三人のなかで最も皇帝の気質や性格を把握しているのだから。間違いではないのだろう。
桃莉公主は父親に懐いていないが。淑妃は、そんな娘を咎めることもない。
仕方がない。桃莉公主は女の子で、陛下の跡を継ぐわけでもなく、ただ外交の駒に利用される。そういう立場なのだから。
「あっ」と、蘭淑妃が声を上げた。
「翠鈴。わたくし、気づいてしまったかもしれないわ。善意よ、あれは」
「淑妃さまのお考えで合っていると思います」
翠鈴はうなずいた。
「え? なになに? わたしにも教えて」
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