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二章
10、星宇の過去【3】
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「そうして私は南方へと走った。何分にも幼い白貂の身であったからな。何年かかったかは覚えていない」
文護の側に立つ星宇は、苦い笑みを浮かべた。
だから瑞雪には分かってしまった。想像を絶するほどの苦難の道であったことを。
「集落の近くを進んでいる時、嵐のせいで土砂が崩れた。私はあっという間に飲み込まれた」
文護は悲鳴を上げた。瑞雪は口を手で覆い、叫びそうになるのを堪える。
土臭いにおいと、生臭いにおい。山の斜面からぱらぱらと落ちてくる小石。それらが土砂崩れの前兆であると、天雷が知るはずもなかった。
一瞬で土砂に埋もれ、息を吸おうとすれば濡れた土が鼻に入り込んだ。
苦しい、苦しい。石と石のわずかな隙間に天雷は流れたようで、小さな貂の体は潰されずに済んだが。それもただ死ぬまでの時間が伸びただけだ。
——おてがみ、きえちゃう。おばさまにとどけるって、きめたのに。
呼吸をしようとすれば、土砂の中でぜぇぜぇと肺が鳴るばかり。しだいに天雷の頭はぼうっとしてきた。
真っ暗で光もないのに、なぜか瑞雪の姿が見えた。氷雨に濡れていた天雷を助け、凍えた体を温めてくれた。欣然と一緒に山羊の乳をくれた。
瑞雪こそが天雷の生きる意味だ。
あの子に笑ってほしかった。欣然からの返事が来れば、きっと瑞雪は安心するから。毎朝、頬に涙の筋が残らなくてもいいように。
もし、自分までがいなくなったら瑞雪はどれほど悲しむだろう。絶望しか残らないのではないか。
——いやだ、そんなの。
瑞雪が待っている。一番大事な主を、これ以上泣かせるわけにはいかない。
——ルイシュエはぼくのことがすきなんだもん。
暗く閉ざされた土砂の中、光など届かぬはずなのに。天雷の目の奥で光がはじけた。澄みきった透明な粒と、しっとりと光る淡い翠の粒が一面に見える。
故郷の山の景色だ。これまで一度も思い出すことなどなかったのに。
——ぜったいにしなない。ルイシュエのところにかえるんだ! だってぼくはルイシュエがだいすきなんだもん。
脳内に浮かんだ水晶と翡翠の山が鮮烈な光を放つ。その光は天雷の姿を包み、さらに厚い土砂の向こうにまで届いた。
『おい、土が光っとうぞ』
『なんや、どうした』
男たちの焦る声が聞こえた。さっきまでは届かなかったはずの人の声、地面を叩く雨の音が騒がしい。
——あれ? あしがへんだ。
天雷は前脚を伸ばした。手が大きい、指も長い。開いたてのひらに、バタバタと重い雨が落ちてくる。手首と腕を伝い流れる雨、天雷の腕には白い毛が生えていなかった。
『ちょお、兄ちゃん。大丈夫か。生き埋めになっとったんか』
『ほら、土砂から引き出すぞ。早よ村に運んでやらんと』
土砂崩れの様子を見るために、村人が集まっていたのだろう。けれど彼らが目にしたのは、泥の中から生まれたような青年だった。
『にゃ……にゃあ』
人となった天雷が発した声に、緊迫していた村人たちがどっと笑う。笠をかぶり手も足も泥にまみれているのに、辺りには根が露になった木が倒れているのに。あまりにも楽しそうに男たちは天雷の肩を叩いた。
『兄ちゃん、面白いなぁ』
『なんやけったいな言葉やなぁ。けど命拾いしてよかったな。あんた、運がよかったで』
男たちに泥から引きずり出してもらいながら、天雷は首を傾げた。
貂は化けるのがうまいというが、何がどうして人になったのか。あと、自分は子供のつもりだったのに、もしかして違った?
