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2:ヴェストリオーア戦役編
この胸の高鳴りを!(ジークムンド)
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バルゲス砦は静まり返っている。祝勝の宴を控えていたのが嘘のようだ。
ハイデマリー様のご指示の通り、砦攻めを行った二軍が国境防衛線に向かい、三軍は捕虜を含めた砦内人員を纏めて、後詰のために敷いてあった陣に戻って行った。
砦に残っているのは、ハイデマリー様と護衛騎士たる俺、それに身の回りの世話をする従卒が数名だ。侍女たちは後詰に送られた。女王の身近にお仕えする彼女らは、歴とした貴婦人たちだ。戦の場には相応しくない。
それは、この方もなのだが。
ハイデマリー様は緊張を隠せていない従卒が入れた茶を飲み、ゆっくりと寛がれている。
夕焼けの残照が消えた宵の空、焦がすように篝火がいくつも焚かれている。
砦正門を入ってすぐの広場だ。閲兵も可能な広さがある。
そのほぼ中央、砦を背にして設えられたテーブルについたハイデマリー様には怯えも恐れもない。悠然となさっている。テーブルは小さなもので、カードゲームの準備がしてある。ハイデマリー様と差し向かえに、もう一脚椅子が置かれていた。
キツネ狩りだと、ハイデマリー様がおっしゃった。二軍は小隊ごとに指示を与えられ、勢子よろしく「獲物」を追い込んできているはずだ。
ネリジュラク・エア=ジュラス。【魔剣の運び手】と呼ばれる湖王国の第二王子。実際の働きについては知らなかったが、魔剣アンゲスアエシュマエについては多少の知識はある。
湖王国の名の通り、かの地には神々が降り立ち、成したと言い伝えられている大きな湖がある。むしろエアジュラス湖の周辺の地をエアジュラス王国と考えていいだろう。周辺国とは比べ物にならないほど古い国で、王家は神の子孫とされているほどだ。
そのエアジュラス王国に伝えられているのが魔剣アンゲスアエシュマエだ。魔剣アンゲスアエシュマエは一度封印が解かれれば、争いと血と暴力を求めて荒れ狂うもので、手にした者は天下無双の武人となる代わりに正気を失うとされている。
封印は解いてはならぬもの、そう伝えられてきたはずだ。
「何か気になることでもあるのかしら?」
「エアジュラス王国はどうして、魔剣アンゲスアエシュマエの封印を解いたのかと愚考しておりました。ハイデマリー様であれば、何かお分かりでしょうか」
「戦いのためよ」
「戦い?」
エアジュラス王国は内乱もなければ、他国から攻められているわけでもない。最も脅威足りうる我が国は、未だ国内平定が成ったばかりだ。討って出るほどの力がないと考えるのが当然だろう。
「ハイデマリー様の勇名が届いたということでしょうか」
「魔剣アンゲスアエシュマエが実在していることは諸外国に対する威嚇になるし、その持ち主、【運び手】が正気を失うなら王位継承争いも楽になる、ってとこじゃないかしら」
第二王子は王妃の子、第一王子は側室の子。確かそうだったはずだ。
「第二王子ネリジェラクは嵌められたと?」
「あるいは自分で封印を解いたのか。本人に聞いてみればわかるかしら」
ハイデマリー様は事も投げに言い、カップを置いた。すぐに従卒がカップを下げた。
「……危険です」
「承知の上よ。でも、卿は魔剣相手に戦えるの?」
「ご命令とあらば、この命も剣もハイデマリー様に捧げています」
「負ける戦いはしない主義なの。卿の命も、兵の命もたったひとつきり。失えば戻らない」
冷酷非情の女傑と思われがちなハイデマリー様が、実は、騎士、兵、民のことを大切にされていることを俺だけは知っている。
あの日、荒涼とした北の果ての地で、襲ってきたならず者どもを恭順させたほどだ。彼らは今や、ハイデマリー女王陛下に忠誠を誓い、それぞれが歩兵部隊の隊長を務めている。
