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十章 青い蓮
13、嵌字豆糖
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立夏を過ぎ、木々の若葉があさみどりに萌える頃。
皇后の子が、無事に生まれた。男の子だ。
後宮の空気が一気に華やいだ。
これで新杷国は安泰だ。
おめでとう。おめでとうございます。皇帝陛下に祝福を。皇后陛下に寿ぎを。
まるで春の陽ざしのように、温かな言葉が降ってくる。
皆が浮足立って、笑顔が満ちる。地上から重さというものが消えたかのようだ。
それは皇帝が重圧から、皇后が重荷から解放されたからかもしれない。
「義兄も翠鈴に礼を伝えてくれと言っていた。ありがとうな」
書令史の部屋に招かれた翠鈴に、光柳が笑顔で告げた。
光柳は、どこかほっとした表情に見える。過保護な皇帝の興味が赤子に向かうからだろうか。
「わたしは、これといったことはしていません」
雲嵐に勧められた椅子に、翠鈴は座った。
誰もが嬉しそうで、誰もが楽しそうだ。だが、光柳や翠鈴は知っている。
皇后陛下に夏白菊のお茶を勧めた呂充儀が、国に帰されたことを。
夏白菊は毒ではない。妊婦や小さな子供以外はむしろ頭痛を鎮めるよい薬となる。
呂充儀が皇后の子を狙ったとするには、証拠が少なすぎる。
翠鈴もまた、呂充儀は親切心で皇后に夏白菊を勧めたと考えた。そう、呂充儀は大胆にも皇后の頭痛を利用しようとした。
皇帝は「皇后に男児が生まれたことで、後宮は華やいでいる。胎の子を喪った呂充儀もつらかろう。しばらくは国に戻り、養生するがよかろう。無理をしてはならぬ」と呂充儀に告げたという。
充儀の身を案じているかのような言葉だが。期限は決められていない。
ただ呂充儀本人だけが、ただの帰省であると勘違いしている。
「義兄は呂充儀を気に入っていたようだが。さすがに皇后陛下と子を利用されては、見過ごすことはできなかったようだ」
「他の妃嬪と違い、自由奔放なところが良いと陛下はおっしゃっていましたね」
お茶を淹れながら、雲嵐が言葉を添える。
ほわっとした湯気が立ち、清々しい香りがした。
「まぁな。ふつうならば皇帝陛下の前ではしとやかに、従順に振る舞うものだ。だが、呂充儀は奔放と言えば聞こえはいいが、自我が強くわがままだからな。陛下としても物珍しかったのだろう」
――毒ではないわ! 薬なのよ! わたくしは真心から、皇后娘娘にお茶をさしあげたのよ。どうして皇后娘娘は分かってくださらないの?
呂充儀は、そう叫んだという。
そして充儀の訴えを伝え聞いた皇后、暁慶はただ一言。
――彼女に皇后娘娘の呼び名は許してはいない。と。
娘娘は親愛の情と敬意のこもった尊称だ。歴代の皇后は誰にでもそう呼ばれていたが、暁慶皇后は違う。
本当に心を許し、認めたものにしか「皇后娘娘」と呼ばせない。
つまり皇后は「そなたには親しみも愛情も感じてはおらぬ」と、言葉で切り捨てたのだ。
皇后は後宮を取り仕切る立場にある。だからこそ妃嬪と表立って争うようなことは、本来しない。
それでも、呂充儀は危険だったのだろう。
「皮肉なものだな。呂充儀は懐郷病であった。故郷の国に帰るのを願っていただろうに」
お茶を飲みながら、光柳が話す。翠鈴はうなずいた。
「呂充儀が望んだのは、衣錦還郷ですからね」
衣錦還郷は、出世して晴れがましい様子で故郷に帰ることだ。
帰国した呂充儀は、両親から責められることだろう。
これで新杷国とのつながりが途絶えたことに、皇帝から厄介者だと思われてしまったことに。
雲嵐が、器に入った嵌字豆糖という飴を卓に置いた。
どこで切っても、文字や紋様が現れる仕組みの飴だ。大豆の粉で作った飴に、中の文字は黒ゴマを練りこんだ麦芽糖なのだと雲嵐が教えてくれた。
「すごいですね。これ『喜』の文字がふたつの『双喜』じゃないですか。こんな細かな紋様をどうやって飴の中に入れるんでしょうか」
翠鈴は黄色い飴を手に取って、しげしげと眺めた。
「ふふん。翠鈴はなんでも知っているようで、そんなことも知らんのか」
あ、なんだかイヤな感じ。
光柳は腕を組んで、あごを上げている。
「しょうがないな。教えてやろう」
いえ、訊いていませんが。そう言いたい気持ちを、翠鈴はぐっとこらえる。
「こうした祝いの文字が入った飴はな、まず抱えるほどに巨大に作るんだ。黒い部分を文字の形に重ねて、周囲を黄色い飴で覆う。それを極限まで引き延ばすから、小さな文字が入っているように見えるんだぞ」
「あ、これは『福』ですね」
「翠鈴。こっちは『壽』です。ほんとうに細かいですね」
翠鈴と雲嵐は、光柳には勝手にしゃべらせておくことにした。
大豆の粉と黒ゴマを練った飴は、派手さはないが落ち着く甘さだ。
飴とはいえ硬くはない。噛めば、口の中でほろりと崩れていく。
光柳はまだ蘊蓄を垂れている。雲嵐が「翠鈴に教えることができるのが嬉しいんですよ」と、小声で言った。
翠鈴は、光柳のことを好いている。だが、彼は完璧ではない。むしろ欠点の多い人だと思う。
それも愛らしいのだが。
とりあえず今はちょっぴり鬱陶しいので、放っておこう。
皇后の子が、無事に生まれた。男の子だ。
後宮の空気が一気に華やいだ。
これで新杷国は安泰だ。
おめでとう。おめでとうございます。皇帝陛下に祝福を。皇后陛下に寿ぎを。
まるで春の陽ざしのように、温かな言葉が降ってくる。
皆が浮足立って、笑顔が満ちる。地上から重さというものが消えたかのようだ。
それは皇帝が重圧から、皇后が重荷から解放されたからかもしれない。
「義兄も翠鈴に礼を伝えてくれと言っていた。ありがとうな」
書令史の部屋に招かれた翠鈴に、光柳が笑顔で告げた。
光柳は、どこかほっとした表情に見える。過保護な皇帝の興味が赤子に向かうからだろうか。
「わたしは、これといったことはしていません」
雲嵐に勧められた椅子に、翠鈴は座った。
誰もが嬉しそうで、誰もが楽しそうだ。だが、光柳や翠鈴は知っている。
皇后陛下に夏白菊のお茶を勧めた呂充儀が、国に帰されたことを。
夏白菊は毒ではない。妊婦や小さな子供以外はむしろ頭痛を鎮めるよい薬となる。
呂充儀が皇后の子を狙ったとするには、証拠が少なすぎる。
翠鈴もまた、呂充儀は親切心で皇后に夏白菊を勧めたと考えた。そう、呂充儀は大胆にも皇后の頭痛を利用しようとした。
皇帝は「皇后に男児が生まれたことで、後宮は華やいでいる。胎の子を喪った呂充儀もつらかろう。しばらくは国に戻り、養生するがよかろう。無理をしてはならぬ」と呂充儀に告げたという。
充儀の身を案じているかのような言葉だが。期限は決められていない。
ただ呂充儀本人だけが、ただの帰省であると勘違いしている。
「義兄は呂充儀を気に入っていたようだが。さすがに皇后陛下と子を利用されては、見過ごすことはできなかったようだ」
「他の妃嬪と違い、自由奔放なところが良いと陛下はおっしゃっていましたね」
お茶を淹れながら、雲嵐が言葉を添える。
ほわっとした湯気が立ち、清々しい香りがした。
「まぁな。ふつうならば皇帝陛下の前ではしとやかに、従順に振る舞うものだ。だが、呂充儀は奔放と言えば聞こえはいいが、自我が強くわがままだからな。陛下としても物珍しかったのだろう」
――毒ではないわ! 薬なのよ! わたくしは真心から、皇后娘娘にお茶をさしあげたのよ。どうして皇后娘娘は分かってくださらないの?
呂充儀は、そう叫んだという。
そして充儀の訴えを伝え聞いた皇后、暁慶はただ一言。
――彼女に皇后娘娘の呼び名は許してはいない。と。
娘娘は親愛の情と敬意のこもった尊称だ。歴代の皇后は誰にでもそう呼ばれていたが、暁慶皇后は違う。
本当に心を許し、認めたものにしか「皇后娘娘」と呼ばせない。
つまり皇后は「そなたには親しみも愛情も感じてはおらぬ」と、言葉で切り捨てたのだ。
皇后は後宮を取り仕切る立場にある。だからこそ妃嬪と表立って争うようなことは、本来しない。
それでも、呂充儀は危険だったのだろう。
「皮肉なものだな。呂充儀は懐郷病であった。故郷の国に帰るのを願っていただろうに」
お茶を飲みながら、光柳が話す。翠鈴はうなずいた。
「呂充儀が望んだのは、衣錦還郷ですからね」
衣錦還郷は、出世して晴れがましい様子で故郷に帰ることだ。
帰国した呂充儀は、両親から責められることだろう。
これで新杷国とのつながりが途絶えたことに、皇帝から厄介者だと思われてしまったことに。
雲嵐が、器に入った嵌字豆糖という飴を卓に置いた。
どこで切っても、文字や紋様が現れる仕組みの飴だ。大豆の粉で作った飴に、中の文字は黒ゴマを練りこんだ麦芽糖なのだと雲嵐が教えてくれた。
「すごいですね。これ『喜』の文字がふたつの『双喜』じゃないですか。こんな細かな紋様をどうやって飴の中に入れるんでしょうか」
翠鈴は黄色い飴を手に取って、しげしげと眺めた。
「ふふん。翠鈴はなんでも知っているようで、そんなことも知らんのか」
あ、なんだかイヤな感じ。
光柳は腕を組んで、あごを上げている。
「しょうがないな。教えてやろう」
いえ、訊いていませんが。そう言いたい気持ちを、翠鈴はぐっとこらえる。
「こうした祝いの文字が入った飴はな、まず抱えるほどに巨大に作るんだ。黒い部分を文字の形に重ねて、周囲を黄色い飴で覆う。それを極限まで引き延ばすから、小さな文字が入っているように見えるんだぞ」
「あ、これは『福』ですね」
「翠鈴。こっちは『壽』です。ほんとうに細かいですね」
翠鈴と雲嵐は、光柳には勝手にしゃべらせておくことにした。
大豆の粉と黒ゴマを練った飴は、派手さはないが落ち着く甘さだ。
飴とはいえ硬くはない。噛めば、口の中でほろりと崩れていく。
光柳はまだ蘊蓄を垂れている。雲嵐が「翠鈴に教えることができるのが嬉しいんですよ」と、小声で言った。
翠鈴は、光柳のことを好いている。だが、彼は完璧ではない。むしろ欠点の多い人だと思う。
それも愛らしいのだが。
とりあえず今はちょっぴり鬱陶しいので、放っておこう。
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