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十章 青い蓮
10、夏白菊
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「おそらくはこのお茶は夏白菊を干したものでしょう。菊といっても、どちらかといえば野菊のように小さな花をびっしりとつけます。熱を下げるという意味の名もあり、他にはマトリカリアとも呼ばれます」
菊という名で一括りにされるが。菊は生薬としては咳や目の充血に用いられる。そして夏白菊は頭痛に効く。
効能が違うのだ。つまり副作用も違う。
「問題なのは、菊は妊婦が飲むのによいのですが。夏白菊は、逆に妊婦が飲んではいけない生薬であるということです。流産や早産につながります」
皇后が息を呑んだ。
沈黙が辺りを支配する。
以前、蘭淑妃は翠鈴に見立ててもらった黒豆のお茶を皇后に贈った。
妊婦でも問題がないと判断した上でのことだ。
夏白菊のお茶を勧めようとは、翠鈴は決して考えない。
「この夏白菊は、誰が持ってきたものですか?」
翠鈴は問いかけた。
嬉々として毒となるものを運び込んでいた買い物代行の夏雪は、もう後宮に現れない。
だとしたら別の誰かだ。
「神さまのお下がりであると、聞きました。女性を守る神さまです」
部屋に控えていた侍女が、かすれる声で答えた。
「持ってきたのは誰ですか?」
翠鈴に尋ねられた侍女は、うつむいた。宮女である自分が問うても無理だろう。翠鈴は、ちらっと蘭淑妃に視線を向けた。
「お願いします」と、声にならない程度に小さく告げる。
いくら直に言葉を交わすことを認められても、宮女から皇后に発言を促すような態度はとれない。だが蘭淑妃ならば話は別だ。
「皇后娘娘」
蘭淑妃が、そう声をかけるだけで充分だった。
「神のお下がりと言いましたね。どの神ですか? 誰が持参したのですか?」
皇后は寝台に上体を起こしたまま、凛と声を張りる 体が苦しいだろうに。そんな様子を感じさせない強さだ。
皇后陛下の問いを無視することはできない。
侍女は立ったまま左右のこぶしを握りしめた。
「加護を授けてくれる女神です」
それだけを告げて、侍女は再び口をつぐむ。埒が明かない。
「恐れながら、言葉を差し挟む無礼をお許しください」
翠鈴は皇后に頭を下げた。そして侍女の前へと進む。
「その女神は、青蓮娘娘ですね。そして夏白菊をあなたに渡したのは、呂充儀さま。違いますか?」
指摘されて、侍女がびくっと身をすくめた。
やはりそうか。翠鈴は小さく息をつく。
「翠鈴。どうしてそれが分かるの?」
蘭淑妃が説明を求める。もっともだ。ただ推測するだけでは、誰も納得しない。
「呂充儀さまの侍女頭が、倒れたからです。その日、文彗宮にお手伝いに行った南蕾さんは指を青く染めて戻ってきました」
皇后と蘭淑妃が顔を見合わせる。どういうことか? と、ふたりの目が問うている。
「先に申しておきますが。こちらにいらしゃる侍女と、呂充儀さまの侍女頭は、皇后陛下の切迫早産とは無関係だと存じます」
関係のない者を巻きこんではいけない。
皇后には権力がある。だからこそ、咎が他に及ばぬように細心の注意を払わねばならない。
一介の宮女でしかない自分だが。品階すらない隠れた薬師であるが。
薬師としての自分の言葉には、人を動かすだけの重みがある。
翠鈴は息を呑んだ。
「呂充儀のお子さまが流れ、天堂教の巫女が弔いに後宮を訪れていました。先日、文彗宮に向かう行列を見かけたのです」
派手な行列だった。
祝いごとにも弔いにも青い蓮の花を用いると、雲嵐が教えてくれた。
空へ向かって撒かれた花は、紙で作られたものだ。蓮が開花するのは夏であるし、そもそも青い蓮など咲かない。
「あなたの指先が青いのは、天堂教の象徴である蓮の花弁を染料で染めたからではないですか? 紙を蓼藍で染め、それを蓮の形に切り抜いていく。呂充儀さまとあなたは、どちらも天堂教の信者ですね?」
新杷国では宗教の自由が認められている。後宮では、異国から嫁いでくる女性もいるのだから、信仰までは奪われない。
儀式に使うのか、或いは供え物なのか。天堂教の信者は、紙の蓮花を青く染める。
呂充儀は自ら染めものなどしない。だから代わりに侍女である南蕾の手が、青く汚れていた。文彗宮を追いだされ、未央宮で働くようになり、南蕾の手からは青の色が薄れていった。もう染料に手を浸すことがなくなったから。
