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一章
1、白苑後宮
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岷国の皇帝はわずか七歳だ。そしていずれ皇后となるべき少女はまだ八歳。
幼い皇帝が皇后を迎えるその時まで、白苑後宮は眠りについている。今は空っぽの宮が並んでいるが、来るべき佳き日のために女官と宦官、宮女は働き続ける。後宮という園を維持し続けるために。
だが、夏瑞雪だけは他の女官と目的が違う。
瑞雪の目的はただ一つ、冤罪をかけられた叔母の汚名返上だ。
「はー、ようやく温かくなった」
白苑後宮の薬命司である夏瑞雪は、炭火で手を温めていた。夏だというのに今年は寒く、藍苺の実もまだ青紫に熟していない。
瑞雪は引き出しの多い薬箪笥から生薬を取り出した。尚食局の一番奥の部屋が、瑞雪に与えられた仕事場だ。
薬命司は、後宮に暮らす者の体調不良を改善するのが務め。病気になる前に薬効ある料理を提供する。それは煎じ汁であったり薬膳料理であったりと様々だ。
薬命司には、皇帝の食事を用意し、使節団にふるまう料理を作るような華やかさはない。干からびた根っこや薬草に囲まれた、地味で貧相な仕事である。
「えーと、今日必要なのは胡草の種子と大麦に米ね」
黒髪をひとつに結び、前掛けである圍裙、そして口を覆う布をつけた瑞雪は鍋に湯を沸かす。
壺の蓋を開け、小さな茶色い粒を瑞雪は取り出した。胡草だ。胡草は生薬名を決明子という。
「口内炎の治療には、決明子のうがい薬が最適、と」
一握りほどの種子を鍋に入れ、湯の量が六分の一になるまで延々と煮詰めていく。
決明子は大量に摂取するとお腹を下すので、分量には注意が必要だ。
尚食局にある薬命司の部屋に、香ばしい匂いが立ちのぼる。ふつふつと沸いた湯は焦げ茶に染まり、決明子の粒も踊っている。
湯の量が半分に、そして三分の一になると、さすがに匂いが強くて瑞雪は紙窓を開けた。涼しい風が部屋に吹き込み、決明子の濃い匂いを散らしてくれる。
「元紅梅さまは口内が苦く感じられるとおっしゃっていたし、診断させていただいた時に、白い舌苔がついていらしたわね」
口の中の苦みと、白い舌苔は胃の不調からくる口内炎だ。これには大麦の粥が効く。大麦だけだと食べづらいので、うるち米も混ぜて炊く。
ずっと火を焚いているものだから、室温も上がってきた。瑞雪は布を巻いた袖口で、ひたいに浮かんだ汗をぬぐう。
「決明子の外皮が破れて、粘りが出てくるまで煎じる……のはいいんだけど。これでうがいなさってくださるかしら」
ただでさえとろりとした汁は、口に含むのに勇気がいる。
「ちょっとぉ、臭いわよ。においがこっちにまで流れてくるんだけど」
入り口から文句を投げつけてきたのは、掌膳の女官である孫時宜だ。掌膳は皇帝の食事や会食用の料理を調理、配膳する部署で女官も多く賑わっている。
薬命司が所属する司薬司も女官は数人いるが、まったく瑞雪には関わらない。
咳をしても一人、くしゃみをしても一人、しゃっくりをしても一人。たまに人が来ると、時宜のように文句をぶつけられるだけ。
「すみませーん、窓は開けているんですけど。うちわで外に湯気を出しますから」
振り返りもせずに、瑞雪は手近にあった古びたうちわを持つ。
目と目を合わせたら、時宜の文句と嫌味が濁流のようにあふれ出るからだ。
皇帝の日々の食事を担当しているという自負心があるせいなのか、孫時宜はしょっちゅう瑞雪に突っかかってくる。とにかく面倒な女官だ。
瑞雪の仕事である薬命司を馬鹿にしているのは、時宜だけではない。むしろ薬命司はほとんどの人から疎まれている。
(だからこそわたしは、白苑後宮にいるのよ)
「陛下にお出しする料理に妙なにおいがついたら、どうしてくれるのよ」
「まったくですね、困ったものです」
はたはたと形ばかり鍋をあおぎながら、瑞雪は答える。ここで反論して、さらに目を付けられるわけにはいかない。
地に落ちた薬命司の名誉を回復させるという固い決意を持っていることがばれたら、必ず時宜に阻止される。それだけは避けなければ。
いつか必ず好機は訪れる、いつか——
決明子の煎じ汁は五分の一ほどに減ってきた。あと少しの辛抱だ。
「薬命司なんて、復活しなければよかったのよ。病気になれば司薬司から薬をもらえばいいんだから。あんたなんておまけの部署じゃないの」
「はいはい、そうですね」
瑞雪が適当に聞き流すのが癇に障ったのだろう。後れ毛の一本すらも許さぬというほどに、ぴっちりと髪を結った時宜が眉を釣り上げる。
「ちょっと! 聞いてるの?」
「聞き流してますよ」
あ、間違えた。心の声が出てしまった。けど、まぁいいか。
どうせ何を言っても言わなくても、孫時宜は怒るのだ。薬命司も嫌いならば、飄々とした瑞雪のことも嫌っているのだから。
やれやれ、と瑞雪はうちわを仰ぐ向きを、時宜の方へと向ける。
紙窓とは反対の方に、湯気は流れを変えた。
「ちょ、何よ。げほ、げほげほっ」
決明子の湯気攻撃に耐えかねて、時宜は逃げ出した。
「やっと仕事に集中できるわ」
じっくりと煮詰めた決明子を竹筒に注ぎ、さらに小さな土鍋を盆にのせる。
炊きあがったばかりの大麦の粥は熱い上に、土鍋は保温効果が高いので奥の宮まで冷めることはない。
瑞雪はずっしりと重い盆を手に、尚食局を出た。
木々の葉の瑞々しく淡い緑が、目に眩しい。今年のような短い夏は外がいい、ただし人がいなければ——
「ほら、薬命司よ」
「まさかあの土鍋の中に毒を盛ってるんじゃないでしょうね」
すれ違う女官の囁きあう言葉が聞こえてくる。
(もう慣れたけど、陰口って本人に聞こえないように言うもんじゃないの?)
どいつもこいつも、だ。瑞雪はため息をこぼした。
空は晴れ渡り、黄色い蝶がたわむれるように飛んでいるのに。後宮という閉じた世界は、たとえ妃嬪がおらずとも湿っぽい。
「重そうだな、手伝おう。薬命司」
ふいに瑞雪の周囲が影に沈んだ。頭上から低い声が降ってくる。何事かと顔を上げると、瑞雪の隣に背の高い男性が立っていた。
彼は瑞雪をじっと見つめている。目に砂か埃でも入ったのか、充血した目が潤んでいる。
「えーと……」
ここは後宮だ。中に入ることを許可された男性は宦官だけ。しかし瑞雪に声をかけてきたのは、どう見ても武官だ。細い筒袖の黒い上衣、下に履いている褲は膝から下を同色の黒い布で縛ってある。
髪は、岷国の人にしては明るい色をしている。
手の甲で目許を拭うと、唇を引き結んだ武官は氷雪のように冷え冷えとした雰囲気をまとった。そして瑞雪の盆を奪うように持つ。
「目にゴミが入ったら、こすらない方がいいですよ?」
「平気だ。これは奥の宮に届けるのであろう? 手伝うので、早く仕事を済ませるといい」
「いえ、見ず知らずの人に手伝ってもらう理由がありません」
男子禁制の後宮なのに、その武官は堂々としている。隠れようとか、目立たぬようにしようという気配りは微塵もない。
むしろさっきまで瑞雪の悪口を言っていた女官たちが、武官に見とれてぼうっとするほどだ。
「理由はある。そなた……夏瑞雪であったな」
「……どうしてわたしの名前を?」
瑞雪は訝しみながら尋ねた。
「陛下から頼まれた。薬命司である夏瑞雪を連れてくるようにと」
小ぶりとはいえ土鍋の乗った重い盆を、武官は片手で軽そうに運ぶ。
しかしなぜ武官は瑞雪の向かう先を知っているのか。奥の宮に暮らす元紅梅が先帝の側室であったとはいえ、彼女もその健康を管理する瑞雪も今の皇帝には関わりのないことなのに。
「……白苑後宮は視線がうるさいな」
まるで蝿でも払うように、武官は空いた左手をひらひらと翻す。
「あの、武官さん。そんな堂々と歩いて平気なんですか? いくら陛下のお遣いとはいえ」
「構わぬ。陛下は御年七歳であらせられる。妃嬪も揃わぬ現状であれば、陛下の許しを得て後宮に入ることは罪に問われぬ」
「あー、なるほど」
瑞雪は武官の後を追いながら、うなずいた。
男性であっても、許しがあれば白苑後宮に入っても構わないという特例は知らなかった。瑞雪には教えてくれる同僚も友人もいないのだから。
それはちょっとだけ……寂しい。
「確かに幼い陛下が子をなすことはあり得ませんからね。妃嬪はいらっしゃらないですし女官が妊娠したとしても、後継者争いとか関係ありませんものね」
急に武官が立ち止まった。そして口を引き結んで瑞雪を冷たい目で見据える。光の加減だろうか、黒い瞳が淡く澄んで見えた。
「そういう冗談を私は好まない。それから我が名は厳星宇。侍衛親軍に属する陛下の護衛だ」
おっと、さすがに不敬だったか。
厳星宇はとてつもなく硬くて真面目なのだろう。不用意なことは言わないに限る。
奥の宮に近づくにつれ、人気が減った。奥の宮は白苑後宮に残ることを許された先帝の妃嬪や妾が暮らす一画だ。荒れた奥の宮よりも、今は妃嬪がいない中央にある宮の方が掃除も手入れも行き届いている。
以前の嵐の時に倒れたのだろう。土のついた根を露わにした木が道の脇に放置されたままだ。宦官が面倒くさがって処分してくれないので、ここを通る時はいつも苔のような湿ったにおいがする。
星宇は急に足を止めた。そのせいで盆の上の土鍋が音を立てる。立ち止まったままで、身動きもできない。
屍のように横たわる木は腐り、吹く風に樹皮がパラパラと落ちてきた。今度は盆が傾いてしまう。
「うわ、大丈夫ですか? ただの朽木ですよ、そんなにびっくりしなくても」
土鍋の蓋から、大麦の粥がこぼれてはいけない。瑞雪はとっさに星宇の盆を支えた。
「すまない、あれは苦手なのだ」
口ごもる星宇の言葉は、ぼそぼそと聞こえる。
「もしかして子供の頃に登ったことのある木が腐っていて落ちた、とかですか?」
「ああ、まぁそんなものだ」
星宇の顔色は悪い。星宇は一刻も早く倒木から逃れたいという風に、足を速めた。
もし木登りをしていた枝が朽ちて折れたなら、共に地面に落ちた子供は重い怪我を負うだろう。
初対面の相手である瑞雪には、星宇は説明をするつもりはなさそうだが。きっと大変なことがあったのだろう。
幼い皇帝が皇后を迎えるその時まで、白苑後宮は眠りについている。今は空っぽの宮が並んでいるが、来るべき佳き日のために女官と宦官、宮女は働き続ける。後宮という園を維持し続けるために。
だが、夏瑞雪だけは他の女官と目的が違う。
瑞雪の目的はただ一つ、冤罪をかけられた叔母の汚名返上だ。
「はー、ようやく温かくなった」
白苑後宮の薬命司である夏瑞雪は、炭火で手を温めていた。夏だというのに今年は寒く、藍苺の実もまだ青紫に熟していない。
瑞雪は引き出しの多い薬箪笥から生薬を取り出した。尚食局の一番奥の部屋が、瑞雪に与えられた仕事場だ。
薬命司は、後宮に暮らす者の体調不良を改善するのが務め。病気になる前に薬効ある料理を提供する。それは煎じ汁であったり薬膳料理であったりと様々だ。
薬命司には、皇帝の食事を用意し、使節団にふるまう料理を作るような華やかさはない。干からびた根っこや薬草に囲まれた、地味で貧相な仕事である。
「えーと、今日必要なのは胡草の種子と大麦に米ね」
黒髪をひとつに結び、前掛けである圍裙、そして口を覆う布をつけた瑞雪は鍋に湯を沸かす。
壺の蓋を開け、小さな茶色い粒を瑞雪は取り出した。胡草だ。胡草は生薬名を決明子という。
「口内炎の治療には、決明子のうがい薬が最適、と」
一握りほどの種子を鍋に入れ、湯の量が六分の一になるまで延々と煮詰めていく。
決明子は大量に摂取するとお腹を下すので、分量には注意が必要だ。
