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第二章 台風の目
二十六
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黒雲が時刻を曖昧模糊とさせていた二十二日、それでも夜が訪れたのだと分かる頃、信長は緒川城に着いた。
大手門前、雨の中に、野良犬のような泥だらけの若者が数十人、地べたに胡坐をかいて座り込んでいる。屋根のあるところへ入ろうという気すら、もうないらしい。
信元が門を開くと彼らは一様に顔を上げた。真ん中にいるのが、信長だ。七年ぶりだが間違えるはずもない。髪紐がほどけてしだれた髪のその合間から獣の目が覗いている。殺気を、帯びているように見える。
「待ってたぜ。入ってくれ」
信長は水たまりを踏みつけるように勢いをつけてエイと立ち上がると、
「イヤあ、ちょっと死にかけました」
あっけらかんと言ってのけた。ケロッとしている。もうどこにも緊張はなかった。あの日、自分の盃を遠慮した下戸の少年の瞳に戻っていた。いま自分が感じた殺気は何だったのだろう。
ところが、信元が何か返答しようと口を開いたその瞬間、信長は膝から崩れ落ち、そのまま泥水の中にばしゃんと倒れ込んだ。
「アッ」
利家と恒興が踊り出て、オイ、殿をさっさと運び込め、などと言いながらその泥人形を担ぎ上げ、屋敷へ搬入すべく勝手にすたこら入っていく。信元は傍から見ているばかりだったが、そのうち、最後に門を通った青年のうちの一人が語りかけてきた。長秀だ。信長と共に搬入された小荷駄隊を指さし、
「兵糧です。城の者たちに配ってやってください」
素朴な声で言った。
一瞥して兵糧はずいぶん少ないように見えた。緒川の将兵に分け与えたらほとんど一日でなくなってしまうのではないか。
しかし、そんな懸念は織り込み済みだとでもいうように、長秀は表情一つ変えずに付け加える。
「アア、これは取り急ぎの、今日の分です。きちんとしたのは明日来ます。というのも、本来は全軍でここまで半島をぐるりと周って来るつもりだったのですが、風に煽られてしまいましてね、断念したのです。ちょうど味方の木田城のそば、可見の港が見えたのでそこへ漂着しました」
木田城は信長に従う荒尾氏の居城である。この南方すぐに今川へ寝返った花井一族の藪城・寺本城があり、今はこれに対している。
「兵は全部で一五〇〇ほどおりますが我々のほかは全て信光さまに任せて木田城に休ませています。これらは明日にはこちらへ合流します」
どうやら戦の裏方のことはすべてこの青年が取り仕切っているようだ。あどけない語り口に不似合いな粛々とした態度が奇妙で面白いと思った。
「何から何まで、世話になるァ」
信元が頭をかいてそう言うと、長秀は突如として冷ややかに言葉を返した。
「正直を言えば、私は半信半疑なのです。あなたがた水野一族が本気で今川に抗う用意があるのかを疑っています。しかし、殿は、それらをすべて承知のうえで、あなたに賭けて、今日、ここへ来ました。だからどうだと恩着せがましく言いたくはありませんが、ただ、織田信長という男のことをご承知おきいただきたいと思っているのです」
それは、信長の意識が飛んでいなければ決して口にしなかったであろう、長秀の本心だった。
――
信長、緒川城到着のおよそ半日ほど前のこと。
暴風雨の中、港へ行軍した織田軍の前に熱田の水夫たち挙って立ちふさがった。
「こいつァいけません。いくら信長さまの頼みだろうと、こんな海に舟を出すなんてのはまっぴら御免です」
「自分の命が欲しくて言うんじゃあねえです。人間ひとりを渡してやることも難しいだろうに、米やら馬やら、これはもう無理に決まっております」