◇◇◇
「私は人として旅を続けながら、言葉を覚えていった。野宿をし、時に畑仕事を手伝い日銭を稼いだ」
直立したままの星宇が、ちらっと瑞雪に目を向ける。黒水晶の瞳には愁いを帯びた翳が滲んでいた。
「ただ、気を抜くと白貂に戻ってしまう。その逆もあるが。だから熟睡はできない」
常に眠りは浅く、周囲に気を張っているのだと星宇は告げた。白貂の姿で深く眠ってしまえば、毛皮を剥ぐために殺されてしまうのだと。
「欣然殿にようやく会え、瑞雪への返事ももらった。私が天雷であると信じてもらうのは大変だったが。まぁ、何とか……」
おそらく星宇は叔母の目の前で、白貂に変化≪へんげ≫したのだろう。
「人としての名前はあるの? と欣然殿に尋ねられ。私は『おい、あんた』と『兄ちゃん』の二つの名があると答えた」
瑞雪には想像できる。「どこから何を教えればいいのか」と頭を抱える叔母の姿が。ちょっと微笑ましいが、ここまで天雷を人らしく教育してくれたことはかなり申し訳ない。きっと大変だっただろう。
「厳しかった……欣然殿は。人の姿で鼠を追うな、人の姿で机の下に隠れるな、食事の時は箸を持てとうるさくて。私はかなり参ってしまった」
——あなたは星宇。白貂の天雷では瑞雪のいる伊河に戻れません。必ず狩られます。星宇が貂であることがばれないように暮らしなさい。
——にゃ、にゃあ……。
——猫じゃないの! 人の言葉でしゃべりなさい。
何しろ天雷の命がかかっているのだ。叔母も必死だっただろう。
「猫の鳴き真似の方が楽だった」
ため息とともに星宇はこぼした。
「叔母さまが元気そうで安心したわ。ありがとうね、天雷」
「……星宇だ。しばらく欣然殿と暮らした私は、瑞雪の元に戻ろうとした。だが」
「ごめんなさいっ!」
突然、文護が謝った。皇帝とは思えぬほどに、深く頭を下げる。しかも謝罪の相手は星宇と瑞雪だ。
何事かと、瑞雪は呆気に取られて口を開いた。
「じつはおとうさまが、びょうきをなおすために、テンをつかまえたんです」
文護が申し訳なさそうに肩をすぼめる。
「テンって『こうせん』っていうれいじゅうなんでしょう?」
黄仙。霊獣。その言葉が愛らしい天雷と結びつくのに、瑞雪は数瞬を要した。
「そうなの?」と瑞雪は星宇に尋ねた。岷国の辺境ではイタチを黄仙という霊獣として崇めると聞いたことがあるが、京師の伊河では鶏を盗む厄介者だ。
「違う。そもそも私は白貂であって、イタチではない」
うん、そうだよね。
けれど先帝は、武官や宦官に命じて病を治す動物を捜させていたとこのとだ。そして捕まえたのが、白貂の姿に戻っていた天雷であった。
「こうせんはありがたいれいじゅうだから、かごにいれて、さいだんにまつるって。おとうさまが」
「天雷を祭壇に?」
こくりと文護はうなずいた。
「ぼくは、はんたいしたんです。でもおとうさまは小さなかごにティエンレイをとじこめて。おせんこうのけむりがすごくて、ティエンレイがくるしそうにしてたから」
だから文護は籠ごと天雷を奪ったのだそうだ。
「ぐったりしてたからたすけたのに。お前のせいでわざわいがおこるって、ぼくはおこられて。そのあと、おとうさまのぐあいがわるくなって……」
天雷を助けたからなのか、と文護は自分を責めたという。
「だからぼくはイェチンにききにいったんです。イェチンはむずかしくてこわいことを、たくさんしってるから」
ああ。それで文護は、苦手なはずの妖怪の話を葉青から聞いていたのか。天雷も父も、どちらも助けたくて。
葉青は白貂は化けるのがうまいけれど、病気を治す力はないと教えてくれた。文護はさらに学者にも確認したそうだ。
民間伝承とその裏付け。そして皇帝である父や側近への説得。文護は未熟だし、宰相の力を借りねば執務も難しいが。
それでも自ら難局を打開しようと動いている。幼いながらも文護は周囲への交渉を繰り返してきたのだ。
「ようやくおとうさまが、ティエンレイのことを『いらない』っていったの。だから、ぼくがつれてかえったんです」
するとさっきまで愛らしい白貂だった天雷が、素っ裸の青年に変化したのだという。
