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十章 青い蓮
9、原因は
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安静にしていれば、皇后はよくなる。産医も翠鈴も、出産を経験した蘭淑妃もそう考えていた。
だが、翌日も皇后の体調は改善しなかった。
「切迫早産でございます」
産医の言葉に、皇后の部屋に緊張が走った。二日続けて、蘭淑妃と翠鈴は皇后の宮に呼ばれていた。
「もう生まれてしまうの?」
おろおろと、蘭淑妃が翠鈴にすがりつく。無理もない。寝台に臥す皇后は苦しそうで。初産の長い痛みと苦しみに耐えられそうには見えない。
「切迫ですから。まだ早産になるとは決まっていません」
翠鈴は力を込めて答えた。それは願いでもある。
早くに生まれてしまえば、赤子の生存率が低くなる。臓器が育ちきらないうちに母体から出ることになるので、哺乳のみならず呼吸が難しい場合もある。感染症にもかかりやすい。
切迫早産は、早産の一歩手前だ。適切な処置をすれば、まだ子どもは生まれなくて済む。
翠鈴は、蘭淑妃の震える手を握った。淑妃の手は緊張で冷えきっていた。
昨日、翠鈴は医局で医師や医官と話をした。母体が若くはない場合は、出産が困難になることが多いそうだ。
たしかに皇后陛下は、他の妃嬪に比べて年嵩だ。だが頭痛やめまいを伴うような症状、喉の渇きや痩せるという状態ではないので、さほど問題はないと医師から聞いた。
皇后の産医も同じ考えだという。
(なにか理由があるのかもしれない)
翠鈴は皇后の寝台に視線を向けた。冷えることのないように、また暑すぎないように、侍女たちがしきりに寝具を調節している。
苦しそうでありながらも、皇后は侍女たちに「ありがとう」と告げる。
「失礼ですが、陛下。緑茶を多く飲んではいらっしゃいませんか?」
ふと思いついて、翠鈴は問いかけた。
緑茶や烏龍茶は、妊娠中は多飲しない方がいいと医師が話していたのを思い出したからだ。
「ええ。茶外茶がいいと聞いたわ。白湯以外は、産医に教えてもらった玫瑰茶に菊茶。それから春景からもらった黒豆のお茶ね」
かすれた声で、皇后は翠鈴に答えた。そして「春景」である蘭淑妃を見てにっこりと微笑む。
問題はないようだ。
翠鈴はあごに指をあてて考えた。
お茶は盲点だから、原因であるかもと思ったのだが。
ちょうどその時。扉が開いた。
ふわりと菊の匂いがした。それに重なる青草の匂い。
翠鈴は立ちあがった。
「お茶をお持ちいたしました」と侍女が部屋に入ってくる。
急須である茶壺ではなく蓋碗がお盆に乗っている。蓋碗は、お茶だけではなく花茶を淹れる時にも用いる。
侍女の背後には、毒見だろうか。女性が控えていた。侍女が蓋碗の蓋をずらして、茶杯にお茶を注ぐ。
ふと、ほのかな青が見えた。目の錯覚かと思うほど微かな色だ。
毒見役は椅子に座り、茶杯に注がれたものを飲む。
異変はない。蓋碗の中のお茶に毒は含まれない。
でも、何かが引っかかる。これで充分ではない。
皇后陛下の症状の原因は分からない。けれど違和感がぬぐえない。
侍女が淹れた菊茶を、皇后は受けとった。
また青だ。盆を持つ侍女の指がわずかに青い。
「待ってください」
翠鈴は立ちあがった。
「どうかしましたか」
「どうしたの? 翠鈴」
皇后と蘭淑妃が、目を見開いた。
「そのお茶をお召し上がりにならないでください」
「これは毒味に確認してもらったお茶です。しかも菊茶なので、体に障ることはないと聞いていますよ。どうして、そう思うのか教えてくださる?」
さすがに皇后陛下は、呂充儀とは違う。一介の宮女に過ぎない翠鈴が、お茶を飲むのを止めても、怒りはしない。
異は唱えるが、ちゃんと説明を聞こうとしてくれる。
蘭淑妃は、翠鈴を見てうなずいた。
安全であるはずの菊茶を飲むなと阻止する翠鈴の方が、おかしい。それでも、ふたりとも説明を待っていてくれる。
碗から立つ湯気の香りに、翠鈴ははっとした。
そうだ。名前で騙されていた。
茶外茶である菊なら安全。誰もがそう思い込んでいた。
「それは誰もが思っている菊茶ではありません」
「どういうことですか?」
皇后が眉をひそめる。
「匂いが違います。菊茶は花や蕾を用います。ですが、そのお茶は草のような青い匂いが混じっています」
菊茶と聞いて誰もが思い描くのは、菊花茶だ。だから、さして気にも留めなかったのだろう。皇后陛下も侍女たちも。
菊花茶には咢もついているから。必ずしも花の部分だけではない。青い匂いがするのは避けられないが。匂いの強さが違う。
「翠鈴。毒なの? でも……」
「いえ、毒ではありません。通常であれば」
翠鈴は皇后から茶杯を受けとった。それを椅子に座っている毒見に渡す。
「彼女が再びこのお茶を飲んでも、何も起こりません。むしろ薬になるでしょう」
「もしかして飲む量が少なかったということですか?」
何か落ち度でもあったのかと、毒見の女性が翠鈴を見上げる。
不安になるのも無理はない。畏れ多くも皇后陛下の毒見を務めているのだから。