彼らは縋るように口々に言った。
豪雨の勢いは増すばかりで、未だ止む気配はない。
「林兄弟のほくそ笑む顔が浮かぶようだな。サテ、どうするね」
信長の隣で信光が試すような苦笑を張り付かせている。この男はいつも他人事のように意見する。
「舟を、出せ」
「無体ですッ。もう一日、アアいや、二日待ってくだされ。私らずっとここでこの仕事をしているんです。お言葉ですが、海のことはよおく分かっとります。今日は駄目だ。しかし、二日後ならこの雨は晴れるです。ウソは言いません」
強情な信長に対し船頭らは尚も嘆願した。言葉の通りその表情にも嘘はないらしい。自分と、そして信長の身を案じての忠言に違いはないが、それが分かっていても信長は聞き入れない。
「その昔――」
そして、柄にもない語り口で言葉を紡ぎ始めた。
「その昔、屋島の合戦で、源義経と梶原景時が逆櫓の言い争いをしたときも、このぐらいの雨風だったのだろうな。ナア」
船頭たちはポカンとする。船頭たちだけでなく織田軍の面々までもが呆気にとられている。
「なるほど、キサマら水夫は海のことは知っているようだが、戦のことは知らないな。反対に、オレは戦のことは知っているが、海のことはキサマらほど知らないだろう。だがね、今日のオレにとってはこの渡海も戦のうちなのさ」
背後に付き従う仲間たちの方を振り返る。
「敵は緒川城への付城を完成させ、街道を遮り、いまこの嵐を前にして祝杯を挙げているだろうぜ。オレが、美濃に援軍を頼み、そして、この荒れ狂う海に漕ぎ出してまで水野の救援に来るなどとは夢にも思うまい。林兄弟を見ろ、味方でさえ「出来るわけがない」と尻尾を巻いたのさ。敵がそうでないわけがない。だが、キサマらは、いや、オレたちは知っているのさ。オレたちには城を落とす十分な力があることを。そして、それは今こそ奮うべき力であることを。
溺れ死ぬのが怖い者はいるか。では戦場で槍で突かれて死ぬのはどうだ? どちらも死ぬぞ。槍で突かれて死ねば名誉の戦死で、溺れて死ねば情けない死にざまだと思うか? 違う。
いいか。いま行けば、勝てるのだ。いまこの海を渡るか否かが、すでにオレたちの始めた戦なのだ。運が悪ければ溺れ死ぬことも、凍え死ぬこともあるだろう。それは、戦場で運悪く流れ矢に当たることに似ているとオレは思う。だが、そうして死んだ者の名誉が汚れることがないのと同じように、この海に溺れ死ぬ者がいたとしても、その名誉が汚れることは決してない。オレがさせやしない。よしんば、オレたちの名誉を汚れる行いがあるのだとしたら、それはただ一つ、勝ちの機会を知りながらそれをみすみす逃すような馬鹿をやることだけだ!」
船頭たちの誰よりも、信長の声は嵐を切り裂いて兵らの胸に届いた。
誰を皮切りにというわけでもなく一斉に、オオという声が轟いた。折り重なって押し寄せる声のうねりが天に昇る。
水夫たちは思わず唾を飲んだ。全員が信長になってしまった。もう、話は通じない。
「もう一度言うぞ。舟を出せ。オレたちは死んでもいくのだ」
信長は手前で足を震わせている船頭の胸倉を掴み、顔を突き合わせて笑いかけた。
――
翌・二十三日の昼頃、わずかに勢いを弱めながらも尚降りしきる雨の中を、信光率いる織田軍が緒川城へ入城した。
泥のように、もとい、泥だらけのまま眠っていた信長は飛び上がるように目を覚ます。
それを見越して待っていた長秀たちが出来立ての湯漬けを給仕する。ものの数秒だっただろうか、信長はそれを掻っ込むと、すぐに信元、信光を呼び集めた。
「サテ、村木砦には一〇〇〇の兵が籠っているという話だが、マア、落とせるだろう」