「傲慢なことを言いました」
「許します」
ハイデマリー様が遠い目をした。
時折なさる表情はとても神秘的で、美しい。
「そろそろ着くようよ。従卒たちと一緒にさがってなさい」
「いいえ。私はお側に控えます。護衛騎士です」
楯突くような物言いになったが、これだけは譲れない。
ハイデマリー様が十五歳の時からお側にいるのだ。親しく言葉を交わすことはなかったが、俺がお守りするのはこの方だ。魔剣の前に、たった一人で身を晒させるわけにはいかない。
ハイデマリー様は唇の端で小さく笑って、「好きになさい」と言った。
それで十分だ。
轟音がしたのはその時だった。
「櫓を砕いたのかも。補修が大変ね」
城壁もさらに破られたのかもしれない。破砕音が続いている。敵は一人だという。それなのに、橋や壁を砕くとは一体どういうことなのか。
その疑問はすぐに解けた。
落雷直撃の数千倍は酷い音がして、目の前で城門が砕け散ったのだ。濛々と立ち込めた土埃に、赤い光を纏った人影が浮かび上がった。ソレを出迎えるように、篝火が轟々と燃え上がる。
若い男だ。髪は逆立ち、瞳は赤く光っている。身につけたマントは薄汚れてボロボロだが、構えた剣は禍々しいほどに輝いている。
あれが、魔剣アンゲスアエシュマエ!
「……チ、ニク……コワセ……チカラ……」
呻きなのに、なぜかソレの声がはっきり聞き取れた。
超常の力だ。
魔法軸とも、ウーゴ師の魔法とも違っている。見たことも感じたこともない、途轍もないものだとしかわからない。
人の形をした【何か】だ!
俺は剣の手を掛けることさえできず、ただ立ち尽くしてしまった。
「待ちかねたわ、ネリジェラク・エア=ジュラス王子」
凛と響いた言葉に、俺は我に返ることができた。
テーブルに着いたままの女王陛下は、動じた様子もない。
ソレが緩慢な動きでこちらを見、硬直した。構えていた魔剣を力無く下げる。驚く暇もなく、ソレは刃先を地面に引きずって近づいてきた。じわり、じわり。魔剣アンゲスアエシュマエが堅牢な石床を削って、火花が散る。
俺は密かに冷たい唾を飲み込んだ。
ハイデマリー様が片手で俺を制したが、今回ばかりは無駄な指示だ。
俺は一歩どころか、身動ぎもできずにいたからだ。ソレが発する気配はあまりにも禍々しく、恐ろしく、圧倒的だったのだ。
ソレはテーブルを見下ろし、右手で自分の顔面を殴りつけ、いや、右の目に手を突っ込んだ。手負いの獣のように、荒い息づかいが耳障りだ。
「……せい、ま、せんえ、き?」
「わたくし、強いのよ」
ソレは深い緑色のクロスで覆われたゲームテーブルに、ぎこちない動きで腰を下ろした。右手は目に突っ込んだままだ。長い髪でよく見えないが、ぐちぐちと酷い音がしている。
自分で抉っているのだ。
溢れた血が、ソレの口元あたりまで垂れ落ちた。
左の腕は魔剣を抱え持っている。間近に見るとかなり大きな剣で、俺の剣の倍はありそうだ。ひとり勝手に赤黒い稲妻を小さく散らしていて、それ自体が生きもののようだ。
「先手はわたくし」
ハイデマリー様が言うと、ソレは小刻みに何度も頷いた。
途切れ途切れの呻きに堂々と応じる我が女王よ!
自分の右目を抉る禍々しい男を目前にして、怯みの一つもない!
俺は自分の胸が高く鳴るのを誇らしく感じた。
カードゲーム『聖魔戦役』は俺も嗜むから、ハイデマリー様のお相手を務めたこともある。ハイデマリー様は少し前から始めたというのに、今ではウーゴ師を下すほどの名手だ。優れた方というのはそういうものなのだろう。
先手がハイデマリー様なので、カードを配るのもハイデマリー様だ。手札と場札を手際良く配り、残りを山札にして置いた。
ソレはハイデマリー様の手元を食い入るように見つめ、自分に配られた手札を睨みつけた。右目から離した手をカードに伸ばし、止める。
まさか、血で汚すのを躊躇した、のか?