困った文護は、次は皇后である母親に相談した。『おとうさまにばれたら、ぜったいにティエンレイがころされちゃう』と。
そして皇后の計らいもあり、厳という姓を与えられた星宇は護衛となった。理由は一つ、護衛であれば常に文護の目が届くから。元が貂であることもごまかせるだろう、と。
皇后——今の皇太后がどのような人か瑞雪は知らない。だが、なかなか豪気な婦人のようだ。
「ありがとうございます、陛下。天雷を救ってくださって」
冷めてしまった碗を手にして、瑞雪は微笑んだ。
「ようやく天雷に会えて、元気な姿を見て、すごく嬉しいんです。本当に、本当に大事な子なんです」
立ったままで控えている星宇が、視線を逸らした。けれどその瞳は潤んでいた。
文護の側に立つ星宇は、苦い笑みを浮かべた。
だから瑞雪には分かってしまった。想像を絶するほどの苦難の道であったことを。
「集落の近くを進んでいる時、嵐のせいで土砂が崩れた。私はあっという間に飲み込まれた」
文護は悲鳴を上げた。瑞雪は口を手で覆い、叫びそうになるのを堪える。
土臭いにおいと、生臭いにおい。山の斜面からぱらぱらと落ちてくる小石。それらが土砂崩れの前兆であると、天雷が知るはずもなかった。
一瞬で土砂に埋もれ、息を吸おうとすれば濡れた土が鼻に入り込んだ。
苦しい、苦しい。石と石のわずかな隙間に天雷は流れたようで、小さな貂の体は潰されずに済んだが。それもただ死ぬまでの時間が伸びただけだ。
——おてがみ、きえちゃう。おばさまにとどけるって、きめたのに。
呼吸をしようとすれば、土砂の中でぜぇぜぇと肺が鳴るばかり。しだいに天雷の頭はぼうっとしてきた。
真っ暗で光もないのに、なぜか瑞雪の姿が見えた。氷雨に濡れていた天雷を助け、凍えた体を温めてくれた。欣然と一緒に山羊の乳をくれた。
瑞雪こそが天雷の生きる意味だ。
あの子に笑ってほしかった。欣然からの返事が来れば、きっと瑞雪は安心するから。毎朝、頬に涙の筋が残らなくてもいいように。
もし、自分までがいなくなったら瑞雪はどれほど悲しむだろう。絶望しか残らないのではないか。
——いやだ、そんなの。
瑞雪が待っている。一番大事な主を、これ以上泣かせるわけにはいかない。
——ルイシュエはぼくのことがすきなんだもん。
暗く閉ざされた土砂の中、光など届かぬはずなのに。天雷の目の奥で光がはじけた。澄みきった透明な粒と、しっとりと光る淡い翠の粒が一面に見える。
故郷の山の景色だ。これまで一度も思い出すことなどなかったのに。
——ぜったいにしなない。ルイシュエのところにかえるんだ! だってぼくはルイシュエがだいすきなんだもん。
脳内に浮かんだ水晶と翡翠の山が鮮烈な光を放つ。その光は天雷の姿を包み、さらに厚い土砂の向こうにまで届いた。
『おい、土が光っとうぞ』
『なんや、どうした』
男たちの焦る声が聞こえた。さっきまでは届かなかったはずの人の声、地面を叩く雨の音が騒がしい。
——あれ? あしがへんだ。
天雷は前脚を伸ばした。手が大きい、指も長い。開いたてのひらに、バタバタと重い雨が落ちてくる。手首と腕を伝い流れる雨、天雷の腕には白い毛が生えていなかった。
『ちょお、兄ちゃん。大丈夫か。生き埋めになっとったんか』
『ほら、土砂から引き出すぞ。早よ村に運んでやらんと』
土砂崩れの様子を見るために、村人が集まっていたのだろう。けれど彼らが目にしたのは、泥の中から生まれたような青年だった。
『にゃ……にゃあ』
人となった天雷が発した声に、緊迫していた村人たちがどっと笑う。笠をかぶり手も足も泥にまみれているのに、辺りには根が露になった木が倒れているのに。あまりにも楽しそうに男たちは天雷の肩を叩いた。
『兄ちゃん、面白いなぁ』
『なんやけったいな言葉やなぁ。けど命拾いしてよかったな。あんた、運がよかったで』
男たちに泥から引きずり出してもらいながら、天雷は首を傾げた。
貂は化けるのがうまいというが、何がどうして人になったのか。あと、自分は子供のつもりだったのに、もしかして違った?
