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第36話【尊重されること】
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翌朝。
幸は、昨日の出来事を文に報告した。
一通り聞き終えた文は「ふぅ」と息をつきながら言う。
「今日から、また別々に暮らすのね……なんだか寂しくなるわ」
その声音には、幸を本当に大切に思っているがゆえの寂しさが滲む。
けれど文はすぐに顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
「でも……匠さんがそばにいてくれるなら安心だわ。あ、それと──お祖父様に匠さんのことを伝えてもいいかしら? 幸ちゃんがここを出て行くとなれば、説明が必要でしょうし」
「お願いします」
幸は、勝造のことは文に任せると決めた。
「それじゃ、部屋に戻って荷物をまとめてきます」
そう言って、幸は自室へと戻る。
でも、もともと持ち込んだ荷物はキャリーバッグ一つだけ。
あとは、文が幸のために用意してくれた洋服やバッグ、アクセサリーがいくつか。
そのため、荷物はすぐにまとめ終わった。
*****
文から「二人が正式に付き合い始めた」と報告を受けた勝造は、たいそう喜んだ。
しかしその一方で、幸が匠の秘書として働くこと、さらに匠の隣の部屋に住むという話には、渋い表情を浮かべる。
「幸ちゃんは用心深いのよ。いくらあなたが勧めた相手でも、自分の目でちゃんと“人となり”を確かめたいんでしょうね。それに──匠さんの隣に住む方がいいわ。他のマンションで一人暮らしするより、よほど安全だと思うの」
穏やかながらも理路整然とした文の説得に、勝造は黙り込む。
そして、しばし考えたのち勝造は、
「……まあ、若い二人のことだからな。そこまで言うなら、任せるしかあるまい」
幸の選択を渋々受け入れた。
*****
午前10時、匠が西園寺邸にやってきた。
幸に会う前に、まずは勝造へ挨拶を──匠は執事に案内され、書斎へと向かう。
ドアが開くと、ソファーに腰を据えた勝造が、言葉を発さずとも圧を感じさせる眼差しで匠を迎えた。
匠は深く一礼し、姿勢を正して口を開く。
「幸さんの件で、ご挨拶に伺いました。幸さんと、正式にお付き合いさせていただくことになりました」
その言葉に、勝造の眼差しがふっと柔らかくなる。
しかし次の瞬間には、家長らしい真剣な表情へと戻り──
「……それは良いことだ。だが、幸を秘書として雇うという話は、本当か?」
「はい。幸さんが強く希望しておりまして。それで、雇うことに決めました」
匠の声音は淡々としているが、その瞳には誠実さが宿っている。
勝造は続けて尋ねる。
「それと……隣の部屋に住むというのは、どういう経緯だ?」
「会社に近い物件がなかなか見つからなかったこと。そして、隣同士なら何かあったときすぐに助けられると思いまして。それに、水沢ホールディングス所有の物件ですから、セキュリティも万全で安全です」
隙のない、筋の通った説明だった。
勝造は腕を組み、しばし唸るように考え込む。
「……幸がそうしたいと言うのなら、止められんか。──匠、幸のことを頼んだぞ」
匠は深く頭を下げ、
「もちろんです。幸さんは、私が責任をもってお守りします」
真摯に答える。
その言葉に、勝造の表情がようやく緩み、安堵の息を吐いた。
*****
幸は勝造に挨拶した後、文に見送られながら、匠とともに西園寺邸を後にする。
車に乗り込むと、相変わらずほのかに香る柑橘系の爽やかな香りが、幸の鼻をくすぐった。
「お仕事……忙しいんじゃないですか?」
匠が、直々に迎えに来てくれるとは思っていなかった。
匠は前を向いたまま、
「君を家から連れ出すんだからね。君の身内には、付き合いのことも含めて、
きちんと挨拶しておかないと」
淡々と、しかしどこか柔らかい声で答える。
「えっ? もしかして、お祖父様にも会ったんですか?」
「もちろん。君のお祖父様に挨拶もせずに君を連れ出すなんて
──常識から外れてるだろ?」
匠のその言葉に、幸の胸の奥は、じんわりと温かくなる。
今まで、誰かがここまで自分の“立場”や“家族”を大切に扱ってくれたことはなかったからだ。
「……ありがとうございます」
幸の声は、車内の静けさに吸い込まれるように響いた。
匠が、ちらりと横目で幸を見る。
「礼を言う必要はないよ。恋人である君を大切にするのは、当然のことだから」
その一言に、幸の心臓がトクンと跳ねた。
トクトクと速さを増す鼓動。
自分でも戸惑うほどの高鳴りを抱えながら、胸の音から意識をそらすようにして、
幸はゆっくりと視線を窓の外へと向ける。
移り変わる景色が、流れるように遠ざかっていく。
車はマンションへ向け、滑るように静かに走り続けていた。
幸は、昨日の出来事を文に報告した。
一通り聞き終えた文は「ふぅ」と息をつきながら言う。
「今日から、また別々に暮らすのね……なんだか寂しくなるわ」
その声音には、幸を本当に大切に思っているがゆえの寂しさが滲む。
けれど文はすぐに顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
「でも……匠さんがそばにいてくれるなら安心だわ。あ、それと──お祖父様に匠さんのことを伝えてもいいかしら? 幸ちゃんがここを出て行くとなれば、説明が必要でしょうし」
「お願いします」
幸は、勝造のことは文に任せると決めた。
「それじゃ、部屋に戻って荷物をまとめてきます」
そう言って、幸は自室へと戻る。
でも、もともと持ち込んだ荷物はキャリーバッグ一つだけ。
あとは、文が幸のために用意してくれた洋服やバッグ、アクセサリーがいくつか。
そのため、荷物はすぐにまとめ終わった。
*****
文から「二人が正式に付き合い始めた」と報告を受けた勝造は、たいそう喜んだ。
しかしその一方で、幸が匠の秘書として働くこと、さらに匠の隣の部屋に住むという話には、渋い表情を浮かべる。
「幸ちゃんは用心深いのよ。いくらあなたが勧めた相手でも、自分の目でちゃんと“人となり”を確かめたいんでしょうね。それに──匠さんの隣に住む方がいいわ。他のマンションで一人暮らしするより、よほど安全だと思うの」
穏やかながらも理路整然とした文の説得に、勝造は黙り込む。
そして、しばし考えたのち勝造は、
「……まあ、若い二人のことだからな。そこまで言うなら、任せるしかあるまい」
幸の選択を渋々受け入れた。
*****
午前10時、匠が西園寺邸にやってきた。
幸に会う前に、まずは勝造へ挨拶を──匠は執事に案内され、書斎へと向かう。
ドアが開くと、ソファーに腰を据えた勝造が、言葉を発さずとも圧を感じさせる眼差しで匠を迎えた。
匠は深く一礼し、姿勢を正して口を開く。
「幸さんの件で、ご挨拶に伺いました。幸さんと、正式にお付き合いさせていただくことになりました」
その言葉に、勝造の眼差しがふっと柔らかくなる。
しかし次の瞬間には、家長らしい真剣な表情へと戻り──
「……それは良いことだ。だが、幸を秘書として雇うという話は、本当か?」
「はい。幸さんが強く希望しておりまして。それで、雇うことに決めました」
匠の声音は淡々としているが、その瞳には誠実さが宿っている。
勝造は続けて尋ねる。
「それと……隣の部屋に住むというのは、どういう経緯だ?」
「会社に近い物件がなかなか見つからなかったこと。そして、隣同士なら何かあったときすぐに助けられると思いまして。それに、水沢ホールディングス所有の物件ですから、セキュリティも万全で安全です」
隙のない、筋の通った説明だった。
勝造は腕を組み、しばし唸るように考え込む。
「……幸がそうしたいと言うのなら、止められんか。──匠、幸のことを頼んだぞ」
匠は深く頭を下げ、
「もちろんです。幸さんは、私が責任をもってお守りします」
真摯に答える。
その言葉に、勝造の表情がようやく緩み、安堵の息を吐いた。
*****
幸は勝造に挨拶した後、文に見送られながら、匠とともに西園寺邸を後にする。
車に乗り込むと、相変わらずほのかに香る柑橘系の爽やかな香りが、幸の鼻をくすぐった。
「お仕事……忙しいんじゃないですか?」
匠が、直々に迎えに来てくれるとは思っていなかった。
匠は前を向いたまま、
「君を家から連れ出すんだからね。君の身内には、付き合いのことも含めて、
きちんと挨拶しておかないと」
淡々と、しかしどこか柔らかい声で答える。
「えっ? もしかして、お祖父様にも会ったんですか?」
「もちろん。君のお祖父様に挨拶もせずに君を連れ出すなんて
──常識から外れてるだろ?」
匠のその言葉に、幸の胸の奥は、じんわりと温かくなる。
今まで、誰かがここまで自分の“立場”や“家族”を大切に扱ってくれたことはなかったからだ。
「……ありがとうございます」
幸の声は、車内の静けさに吸い込まれるように響いた。
匠が、ちらりと横目で幸を見る。
「礼を言う必要はないよ。恋人である君を大切にするのは、当然のことだから」
その一言に、幸の心臓がトクンと跳ねた。
トクトクと速さを増す鼓動。
自分でも戸惑うほどの高鳴りを抱えながら、胸の音から意識をそらすようにして、
幸はゆっくりと視線を窓の外へと向ける。
移り変わる景色が、流れるように遠ざかっていく。
車はマンションへ向け、滑るように静かに走り続けていた。
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