「使いなさい」
ハイデマリー様がテーブル越しにハンカチを差し出された。ソレはカードを見たまま、ハンカチを受け取り手を拭いた。蘇った日のヨーゼフ卿を思い起こさせるぎこちない動きだ。
これが、狂人と言われる所以か。
伝説では、【魔剣の運び手】は魔剣アンゲスアエシュマエに己を乗っ取られ、血に飢えた悪鬼悪魔と成り果てるという。目の前の男はまさしくそういう状態に見える。
俺が内心の臆病と戦っている間に、ゲームが開始された。
俊才たるハイデマリー様と悪鬼悪魔では勝負にもならない。まるで初めて『聖魔戦役』をやる子供みたいなカードの切り方をしたソレは、あっという間に負けた。
荒い息が煩く、不気味だ。
「もう一局いかが?」
だが、ハイデマリー様は笑んだ。
ソレがまた、小刻みに何度も頷く。
勝ったハイデマリー様が先手。再びカードが配られる。
手札を握ったソレが笑った。裂けた唇から、牙が溢れて見えた。やはり悪魔だ。魔剣アンゲスアエシュマエに乗っ取られた王子は悪魔と化しているのだ!
その悪魔とハイデマリー様の対戦は数をどんどん重ねた。負けても負けても、「もう一局いかが?」という問いに、ソレが頷き続けるからだ。
二十回戦を超えたあたりだった。
「あら、良い手ね」
ハイデマリー様が言った。
悪魔が作った役は「欲望の沼」、魔界七公の一つ、強欲の魔王アーメイモと嫉妬の魔王ラハージブズの配下三枚で成り立つものだ。魔王配下のカードを打ち消すのが難しいから、通好みとされている。
「やっ、と……ツク、れマし、た」
悪魔が笑った。
牙が無くなっている。俺は二度見したが、やはりない。言葉も少し流暢になった。
「お前の勝ちよ。もう一局いかが?」
「よ、ロコ、んで」
もたつきながらカードを切った悪魔は、手札と場札、山札をそれぞれ配置した。その姿は妙に嬉しそうに見えた。
さらに対戦は進んだ。
途中、ハイデマリー様に命じられ、茶と軽食を運んで出した。悪魔は
「こころヅカ、いに、感シャす、る」
と、言った。
そして迎えた夜明け。
「……レディを、朝まで付き合わせてしまうなんて。私はなんということを」
「構わないわ。これは真剣勝負だったもの」
すっかり流暢に話せるようになったソレ、エアジュラスの第二王子の今更な謝罪を、ハイデマリー様は笑って許した。
「レディ、あなたとゲームをしているうちに、頭がすっきりして、考えることができるようになりました。一体、どのような魔法を使ったのですか?」
「魔法、ではないわ。ただお前の魂を揺さぶっただけだもの」
「魂?」
「ゲーム好き魂。食事よりゲームが好き。睡眠よりもゲームがしたい。そのくらいゲームが好きなのに、ずっとプレイできていなかった。その憤懣が魔剣の呪いに打ち勝っただけ」
そんな、ことが……?
我が陛下はなんと聡いのか! 本当に神々のお使い、いや、女神ではないのか!
二人の会話を聞いているだけで、俺の胸がまた高く鳴る。苦しいくらいだ!
