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一章(エレオノール視点)
プリマヴェーラ
しおりを挟む翌日、五時の開店と同時にペレはやって来た。昨日の詫びだと小箱やら包みやらを護衛に持たせているのを、エマは冷ややかな目で見据えた。
「ずいぶんと早くいらっしゃったので、お化粧も何もしておりませんの」
ドレスも着ていない。下着のシュミーズ姿だったのをヒルダにどうせ脱ぐんだろとそのまま食堂から追い出されたのだ。こんな姿を晒したことは一度も無いのだが、女主人ヒルダからは、とっくにペレに体を許したと思われている。こうした誤解が生じるのも無理は無かった。
「構わない。かえって好都合だ」
上から下まで眺めたペレは、定位置の椅子に腰掛けた。普段ならエマはベッドに座るのだが、いつでも外に出られるよう扉の前の位置に立った。
「なにが好都合ですか」
「貢ぎ物は服やら香水だ。光り物もあるかな。適当に使って見せてみろ」
本当に詫びのつもりなんだろうか。勘違いだったものの、エマの幼い頃から傍にいてくれた御者に暴力をふるったのだ。エマの為にというよりは、ペレ自身が見たいが為にプレゼントを用意したように感じられた。
「イオリネへの見舞いの品はないのですか」
「あの老人の居場所を突き止めて直に渡した」
居場所を?となればエマがどこの貴族の者なのか。素性を知られてしまった…?
「と言ったらお前は困るだろう?。なぁお嬢さま?」
お嬢さまなとど。からかいの言葉をかけられる。エマは不満を隠しもしなかった。
「お帰りください。この品々も必要ありません」
「レッスンはするだろ。昨日サボったからな」
「しません!」
ペレはくつくつと笑った。
「そんなに面白いですか」
「面白いさ。笑わない女を怒らせたんだからな」
「私が何者なのか知りたいのならお調べになればよろしい」
「調べないさ。母の形見の恩人だからな」
恩人などと、大層なことはしていない。ただ今の二人に共通点があるとすれば、身内に対する情だろうか。
久しぶりに会えた御者のイオリネ。もしペレが勘違いして無理矢理にでも連れてきてくれなければ、一生会えないままだったかもしれない。ペレのお陰で、イオリネに会えたと言ってしまえた。
対する彼も泣き母の遺した本を手がかりにここまでやって来た。悪い人ではないのだ。
まだ怒りはある。あるのはあるが、こちらにだって今まで受けた恩があり、少なくともペレに対して情も芽生えている。
「ではどうなされたのですか。こんなに早い時間に」
「詫びだ」
「昨日の今日で用意できる量ではありません。私を着飾らせて、何をしたいのですか」
するとペレは封筒を見せた。受け取って中を改めると、それは招待状だった。
「歌劇だ。商いの仲介をしたら是非にともらった。私は全く興味が無いんだが、名のあるお嬢さまなら興味があるんじゃないかと思ってな」
王立歌劇場のチケットだった。数ある劇場の中で一番に格式高い歴史あるホールだ。エマも数えるほどしか行ったことがない。招待枠なので良い席のはずだ。
「それは良い物をいただきましたね」
「八時に開演だ。行こう」
行こう、などとペレらしくない言い方だった。子どものような少し幼い誘い方。行こうよ、と言われているような気分になった。
「昨日の件はすまなかった。御者が来ることがあったらこの中から適当に渡しておいてくれ」
「遅い謝罪ですね」
「謝り慣れてないとこうなる」
「私も怒り慣れてないので、引き際が分からなくて困りました」
見つめ合って、ふ、と息が漏れる。心が通じ合った瞬間だった。
エマは贈り物の包みを開けた。ドレスは皺にならないように麻布が挟み込まれていて、かすかに香水の匂いがした。色は赤と青の二着のドレスで、原色に近い色だからどちらも非常に目立った。生地は上質なシルクで、金に糸目を付けずにとにかく最高のものを、というペレが商人に出したであろうリクエストが透けて見えた。
「…貴方様が推測なさる通り、私はかつてそれなりの身分の者でした」
ペレが大して興味なさげに相槌を打つ。こういう気楽さがエマは好ましかった。
「ですので、観劇のような衆目にさらされるような場所には行けません」
「なら顔を隠していけばいい」
「いえ。一人では行けないという意味です。貴方様となら、誰に見られても構わない」
これは本心だった。でも、この人に対する裏切りでもあった。
「ありがとうございます。また観劇が見れるとは思いませんでした」
せわしなく心が動く。いや、これは揺れ動くのではなく、段階を踏んで盛り上がりを見せていた。
招待状には、観劇の演目が挿絵と共にプリントされていた。
題名は『プリマヴェーラ』
それは愛人、ココットが愛してやまない演目だった。
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