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一章(エレオノール視点)
開演
しおりを挟む馬車が止まり降り立つ。ペレの腕に掴まり寄り添いながら、エマはそびえ立つ歌劇場を見上げた。
日が落ちても灯りは焚かれ、白亜を照らす。階段を登りきった入口にある巨大な女神像が、ペレとエマだけでなく、入場する観客全員を迎える。
夕立ちのおかげで夏場なのに涼しかった。
ペレは黒の燕尾服を着ていた。あまりこちらの国の服は着ない彼だが、劇場に合わせて選んだのだろう。
対するエマは赤のドレスを選んだ。青より赤の方が目立つ。化粧も真っ赤な口紅が引き立つように施した。遠くからでもよく見えるように。
招待席はボックス席だった。中央寄りの壇上がよく見える席。エマはオペラグラスで観客を覗き見した。
「そんなに楽しみにしていたのか」
はしゃいでいるようにペレには見えているらしい。エマはオペラグラスを外して、椅子に座った。
「ペレさんは初めてですか?」
「興味がないんだからわざわざ行かない。うちの国にも劇場はあるが、たいてい戦記もので、こんなお上品なのはやらない」
つまらなそうにペレは肘をついている。
「みんなお前を見ていたそ」
と、素っ気なく言った。
目立つ服にはしてきた。エマも視線を自覚していた。中には見知った顔もあった。それは、エマが王妃だった頃に知り合った顔だった。
作戦は上手くいっていた。エマは見つけてもらう為に、赤い衣装で、目立つ異国の人と共に、この劇場に来た。
エマはわざと舞台から背を向けて座っていた。舞台から真正面に位置する三階席には、ひときわ大きなボックス席が設けられている。
そこは王族のみが吸われるロイヤルボックス席。エマはそこに座る人物を待っていた。
給仕係がシャンパンを持ってくる。氷にボトルに入れられているからよく冷えていた。ペアリングのチョコも美味しい。
声がけがあって、人が入ってくる。ペレの従者兼、護衛のひとだ。さっきまで護衛はボックス席の中には入らず、外で待機していた。
護衛はペレに耳打ちすると直ぐに出ていった。何かを聞いたペレは、エマにシャンパンを注いだ。
「ジョン王夫妻が来るんだと」
待ち望んでいた吉報にエマは、まぁ、とわざと驚いてみせた。
「そうでしたの」
「そいつらが到着してから始まるから、開演が遅くなる」
「よくあることです」
「迷惑な」
王族に対してきっぱりと悪口を言ってしまえるのは、外の国の人だからだ。エマは、ふ、と息をもらした。
「本当に迷惑ですね。特にペレさんは、興味も無いのに私に付き合っているだけに」
「エマのご機嫌取りしてやる見栄でここに座っている」
「正直なお方で、私は気が休まります」
ペレは喉の奥で笑った。
「暇つぶしだ。一つ話をしてやろう。私の国では花嫁泥棒が認められていてな。母はこの国の出身だが、さらわれて無理矢理、子供を産まされた。その子供が私だ」
重い身の上話にしては、ペレの態度は軽かった。話すのに抵抗が無く呑気にシャンパンを飲んでいる。
「庶子は跡継ぎにはなれない。普通なら捨て置かれる筈が、早くに死んだ母に未練があったのだろう。父は私に惜しみない援助をして一財産を与えた。おかげで労せず放蕩し放題になった」
「気楽に生きてきたようには見えませんけど、そう聞こえます」
「まぁな。毒を盛られたことは一度や二度ではない。殺されかけたことも何度もある」
「大変な思いを」
「お前もそういう経験をしてきたように見える」
さらりとこちらに話を向けられて、エマは膝に置いていた手を拳を握りしめた。
無言のエマに無理に口を割らせたいわけではなかったようで、ペレは話を続けた。
「命を狙われた理由は、命を狙ったからだ」
「それは…?どういう」
「母は私を跡継ぎにして、家を潰したかったらしい。私という駒を使って、母は父に復讐するつもりだった」
「…………」
「その前に事が露呈して、母は自死した。屋敷の屋上から身を投げて。部屋にいた私は窓越しに落ちていく母と目があった。落ちた場所に行くと、母はまだ息があった。抱き起こすと、あの詩集を諳んじて死んだ」
「……私に、復讐をやめろと言いたいのですか?」
「暇つぶしと言ったろう。ただの話だ」
嘘つき。と言いそうになる。エマは母の無念の死を慮って、口にしなかった。
こんな話をするのだ。ペレは既にエマの正体に気づいている。誰に復讐しようとしているのかも。
「明日にはこの国を去る」
唐突にペレは言った。
「私と来るか?」
本当に唐突だった。でもペレはずっとこの言葉を言いたかったのだろう。これを言うために、無念に死んだ母を引き合いに出して、エマに告白したのだ。
「…………」
「返事を」
「私には、することがありますので」
「それ無しにしたらどうだ?」
ペレが早口で言う。はらりと額に落ちる一房の前髪が、何故かこんな時になって目につく。彼は余計な情報をエマに与えないようにしているかのように、微動だにしない。だからそんなささいな事が気になる。
「私は少なくとも、いまここで連れて帰りたい。だがそれをしたら私は父と同じになる。父と同じにはなりたくない」
真摯な眼差しを向けるペレを見て、エマは胸が苦しくなった。なんて良い人なのだろう。エマの心は揺れていた。彼に身を委ねたら、どんなに幸せになれるだろうかとも。
手を伸ばしかけたいと思った瞬間、にわかにざわめき始めた会場の雰囲気に、その時が来たのだと悟る。
そして気づいた。ソイツを見つけようと視線をせわしなく動かしている自分を。目の前の幸せよりも、復讐の心を優先していることに。
エマは手を取らなかった。
「……お願いがあります」
エマの暗い声音に察する所があったのだろう。ペレが目を細める。
「言ってみろ」
「お別れの挨拶を」
パチパチと鳴る拍手。国王夫妻の到着だ。開演が近い。
手首を引かれ、口が合わさる。乱暴で性急な動き。今まで味わった事のない快楽のしびれが、頭を馬鹿にさせる。水音が拍手にかき消される。吐息も、声も。唇も舌の感触も、何もかも真っ白になる。
最高の盛り上がりを見せるなか、幕が上がる。役者は揃った。もう戻れない。
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