「でも、ほんの一時的なものよ。お前の持つ魔剣アンゲスアエシュマエの力はそれだけ強い」
「……あなたといれば、私は正気でいられるのですか……?」
「正しくはわたくしに従えば、ね。わたくしの下には眠らない文官がいるわ。夜明かしでゲームもできるかもね。それに」
「それに?」
「ウーゴ師もいる。カードの相手には不自由しないわ」
エアジュラスの第二王子は勢いよく立ち上がり、魔剣を抱えたままハイデマリー様の足元に膝をついた。
「あなたにお仕えします、レディ。どうか御名を」
「ハイデマリー・アデーレ。お前が落とそうとした首の持ち主よ」
ハイデマリー様の笑みに、ネリジェラク王子が見ほれた。
どうやら俺は、誰かが恋に落ちた瞬間というのを目撃したらしい。
ハイデマリー様のご指示の通り、砦攻めを行った二軍が国境防衛線に向かい、三軍は捕虜を含めた砦内人員を纏めて、後詰のために敷いてあった陣に戻って行った。
砦に残っているのは、ハイデマリー様と護衛騎士たる俺、それに身の回りの世話をする従卒が数名だ。侍女たちは後詰に送られた。女王の身近にお仕えする彼女らは、歴とした貴婦人たちだ。戦の場には相応しくない。
それは、この方もなのだが。
ハイデマリー様は緊張を隠せていない従卒が入れた茶を飲み、ゆっくりと寛がれている。
夕焼けの残照が消えた宵の空、焦がすように篝火がいくつも焚かれている。
砦正門を入ってすぐの広場だ。閲兵も可能な広さがある。
そのほぼ中央、砦を背にして設えられたテーブルについたハイデマリー様には怯えも恐れもない。悠然となさっている。テーブルは小さなもので、カードゲームの準備がしてある。ハイデマリー様と差し向かえに、もう一脚椅子が置かれていた。
キツネ狩りだと、ハイデマリー様がおっしゃった。二軍は小隊ごとに指示を与えられ、勢子よろしく「獲物」を追い込んできているはずだ。
ネリジュラク・エア=ジュラス。【魔剣の運び手】と呼ばれる湖王国の第二王子。実際の働きについては知らなかったが、魔剣アンゲスアエシュマエについては多少の知識はある。
湖王国の名の通り、かの地には神々が降り立ち、成したと言い伝えられている大きな湖がある。むしろエアジュラス湖の周辺の地をエアジュラス王国と考えていいだろう。周辺国とは比べ物にならないほど古い国で、王家は神の子孫とされているほどだ。
そのエアジュラス王国に伝えられているのが魔剣アンゲスアエシュマエだ。魔剣アンゲスアエシュマエは一度封印が解かれれば、争いと血と暴力を求めて荒れ狂うもので、手にした者は天下無双の武人となる代わりに正気を失うとされている。
封印は解いてはならぬもの、そう伝えられてきたはずだ。
「何か気になることでもあるのかしら?」
「エアジュラス王国はどうして、魔剣アンゲスアエシュマエの封印を解いたのかと愚考しておりました。ハイデマリー様であれば、何かお分かりでしょうか」
「戦いのためよ」
「戦い?」
エアジュラス王国は内乱もなければ、他国から攻められているわけでもない。最も脅威足りうる我が国は、未だ国内平定が成ったばかりだ。討って出るほどの力がないと考えるのが当然だろう。
「ハイデマリー様の勇名が届いたということでしょうか」
「魔剣アンゲスアエシュマエが実在していることは諸外国に対する威嚇になるし、その持ち主、【運び手】が正気を失うなら王位継承争いも楽になる、ってとこじゃないかしら」
第二王子は王妃の子、第一王子は側室の子。確かそうだったはずだ。
「第二王子ネリジェラクは嵌められたと?」
「あるいは自分で封印を解いたのか。本人に聞いてみればわかるかしら」
ハイデマリー様は事も投げに言い、カップを置いた。すぐに従卒がカップを下げた。
「……危険です」
「承知の上よ。でも、卿は魔剣相手に戦えるの?」
「ご命令とあらば、この命も剣もハイデマリー様に捧げています」
「負ける戦いはしない主義なの。卿の命も、兵の命もたったひとつきり。失えば戻らない」
冷酷非情の女傑と思われがちなハイデマリー様が、実は、騎士、兵、民のことを大切にされていることを俺だけは知っている。
あの日、荒涼とした北の果ての地で、襲ってきたならず者どもを恭順させたほどだ。彼らは今や、ハイデマリー女王陛下に忠誠を誓い、それぞれが歩兵部隊の隊長を務めている。
「傲慢なことを言いました」
「許します」
ハイデマリー様が遠い目をした。
時折なさる表情はとても神秘的で、美しい。
「そろそろ着くようよ。従卒たちと一緒にさがってなさい」
「いいえ。私はお側に控えます。護衛騎士です」
楯突くような物言いになったが、これだけは譲れない。
ハイデマリー様が十五歳の時からお側にいるのだ。親しく言葉を交わすことはなかったが、俺がお守りするのはこの方だ。魔剣の前に、たった一人で身を晒させるわけにはいかない。
ハイデマリー様は唇の端で小さく笑って、「好きになさい」と言った。
それで十分だ。
轟音がしたのはその時だった。
「櫓を砕いたのかも。補修が大変ね」
城壁もさらに破られたのかもしれない。破砕音が続いている。敵は一人だという。それなのに、橋や壁を砕くとは一体どういうことなのか。
その疑問はすぐに解けた。
落雷直撃の数千倍は酷い音がして、目の前で城門が砕け散ったのだ。濛々と立ち込めた土埃に、赤い光を纏った人影が浮かび上がった。ソレを出迎えるように、篝火が轟々と燃え上がる。
若い男だ。髪は逆立ち、瞳は赤く光っている。身につけたマントは薄汚れてボロボロだが、構えた剣は禍々しいほどに輝いている。
あれが、魔剣アンゲスアエシュマエ!