軍議は寝起きの信長の楽天的な一言であっさり始められた。
「対するこちらは一五〇〇。それに信元殿の手勢五〇〇を合わせ、ざっと二〇〇〇というところか。砦を落とすに当たってはやや心もとないな」
信光が自嘲するように言うが、物言いに反してその目は笑っている。
「砦方に動きはないか」
信長が信元に訊ねる。
「ないね。ここからはちょうど砦の物見櫓が見えるんだが、一昨日までは毎日明かりが灯っていたのが、昨日、大風が吹いてからはからっきしだぜ。この嵐だ、奴さん、ひょっとしたらまだあなた方の到着すら気付いてねェってこともあり得るな」
「ウン。それなら、いけるな。信元殿はやはり明日は海へ出てもらう」
「それは、衣浦へ水軍を率いて出るということか」
突然の作戦ではない。事前に文で信長から連絡されていた一つの提案だが、しかし、信元にはまだそれを確信して承諾したわけではなかった。
「信長殿、アンタの言いたいこたァ分かってる。今川の援軍や刈谷城の動きを見ていろというのだろう。だが、それじゃァ肝心の城攻めは織田勢だけでやると言うようなものじゃあねェか」
「何か、問題がありそうだな」
信光がそれを揶揄うようにニヤリと口を歪ませて笑う。
「大アリだ。今更、水野の面子がなんだと五月蠅いことは言わねェ。だがね、自慢じゃねェが、俺たちァ村木の砦が出来上がるのをずうっと指を加えて見ていたんだ。砦のことならよく知ってる。ありゃ、大した要害だぜ。北は海で入れねえ、東が大手門になっているがこれも海岸、そのうえ南にはでっかい堀をこさえてる。ちょうど甕みてえな形をしたえれェ深ェ奴だな。唯一つ攻め手に望みがあるのが西の搦手だが、そこだって攻めやすいというほどのもんじゃねェよ」
「何が言いたい」
「半端な頭数で攻め込んでも、返り討ちに合うだけだぜ」
だが信長はそれを受けても動じない。
「そのために、こいつを持ってきた」
傍らの長秀から袋包を受け取ると、麻紐をほどいて中身をごとりと床の上に置いて見せた。鉄砲だ。
「この雨の中で、こんなものどうするってんだ」
「いいや、雨は止むよ、きっとね」
外で遊ぶのを楽しみにする童のような口調に、信元は思わず言いよどむ。
「それに、美濃にも既にこいつを使うと大口を叩いてしまってる。昨日はそこの者たちにあんまりな思いをさせたからな。舅殿への土産話をこさえてやらねば、怒るだろう、きっと」
信長は背後にじっと控えている利政側近の者たちを横目でチラリと見た。信長の配下でもないくせに、例の渡海にも一切動じることなく付き従った。利政が信を置いているだけある。
信元にとっては何のことだかさっぱりだったが、信長が城攻めを自分たちだけでやってしまおうと本気で考えていることだけは理解できた。
「ただじゃ済まねえぞ。その時になって、泣きついたって遅ェからな」
「当たり前だ。戦争だ。ただでは済むまいが、オレもただで済まさない」
「生意気なところが、変わらねェな」
「未だに酒も飲めないままでね」
信元はあの日、初陣に立って大浜城へ攻めかける信長の姿を想起したが、しかし、そんな感傷に浸る暇もないほど矢継ぎ早に信長の口から砦攻めの段取りが語られていった。その間中、信長は常に微笑していた。それは、肉食獣が獲物を見つけたときの本能の顔でもあり、また、人間が恐怖を克服しようとするときの理性の顔でもある。
矛盾を抱えた微笑は、恐れを楽しんでいるようだ。信元にはそう見えた。
翌二十四日、信長の見立ての通りに雨は止む。まだそよいでいる風だけが、わずかばかり残っていた雲を根こそぎ吹き飛ばした。
「二日後ならこの雨は晴れるです――」
