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第23話【母の実家】
しおりを挟む幸の決意の固さを見て取り、綾乃も覚悟を決めた。
「わかったわ。幸がそこまで言うなら……あなたのことも、私の実家に託すことにするわ。少し待ってて」
そう言うと、綾乃は立ち上がり、どこかへ電話をかけ始めた。
「私の実家」――その言葉に、幸は驚きを隠せなかった。
今まで、母の身内を一度も見たことがないからだ。
だから、母には身内と呼べる人がいないのだと、幸はずっと思い込んでいた。
父もまた、施設で育ったと聞かされていたため、幸にとって“親戚”という存在は、この世にいないものだと信じて疑わなかった。
けれど、母はなんのためらいもなく「実家」と口にしたのだ。
相手が電話に出たのだろうか。
「あっ、お母様。私、綾乃です。……はい、ええ。幸も、そちらでお世話になりたいと言っているの。だから、お父様に取りなしてもらえませんか? ……えっ、私ですか? 私は、このまま西村の姓を名乗りたいと思っています」
母の口調は、上品で柔らかかった。
そのやり取りを聞きながら、幸はさらに驚く。
母に“実家”があるというだけでも驚きだったのに、
祖父母がまだ健在だという事実――。
今まで一度も聞かされたことのなかった現実に、幸は言葉を失い、母を見つめた。
そして、気になることが一つ。
「あなたのことも、私の実家に託すことにするわ」
「幸も、そちらでお世話になりたいと言っているの」
その“も”という一言。
「あなたのことも」「幸も」という言葉には、“私以外の誰か”がすでに実家に託されていることを意味していた。
その“誰か”として思い当たるのは、幸の兄・俊一だ。
幸には、五歳年上の兄・俊一がいる。
俊一は大学を卒業するとすぐにアメリカへ渡った。
忙しいのか、滅多に日本へは戻ってこない。
そのため、兄が渡米してからというもの、幸が俊一と顔を合わせたのは、父の葬儀の時だけだった。
しかしその際も、兄は母の実家について一言も触れなかった。
――兄は、母の実家にお世話になっているのだろうか。
考えれば考えるほど、思考は混乱していく。
そんな中、通話を終えた綾乃が、静かに口を開いた。
「今から、私の母――つまり幸からすればお祖母様が、こちらにいらっしゃるわ」
唐突な言葉に、幸の鼓動が早まる。
理解が追いつかないまま、込み上げてきた疑問が口をついて出た。
「お母さん、どうして“実家”があることを黙ってたの?
どうして私に、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんがいるって、言ってくれなかったの?」
幸の率直な問いに、綾乃はわずかに息を吸い込み、そして迷いなく答えた。
「それはね。お父さんと結婚するために、私が家を捨てて――勘当されたからよ」
穏やかに告げられたその言葉に、幸は一瞬、息を呑んだ。
綾乃は、少し遠くを見つめるように目を細める。
その表情には、懐かしさと、微かな痛みが入り混じっていた。
「うちの家は、代々続く旧家でね。格式ばかりを重んじる家なの。
考え方はとても保守的で、“釣り合い”だの“家の格”だの――そんなことばかり言われていたわ。
お金に困ったことなんて一度もなかったし、どこへ行っても大切に扱われて、まるでお姫様みたいだった。
でもね、私は自由が欲しかったの。特に、あなたのお父さんと出会ってからは、あの家のしがらみに縛られたくなかった」
綾乃はそう言って、ふっと微笑んだ。
けれどその笑みは、どこか寂しげで、過去の傷をそっと隠すようでもあった。
「お父さんは、誠実で、どんなときも私を尊重してくれた。
だけど……あの家にとっては、“施設育ち”というだけで、結婚相手としては絶対に認められない存在だったの」
綾乃の声が、静かに揺れる。
その揺れは、長い年月を経てもなお消えない痛みのようで、幸の胸にも深く染み込んだ。
「だから私は、全部を捨てたの。家も、名前も、親の期待も――全部」
そこで言葉を切り、綾乃は小さく息をつく。
「……それでも後悔はしていないわ。
あの人と暮らした日々は、毎日が愛にあふれていて、私は本当に幸せだったから」
柔らかく微笑む母を前に、幸は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
知らなかった母の過去――それは、寂しくもあり、温かくもあり、幸の心に複雑な想いを残した。
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