「……チ、ニク……コワセ……チカラ……」
呻きなのに、なぜかソレの声がはっきり聞き取れた。
超常の力だ。
魔法軸とも、ウーゴ師の魔法とも違っている。見たことも感じたこともない、途轍もないものだとしかわからない。
人の形をした【何か】だ!
俺は剣の手を掛けることさえできず、ただ立ち尽くしてしまった。
「待ちかねたわ、ネリジェラク・エア=ジュラス王子」
凛と響いた言葉に、俺は我に返ることができた。
テーブルに着いたままの女王陛下は、動じた様子もない。
ソレが緩慢な動きでこちらを見、硬直した。構えていた魔剣を力無く下げる。驚く暇もなく、ソレは刃先を地面に引きずって近づいてきた。じわり、じわり。魔剣アンゲスアエシュマエが堅牢な石床を削って、火花が散る。
俺は密かに冷たい唾を飲み込んだ。
ハイデマリー様が片手で俺を制したが、今回ばかりは無駄な指示だ。
俺は一歩どころか、身動ぎもできずにいたからだ。ソレが発する気配はあまりにも禍々しく、恐ろしく、圧倒的だったのだ。
ソレはテーブルを見下ろし、右手で自分の顔面を殴りつけ、いや、右の目に手を突っ込んだ。手負いの獣のように、荒い息づかいが耳障りだ。
「……せい、ま、せんえ、き?」
「わたくし、強いのよ」
ソレは深い緑色のクロスで覆われたゲームテーブルに、ぎこちない動きで腰を下ろした。右手は目に突っ込んだままだ。長い髪でよく見えないが、ぐちぐちと酷い音がしている。
自分で抉っているのだ。
溢れた血が、ソレの口元あたりまで垂れ落ちた。
左の腕は魔剣を抱え持っている。間近に見るとかなり大きな剣で、俺の剣の倍はありそうだ。ひとり勝手に赤黒い稲妻を小さく散らしていて、それ自体が生きもののようだ。
「先手はわたくし」
ハイデマリー様が言うと、ソレは小刻みに何度も頷いた。
途切れ途切れの呻きに堂々と応じる我が女王よ!
自分の右目を抉る禍々しい男を目前にして、怯みの一つもない!
俺は自分の胸が高く鳴るのを誇らしく感じた。
カードゲーム『聖魔戦役』は俺も嗜むから、ハイデマリー様のお相手を務めたこともある。ハイデマリー様は少し前から始めたというのに、今ではウーゴ師を下すほどの名手だ。優れた方というのはそういうものなのだろう。
先手がハイデマリー様なので、カードを配るのもハイデマリー様だ。手札と場札を手際良く配り、残りを山札にして置いた。
ソレはハイデマリー様の手元を食い入るように見つめ、自分に配られた手札を睨みつけた。右目から離した手をカードに伸ばし、止める。
まさか、血で汚すのを躊躇した、のか?
