36 / 87
第36話【尊重されること】
しおりを挟む
翌朝。
幸は、昨日の出来事を文に報告した。
一通り聞き終えた文は「ふぅ」と息をつきながら言う。
「今日から、また別々に暮らすのね……なんだか寂しくなるわ」
その声音には、幸を本当に大切に思っているがゆえの寂しさが滲む。
けれど文はすぐに顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
「でも……匠さんがそばにいてくれるなら安心だわ。あ、それと──お祖父様に匠さんのことを伝えてもいいかしら? 幸ちゃんがここを出て行くとなれば、説明が必要でしょうし」
「お願いします」
幸は、勝造のことは文に任せると決めた。
「それじゃ、部屋に戻って荷物をまとめてきます」
そう言って、幸は自室へと戻る。
でも、もともと持ち込んだ荷物はキャリーバッグ一つだけ。
あとは、文が幸のために用意してくれた洋服やバッグ、アクセサリーがいくつか。
そのため、荷物はすぐにまとめ終わった。
*****
文から「二人が正式に付き合い始めた」と報告を受けた勝造は、たいそう喜んだ。
しかしその一方で、幸が匠の秘書として働くこと、さらに匠の隣の部屋に住むという話には、渋い表情を浮かべる。
「幸ちゃんは用心深いのよ。いくらあなたが勧めた相手でも、自分の目でちゃんと“人となり”を確かめたいんでしょうね。それに──匠さんの隣に住む方がいいわ。他のマンションで一人暮らしするより、よほど安全だと思うの」
穏やかながらも理路整然とした文の説得に、勝造は黙り込む。
そして、しばし考えたのち勝造は、
「……まあ、若い二人のことだからな。そこまで言うなら、任せるしかあるまい」
幸の選択を渋々受け入れた。
*****
午前10時、匠が西園寺邸にやってきた。
幸に会う前に、まずは勝造へ挨拶を──匠は執事に案内され、書斎へと向かう。
ドアが開くと、ソファーに腰を据えた勝造が、言葉を発さずとも圧を感じさせる眼差しで匠を迎えた。
匠は深く一礼し、姿勢を正して口を開く。
「幸さんの件で、ご挨拶に伺いました。幸さんと、正式にお付き合いさせていただくことになりました」
その言葉に、勝造の眼差しがふっと柔らかくなる。
しかし次の瞬間には、家長らしい真剣な表情へと戻り──
「……それは良いことだ。だが、幸を秘書として雇うという話は、本当か?」
「はい。幸さんが強く希望しておりまして。それで、雇うことに決めました」
匠の声音は淡々としているが、その瞳には誠実さが宿っている。
勝造は続けて尋ねる。
「それと……隣の部屋に住むというのは、どういう経緯だ?」
「会社に近い物件がなかなか見つからなかったこと。そして、隣同士なら何かあったときすぐに助けられると思いまして。それに、水沢ホールディングス所有の物件ですから、セキュリティも万全で安全です」
隙のない、筋の通った説明だった。
勝造は腕を組み、しばし唸るように考え込む。
「……幸がそうしたいと言うのなら、止められんか。──匠、幸のことを頼んだぞ」
匠は深く頭を下げ、
「もちろんです。幸さんは、私が責任をもってお守りします」
真摯に答える。
その言葉に、勝造の表情がようやく緩み、安堵の息を吐いた。
*****
幸は勝造に挨拶した後、文に見送られながら、匠とともに西園寺邸を後にする。
車に乗り込むと、相変わらずほのかに香る柑橘系の爽やかな香りが、幸の鼻をくすぐった。
「お仕事……忙しいんじゃないですか?」
匠が、直々に迎えに来てくれるとは思っていなかった。
匠は前を向いたまま、
「君を家から連れ出すんだからね。君の身内には、付き合いのことも含めて、
きちんと挨拶しておかないと」
淡々と、しかしどこか柔らかい声で答える。
「えっ? もしかして、お祖父様にも会ったんですか?」
「もちろん。君のお祖父様に挨拶もせずに君を連れ出すなんて
──常識から外れてるだろ?」
匠のその言葉に、幸の胸の奥は、じんわりと温かくなる。
今まで、誰かがここまで自分の“立場”や“家族”を大切に扱ってくれたことはなかったからだ。
「……ありがとうございます」
幸の声は、車内の静けさに吸い込まれるように響いた。
匠が、ちらりと横目で幸を見る。
「礼を言う必要はないよ。恋人である君を大切にするのは、当然のことだから」