熱田の水夫の言葉に嘘はなかった。それはまた、信長も確信していた。この嵐はただの嵐ではなく台風なのだ。つまり、それが過ぎ去った後には快晴の空が訪れる。
満天が海との境を失くして緒川城を包んでいる中、しずかに、織田・水野軍は出立した。
白み始めた薄闇の中を息を潜めて砦へ近づいた。そして、日の出と共に、
「かかれッ」
一斉に襲いかかった。
まず、砦の東側・大手門から信元勢が衣浦湾に舟を浮かべて攻撃を仕掛けた。城方はすぐにこれを察知して迎撃の構えに入る。そこへ、南側・深堀へと信長本隊が突き進む。利家をはじめとする血気盛んな若武者たちが堀底へ滑り降り、そこからは、ひたすら競うように壁にとりついてよじ登っていく。
「あつらえ向きだ、追い落としてやれ」
当然、敵はこれを放ってはおかない。恰好の的。砦兵は弓矢や投石で応戦しようと狭間を開く。
しかし、これこそが信長の狙いだった。
「そら、出たぜ。あつらえ向きだァ、放てッ」
心臓を叩くような轟音がこだまする。城方にはまだ眠い目をこすって具足を身に着けるのに手間取っていた鈍間な兵もいたことだろうが、そのような頓馬はもしかしたら音を聞いただけで失神したかもしれない。それほどの破裂音、その間断ないうねりが村木砦を一挙に襲った。
信長は堀を隔てて五十間ほど離れたところから横一列に一〇〇の鉄砲兵を並ばせ、狭間から顔を出した敵兵を逐一狙い撃たせた。撃ち手の後ろにはもう一列、いや二列、弾込めだけを専ら行う部隊が控えていた。彼らが弾込めを終えた鉄砲を撃ち手に手渡すことで間断のない射撃が可能となる。そのために轟音が絶えないのだ。
砦方は鉄砲の存在に気付くやすぐさま弓兵を用いて鉄砲隊を射ようとしたが、彼らが放った矢の雨はちょうど鉄砲隊の数間先へと折り重なって突き刺さり、届かない。鉄砲隊の配列はちょうど弓の射程の埒外に定められているからだ。ここまですべて信長の読み通りである。
「いまだ、登れ、登れェ」
利家が音頭をとって外丸への一番乗りを目指して堀をよじ登る。サルが木登りでもするかのようにグングンと登っていくが、ここにきて砦方もにわかに戦の勘を取り戻した。彼らは鉄砲隊を射抜くのをすっぱりと断念したのだ。そして、堀を登ってくる利家たちの方を一人残らず屠らんと集中攻撃を浴びせた。鉄砲の弾が当たることなどは厭わない覚悟の方針だ。
村木砦を守る今川方の城将は松平忠茂といったが、これが今川に対する忠義を煮詰めたような男。松平宗家に仕える身でありながら義元の直臣でもある。過去、織田と結んで宗家に反旗を翻した松平の分家諸々と悉く戦って大立ち回りを見せたのがこの忠茂であり、織田に対する敵愾心は頭抜けたものがある。
「死にたがりの馬鹿野郎が。撃ち殺してやれッ」
銃声の中にもかき消えない大声で信長が叫ぶ。
ところが、その時、鉄砲隊の中で爆発が起こる。
「何をしているッ」
寒気と焦りに手元を震わせた一人の鉄砲兵が火縄銃が滑り落としたのだ。常日頃から直々に鍛え上げた鉄砲隊とはいえ、実戦はこれが初めてのことだ。折からの渡海による疲労もあったことだろう、全て予定通りとまではいかない。何より、信長自身が砦方の反撃を見誤っていたのだ。
「どけ」
腕に火傷を負って転げまわる兵を下がらせ、地面に転がっている鉄砲を拾い上げると、
「近づくぞ」
自ら弓兵の射程内に入り込んで鉄砲を構えた。砦方から狙われても構わない、むしろ、今度は自分たちを射程に晒すころで利家たちを救おうとした。
「狭間三つ、信長が引き受けたぞ」
高らかに宣言し、誰よりも果敢に、一人、また一人と的確に砦兵を撃ち抜いていった。そもそも信長より鉄砲の上手い者は数えるほどしかいない。
だが、その勇気によって捉えたのは、残念ながら勝利の兆しではない。
「キリがないな、」