「使いなさい」
ハイデマリー様がテーブル越しにハンカチを差し出された。ソレはカードを見たまま、ハンカチを受け取り手を拭いた。蘇った日のヨーゼフ卿を思い起こさせるぎこちない動きだ。
これが、狂人と言われる所以か。
伝説では、【魔剣の運び手】は魔剣アンゲスアエシュマエに己を乗っ取られ、血に飢えた悪鬼悪魔と成り果てるという。目の前の男はまさしくそういう状態に見える。
俺が内心の臆病と戦っている間に、ゲームが開始された。
俊才たるハイデマリー様と悪鬼悪魔では勝負にもならない。まるで初めて『聖魔戦役』をやる子供みたいなカードの切り方をしたソレは、あっという間に負けた。
荒い息が煩く、不気味だ。
「もう一局いかが?」
だが、ハイデマリー様は笑んだ。
ソレがまた、小刻みに何度も頷く。
勝ったハイデマリー様が先手。再びカードが配られる。
手札を握ったソレが笑った。裂けた唇から、牙が溢れて見えた。やはり悪魔だ。魔剣アンゲスアエシュマエに乗っ取られた王子は悪魔と化しているのだ!
その悪魔とハイデマリー様の対戦は数をどんどん重ねた。負けても負けても、「もう一局いかが?」という問いに、ソレが頷き続けるからだ。
二十回戦を超えたあたりだった。
「あら、良い手ね」
ハイデマリー様が言った。
悪魔が作った役は「欲望の沼」、魔界七公の一つ、強欲の魔王アーメイモと嫉妬の魔王ラハージブズの配下三枚で成り立つものだ。魔王配下のカードを打ち消すのが難しいから、通好みとされている。
「やっ、と……ツク、れマし、た」
悪魔が笑った。
牙が無くなっている。俺は二度見したが、やはりない。言葉も少し流暢になった。
「お前の勝ちよ。もう一局いかが?」
「よ、ロコ、んで」
もたつきながらカードを切った悪魔は、手札と場札、山札をそれぞれ配置した。その姿は妙に嬉しそうに見えた。
さらに対戦は進んだ。
途中、ハイデマリー様に命じられ、茶と軽食を運んで出した。悪魔は
「こころヅカ、いに、感シャす、る」
と、言った。
そして迎えた夜明け。
「……レディを、朝まで付き合わせてしまうなんて。私はなんということを」
「構わないわ。これは真剣勝負だったもの」
すっかり流暢に話せるようになったソレ、エアジュラスの第二王子の今更な謝罪を、ハイデマリー様は笑って許した。
「レディ、あなたとゲームをしているうちに、頭がすっきりして、考えることができるようになりました。一体、どのような魔法を使ったのですか?」
「魔法、ではないわ。ただお前の魂を揺さぶっただけだもの」
「魂?」
「ゲーム好き魂。食事よりゲームが好き。睡眠よりもゲームがしたい。そのくらいゲームが好きなのに、ずっとプレイできていなかった。その憤懣が魔剣の呪いに打ち勝っただけ」
そんな、ことが……?
我が陛下はなんと聡いのか! 本当に神々のお使い、いや、女神ではないのか!
二人の会話を聞いているだけで、俺の胸がまた高く鳴る。苦しいくらいだ!
「でも、ほんの一時的なものよ。お前の持つ魔剣アンゲスアエシュマエの力はそれだけ強い」
「……あなたといれば、私は正気でいられるのですか……?」
「正しくはわたくしに従えば、ね。わたくしの下には眠らない文官がいるわ。夜明かしでゲームもできるかもね。それに」
「それに?」
「ウーゴ師もいる。カードの相手には不自由しないわ」
エアジュラスの第二王子は勢いよく立ち上がり、魔剣を抱えたままハイデマリー様の足元に膝をついた。
「あなたにお仕えします、レディ。どうか御名を」
「ハイデマリー・アデーレ。お前が落とそうとした首の持ち主よ」
ハイデマリー様の笑みに、ネリジェラク王子が見ほれた。
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――これは、
聖女でも、英雄でもない
「悪役令嬢」が勝ち残る物語。
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