尚食局にある薬命司の部屋に、香ばしい匂いが立ちのぼる。ふつふつと沸いた湯は焦げ茶に染まり、決明子の粒も踊っている。
湯の量が半分に、そして三分の一になると、さすがに匂いが強くて瑞雪は紙窓を開けた。涼しい風が部屋に吹き込み、決明子の濃い匂いを散らしてくれる。
「元紅梅さまは口内が苦く感じられるとおっしゃっていたし、診断させていただいた時に、白い舌苔がついていらしたわね」
口の中の苦みと、白い舌苔は胃の不調からくる口内炎だ。これには大麦の粥が効く。大麦だけだと食べづらいので、うるち米も混ぜて炊く。
ずっと火を焚いているものだから、室温も上がってきた。瑞雪は布を巻いた袖口で、ひたいに浮かんだ汗をぬぐう。
「決明子の外皮が破れて、粘りが出てくるまで煎じる……のはいいんだけど。これでうがいなさってくださるかしら」
ただでさえとろりとした汁は、口に含むのに勇気がいる。
「ちょっとぉ、臭いわよ。においがこっちにまで流れてくるんだけど」
入り口から文句を投げつけてきたのは、掌膳の女官である孫時宜だ。掌膳は皇帝の食事や会食用の料理を調理、配膳する部署で女官も多く賑わっている。
薬命司が所属する司薬司も女官は数人いるが、まったく瑞雪には関わらない。
咳をしても一人、くしゃみをしても一人、しゃっくりをしても一人。たまに人が来ると、時宜のように文句をぶつけられるだけ。
「すみませーん、窓は開けているんですけど。うちわで外に湯気を出しますから」
振り返りもせずに、瑞雪は手近にあった古びたうちわを持つ。
目と目を合わせたら、時宜の文句と嫌味が濁流のようにあふれ出るからだ。
皇帝の日々の食事を担当しているという自負心があるせいなのか、孫時宜はしょっちゅう瑞雪に突っかかってくる。とにかく面倒な女官だ。
瑞雪の仕事である薬命司を馬鹿にしているのは、時宜だけではない。むしろ薬命司はほとんどの人から疎まれている。
(だからこそわたしは、白苑後宮にいるのよ)
「陛下にお出しする料理に妙なにおいがついたら、どうしてくれるのよ」
「まったくですね、困ったものです」
はたはたと形ばかり鍋をあおぎながら、瑞雪は答える。ここで反論して、さらに目を付けられるわけにはいかない。
地に落ちた薬命司の名誉を回復させるという固い決意を持っていることがばれたら、必ず時宜に阻止される。それだけは避けなければ。
いつか必ず好機は訪れる、いつか——
決明子の煎じ汁は五分の一ほどに減ってきた。あと少しの辛抱だ。
「薬命司なんて、復活しなければよかったのよ。病気になれば司薬司から薬をもらえばいいんだから。あんたなんておまけの部署じゃないの」
「はいはい、そうですね」
瑞雪が適当に聞き流すのが癇に障ったのだろう。後れ毛の一本すらも許さぬというほどに、ぴっちりと髪を結った時宜が眉を釣り上げる。
「ちょっと! 聞いてるの?」
「聞き流してますよ」
あ、間違えた。心の声が出てしまった。けど、まぁいいか。
どうせ何を言っても言わなくても、孫時宜は怒るのだ。薬命司も嫌いならば、飄々とした瑞雪のことも嫌っているのだから。
やれやれ、と瑞雪はうちわを仰ぐ向きを、時宜の方へと向ける。
紙窓とは反対の方に、湯気は流れを変えた。
「ちょ、何よ。げほ、げほげほっ」
決明子の湯気攻撃に耐えかねて、時宜は逃げ出した。
「やっと仕事に集中できるわ」
じっくりと煮詰めた決明子を竹筒に注ぎ、さらに小さな土鍋を盆にのせる。
炊きあがったばかりの大麦の粥は熱い上に、土鍋は保温効果が高いので奥の宮まで冷めることはない。
瑞雪はずっしりと重い盆を手に、尚食局を出た。
木々の葉の瑞々しく淡い緑が、目に眩しい。今年のような短い夏は外がいい、ただし人がいなければ——
「ほら、薬命司よ」
「まさかあの土鍋の中に毒を盛ってるんじゃないでしょうね」
すれ違う女官の囁きあう言葉が聞こえてくる。
(もう慣れたけど、陰口って本人に聞こえないように言うもんじゃないの?)
