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三章
13、雲の上の人
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今日は午後から、マルティナさまは公務でいらっしゃる。
海辺の街で開催されている絨毯の展示会への参加だ。
私が普段よりも少し遅れたことに焦っておられた姫さまだが。なんとか落ち着いてくださった。
朝はよく晴れていたのに、展示会場に入る頃には重い灰色の雲が垂れこめていた。
街中なので海は見えないが、雨の降りはじめる頃には潮の匂いを強く感じた。
王宮は湖や川が近いのだが、海沿いの街は同じ水の近くでも大きく違う。
木造の建物は色褪せ、石造りの建築物もいかにも古びて見える。
「今にも降りそうね」
水をたっぷりと含んでいるであろう雲を見上げ、姫さまは少し身を震わせる。海からの風がきついせいだ。
手編みのレースの衿のついた、品のよい紺色のワンピースの裾が湿った風に揺れる。
袖が膨らんでいないのと、白い手袋をなさっているのを除けば、宵祭りの時の服装によく似ている。
「ほこり、ついてない? 糸くずは?」
「大丈夫ですよ」
馬車の中でそわそわなさっている姫さまの手に、対面に座った私はそっと手を重ねた。
公務の緊張が、私への緊張を上書きしたせいで、普段のマルティナさまに戻ったようだ。
展示会場になっている館に到着し、姫さまに手を貸して馬車から降りる。
白い手袋をはめた手を、私に預けた姫さまはゆったりと辺りを見まわした。
一瞬にして王女の品格が漂った。
すっと澄んだ横顔にガラス細工のような美しい瞳。
威圧感があるわけではないのに、マルティナさまには静かな存在感がある。夏の早朝に花開く花弁に浮いた朝露のような、目を離すのが惜しくなるような印象を見る者に与える。
主催者や来賓が次々と姫さまの元を訪れては、恭しく挨拶をした。
以前であれば、背後に控える私を何度も肩越しに振り返って、ちらっと視線を送ってくるのだが。
今は堂々となさっておられるのが、眩しく感じられる。
雨をはらんだ風は潮のにおいが混じっていて、少し肌寒い。車寄せに屋根はあるが、姫さまが濡れぬように私は風上に立った。
「これもわたしにできることよね」
何のことか分からなかったが、さすがに外なので「は?」とは訊き返せなかった。
思えば、私はマルティナさまに対して不躾な言葉遣いをするときがあるようだ。いかんなぁ。
絨毯の展示会の公務は、さほど重大ではない。壁に掛けられたり、床に敷かれた絨毯の織りの緻密さを鑑賞し、説明を聞きながら「素晴らしい作品ですね」「製作期間はどれくらいですか?」などと声をかければよいのだ。
会場はとても静かで、姫さまと私の足音が石の壁に反響して聞こえるほどだ。
遠い波の音、そして雨の音。
ゆるやかに歩く姫さまのワンピースの衣擦れの音が、かすかに耳に届く。
姫さまは、一枚の絨毯の前で立ち止まった。
絨毯に用いられたという糸の束を手に取り、その細さと手触りの滑らかさ、そして染の美しさに見惚れていらっしゃる。
「これはあなたがお作りになったの?」
「は、はい」
姫さまに声をかけられた女性は、驚きのあまり緊張で声が裏返っている。姫さまは彼女のそんな様子には気づかない。
私はといえば「ああ、人見知りだった姫さまが、初対面の人にご自分から声をおかけになっている」と感激していた。
「優しい色合いですね。それにとても繊細な模様……これは何の花かしら」
「えっと、その、パルメットとロゼット、です。その、伝統紋なんです」
「パルメットは棕櫚のことかしら。ロゼットとは薔薇のことですね」
「は、はい。棕櫚ですが、百合の花のように模様を折りこんでいくんです」
マルティナさまはにっこりと微笑んで「素敵ですね。ずっと眺めていたいです」と仰った。
女性は口ごもってしまい、とうとう涙ぐんだ。
こんな時に再認識する。
ああ、そうだ。
私はあまりにもお傍近くにいるから忘れることも多いが。マルティナさまは雲の上の人なのだ、と。
帰り道。
馬車の窓に、雨の粒が流星のようにぶつかっては後方へと流れていく。
海辺の街は建物が潮風のせいで色褪せて、灰色の重い空の下では絵に描いたような風景に見えた。
そして姫さまは「もうだめ、つかれたー」と駄々をこねながら、ワゴンの座席でころんと横になってしまわれた。
はいはい、外面がとても良かったですからね。頑張ったから、疲れたですよね。ですが、さすがにお行儀が悪いですね。
私は姫さまの隣の席に移り、彼女の小さな頭を自分の肩にもたれかけさせた。
「眠っていらしていいですよ」
「……もうそんな子どもじゃないもの」
「目を閉じれば、すぐに宮殿につきますよ」
「疲れたけど。とってもきれいだったわ。あの絨毯」
うっとりと夢見るように瞳を輝かせて、マルティナさまは微笑んだ。
ええ、きっとあの絨毯を織った女性も今ごろ「今日は王女さまに褒めていただいたの」と、家族に語っていることでしょう。目をきらきらと輝かせながら。
あなたの言葉は、素敵な魔法をかけることができるんですよ。ご存じですか?
