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一章
2、奥の宮の紅梅
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「おやおや、これは。なんと凛々しい武官を伴って。瑞雪さんも隅に置けませんね」
奥の宮に着いた瑞雪を、元紅梅が迎えた。
先帝の嬪であったという紅梅は、寂しい奥の宮で暮らすようになっても、その容色は衰えてはいなかった。
「わたくしは四夫人のような高貴な方々じゃないですから」と、偉そうぶったところもない。
「お初にお目にかかります。元紅梅さま。侍衛親軍の厳星宇と申します」
恭しく揖礼をしながら、星宇が頭を下げる。紅梅は何故か、にやりと人の悪そうな笑みを浮かべる。
土鍋の載った盆は、すでに瑞雪が卓に置いた。さすがは土鍋の保温力、まだ粥は冷めていない。
「白苑後宮に男性が入っているなど、初めて見ましたよ。陛下はあなたのことをとても信頼なさっているのね」
「恐縮です」
瑞雪以外の客が珍しいのだろう、紅梅の声は弾んでいる。
今の紅梅の部屋には飾り気がない。
化粧も唇に紅を差している程度だが、それでも紅梅の上品さは隠せない。ゆったりと結った髪に挿している簪は鼈甲でできており、三十代という年相応の落ち着きだ。
「よかったですねぇ、瑞雪さん。夫候補が現れたようですね」
「はい?」
椀に大麦の粥をよそっていた瑞雪は、紅梅を凝視した。もう湯気は立たないが、粥はまだ温かい。
「あの、この人とは先ほど初めて会ったばかりですが。陛下の言伝があるようで、それで……」
ん? おかしくないか?
自分で説明しながらも、瑞雪は疑問を感じた。
今更だけれど、どうして星宇は奥の宮までついて来たのだろう。
「まぁまぁ、隠さなくてもいいのですよ。この先、陛下のお妃さまになる方たちが入宮なさるでしょうから、忙しくなる前に瑞雪さんは結婚した方がいいと思うわ」
「あの、そんなことよりも薬命の説明を。こちらの竹筒には決明子のうがい薬が入っておりまして」
「そんなことって、大事なことですよ!」
紅梅は、全然話を聞いてくれない。早く食べてくれないと、粥が冷めてしまうのに。
嬪であった紅梅は、自分で料理を温めなおすことはしない。そして奥の宮では侍女は不在だ。
料理は女官が、洗濯や掃除は下働きの宮女が、寒い時期の暖をとるための用意は宦官がしているが、日常的にかつての妃嬪や妾の世話をする人間はいない。
——着替えも自分でしないといけないのよ。それに湯浴みも。髪を結うのは見かねた女官がしてくれるけれど、本当に不便ねぇ。
その不便なことを自分たちは日常的にしていますが、とは紅梅には言えなかった。
(食べづらくなる前に、召し上がっていただきたいんだけど)
この粥はクセはないが、大麦も混ぜている米が冷えてしまうともったりと固くなる。
「ねぇ、星宇さんとおっしゃったわね。瑞雪さんのことをどうお思いになって?」と、紅梅は尋ねた。
いやいや、初対面の相手をどうかと訊かれても武官も困るでしょ。
焦った瑞雪は「あの、お粥をどうぞ」と紅梅に声をかけた。
「もう、瑞雪さんったら話をそらさないで」
仕方なく瑞雪は、粥をのせた匙を卓の席に着いた紅梅に手渡す。紅梅は受け取った匙を口に運び、粥を食べた。さすがに咀嚼している間は無言だ。決して食べながら話すような行儀の悪いことはしない。
「……夏瑞雪のことでしたら、私はよく存じ上げているつもりです」
星宇は思いがけない言葉を口にした。「え?」と瑞雪は匙を持ったまま固まってしまう。
「まぁぁ。瑞雪さんったら隅に置けないわね」
瑞雪は背後に立つ星宇を見上げたが、彼は静かな面持ちで直立している。
いや、もう驚きしかないですけど。でも、紅梅が上機嫌な今が好機。粥を食べきってもらわねば。
大麦は整腸作用に優れており、消化を促す。粘りが少ないので噛む回数が増え、唾液の分泌が盛んになるのも大麦の利点で、口内炎にかかりやすい紅梅には最適な食べ物だ。
それにしても星宇と会ったという記憶は、瑞雪の知る限りどこにもない。
「紅梅さま、食後はこの決明子の煎じ汁でうがいをなさってください」
「薄めて飲んではいけないの?」
紅梅は細い竹筒を軽く揺らした。たぽん、と中の液体が揺れる音がする。
「うがいです。この濃さが効きますし、薄めれば効果が出にくくなりますから」
「先代の薬命司はちゃんとうがいの薬も碗に入れて持ってきてくれたのに。ここには侍女もいないし。ねぇ、瑞雪。うがいの時間になれば、奥の宮に来て、決明子の濃さを調節してちょうだい」
「無理です」
瑞雪はきっぱりと断った。
先代の薬命司の面倒見がよかったのは、紅梅の暮らす宮が中央に近い区画にあったからだろう。ここは後宮の辺境、紅梅にかかりきりになっていては仕事が片付かない。
「厳しいわねぇ、瑞雪さんは。先の陛下がいらした頃は人手も多かったから、こんなお願いは誰でも簡単に聞いてくれたのに」
紅梅は口を尖らせながら、竹筒の栓を抜いた。
先帝が崩御し、困っているのは紅梅ばかりではない。奥の宮にすら留まることのできない妃嬪もいる。実家に戻り肩身の狭い思いをしたり、先帝の墓を守る守陵となったり。出家して尼になった人もいる。
そして一番大変なのは、今の皇帝だ。
年端もいかぬ少年であるのに、父の死を期に皇帝として即位せざるを得なかったのだから。
奥の宮に着いた瑞雪を、元紅梅が迎えた。
先帝の嬪であったという紅梅は、寂しい奥の宮で暮らすようになっても、その容色は衰えてはいなかった。
「わたくしは四夫人のような高貴な方々じゃないですから」と、偉そうぶったところもない。
「お初にお目にかかります。元紅梅さま。侍衛親軍の厳星宇と申します」
恭しく揖礼をしながら、星宇が頭を下げる。紅梅は何故か、にやりと人の悪そうな笑みを浮かべる。
土鍋の載った盆は、すでに瑞雪が卓に置いた。さすがは土鍋の保温力、まだ粥は冷めていない。
「白苑後宮に男性が入っているなど、初めて見ましたよ。陛下はあなたのことをとても信頼なさっているのね」
「恐縮です」
瑞雪以外の客が珍しいのだろう、紅梅の声は弾んでいる。
今の紅梅の部屋には飾り気がない。
化粧も唇に紅を差している程度だが、それでも紅梅の上品さは隠せない。ゆったりと結った髪に挿している簪は鼈甲でできており、三十代という年相応の落ち着きだ。
「よかったですねぇ、瑞雪さん。夫候補が現れたようですね」
「はい?」
椀に大麦の粥をよそっていた瑞雪は、紅梅を凝視した。もう湯気は立たないが、粥はまだ温かい。
「あの、この人とは先ほど初めて会ったばかりですが。陛下の言伝があるようで、それで……」
ん? おかしくないか?