その一言に、幸の心臓がトクンと跳ねた。
トクトクと速さを増す鼓動。
自分でも戸惑うほどの高鳴りを抱えながら、胸の音から意識をそらすようにして、
幸はゆっくりと視線を窓の外へと向ける。
移り変わる景色が、流れるように遠ざかっていく。
車はマンションへ向け、滑るように静かに走り続けていた。
幸は、昨日の出来事を文に報告した。
一通り聞き終えた文は「ふぅ」と息をつきながら言う。
「今日から、また別々に暮らすのね……なんだか寂しくなるわ」
その声音には、幸を本当に大切に思っているがゆえの寂しさが滲む。
けれど文はすぐに顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
「でも……匠さんがそばにいてくれるなら安心だわ。あ、それと──お祖父様に匠さんのことを伝えてもいいかしら? 幸ちゃんがここを出て行くとなれば、説明が必要でしょうし」
「お願いします」
幸は、勝造のことは文に任せると決めた。
「それじゃ、部屋に戻って荷物をまとめてきます」
そう言って、幸は自室へと戻る。
でも、もともと持ち込んだ荷物はキャリーバッグ一つだけ。
あとは、文が幸のために用意してくれた洋服やバッグ、アクセサリーがいくつか。
そのため、荷物はすぐにまとめ終わった。
*****
文から「二人が正式に付き合い始めた」と報告を受けた勝造は、たいそう喜んだ。
しかしその一方で、幸が匠の秘書として働くこと、さらに匠の隣の部屋に住むという話には、渋い表情を浮かべる。
「幸ちゃんは用心深いのよ。いくらあなたが勧めた相手でも、自分の目でちゃんと“人となり”を確かめたいんでしょうね。それに──匠さんの隣に住む方がいいわ。他のマンションで一人暮らしするより、よほど安全だと思うの」
穏やかながらも理路整然とした文の説得に、勝造は黙り込む。
そして、しばし考えたのち勝造は、
「……まあ、若い二人のことだからな。そこまで言うなら、任せるしかあるまい」
幸の選択を渋々受け入れた。
*****
午前10時、匠が西園寺邸にやってきた。
幸に会う前に、まずは勝造へ挨拶を──匠は執事に案内され、書斎へと向かう。
ドアが開くと、ソファーに腰を据えた勝造が、言葉を発さずとも圧を感じさせる眼差しで匠を迎えた。
匠は深く一礼し、姿勢を正して口を開く。
「幸さんの件で、ご挨拶に伺いました。幸さんと、正式にお付き合いさせていただくことになりました」
その言葉に、勝造の眼差しがふっと柔らかくなる。
しかし次の瞬間には、家長らしい真剣な表情へと戻り──
「……それは良いことだ。だが、幸を秘書として雇うという話は、本当か?」
「はい。幸さんが強く希望しておりまして。それで、雇うことに決めました」
匠の声音は淡々としているが、その瞳には誠実さが宿っている。
勝造は続けて尋ねる。
「それと……隣の部屋に住むというのは、どういう経緯だ?」
「会社に近い物件がなかなか見つからなかったこと。そして、隣同士なら何かあったときすぐに助けられると思いまして。それに、水沢ホールディングス所有の物件ですから、セキュリティも万全で安全です」
隙のない、筋の通った説明だった。
勝造は腕を組み、しばし唸るように考え込む。
「……幸がそうしたいと言うのなら、止められんか。──匠、幸のことを頼んだぞ」
匠は深く頭を下げ、
「もちろんです。幸さんは、私が責任をもってお守りします」
真摯に答える。
その言葉に、勝造の表情がようやく緩み、安堵の息を吐いた。
*****
幸は勝造に挨拶した後、文に見送られながら、匠とともに西園寺邸を後にする。
車に乗り込むと、相変わらずほのかに香る柑橘系の爽やかな香りが、幸の鼻をくすぐった。
「お仕事……忙しいんじゃないですか?」
匠が、直々に迎えに来てくれるとは思っていなかった。
匠は前を向いたまま、
「君を家から連れ出すんだからね。君の身内には、付き合いのことも含めて、
きちんと挨拶しておかないと」
淡々と、しかしどこか柔らかい声で答える。
「えっ? もしかして、お祖父様にも会ったんですか?」
「もちろん。君のお祖父様に挨拶もせずに君を連れ出すなんて
──常識から外れてるだろ?」
匠のその言葉に、幸の胸の奥は、じんわりと温かくなる。
