後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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十章 青い蓮

14、充儀の惨めな帰郷【1】

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 呂充儀ルーじゅうぎの乗った馬車は、杷京を遠く過ぎた。久しぶりの馬車はガタガタと揺れて、心地が悪い。

「皆、おかしいわよね」

 後宮を出る時のことを、呂充儀は思い出して笑っていた。
 文彗宮ぶんけいきゅうで働く侍女たちは、呂充儀に「どうぞお元気で」と、すがりつくほどだった。目に涙を浮かべる者もいた。
 今回、息国シーこくに付き従うのは、侍女頭の晩溪ワンシーだけだ。

「よかったですね。侍女たちが見送りをしてくれて」
「そうね。たとえ帰省の期間は短くとも、わたくしが不在であれば寂しいでしょうし。仕事がなければ手持ち無沙汰よね。でも、大丈夫よ」

 呂充儀は、にっこりと笑みを浮かべる。

「天堂教にお供えする、青い蓮花の用意を命じてきたから」

 ずっしりと重いほどの白い紙。それと蓼藍たであいの乾燥葉。
 女主人の世話をする必要がないのだから、紙を青く染めて、小刀で花びらの形に切っていく。
 呂充儀が文彗宮に戻る頃には、大量の青い蓮花ができていることだろう。

「本当に分かっていらっしゃらないんですね」
「どういうこと?」

 車輪が地面に埋まった石に乗り上げたのだろうか。ガタン、と大きく馬車が揺れた。
 呂充儀は体が傾いて、隣に座る晩溪にしがみつこうとした。

 すっと、晩溪が腕をよけた。

「侍女たちが見送りに出てくれたのは、もう充儀さまと会うことがないからですよ。あなたのような人でも、名残惜しいと思ってもらえてよかったですね」

 晩溪の声は冷たい。馬車の中はむしろ暑いくらいなのに、凍えそうなほどだ。
 マトリカリア――夏白菊の件から、晩溪に嫌われているような気がする。

(いいえ、そんなはずはないわ。だってわたくしは息国の公主であり、充儀でもあるのよ。侍女ならばわたくしを慕い、敬って当然だわ)

 何かが大きく崩れはじめているような気がした。
 だが、呂充儀はまだ分かっていなかった。崩れかけているのではなく、とうに壊れてしまっていることに。

「ねぇ、夏白菊が皇后陛下によくないって、誰が言ったの?」
「妊婦によくないのですよ。充儀さまがお召し上がりになっていた丁子と同じですね」
「質問にちゃんと答えて」

 呂充儀はぴしりと命じた。

「未央宮の陸翠鈴ルーツイリンですよ」

 ため息交じりに、晩溪が答える。その表情に疲れが浮かんでいた。

「陸翠鈴。わたくしに丁子のお茶を飲むなと命令した女ね。またわたくしに盾突いたの? あの女こそ、皇后に取り入ろうとしてるじゃない」

 まくし立てれば、余計に腹が立つ。

(そうよ。わたくしが皇后に可愛がられるのが憎かったんだわ。身分もわきまえずに、よくも皇后に意見できたものね)

「翠鈴が止めてくれてよかったんですよ。丁子も、夏白菊も。充儀さまは、翠鈴に感謝しなければならないのです。なのに本当に恩知らずでいらっしゃいますね」

 晩溪が何を言いたいのか、分からない。
 あの宮女は、ことごとく自分の邪魔をするのに。怒りこそすれ、なぜ感謝せねばならぬのか。
 
 数日かけて、馬車は国境を越えた。
 関を出ると、景色が一変する。

 呂充儀は馬車のまどから顔を出して、外を眺めた。
 風が違う。色が違う。新杷国は色彩が鮮やかだった。後宮しか知らないのもあるが、壁も柱も朱色で、軒は細かな飾りが施され、青や黄色、緑に塗り分けられている。

「やっぱり息国はいいわね。色が抑えられているから、目に優しいわ」

 呂充儀は深呼吸をした。
 後宮は宮殿が木で造られていたが。息国では建築物は石でできている。落ち着いた茶色や砂色の建物の前には、風にそよぐ楊柳ポプラ並木が見える。

 平民の家は、石ではなく日干し煉瓦でできている。
 あんな土くさい家によく住めるものだと、呂充儀は思わないでもないが。さすがに息国の公主として、口にするには憚られる。

「きっと後宮に戻れば、あの毒々しい色合いで目が痛くなるんでしょうね」

 くっくっと呂充儀は笑った。
 頬を撫でる風が乾いている。爽快だ。

 楊柳の道を馬車は進む。荷台に大量の野菜を積んで、驢馬車ロバしゃを牽く農夫がいる。
 ハミ瓜や、葡萄、柘榴の季節にはまだ早いから。露店に並ぶ果物は、干してあるものが多い。
 露天で干果ドライフルーツを選んでいる青年がいる。

 呂充儀の心臓が、とくんと鳴る。
 すっと伸びた背筋と、日に灼けた肌。たくましいその姿が、雲嵐に似ていた。
 窗から顔を出そうとしたのに。呂充儀の眼前で、窗は閉じられた。
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