厳然たる事実。砦方の兵をすでに何十人撃ち殺したか知れないが、未だ疲労の影すら見せてくれない。
やがて再び矢が降り注ぐと、今度は鉄砲隊にも被害が及ぶ。一人、また一人と倒れていった。
射撃による援護が衰えると利家たちも劣勢になり始める。突き落とされてそのまま動かなくなる者がずいぶん増えてきた。
信長の手勢は誰もが二人分、三人分の働きをするという。いや、実際にそうであるかは問題ではないのだ。重要なのは、彼ら自身がそのつもりで戦場に立っているということだ。だからこそ、寡兵だろうが、劣勢だろうが、一般に城を落とすに足る軍勢ではなかろうが、彼らは怯まない。『負けるはずがない』と信じて突撃する。だからこそ、ある時はいとも簡単に敵を追い崩し、また、ある時はいとも簡単に戦場に転がって行く。
配下の死を目の当たりにしながらも、しかしながら、信長は退かない。及び腰になるどころか、より一層に近づいて敵に鉛を撃ち込んでいく。忠成との根競べだ。行き着く先は凄惨な消耗戦だと知れているが、それでもこの砦は落とさなければならない。
「まだか、叔父上ッ」
その時、一矢が信長目掛けてまっすぐに飛んできた。一人の若武者が「殿、」と矢面に躍り出てそれを盾となって受けた。信長は、倒れるその男を抱きかかえたが、オイ、と問いかけてももう答えない。首を、一突きにされていた。
深堀では一層の死屍累々だった。その死体の山が徐々に積み重なっているのが遠目からも確認できた。彼らが一人死んでいく度、信長は逡巡させられた。「覚悟」とは言うのは簡単だが、所詮は意識の上に自らでこさえた約束事に過ぎない。一人の人間が絶命するという現実を前に揺らがない心などは、そうそう無いだろう。
『ここで臆して攻め手を緩めれば、それこそ砦方の思うツボだ。やらなければ駄目だ、駄目だとわかっている』
何度も自分を、そして兵らを鼓舞し直す。が、そのし直すという行為自体が信長の苦しみを物語っていた。「臆するな、臆するな」と言うたびに臆している。それは自らの死の危険に、ではない。名前も、好きな食べ物も、好きな女までもを知っている仲間が、単なる頭数として死んでいくという不条理にである。
そして、信長は死に行く彼らに最期の声をかけてやることも、また、聞き遂げてやることも、何もできない。
気づくと信長の照準は涙で狂い始めていた。
「ゲッ、」
突き落とされてこれで五度目、尚も勢い盛んに堀を駆け登る利家にいよいよ死が迫っていた。
狭間から弓兵が一斉に身を乗り出した。砦方は鉄砲の勢いが鈍ったことを目敏く感じ取り、一転して攻勢の構えに出たんだ。
ところが、
その時、砦方にどよめきが起こった。それは西・搦手の方角、信光軍の持ち場からである。砦の中がにわかに賑やかになってきた。どうやら信光軍の兵が外丸を突破して中へと侵入したらしい。
大手門を攻める信元軍、深堀を攻める信長軍の攻撃は、すべて砦方の守備兵を搦手から分散させるための餌に過ぎなかった。信長が堀側の難所を一手に引き受けたのは、そのためだ。囮になって死なせることなど自分の手勢にしか出来ないと知っていたのだ。
「信光殿が突き破ったか」
海上の信元軍もそれを皮切りに主力を上陸させて攻めかけた。敵方の後詰への警戒は既にほとんど不要である。外丸が突破された以上、もう援軍が間に合うことはない。
同日、申の刻、照り付ける真っ赤な夕日が海にその身を浸し始めた頃、村木砦はようやく降伏した。砦を守る兵はわずか二〇〇に満たなかった。殲滅しようと思えばできたが信長は降伏を受け入れた。弾薬もそこを尽きかけている。そのうえ、既に落ちた砦の兵を殺そうとするために、これ以上味方の人死を出すのは馬鹿なことだと思った。何より、息のある者が一人でもいないか堀を探してまわりたかった。
