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第一章 赤と黒の螺旋の中で
二十六話 黒と赤(7)
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永禄三年(1560年)
春が過ぎるのを待ち、今川が総勢二万の大軍を尾張に向けて進軍させようというタイミングで、織田信長が先に仕掛けた。
信長の居城・清洲城(現・愛知県清須市)から南に徒歩五時間の距離に位置する大高城(現・愛知県名古屋市緑区大高町)の周囲に砦を築き、包囲して餓死させる作戦に出た。
現代なら電車で30分で着いてしまう城なので、清洲城を守るには押さえておきたい場所だ。
攻め落とさずに包囲したのは、色々と理由がある。
「攻め落としたら、大高城が壊れてしまい、今川義元は別の場所に本陣を宿泊させるでしょう。そうすると、目的地を通過する時間が変わってしまう。こちらの計画通りに足止めさせるには、大高城は無傷にしておきます」
軍議ではなく茶室で、金森可近は信長と林秀貞にだけ説明する。
信長だけでなく林秀貞も混ぜたのは、いざ全軍出撃する際に、このベテランが一緒なら逃げ出す兵が少なくて済むからだ。
手堅く保身上手な林秀貞が出撃するなら、勝ち目が少しはあると、兵は考えてくれる。
十倍の軍勢を迎撃する以上、まずは味方の逃散を防ぐために、可近は林秀貞にも今川の本隊を奇襲する作戦を明かしておく。
大戦を控えてピリピリしている林秀貞は、問題点を厳しく問い糺す。
「大高城を囮にするのも、今川の針路も、その日程の目安も予測が付くのは分かった。
だが、納得出来ん。
今川は、本当に兵を分散させるのか?
大高城の近くまで来れば、清洲城から出撃する軍勢の到達範囲内だ。
奇襲が可能な距離なのに、兵を分散させるのか、本当に?」
「分散させますよ。本陣を守る兵五千を残して、周囲の砦を同時攻略に掛かります。
そうしないと今川は、清洲城の攻撃に時間を割く余裕がなくなります。
今川は飢饉の影響で、兵糧は必要最低限しかありません。
兵を遊ばせずに効率良く尾張を攻略しないと、兵糧不足で、せっかくの尾張攻略が中途半端に終わってしまう。
だから可能な限り、兵を分散させて性急に侵略しに来ます。今川には、横綱相撲をする余裕がないのです」
林秀貞は、固唾を呑みつつ、別の問題点を指摘する。
「全てが計算通りに行ったとして、義元の本陣五千に、二千で勝てるか?」
「勝てないです。東海道最強・朝比奈泰朝が、五千の兵を率いていたら、無理です」
「どうすんだよ!」
キレる林秀貞を、信長が面白そうに見物している。
信長以外にキレている後見人を見るのが、珍しいのだ。
「で、最後の一手。ここが一番、危うい。
本陣への奇襲を、二段階にします」
二千の兵で五千の本陣を突くという博打に加えて、兵の二分化。
林秀貞の顔が、更に渋くなる。
「まず、奇襲の第一陣は数十名で突撃してもらい、敗走してもらいます。丸根砦と鷲津砦(大高城を囲む砦)の方向へ、逃げてもらいます。そうすると、今川本陣から追撃に二千ぐらい割いて出す、かもしれない」
ここは可近も、自信はない。
蹴散らしたのは囮と見抜いて、防備を固める可能性も、高い。
むしろ、そうなるだろうが、可近は100%上手くいった場合を話す。
「出して完全に駆逐するはずです。義元の寝床を確保する作業ですし。
本陣に三千残していけば、『残敵を完全に駆除するまでの僅かな時間』ぐらいは大丈夫だろうと見積もって、今川が動けば…
今川義元の本陣三千を、織田の二千で奇襲する形が整います」
この机上の空論が全て上手くいけば、10倍の兵力差が、1・5倍まで縮まる。
「そこまで行けば、勝ちます。今川の本陣三千のうち、武士は義元近辺の三百名のみ、あとは徴兵された雑兵です。
逆に織田は、二千人全員が、職業軍人。
この策がハマれば、二千人で三百人を奇襲するのと同じ。
今川義元を、倒せます」
ここで可近は、職業軍人の数の差を持ち出す。
徴兵されただけの雑兵にも歴戦の者はいるので単純計算は危ないが、実際に織田信長は「徴兵ではなく、職業軍人のみの軍編成」で結果を出している。
徴兵されて渋々戦う者より、自主的に職業軍人をしている者の方が、戦闘力は格段に高い。
その強みを活かす気でいる可近と信長に、老練な家老は職業軍人編成の一番の弱みを問い糺す。
「連中、自分の判断で、一気に逃げちまうぞ」
職業軍人という立場は、言い方を変えると、給料目当ての傭兵でもある。
後年。
四万の兵力で武田軍三万の背後を衝ける大チャンスに、殿(最後尾)を護る部隊が迎撃準備を整えているのを見るや、兵達が「武田の全軍が、迎撃する気に違いない」と受け取って逃げ始めて大軍が霧散するという珍事が起きている。
戦闘経験がある分、不利な形勢に敏感で、見限る時は、止める暇も与えずに一気に逃げる。
「今は給金が惜しくて居残っているが、熱田まで今川が来れば、一斉に逃げるだろう」
「熱田までは、来させません。その手前の、桶狭間で仕留めます」
ハッキリと、可近は宣言する。
信長は嬉しそうに、可近が林秀貞を言い含める様を、茶を飲みながら見物する。
「五郎八(可近の通称)。その策は、織田に都合が良過ぎる。兵達に話しても、逃散防止の役には立たない」
「はい、ですから、話しません」
ここが重要なので、可近は羽織を脱いで声に力を込める。
「出撃直前まで、『策は無いので、籠城する』で通します。鷲津砦が攻撃されたという情報が入るまで、一切動きません」
要件が腑に落ちると、林秀貞は、最後に聞きたい事を、確認する。
「鷲津砦からの情報が、この戦の最重要案件に、なるのか」
「八割しか上手くいかなくても、本陣に打撃を与えて、進撃の速度を遅らせるでしょう。五割しか上手くいかない場合は、みんなで京に逃げましょう」
「お主、本当は、その逃げ道が一番の望みでは?」
「前回は、遊べませんでしたからね。亡命して住み着いてしまえば、まさに住めば都!」
楽将・金森可近、ドヤ顔。
ここまで大風呂敷を広げておいて、逃げの一手を本懐として恥じない。
信長が、腹を抱えて笑っている。
林秀貞も、この楽観に満ちた策を聞き終えて、笑うしかなかった。
上手くいかなかったら、逃げるという潔さに、むしろホッとした。
織田側が目論んだ『桶狭間で今川に奇襲をかける』という作戦、というより大博打は…呆れた事に…
100%ではなく、200%上手くいってしまう。
春が過ぎるのを待ち、今川が総勢二万の大軍を尾張に向けて進軍させようというタイミングで、織田信長が先に仕掛けた。
信長の居城・清洲城(現・愛知県清須市)から南に徒歩五時間の距離に位置する大高城(現・愛知県名古屋市緑区大高町)の周囲に砦を築き、包囲して餓死させる作戦に出た。
現代なら電車で30分で着いてしまう城なので、清洲城を守るには押さえておきたい場所だ。
攻め落とさずに包囲したのは、色々と理由がある。
「攻め落としたら、大高城が壊れてしまい、今川義元は別の場所に本陣を宿泊させるでしょう。そうすると、目的地を通過する時間が変わってしまう。こちらの計画通りに足止めさせるには、大高城は無傷にしておきます」
軍議ではなく茶室で、金森可近は信長と林秀貞にだけ説明する。
信長だけでなく林秀貞も混ぜたのは、いざ全軍出撃する際に、このベテランが一緒なら逃げ出す兵が少なくて済むからだ。
手堅く保身上手な林秀貞が出撃するなら、勝ち目が少しはあると、兵は考えてくれる。
十倍の軍勢を迎撃する以上、まずは味方の逃散を防ぐために、可近は林秀貞にも今川の本隊を奇襲する作戦を明かしておく。
大戦を控えてピリピリしている林秀貞は、問題点を厳しく問い糺す。
「大高城を囮にするのも、今川の針路も、その日程の目安も予測が付くのは分かった。
だが、納得出来ん。
今川は、本当に兵を分散させるのか?
大高城の近くまで来れば、清洲城から出撃する軍勢の到達範囲内だ。
奇襲が可能な距離なのに、兵を分散させるのか、本当に?」
「分散させますよ。本陣を守る兵五千を残して、周囲の砦を同時攻略に掛かります。
そうしないと今川は、清洲城の攻撃に時間を割く余裕がなくなります。
今川は飢饉の影響で、兵糧は必要最低限しかありません。
兵を遊ばせずに効率良く尾張を攻略しないと、兵糧不足で、せっかくの尾張攻略が中途半端に終わってしまう。
だから可能な限り、兵を分散させて性急に侵略しに来ます。今川には、横綱相撲をする余裕がないのです」
林秀貞は、固唾を呑みつつ、別の問題点を指摘する。
「全てが計算通りに行ったとして、義元の本陣五千に、二千で勝てるか?」
「勝てないです。東海道最強・朝比奈泰朝が、五千の兵を率いていたら、無理です」
「どうすんだよ!」
キレる林秀貞を、信長が面白そうに見物している。
信長以外にキレている後見人を見るのが、珍しいのだ。
「で、最後の一手。ここが一番、危うい。
本陣への奇襲を、二段階にします」
二千の兵で五千の本陣を突くという博打に加えて、兵の二分化。
林秀貞の顔が、更に渋くなる。
「まず、奇襲の第一陣は数十名で突撃してもらい、敗走してもらいます。丸根砦と鷲津砦(大高城を囲む砦)の方向へ、逃げてもらいます。そうすると、今川本陣から追撃に二千ぐらい割いて出す、かもしれない」
ここは可近も、自信はない。
蹴散らしたのは囮と見抜いて、防備を固める可能性も、高い。
むしろ、そうなるだろうが、可近は100%上手くいった場合を話す。
「出して完全に駆逐するはずです。義元の寝床を確保する作業ですし。
本陣に三千残していけば、『残敵を完全に駆除するまでの僅かな時間』ぐらいは大丈夫だろうと見積もって、今川が動けば…
今川義元の本陣三千を、織田の二千で奇襲する形が整います」
この机上の空論が全て上手くいけば、10倍の兵力差が、1・5倍まで縮まる。
「そこまで行けば、勝ちます。今川の本陣三千のうち、武士は義元近辺の三百名のみ、あとは徴兵された雑兵です。
逆に織田は、二千人全員が、職業軍人。
この策がハマれば、二千人で三百人を奇襲するのと同じ。
今川義元を、倒せます」
ここで可近は、職業軍人の数の差を持ち出す。
徴兵されただけの雑兵にも歴戦の者はいるので単純計算は危ないが、実際に織田信長は「徴兵ではなく、職業軍人のみの軍編成」で結果を出している。
徴兵されて渋々戦う者より、自主的に職業軍人をしている者の方が、戦闘力は格段に高い。
その強みを活かす気でいる可近と信長に、老練な家老は職業軍人編成の一番の弱みを問い糺す。
「連中、自分の判断で、一気に逃げちまうぞ」
職業軍人という立場は、言い方を変えると、給料目当ての傭兵でもある。
後年。
四万の兵力で武田軍三万の背後を衝ける大チャンスに、殿(最後尾)を護る部隊が迎撃準備を整えているのを見るや、兵達が「武田の全軍が、迎撃する気に違いない」と受け取って逃げ始めて大軍が霧散するという珍事が起きている。
戦闘経験がある分、不利な形勢に敏感で、見限る時は、止める暇も与えずに一気に逃げる。
「今は給金が惜しくて居残っているが、熱田まで今川が来れば、一斉に逃げるだろう」
「熱田までは、来させません。その手前の、桶狭間で仕留めます」
ハッキリと、可近は宣言する。
信長は嬉しそうに、可近が林秀貞を言い含める様を、茶を飲みながら見物する。
「五郎八(可近の通称)。その策は、織田に都合が良過ぎる。兵達に話しても、逃散防止の役には立たない」
「はい、ですから、話しません」
ここが重要なので、可近は羽織を脱いで声に力を込める。
「出撃直前まで、『策は無いので、籠城する』で通します。鷲津砦が攻撃されたという情報が入るまで、一切動きません」
要件が腑に落ちると、林秀貞は、最後に聞きたい事を、確認する。
「鷲津砦からの情報が、この戦の最重要案件に、なるのか」
「八割しか上手くいかなくても、本陣に打撃を与えて、進撃の速度を遅らせるでしょう。五割しか上手くいかない場合は、みんなで京に逃げましょう」
「お主、本当は、その逃げ道が一番の望みでは?」
「前回は、遊べませんでしたからね。亡命して住み着いてしまえば、まさに住めば都!」
楽将・金森可近、ドヤ顔。
ここまで大風呂敷を広げておいて、逃げの一手を本懐として恥じない。
信長が、腹を抱えて笑っている。
林秀貞も、この楽観に満ちた策を聞き終えて、笑うしかなかった。
上手くいかなかったら、逃げるという潔さに、むしろホッとした。
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作家 蔵屋日唱
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