楽将伝

九情承太郎

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第一章 赤と黒の螺旋の中で

五十三話 喜びを蔵に重ねて(6)

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 斎藤龍興は最初、自軍がどれだけの幸運に恵まれたのか、理解していなかった。
 帰宅中の織田軍の最後尾を追撃したら、やたらと手強い。
 よく見ると、信長の本隊である。
 ここで改めて、この時点だけの戦力を比較してみよう。

 斎藤龍興軍 三千
 織田信長の本隊 八百

 しかも、背後から攻めている。
 自分が「桶狭間の戦い」の信長よりも遥かに幸運な状況にいると分かり、斎藤龍興は総攻撃を命じようとしたところで、家老の日根野弘就ひねの・ひろなりに止められる。
加治田かじた城から佐藤忠能ただよしが出て来たら、我々が背後を突かれます」
「その時は、その方に任す」
「相手は、もう逃げていますので、先に加治田かじた城かを攻めませんか? 連中、疲れていますので、今なら落とし易いですぞ」
 信長の馬廻の異常な強さを知っている日根野は、信長を敗走させた以上の戦果を求めなかった。
 大金星に目が眩んでいるうちに、他の織田軍が引き返して来たら、逆に狩られる。
「信長の背中が見えているのに、場末の山城(注意・斎藤龍興個人の感想です)なんぞ、いるか!!」
 酒色の抜けた斎藤龍興は、この時は正しい判断をし、追撃続行を命令する。
 ただし、ここで斎藤龍興のラッキーフィーバータイムは、終わりを迎える。
 信長がピンチと知り、出世のチャンスだと大急ぎで引き返して来た木下隊が、斎藤龍興軍の視界に入る。
 木下組は今回、兵站担当なので、基本装備しか身に付けていない。
 しかも駆け付けるのが最優先だったので、部隊編成も整っていない。
 それでも百名以上の部隊なので無視は出来ず、斎藤軍は対応を迫られる。
 このタイミングで信長の本隊が、逃げるのをやめて、攻勢に出る陣形を見せる。
 ならばと斎藤龍興軍も足を止め、陣形を整え直す。
 脇に見える木下組に対しても備えるので、信長よりも余計に時間が掛かる。
 その隙に、信長の本隊は攻勢の陣形を解き、ダッシュで逃げ直す。
 せこいと言えばせこいが、効果は抜群。
 信長は最寄りの城に、逃げ込めた。
 その隙に、木下組も逃げ出す。
 斎藤龍興は深追いをせずに、標的を加治田かじた城に定める。
 好機を逸した途端、織田の王手を崩す方向に動ける辺り、アルコール抜きだと『斎藤道三の孫』として不足のない斎藤龍興だった。
 
 信長が珍しく敗走した、というより斎藤龍興が珍しく勝った事を知らない加治田かじた城の佐藤忠能ただよしは、信長に向けて救援を求める。
 無理もない。
 何年も酒浸りの若造が、酒を抜いて正気に戻った途端に、信長に一矢報いるなんて想定外だ。
 逃げ込んだ城で救援要請を受けながら、信長が奇声を発してストレスを散らす。
 格下を相手に敗走する羽目になって苛立っても、信長は加治田かじた城に送る援軍の算段をする。
 先に帰した部隊の再合流も待たずに、信長は援軍の兵数を五百と決めた。
 手持ちの八百の内から、五百。
 時間優先である。
 加治田かじた城が落ちる前に援軍が到着しないと、既に調略に応じた連中の態度が変わる可能性がある。
「新五郎に任す」
 斎藤新五郎利治としはる、二十四歳。
 斎藤道三が戦死した際に、信長が近習として保護した、斎藤道三の末子である。
「兵は五百だけじゃ。加治田かじた城を頼む」
 義兄に頭を下げられた義弟は、瑞々しいハンサム顔で、涼しく言ってのける。
加治田かじた城を守るだけですか? その先の関城も落としてよろしいでしょうか? その方が、加治田かじた周辺が平和になるかと」
 あまりにも頼もしい返答は、本当に実行される。
 再集結した織田軍が到着した時には、加治田かじた衆も率いた斎藤新五郎利治としはるが、斎藤龍興軍を撤退に追い込んでいた。
 加治田かじた衆の指揮官の一人だった、佐藤忠能ただよしの嫡男・忠康が戦死した為、その分も新五郎が請け負っている。
 想定以上の将帥を発揮する斎藤新五郎利治としはるの進言通り、合計二千の織田軍が、関城を包囲する。
 関城の武将は、斎藤龍興軍が救援に戻って来るとは思わずに、開城して稲葉山城方面へと去った。
 途中で、関城を救援する為に戻って来た斎藤龍興軍と会った時は、どんな顔をしていたのやら。


 ドタバタし過ぎたが、結果として織田信長は美濃に、より強固な形で王手をかけた。
 この優勢をそのまま維持したいので、信長は殊勲者・斎藤新五郎利治としはる加治田かじたに残していく。
 ついでに、昨晩からの懸念事項を伝える。
「で、岸勘解由かげゆの孫が二人、逃げ延びているが…」
 可近が、くしゃみをして信長の為に淹れてきた茶を溢してしまう。
「淹れ直しまーす」
「白湯でいい」
 可近が白湯をバカ丁寧に淹れている間に、信長は懸念事項をアップデートする。
「岸勘解由かげゆの息子の子孫や、弟の子孫も逃げ延びているで、見つけたら…」
 可近が、熱々の白湯を手に持って、信長にぶっかけるタイミングを測っている。
 新五郎は、笑いを必死に堪えて、下知を待つ。
「…処分は、好きにするだぎゃあ」
 義弟に丸投げした。

 斎藤新五郎利治としはるは以降、この近辺を統治し、美濃で最大の勢力となる。
 織田信長に徹底抗戦をした岸氏の一族は、新五郎の支配下で、滅亡を免れた。

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