◇◇◇
「私は人として旅を続けながら、言葉を覚えていった。野宿をし、時に畑仕事を手伝い日銭を稼いだ」
直立したままの星宇が、ちらっと瑞雪に目を向ける。黒水晶の瞳には愁いを帯びた翳が滲んでいた。
「ただ、気を抜くと白貂に戻ってしまう。その逆もあるが。だから熟睡はできない」
常に眠りは浅く、周囲に気を張っているのだと星宇は告げた。白貂の姿で深く眠ってしまえば、毛皮を剥ぐために殺されてしまうのだと。
「欣然殿にようやく会え、瑞雪への返事ももらった。私が天雷であると信じてもらうのは大変だったが。まぁ、何とか……」
おそらく星宇は叔母の目の前で、白貂に変化≪へんげ≫したのだろう。
「人としての名前はあるの? と欣然殿に尋ねられ。私は『おい、あんた』と『兄ちゃん』の二つの名があると答えた」
瑞雪には想像できる。「どこから何を教えればいいのか」と頭を抱える叔母の姿が。ちょっと微笑ましいが、ここまで天雷を人らしく教育してくれたことはかなり申し訳ない。きっと大変だっただろう。
「厳しかった……欣然殿は。人の姿で鼠を追うな、人の姿で机の下に隠れるな、食事の時は箸を持てとうるさくて。私はかなり参ってしまった」
——あなたは星宇。白貂の天雷では瑞雪のいる伊河に戻れません。必ず狩られます。星宇が貂であることがばれないように暮らしなさい。
——にゃ、にゃあ……。
——猫じゃないの! 人の言葉でしゃべりなさい。
何しろ天雷の命がかかっているのだ。叔母も必死だっただろう。
「猫の鳴き真似の方が楽だった」
ため息とともに星宇はこぼした。
「叔母さまが元気そうで安心したわ。ありがとうね、天雷」
「……星宇だ。しばらく欣然殿と暮らした私は、瑞雪の元に戻ろうとした。だが」
「ごめんなさいっ!」
突然、文護が謝った。皇帝とは思えぬほどに、深く頭を下げる。しかも謝罪の相手は星宇と瑞雪だ。
何事かと、瑞雪は呆気に取られて口を開いた。
「じつはおとうさまが、びょうきをなおすために、テンをつかまえたんです」
文護が申し訳なさそうに肩をすぼめる。
「テンって『こうせん』っていうれいじゅうなんでしょう?」
黄仙。霊獣。その言葉が愛らしい天雷と結びつくのに、瑞雪は数瞬を要した。
「そうなの?」と瑞雪は星宇に尋ねた。岷国の辺境ではイタチを黄仙という霊獣として崇めると聞いたことがあるが、京師の伊河では鶏を盗む厄介者だ。
「違う。そもそも私は白貂であって、イタチではない」
うん、そうだよね。
けれど先帝は、武官や宦官に命じて病を治す動物を捜させていたとこのとだ。そして捕まえたのが、白貂の姿に戻っていた天雷であった。
「こうせんはありがたいれいじゅうだから、かごにいれて、さいだんにまつるって。おとうさまが」
「天雷を祭壇に?」
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「ぼくは、はんたいしたんです。でもおとうさまは小さなかごにティエンレイをとじこめて。おせんこうのけむりがすごくて、ティエンレイがくるしそうにしてたから」
だから文護は籠ごと天雷を奪ったのだそうだ。
「ぐったりしてたからたすけたのに。お前のせいでわざわいがおこるって、ぼくはおこられて。そのあと、おとうさまのぐあいがわるくなって……」
天雷を助けたからなのか、と文護は自分を責めたという。
「だからぼくはイェチンにききにいったんです。イェチンはむずかしくてこわいことを、たくさんしってるから」
ああ。それで文護は、苦手なはずの妖怪の話を葉青から聞いていたのか。天雷も父も、どちらも助けたくて。
葉青は白貂は化けるのがうまいけれど、病気を治す力はないと教えてくれた。文護はさらに学者にも確認したそうだ。
民間伝承とその裏付け。そして皇帝である父や側近への説得。文護は未熟だし、宰相の力を借りねば執務も難しいが。
それでも自ら難局を打開しようと動いている。幼いながらも文護は周囲への交渉を繰り返してきたのだ。
「ようやくおとうさまが、ティエンレイのことを『いらない』っていったの。だから、ぼくがつれてかえったんです」
するとさっきまで愛らしい白貂だった天雷が、素っ裸の青年に変化したのだという。
困った文護は、次は皇后である母親に相談した。『おとうさまにばれたら、ぜったいにティエンレイがころされちゃう』と。
そして皇后の計らいもあり、厳という姓を与えられた星宇は護衛となった。理由は一つ、護衛であれば常に文護の目が届くから。元が貂であることもごまかせるだろう、と。
皇后——今の皇太后がどのような人か瑞雪は知らない。だが、なかなか豪気な婦人のようだ。
「ありがとうございます、陛下。天雷を救ってくださって」
冷めてしまった碗を手にして、瑞雪は微笑んだ。
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