自分で説明しながらも、瑞雪は疑問を感じた。
今更だけれど、どうして星宇は奥の宮までついて来たのだろう。
「まぁまぁ、隠さなくてもいいのですよ。この先、陛下のお妃さまになる方たちが入宮なさるでしょうから、忙しくなる前に瑞雪さんは結婚した方がいいと思うわ」
「あの、そんなことよりも薬命の説明を。こちらの竹筒には決明子のうがい薬が入っておりまして」
「そんなことって、大事なことですよ!」
紅梅は、全然話を聞いてくれない。早く食べてくれないと、粥が冷めてしまうのに。
嬪であった紅梅は、自分で料理を温めなおすことはしない。そして奥の宮では侍女は不在だ。
料理は女官が、洗濯や掃除は下働きの宮女が、寒い時期の暖をとるための用意は宦官がしているが、日常的にかつての妃嬪や妾の世話をする人間はいない。
——着替えも自分でしないといけないのよ。それに湯浴みも。髪を結うのは見かねた女官がしてくれるけれど、本当に不便ねぇ。
その不便なことを自分たちは日常的にしていますが、とは紅梅には言えなかった。
(食べづらくなる前に、召し上がっていただきたいんだけど)
この粥はクセはないが、大麦も混ぜている米が冷えてしまうともったりと固くなる。
「ねぇ、星宇さんとおっしゃったわね。瑞雪さんのことをどうお思いになって?」と、紅梅は尋ねた。
いやいや、初対面の相手をどうかと訊かれても武官も困るでしょ。
焦った瑞雪は「あの、お粥をどうぞ」と紅梅に声をかけた。
「もう、瑞雪さんったら話をそらさないで」
仕方なく瑞雪は、粥をのせた匙を卓の席に着いた紅梅に手渡す。紅梅は受け取った匙を口に運び、粥を食べた。さすがに咀嚼している間は無言だ。決して食べながら話すような行儀の悪いことはしない。
「……夏瑞雪のことでしたら、私はよく存じ上げているつもりです」
星宇は思いがけない言葉を口にした。「え?」と瑞雪は匙を持ったまま固まってしまう。
「まぁぁ。瑞雪さんったら隅に置けないわね」
瑞雪は背後に立つ星宇を見上げたが、彼は静かな面持ちで直立している。
いや、もう驚きしかないですけど。でも、紅梅が上機嫌な今が好機。粥を食べきってもらわねば。
大麦は整腸作用に優れており、消化を促す。粘りが少ないので噛む回数が増え、唾液の分泌が盛んになるのも大麦の利点で、口内炎にかかりやすい紅梅には最適な食べ物だ。
それにしても星宇と会ったという記憶は、瑞雪の知る限りどこにもない。
「紅梅さま、食後はこの決明子の煎じ汁でうがいをなさってください」
「薄めて飲んではいけないの?」
紅梅は細い竹筒を軽く揺らした。たぽん、と中の液体が揺れる音がする。
「うがいです。この濃さが効きますし、薄めれば効果が出にくくなりますから」
「先代の薬命司はちゃんとうがいの薬も碗に入れて持ってきてくれたのに。ここには侍女もいないし。ねぇ、瑞雪。うがいの時間になれば、奥の宮に来て、決明子の濃さを調節してちょうだい」
「無理です」
瑞雪はきっぱりと断った。
先代の薬命司の面倒見がよかったのは、紅梅の暮らす宮が中央に近い区画にあったからだろう。ここは後宮の辺境、紅梅にかかりきりになっていては仕事が片付かない。
「厳しいわねぇ、瑞雪さんは。先の陛下がいらした頃は人手も多かったから、こんなお願いは誰でも簡単に聞いてくれたのに」
紅梅は口を尖らせながら、竹筒の栓を抜いた。
先帝が崩御し、困っているのは紅梅ばかりではない。奥の宮にすら留まることのできない妃嬪もいる。実家に戻り肩身の狭い思いをしたり、先帝の墓を守る守陵となったり。出家して尼になった人もいる。
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