敗残兵をまとめさせて忠茂を砦から退去させるや信長は堀際を駆けまわったが、息のある者は既にいなかった。骸の頬に手をかざす。冷たい。死んでいるから、当然だ。
「どうやって死んだのだ、お前は。敵を一人でも多く倒そうとしてか、それとも、この中の誰かを庇ってか、どうなんだ」
ほんの数瞬前に事切れた者だったとしても、真冬のことだ、血が巡らないなら一瞬で冷たくなってしまったことだろう。信長には、目の前の武者がいつ、どのように死んだかすら知ることができない。
そうして、また別の者を見つけて、
「そうか。お前も、死んでやがるのか。女を口説くいい方法を思いついた、といつだか言っていたな。オレが下らんと言ったら、それきり二度と話してくれなかったな。あの世まで持っていくつもりか」
本陣に並べられた骸を見て信長は膝をついた。勝ち戦の大将とは思えぬほどの虚ろの風体だった。
出陣は間違ってはいなかった。砦を攻め落とす作戦も八割方は思った通りに進み、事実、村木砦は落ちたのだ。思った通りの決着だ。それでも、これだけの仲間たちが死に追いやられた。必要な犠牲だと言うのは簡単だ。戦略的な意味も頭では分かっている。だが、こころが、からだが、――受け付けない。
「政秀を死なせたときと、まるで同じではないか」
ある一つの意志を貫徹する。オレはそれに正義という名を付けてやる。しかし、正義とは、かくも虚ろで、暗いものなのだ。これは人間の歩む正道ではない、この道はオレを幸せにしないのだろう、きっと。そして、それでいいのだ。
再びの涙が流れた。それを見た周りの者たちが連られて泣き始める。
――アア、信長さまはあんなにも家来の死を悼んでいる、――
とでも、思っているだろうか。それなら、一層滑稽だ。
昔から泣くのは嫌いだった。泣くぐらいなら怒りたい。腹立たしいときも、悲しいときも、とにかく怒鳴り散らして空に放ってやるのだ。泣くことは陰気で、他力本願ではないか。泣くというのは赤ん坊のすることで、食べ物が欲しいとか、一人が寂しいとか、そう言っては自分ではない誰かに助けてもらおうと言うのだ。みっともない。大人は誰だって泣かないものだ。例え、どれだけひもじくとも、寂しくとも、この世に道理など無いと知ってしまったその日から、きっと泣くことを、他人に拠って立つことをやめるのだ。
だからオレは、もう泣くことがないのだと思う。オレの涙もこいつらと共に逝ったのだ。これだけの仲間が死んでも、そのために戦を止めようという風に、オレの心は動かなかった。もし、この戦の末に、オレが弾正忠家を投げ出して出奔でもしてしまうようなことになったなら、それは、どれだけ豊かな心だったことだろう。
いつの間にか、信長の両の掌は血に染まっていた。誰の血だかも、すでに分からなかった。
「戦はまるで、現世だな。道理がないよ、どこにもさ」
自ら上げさせたはずの勝ち鬨が他人事のように響いていた。
翌・二十五日、砦の破却を信元に命じて信長は帰途についた。
那古野に到着するや守就の陣へ援軍の礼を言って利政側近の四名を返した。
「ずいぶん粗末な戦をやりましたよ。舅殿のお耳に入れたくないね」
謙遜でも何でもなく、そう言った。
ところが、守就らから一部始終を聞いた利政は、その光景の中に、信長の心中をありありと見た。そして、そのうえで城攻めを完遂したという事実に打たれる。
「お前らね、私の死んだ後はよく気をつけるのだよ。アレに噛みつかれてはサイアクだ。たとえ、勝ったとしても地獄だろうね。いやはや、やっぱり野犬なんだな、それに、またちいとばかり大きくなった気がするな。どうにも危なっかしくて、隣にはいてほしくない男さ」