今まで、誰かがここまで自分の“立場”や“家族”を大切に扱ってくれたことはなかったからだ。
「……ありがとうございます」
幸の声は、車内の静けさに吸い込まれるように響いた。
匠が、ちらりと横目で幸を見る。
「礼を言う必要はないよ。恋人である君を大切にするのは、当然のことだから」
その一言に、幸の心臓がトクンと跳ねた。
トクトクと速さを増す鼓動。
自分でも戸惑うほどの高鳴りを抱えながら、胸の音から意識をそらすようにして、
幸はゆっくりと視線を窓の外へと向ける。
移り変わる景色が、流れるように遠ざかっていく。
車はマンションへ向け、滑るように静かに走り続けていた。
494
あなたにおすすめの小説
フッてくれてありがとう
nanahi
恋愛
「子どもができたんだ」
ある冬の25日、突然、彼が私に告げた。
「誰の」
私の短い問いにあなたは、しばらく無言だった。
でも私は知っている。
大学生時代の元カノだ。
「じゃあ。元気で」
彼からは謝罪の一言さえなかった。
下を向き、私はひたすら涙を流した。
それから二年後、私は偶然、元彼と再会する。
過去とは全く変わった私と出会って、元彼はふたたび──
今さらやり直しは出来ません
mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。
落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。
そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……
仕事で疲れて会えないと、恋人に距離を置かれましたが、彼の上司に溺愛されているので幸せです!
ぽんちゃん
恋愛
――仕事で疲れて会えない。
十年付き合ってきた恋人を支えてきたけど、いつも後回しにされる日々。
記念日すら仕事を優先する彼に、十分だけでいいから会いたいとお願いすると、『距離を置こう』と言われてしまう。
そして、思い出の高級レストランで、予約した席に座る恋人が、他の女性と食事をしているところを目撃してしまい――!?
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
これって政略結婚じゃないんですか? ー彼が指輪をしている理由ー
小田恒子
恋愛
この度、幼馴染とお見合いを経て政略結婚する事になりました。
でも、その彼の左手薬指には、指輪が輝いてます。
もしかして、これは本当に形だけの結婚でしょうか……?
表紙はぱくたそ様のフリー素材、フォントは簡単表紙メーカー様のものを使用しております。
全年齢作品です。
ベリーズカフェ公開日 2022/09/21
アルファポリス公開日 2025/06/19
作品の無断転載はご遠慮ください。
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
溺愛のフリから2年後は。
橘しづき
恋愛
岡部愛理は、ぱっと見クールビューティーな女性だが、中身はビールと漫画、ゲームが大好き。恋愛は昔に何度か失敗してから、もうするつもりはない。
そんな愛理には幼馴染がいる。羽柴湊斗は小学校に上がる前から仲がよく、いまだに二人で飲んだりする仲だ。実は2年前から、湊斗と愛理は付き合っていることになっている。親からの圧力などに耐えられず、酔った勢いでついた嘘だった。
でも2年も経てば、今度は結婚を促される。さて、そろそろ偽装恋人も終わりにしなければ、と愛理は思っているのだが……?
さようなら、お別れしましょう
椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。
妻に新しいも古いもありますか?
愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?
私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。
――つまり、別居。
夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
※表紙はお借りしたものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる