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第35話【隣の部屋】
しおりを挟むどう見ても、その男に未練があるようには見えない。
それどころか、本気で嫌悪していることは、匠の目にも明らかだった。
愛情がこじれた末の復讐ならば、彼は関わるつもりはなかった。
だが――「権力を振りかざす男を懲らしめたい」という理由なら、話は別だ。
その正義感と芯の強さに、匠は興味をそそられた。
口角をわずかに上げ、匠は口を開く。
「そういうことなら、協力しよう」
その言葉に、
「えっ……いいんですか?」幸は目を丸くし、驚いた声を漏らす。
西園寺家の名を出せば、誰も幸には手を出せない。
それがわかっていながらも、彼女は自力で戦おうとしている。
その姿勢が、匠には妙に面白く映る。
さらに、幸の祖母も母も、彼女の行動を肯定し、尊重している。
その一族に共通する気質も、匠の好奇心を強く刺激していた。
――西園寺家の女性陣は、総じて“強い”らしい。
「一緒に、その男を懲らしめよう」
薄く笑みを浮かべながら告げると、
「ありがとうございます」
幸は胸をなで下ろすように安堵した。
圭吾に一人で立ち向かうのは、想像以上に難しいと感じていた。
そして、いざ動くとなれば、それなりの労力と時間が必要になるだろう。
だが――匠が協力してくれるなら、話は大きく変わる。
幸の気持ちは、一気に軽くなった。
「匠さん、お皿に取り分けますね」
弾む声でそう言いながら、幸はテーブルに並んだ料理を小皿に盛りつけていく。
「匠さん、チーズが苦手ですよね?」
その問いに、匠の眉がかすかに動いた。
「どうして、それを?」
匠は、幼い頃からチーズが苦手だった。
だが、そのことを周囲に話した覚えはない。
「食事会の時、チーズがのっている料理だけ避けていましたから。
お嫌いなのかと思って……それともアレルギーですか?」
「アレルギーはないが……」
「アレルギーじゃなくてよかったです。それに、お肉よりお魚の方が好きですよね?
生野菜も。全般的に、お野菜はお好きなのかなと……」
そう言いながら、幸はシーフードサラダを小皿に盛り、匠の前へそっと置いた。
その瞬間、匠の瞳に、かすかな驚きが宿る。
――一度の食事で、ここまで相手の好みを読み取るとは。
幸の観察力と気遣いに、匠は密かに感心した。
感心すると同時に、その両方を兼ね備えた彼女が、秘書としてどれほどの腕前を発揮するのか
──興味が湧いてくる。
『あの……私を秘書として雇っていただけませんか?もし雇っていただけるなら、
すぐに会社を軌道に乗せてみせます。絶対に後悔はさせません』
あの時の幸の言葉が、匠の脳裏をよぎる。
――これは、楽しみだな。
彼女が秘書としてどんな働きを見せてくれるのか――確かめてみたい。
匠はそう思った。
その後も、お酒を飲みながら会話は続く。
「都内だと、西園寺邸から通うには少し距離がありますよね」
車もなく、どうやって会社まで通うか──幸は頭の中で通勤手段を思い浮かべる。
「都内に部屋を借りたいんですが……どこも貸してくれなくて」
心の中に溜め込んでいた不満が、つい言葉となって漏れた。
圭吾が不動産業者に圧をかけている限り、部屋は借りられない。
そう思うと、車を買って通うしかないのかと、幸は気が重くなる。
「それなら、俺の隣の部屋はどう? 空いてるけど」
匠がさらりと提案する。
「えっ? でも、不動産屋がまた……」
「水沢ホールディングス所有のマンションだから、安心して」
匠の言葉に、幸は“隣の部屋”という現実が急に重みをもって迫ってくるのを感じた。
「で、でも……そんな、隣なんて……迷惑じゃないですか?」
匠はグラスを軽く揺らしながら、落ち着いた声で答える。
「迷惑じゃないよ。むしろ──その方が都合がいい」
「都合がいい……?」
幸が小さく首を傾げる。
「君を守りやすいからね」
匠は、あくまで何気ない調子でそう口にした。
——けれど、幸には十分すぎるほど胸を打つ言葉だった。
みるみるうちに頬が熱を帯び、赤く染まっていく。
その反応を見た匠は、わずかに目を細める。
「俺の隣の部屋は、嫌か?」
穏やかな口調なのに、不思議と逃げ道を与えない問いかけだった。
「い、いや……嫌ではないですが……」
幸がしどろもどろに答えると、
「それなら決まりだな。明日、引っ越しの手配をしておく」
匠は当然のように告げる。
有無を言わせぬその一言で、幸の引っ越しはあっさりと決まってしまった。
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