だが侍女頭が倒れて、南蕾が再び染め物を命じられた。
そしてこの皇后陛下の侍女は、教義に則って自ら藍染めをしているのだろう。
菊という名で一括りにされるが。菊は生薬としては咳や目の充血に用いられる。そして夏白菊は頭痛に効く。
効能が違うのだ。つまり副作用も違う。
「問題なのは、菊は妊婦が飲むのによいのですが。夏白菊は、逆に妊婦が飲んではいけない生薬であるということです。流産や早産につながります」
皇后が息を呑んだ。
沈黙が辺りを支配する。
以前、蘭淑妃は翠鈴に見立ててもらった黒豆のお茶を皇后に贈った。
妊婦でも問題がないと判断した上でのことだ。
夏白菊のお茶を勧めようとは、翠鈴は決して考えない。
「この夏白菊は、誰が持ってきたものですか?」
翠鈴は問いかけた。
嬉々として毒となるものを運び込んでいた買い物代行の夏雪は、もう後宮に現れない。
だとしたら別の誰かだ。
「神さまのお下がりであると、聞きました。女性を守る神さまです」
部屋に控えていた侍女が、かすれる声で答えた。
「持ってきたのは誰ですか?」
翠鈴に尋ねられた侍女は、うつむいた。宮女である自分が問うても無理だろう。翠鈴は、ちらっと蘭淑妃に視線を向けた。
「お願いします」と、声にならない程度に小さく告げる。
いくら直に言葉を交わすことを認められても、宮女から皇后に発言を促すような態度はとれない。だが蘭淑妃ならば話は別だ。
「皇后娘娘」
蘭淑妃が、そう声をかけるだけで充分だった。
「神のお下がりと言いましたね。どの神ですか? 誰が持参したのですか?」
皇后は寝台に上体を起こしたまま、凛と声を張りる 体が苦しいだろうに。そんな様子を感じさせない強さだ。
皇后陛下の問いを無視することはできない。
侍女は立ったまま左右のこぶしを握りしめた。
「加護を授けてくれる女神です」
それだけを告げて、侍女は再び口をつぐむ。埒が明かない。
「恐れながら、言葉を差し挟む無礼をお許しください」
翠鈴は皇后に頭を下げた。そして侍女の前へと進む。
「その女神は、青蓮娘娘ですね。そして夏白菊をあなたに渡したのは、呂充儀さま。違いますか?」
指摘されて、侍女がびくっと身をすくめた。
やはりそうか。翠鈴は小さく息をつく。
「翠鈴。どうしてそれが分かるの?」
蘭淑妃が説明を求める。もっともだ。ただ推測するだけでは、誰も納得しない。
「呂充儀さまの侍女頭が、倒れたからです。その日、文彗宮にお手伝いに行った南蕾さんは指を青く染めて戻ってきました」
皇后と蘭淑妃が顔を見合わせる。どういうことか? と、ふたりの目が問うている。
「先に申しておきますが。こちらにいらしゃる侍女と、呂充儀さまの侍女頭は、皇后陛下の切迫早産とは無関係だと存じます」
関係のない者を巻きこんではいけない。
皇后には権力がある。だからこそ、咎が他に及ばぬように細心の注意を払わねばならない。
一介の宮女でしかない自分だが。品階すらない隠れた薬師であるが。
薬師としての自分の言葉には、人を動かすだけの重みがある。
翠鈴は息を呑んだ。
「呂充儀のお子さまが流れ、天堂教の巫女が弔いに後宮を訪れていました。先日、文彗宮に向かう行列を見かけたのです」
派手な行列だった。
祝いごとにも弔いにも青い蓮の花を用いると、雲嵐が教えてくれた。
空へ向かって撒かれた花は、紙で作られたものだ。蓮が開花するのは夏であるし、そもそも青い蓮など咲かない。
「あなたの指先が青いのは、天堂教の象徴である蓮の花弁を染料で染めたからではないですか? 紙を蓼藍で染め、それを蓮の形に切り抜いていく。呂充儀さまとあなたは、どちらも天堂教の信者ですね?」
新杷国では宗教の自由が認められている。後宮では、異国から嫁いでくる女性もいるのだから、信仰までは奪われない。
儀式に使うのか、或いは供え物なのか。天堂教の信者は、紙の蓮花を青く染める。
呂充儀は自ら染めものなどしない。だから代わりに侍女である南蕾の手が、青く汚れていた。文彗宮を追いだされ、未央宮で働くようになり、南蕾の手からは青の色が薄れていった。もう染料に手を浸すことがなくなったから。
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