海辺の街で開催されている絨毯の展示会への参加だ。
私が普段よりも少し遅れたことに焦っておられた姫さまだが。なんとか落ち着いてくださった。
朝はよく晴れていたのに、展示会場に入る頃には重い灰色の雲が垂れこめていた。
街中なので海は見えないが、雨の降りはじめる頃には潮の匂いを強く感じた。
王宮は湖や川が近いのだが、海沿いの街は同じ水の近くでも大きく違う。
木造の建物は色褪せ、石造りの建築物もいかにも古びて見える。
「今にも降りそうね」
水をたっぷりと含んでいるであろう雲を見上げ、姫さまは少し身を震わせる。海からの風がきついせいだ。
手編みのレースの衿のついた、品のよい紺色のワンピースの裾が湿った風に揺れる。
袖が膨らんでいないのと、白い手袋をなさっているのを除けば、宵祭りの時の服装によく似ている。
「ほこり、ついてない? 糸くずは?」
「大丈夫ですよ」
馬車の中でそわそわなさっている姫さまの手に、対面に座った私はそっと手を重ねた。
公務の緊張が、私への緊張を上書きしたせいで、普段のマルティナさまに戻ったようだ。
展示会場になっている館に到着し、姫さまに手を貸して馬車から降りる。
白い手袋をはめた手を、私に預けた姫さまはゆったりと辺りを見まわした。
一瞬にして王女の品格が漂った。
すっと澄んだ横顔にガラス細工のような美しい瞳。
威圧感があるわけではないのに、マルティナさまには静かな存在感がある。夏の早朝に花開く花弁に浮いた朝露のような、目を離すのが惜しくなるような印象を見る者に与える。
主催者や来賓が次々と姫さまの元を訪れては、恭しく挨拶をした。
以前であれば、背後に控える私を何度も肩越しに振り返って、ちらっと視線を送ってくるのだが。
今は堂々となさっておられるのが、眩しく感じられる。
雨をはらんだ風は潮のにおいが混じっていて、少し肌寒い。車寄せに屋根はあるが、姫さまが濡れぬように私は風上に立った。
「これもわたしにできることよね」
何のことか分からなかったが、さすがに外なので「は?」とは訊き返せなかった。
思えば、私はマルティナさまに対して不躾な言葉遣いをするときがあるようだ。いかんなぁ。
絨毯の展示会の公務は、さほど重大ではない。壁に掛けられたり、床に敷かれた絨毯の織りの緻密さを鑑賞し、説明を聞きながら「素晴らしい作品ですね」「製作期間はどれくらいですか?」などと声をかければよいのだ。
会場はとても静かで、姫さまと私の足音が石の壁に反響して聞こえるほどだ。
遠い波の音、そして雨の音。
ゆるやかに歩く姫さまのワンピースの衣擦れの音が、かすかに耳に届く。
姫さまは、一枚の絨毯の前で立ち止まった。
絨毯に用いられたという糸の束を手に取り、その細さと手触りの滑らかさ、そして染の美しさに見惚れていらっしゃる。
「これはあなたがお作りになったの?」
「は、はい」
姫さまに声をかけられた女性は、驚きのあまり緊張で声が裏返っている。姫さまは彼女のそんな様子には気づかない。
私はといえば「ああ、人見知りだった姫さまが、初対面の人にご自分から声をおかけになっている」と感激していた。
「優しい色合いですね。それにとても繊細な模様……これは何の花かしら」
「えっと、その、パルメットとロゼット、です。その、伝統紋なんです」
「パルメットは棕櫚のことかしら。ロゼットとは薔薇のことですね」
「は、はい。棕櫚ですが、百合の花のように模様を折りこんでいくんです」
マルティナさまはにっこりと微笑んで「素敵ですね。ずっと眺めていたいです」と仰った。
女性は口ごもってしまい、とうとう涙ぐんだ。
こんな時に再認識する。
ああ、そうだ。
私はあまりにもお傍近くにいるから忘れることも多いが。マルティナさまは雲の上の人なのだ、と。
帰り道。
馬車の窓に、雨の粒が流星のようにぶつかっては後方へと流れていく。
海辺の街は建物が潮風のせいで色褪せて、灰色の重い空の下では絵に描いたような風景に見えた。
そして姫さまは「もうだめ、つかれたー」と駄々をこねながら、ワゴンの座席でころんと横になってしまわれた。
はいはい、外面がとても良かったですからね。頑張ったから、疲れたですよね。ですが、さすがにお行儀が悪いですね。
私は姫さまの隣の席に移り、彼女の小さな頭を自分の肩にもたれかけさせた。
「眠っていらしていいですよ」
「……もうそんな子どもじゃないもの」
「目を閉じれば、すぐに宮殿につきますよ」
「疲れたけど。とってもきれいだったわ。あの絨毯」
うっとりと夢見るように瞳を輝かせて、マルティナさまは微笑んだ。
ええ、きっとあの絨毯を織った女性も今ごろ「今日は王女さまに褒めていただいたの」と、家族に語っていることでしょう。目をきらきらと輝かせながら。
あなたの言葉は、素敵な魔法をかけることができるんですよ。ご存じですか?
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