隣の車両へどうぞ

Wataru

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隣の車両へどうぞ

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 朝の通学電車が、嫌いだった。

 決まって同じ時間、同じ車両。
 混み合う中で、同じ位置に立つ男がいる。

 触れられていると確信できるほどではない。
 でも、偶然とも言い切れない距離が続く。

 声を上げるほどの勇気はなかった。
 周囲の視線も、止まる気配も、どちらも怖かった。

 だから私は、ただ耐えていた。

 ある朝、乗り込もうとしたときだった。

「こちらへどうぞ」

 低く、落ち着いた声。

 振り返ると、車掌が立っていた。
 年齢は分からない。表情も読めない。

 何も説明はなく、
 隣の車両を、静かに指差しただけだった。

 一瞬、迷った。
 でも、その指の向きに従って乗り込んだ。

 不思議なことに、その日は何も起きなかった。

 誰かが近づくこともなく、
 視線を感じることもなかった。

 ただ、普通の朝だった。

 次の日も、同じ車掌がいた。

 同じ場所に立ち、
 同じように、隣の車両を指す。

 何も言わない。
 私も、何も聞かなかった。

 その日も、何事もなく学校に着いた。

 次の日も、その次の日も。

 案内された車両に乗った日は、
 必ず、静かな朝が続いた。

 偶然だろうか。
 そう思おうとした。

 けれど、心のどこかで分かっていた。
 この静けさは、偶然ではない。

 ある朝、車掌はいなかった。

 同じ時間、同じホーム。
 けれど、あの声は聞こえない。

 少しだけ、迷ったあと、
 私は案内されたことのある車両に乗った。

 その日も、何も起きなかった。

 それからも、痴漢被害はなかった。

 朝は、ただの通学時間に戻った。

 いつのまにか、
 あの男の姿を探すこともなくなっていた。

 名前も、理由も、
 結局、何一つ知らない。

 ただ――

 何も起きなかった朝が、
 当たり前のように続いている。

 それで、十分だった。
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