「下品のことですね。毒も少量ならば薬になる。ですが、あなたが大量に飲んだとしても、毒にはなりませんよ」
そう。菊そのものが問題なのではない。摂取する人間の状態に左右されるのだ。
だが、翌日も皇后の体調は改善しなかった。
「切迫早産でございます」
産医の言葉に、皇后の部屋に緊張が走った。二日続けて、蘭淑妃と翠鈴は皇后の宮に呼ばれていた。
「もう生まれてしまうの?」
おろおろと、蘭淑妃が翠鈴にすがりつく。無理もない。寝台に臥す皇后は苦しそうで。初産の長い痛みと苦しみに耐えられそうには見えない。
「切迫ですから。まだ早産になるとは決まっていません」
翠鈴は力を込めて答えた。それは願いでもある。
早くに生まれてしまえば、赤子の生存率が低くなる。臓器が育ちきらないうちに母体から出ることになるので、哺乳のみならず呼吸が難しい場合もある。感染症にもかかりやすい。
切迫早産は、早産の一歩手前だ。適切な処置をすれば、まだ子どもは生まれなくて済む。
翠鈴は、蘭淑妃の震える手を握った。淑妃の手は緊張で冷えきっていた。
昨日、翠鈴は医局で医師や医官と話をした。母体が若くはない場合は、出産が困難になることが多いそうだ。
たしかに皇后陛下は、他の妃嬪に比べて年嵩だ。だが頭痛やめまいを伴うような症状、喉の渇きや痩せるという状態ではないので、さほど問題はないと医師から聞いた。
皇后の産医も同じ考えだという。
(なにか理由があるのかもしれない)
翠鈴は皇后の寝台に視線を向けた。冷えることのないように、また暑すぎないように、侍女たちがしきりに寝具を調節している。
苦しそうでありながらも、皇后は侍女たちに「ありがとう」と告げる。
「失礼ですが、陛下。緑茶を多く飲んではいらっしゃいませんか?」
ふと思いついて、翠鈴は問いかけた。
緑茶や烏龍茶は、妊娠中は多飲しない方がいいと医師が話していたのを思い出したからだ。
「ええ。茶外茶がいいと聞いたわ。白湯以外は、産医に教えてもらった玫瑰茶に菊茶。それから春景からもらった黒豆のお茶ね」
かすれた声で、皇后は翠鈴に答えた。そして「春景」である蘭淑妃を見てにっこりと微笑む。
問題はないようだ。
翠鈴はあごに指をあてて考えた。
お茶は盲点だから、原因であるかもと思ったのだが。
ちょうどその時。扉が開いた。
ふわりと菊の匂いがした。それに重なる青草の匂い。
翠鈴は立ちあがった。
「お茶をお持ちいたしました」と侍女が部屋に入ってくる。
急須である茶壺ではなく蓋碗がお盆に乗っている。蓋碗は、お茶だけではなく花茶を淹れる時にも用いる。
侍女の背後には、毒見だろうか。女性が控えていた。侍女が蓋碗の蓋をずらして、茶杯にお茶を注ぐ。
ふと、ほのかな青が見えた。目の錯覚かと思うほど微かな色だ。
毒見役は椅子に座り、茶杯に注がれたものを飲む。
異変はない。蓋碗の中のお茶に毒は含まれない。
でも、何かが引っかかる。これで充分ではない。
皇后陛下の症状の原因は分からない。けれど違和感がぬぐえない。
侍女が淹れた菊茶を、皇后は受けとった。
また青だ。盆を持つ侍女の指がわずかに青い。
「待ってください」
翠鈴は立ちあがった。
「どうかしましたか」
「どうしたの? 翠鈴」
皇后と蘭淑妃が、目を見開いた。
「そのお茶をお召し上がりにならないでください」
「これは毒味に確認してもらったお茶です。しかも菊茶なので、体に障ることはないと聞いていますよ。どうして、そう思うのか教えてくださる?」
さすがに皇后陛下は、呂充儀とは違う。一介の宮女に過ぎない翠鈴が、お茶を飲むのを止めても、怒りはしない。
異は唱えるが、ちゃんと説明を聞こうとしてくれる。
蘭淑妃は、翠鈴を見てうなずいた。
安全であるはずの菊茶を飲むなと阻止する翠鈴の方が、おかしい。それでも、ふたりとも説明を待っていてくれる。
碗から立つ湯気の香りに、翠鈴ははっとした。
そうだ。名前で騙されていた。
茶外茶である菊なら安全。誰もがそう思い込んでいた。
「それは誰もが思っている菊茶ではありません」
「どういうことですか?」
皇后が眉をひそめる。
「匂いが違います。菊茶は花や蕾を用います。ですが、そのお茶は草のような青い匂いが混じっています」
菊茶と聞いて誰もが思い描くのは、菊花茶だ。だから、さして気にも留めなかったのだろう。皇后陛下も侍女たちも。
菊花茶には咢もついているから。必ずしも花の部分だけではない。青い匂いがするのは避けられないが。匂いの強さが違う。
「翠鈴。毒なの? でも……」
「いえ、毒ではありません。通常であれば」
翠鈴は皇后から茶杯を受けとった。それを椅子に座っている毒見に渡す。
「彼女が再びこのお茶を飲んでも、何も起こりません。むしろ薬になるでしょう」
「もしかして飲む量が少なかったということですか?」
何か落ち度でもあったのかと、毒見の女性が翠鈴を見上げる。
不安になるのも無理はない。畏れ多くも皇后陛下の毒見を務めているのだから。
「下品のことですね。毒も少量ならば薬になる。ですが、あなたが大量に飲んだとしても、毒にはなりませんよ」
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