どいつもこいつも、だ。瑞雪はため息をこぼした。
空は晴れ渡り、黄色い蝶がたわむれるように飛んでいるのに。後宮という閉じた世界は、たとえ妃嬪がおらずとも湿っぽい。
「重そうだな、手伝おう。薬命司」
ふいに瑞雪の周囲が影に沈んだ。頭上から低い声が降ってくる。何事かと顔を上げると、瑞雪の隣に背の高い男性が立っていた。
彼は瑞雪をじっと見つめている。目に砂か埃でも入ったのか、充血した目が潤んでいる。
「えーと……」
ここは後宮だ。中に入ることを許可された男性は宦官だけ。しかし瑞雪に声をかけてきたのは、どう見ても武官だ。細い筒袖の黒い上衣、下に履いている褲は膝から下を同色の黒い布で縛ってある。
髪は、岷国の人にしては明るい色をしている。
手の甲で目許を拭うと、唇を引き結んだ武官は氷雪のように冷え冷えとした雰囲気をまとった。そして瑞雪の盆を奪うように持つ。
「目にゴミが入ったら、こすらない方がいいですよ?」
「平気だ。これは奥の宮に届けるのであろう? 手伝うので、早く仕事を済ませるといい」
「いえ、見ず知らずの人に手伝ってもらう理由がありません」
男子禁制の後宮なのに、その武官は堂々としている。隠れようとか、目立たぬようにしようという気配りは微塵もない。
むしろさっきまで瑞雪の悪口を言っていた女官たちが、武官に見とれてぼうっとするほどだ。
「理由はある。そなた……夏瑞雪であったな」
「……どうしてわたしの名前を?」
瑞雪は訝しみながら尋ねた。
「陛下から頼まれた。薬命司である夏瑞雪を連れてくるようにと」
小ぶりとはいえ土鍋の乗った重い盆を、武官は片手で軽そうに運ぶ。
しかしなぜ武官は瑞雪の向かう先を知っているのか。奥の宮に暮らす元紅梅が先帝の側室であったとはいえ、彼女もその健康を管理する瑞雪も今の皇帝には関わりのないことなのに。
「……白苑後宮は視線がうるさいな」
まるで蝿でも払うように、武官は空いた左手をひらひらと翻す。
「あの、武官さん。そんな堂々と歩いて平気なんですか? いくら陛下のお遣いとはいえ」
「構わぬ。陛下は御年七歳であらせられる。妃嬪も揃わぬ現状であれば、陛下の許しを得て後宮に入ることは罪に問われぬ」
「あー、なるほど」
瑞雪は武官の後を追いながら、うなずいた。
男性であっても、許しがあれば白苑後宮に入っても構わないという特例は知らなかった。瑞雪には教えてくれる同僚も友人もいないのだから。
それはちょっとだけ……寂しい。
「確かに幼い陛下が子をなすことはあり得ませんからね。妃嬪はいらっしゃらないですし女官が妊娠したとしても、後継者争いとか関係ありませんものね」
急に武官が立ち止まった。そして口を引き結んで瑞雪を冷たい目で見据える。光の加減だろうか、黒い瞳が淡く澄んで見えた。
「そういう冗談を私は好まない。それから我が名は厳星宇。侍衛親軍に属する陛下の護衛だ」
おっと、さすがに不敬だったか。
厳星宇はとてつもなく硬くて真面目なのだろう。不用意なことは言わないに限る。
奥の宮に近づくにつれ、人気が減った。奥の宮は白苑後宮に残ることを許された先帝の妃嬪や妾が暮らす一画だ。荒れた奥の宮よりも、今は妃嬪がいない中央にある宮の方が掃除も手入れも行き届いている。
以前の嵐の時に倒れたのだろう。土のついた根を露わにした木が道の脇に放置されたままだ。宦官が面倒くさがって処分してくれないので、ここを通る時はいつも苔のような湿ったにおいがする。
星宇は急に足を止めた。そのせいで盆の上の土鍋が音を立てる。立ち止まったままで、身動きもできない。
屍のように横たわる木は腐り、吹く風に樹皮がパラパラと落ちてきた。今度は盆が傾いてしまう。
「うわ、大丈夫ですか? ただの朽木ですよ、そんなにびっくりしなくても」
土鍋の蓋から、大麦の粥がこぼれてはいけない。瑞雪はとっさに星宇の盆を支えた。
「すまない、あれは苦手なのだ」
口ごもる星宇の言葉は、ぼそぼそと聞こえる。
「もしかして子供の頃に登ったことのある木が腐っていて落ちた、とかですか?」
「ああ、まぁそんなものだ」
星宇の顔色は悪い。星宇は一刻も早く倒木から逃れたいという風に、足を速めた。
もし木登りをしていた枝が朽ちて折れたなら、共に地面に落ちた子供は重い怪我を負うだろう。
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