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2章 第三王子に婚約破棄されて不幸のどん底に叩き落され没落してしまった令嬢は行く宛もなく
第5話
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セリカリーナの父は体調を崩しており、客室で休んでいた。
なおさら体調が悪くなるかも知れないが、この不当な屈辱を、ただちに訴えなければならない。
廊下は、息を潜めるように静まり返っていた。
宴のざわめきはまだ遠くで続いているはずなのに、この一角だけが別の時の流れに閉ざされたようで、冷気が肌を撫でていく。その空気の重たさは、音さえも吸い込む底なしの井戸のようだった。
セリカリーナは震える指先で、父がいるはずの客室の扉に触れた。
蝶番の軋む音がやけに大きく響いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。息が詰まる――その理由を、彼女はすぐに理解した。
部屋の中には、血の匂いが満ちていた。鉄のような、熱と絶望の混じった匂い。
「……う、そ……」
そこに崩れ落ちていたのは、父だった。
セリカリーナには、母も兄妹もいなかった。
生まれたときから――父以外の温もりを知らない。
その父が血溜まりの上に伏している。
言葉が空気に溶け、彼女の中で何かが崩れる音がした。
足が前に出ない。頭の中が真白に塗り潰され、視界が揺れている。
その刹那――背後の空気がわずかに揺れた。
『セリカリーナ・デクリィッチェ・ハーベストだな?』
冷ややかな声。
振り返るよりも早く、鋭い光が視界を裂いた。
反射的に身体をよじる。床に転がりながら、耳元で風を裂く音を聞く。
次の瞬間、短剣が壁に突き刺さった。髪先が数本、宙を舞う。
「誰ですの!?」
答えはなかった。
暗闇で姿がよく見えないが、その人影の瞳は、理性の残滓すら宿さない。獣のようだった。
セリカリーナはドレスの裾を掴み、転がるように廊下へ駆け出す。
背後で金属が軋み、追いかけてくる足音が響く。甲高く、鋭く、息の音にまで刃を混ぜて。
息が切れる。視界が滲む。突然の出来事に思考が混乱している。
それでも止まることなどできなかった。立ち止まれば、そこで終わる。
「だ、誰か! ――不審者ですわ! 誰か!」
声が廊下の壁にぶつかり、乾いた残響だけが返ってきた。
返事はない。絹のドレスの裾が床を擦り、靴音が孤独に響く。
この王城の長い廊下が、まるで彼女一人を飲み込むために伸びているかのようだった。
セリカリーナは息を乱しながら、光の漏れる方へ駆けた。
扉を押し開けた先――そこは、先ほどまで自分が主役だった舞踏会場。
煌びやかなシャンデリアが揺れる中、彼女の視線は一点で凍りついた。
部屋の中央。
そこに立つのは、第三王子――いや、もう“元婚約者”と呼ぶべき男だった。
そしてその腕の中には、見覚えのある女。
学院の同級生だった平民の娘。
その唇が、彼の唇に触れていた。
頬の筋肉が勝手に引きつり、笑っているのか泣いているのか、自分でもわからなかった。
――どうして。
――私が何をしたというの。
――何なの……今日は。何なの?
拍手が起こった。まるで祝福の鐘のように。
見物人たちは彼らを讃える。
「お似合いだわ」「まるで物語のよう」「身分違いの愛だが、私は応援する」
その声のひとつひとつが、刃となって彼女の心に突き刺さる。
罵詈雑言を叫ぼうにも、背後で音がした。
足音。
静かながらも、確実に近づいてくる。
その響きだけで、セリカリーナの背筋が粟立った。
(追ってきた――! 父を殺したあの刺客が……!)
振り返る余裕もなく、セリカリーナは舞踏会場を駆け抜けた。
ドレスの裾が裂け、装飾の宝石が床に散る。
だが、来賓客たちの視線は幸せ絶頂の二人だけを見ていた。セリカリーナなどの部屋に漂う埃のように、気に留める価値など無いように。
セリカリーナは散らばった宝飾具は無視して舞踏会場を飛び出しては、階段を踏みしめ、裏手の厩舎へと駆け込む。
「馬車を! 今すぐ出して!」
御者台で眠りこけていた御者が飛び起きる。目をこすりながら戸惑いの声を上げた。
「お、お嬢様? お披露目会は……それに旦那様はどうされたのです?」
「いいから! 早く! 詳しいことはあとで話すわ! 今は一刻でも早くここから去るのよ!」
震える声。
だが命令の響きには、貴族としての最後の矜持が滲んでいた。
御者はそれ以上問わず、慌てて手綱を握る。
蹄鉄が地面を打ち、馬車が夜の王都を駆け抜ける。
城壁の外に出た瞬間、セリカリーナは背もたれに崩れ落ちた。
胸の奥で、まだ誰かが笑っている気がした。
あの舞踏会場で響いた拍手が、耳から離れない。
婚約破棄の屈辱と、父の死の冷たさと、刺客から逃走の恐怖が、すべて混ざり合って胸を焼く。
「どうして……こんなことに……どうして……」
かすれた呟きが、闇に溶けた。
外では雨が降り始めていた。
馬の鬣が濡れ、石畳を叩く音が、まるで心臓の鼓動のように遠くで響いた。
なおさら体調が悪くなるかも知れないが、この不当な屈辱を、ただちに訴えなければならない。
廊下は、息を潜めるように静まり返っていた。
宴のざわめきはまだ遠くで続いているはずなのに、この一角だけが別の時の流れに閉ざされたようで、冷気が肌を撫でていく。その空気の重たさは、音さえも吸い込む底なしの井戸のようだった。
セリカリーナは震える指先で、父がいるはずの客室の扉に触れた。
蝶番の軋む音がやけに大きく響いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。息が詰まる――その理由を、彼女はすぐに理解した。
部屋の中には、血の匂いが満ちていた。鉄のような、熱と絶望の混じった匂い。
「……う、そ……」
そこに崩れ落ちていたのは、父だった。
セリカリーナには、母も兄妹もいなかった。
生まれたときから――父以外の温もりを知らない。
その父が血溜まりの上に伏している。
言葉が空気に溶け、彼女の中で何かが崩れる音がした。
足が前に出ない。頭の中が真白に塗り潰され、視界が揺れている。
その刹那――背後の空気がわずかに揺れた。
『セリカリーナ・デクリィッチェ・ハーベストだな?』
冷ややかな声。
振り返るよりも早く、鋭い光が視界を裂いた。
反射的に身体をよじる。床に転がりながら、耳元で風を裂く音を聞く。
次の瞬間、短剣が壁に突き刺さった。髪先が数本、宙を舞う。
「誰ですの!?」
答えはなかった。
暗闇で姿がよく見えないが、その人影の瞳は、理性の残滓すら宿さない。獣のようだった。
セリカリーナはドレスの裾を掴み、転がるように廊下へ駆け出す。
背後で金属が軋み、追いかけてくる足音が響く。甲高く、鋭く、息の音にまで刃を混ぜて。
息が切れる。視界が滲む。突然の出来事に思考が混乱している。
それでも止まることなどできなかった。立ち止まれば、そこで終わる。
「だ、誰か! ――不審者ですわ! 誰か!」
声が廊下の壁にぶつかり、乾いた残響だけが返ってきた。
返事はない。絹のドレスの裾が床を擦り、靴音が孤独に響く。
この王城の長い廊下が、まるで彼女一人を飲み込むために伸びているかのようだった。
セリカリーナは息を乱しながら、光の漏れる方へ駆けた。
扉を押し開けた先――そこは、先ほどまで自分が主役だった舞踏会場。
煌びやかなシャンデリアが揺れる中、彼女の視線は一点で凍りついた。
部屋の中央。
そこに立つのは、第三王子――いや、もう“元婚約者”と呼ぶべき男だった。
そしてその腕の中には、見覚えのある女。
学院の同級生だった平民の娘。
その唇が、彼の唇に触れていた。
頬の筋肉が勝手に引きつり、笑っているのか泣いているのか、自分でもわからなかった。
――どうして。
――私が何をしたというの。
――何なの……今日は。何なの?
拍手が起こった。まるで祝福の鐘のように。
見物人たちは彼らを讃える。
「お似合いだわ」「まるで物語のよう」「身分違いの愛だが、私は応援する」
その声のひとつひとつが、刃となって彼女の心に突き刺さる。
罵詈雑言を叫ぼうにも、背後で音がした。
足音。
静かながらも、確実に近づいてくる。
その響きだけで、セリカリーナの背筋が粟立った。
(追ってきた――! 父を殺したあの刺客が……!)
振り返る余裕もなく、セリカリーナは舞踏会場を駆け抜けた。
ドレスの裾が裂け、装飾の宝石が床に散る。
だが、来賓客たちの視線は幸せ絶頂の二人だけを見ていた。セリカリーナなどの部屋に漂う埃のように、気に留める価値など無いように。
セリカリーナは散らばった宝飾具は無視して舞踏会場を飛び出しては、階段を踏みしめ、裏手の厩舎へと駆け込む。
「馬車を! 今すぐ出して!」
御者台で眠りこけていた御者が飛び起きる。目をこすりながら戸惑いの声を上げた。
「お、お嬢様? お披露目会は……それに旦那様はどうされたのです?」
「いいから! 早く! 詳しいことはあとで話すわ! 今は一刻でも早くここから去るのよ!」
震える声。
だが命令の響きには、貴族としての最後の矜持が滲んでいた。
御者はそれ以上問わず、慌てて手綱を握る。
蹄鉄が地面を打ち、馬車が夜の王都を駆け抜ける。
城壁の外に出た瞬間、セリカリーナは背もたれに崩れ落ちた。
胸の奥で、まだ誰かが笑っている気がした。
あの舞踏会場で響いた拍手が、耳から離れない。
婚約破棄の屈辱と、父の死の冷たさと、刺客から逃走の恐怖が、すべて混ざり合って胸を焼く。
「どうして……こんなことに……どうして……」
かすれた呟きが、闇に溶けた。
外では雨が降り始めていた。
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