愚痴のように吐き捨ててはいるが、守就にはどうにも自慢じみて聞こえた。
利政はそれからほどなく出家し、自らを道三と号するようになった。
村木砦の陥落により、その後の三河国には信長の読み通りに異変が起きることになる。
村木砦の目的は鼻から水野信元の圧迫、そして、それに伴う今川への臣従を促すものだったが、信長という野犬の横やりでその目論見は砂上の楼閣と化してしまった。こうなると、今川が緒川城という小城の攻略をしくじったという事実のみが残り、やがて三河の国衆らが反今川を掲げて次々に蜂起し始めることとなったのだ。もちろん、背後で糸を引いているのは信長、そして信元たちである。俗に三河忩劇と呼ばれるこの大乱はその後長く尾を引くことになり、鎮圧のための対応に追われた義元の西進、つまり、尾張への侵攻を大幅に遅らせることとなった。
一所に吹いた小さな風が、やがて周辺を巻き込む大風となってついに義元に牙を剥いた。幼年より辛酸を舐めさせられてきた今川という大敵に、信長はようやく一矢を報いた。この大風が、また更なる大風を呼び起こすきっかけとなることを信長も、義元もこの時に知っていたのだろうか。
時に早く、時にゆったりと、付かず離れず、だが確実に、その旋風は大きくなっているのだ。
そして、その中にむせぶような血の匂いが、濃くなって交じっている。
大手門前、雨の中に、野良犬のような泥だらけの若者が数十人、地べたに胡坐をかいて座り込んでいる。屋根のあるところへ入ろうという気すら、もうないらしい。
信元が門を開くと彼らは一様に顔を上げた。真ん中にいるのが、信長だ。七年ぶりだが間違えるはずもない。髪紐がほどけてしだれた髪のその合間から獣の目が覗いている。殺気を、帯びているように見える。
「待ってたぜ。入ってくれ」
信長は水たまりを踏みつけるように勢いをつけてエイと立ち上がると、
「イヤあ、ちょっと死にかけました」
あっけらかんと言ってのけた。ケロッとしている。もうどこにも緊張はなかった。あの日、自分の盃を遠慮した下戸の少年の瞳に戻っていた。いま自分が感じた殺気は何だったのだろう。
ところが、信元が何か返答しようと口を開いたその瞬間、信長は膝から崩れ落ち、そのまま泥水の中にばしゃんと倒れ込んだ。
「アッ」
利家と恒興が踊り出て、オイ、殿をさっさと運び込め、などと言いながらその泥人形を担ぎ上げ、屋敷へ搬入すべく勝手にすたこら入っていく。信元は傍から見ているばかりだったが、そのうち、最後に門を通った青年のうちの一人が語りかけてきた。長秀だ。信長と共に搬入された小荷駄隊を指さし、
「兵糧です。城の者たちに配ってやってください」
素朴な声で言った。
一瞥して兵糧はずいぶん少ないように見えた。緒川の将兵に分け与えたらほとんど一日でなくなってしまうのではないか。
しかし、そんな懸念は織り込み済みだとでもいうように、長秀は表情一つ変えずに付け加える。
「アア、これは取り急ぎの、今日の分です。きちんとしたのは明日来ます。というのも、本来は全軍でここまで半島をぐるりと周って来るつもりだったのですが、風に煽られてしまいましてね、断念したのです。ちょうど味方の木田城のそば、可見の港が見えたのでそこへ漂着しました」
木田城は信長に従う荒尾氏の居城である。この南方すぐに今川へ寝返った花井一族の藪城・寺本城があり、今はこれに対している。
「兵は全部で一五〇〇ほどおりますが我々のほかは全て信光さまに任せて木田城に休ませています。これらは明日にはこちらへ合流します」
どうやら戦の裏方のことはすべてこの青年が取り仕切っているようだ。あどけない語り口に不似合いな粛々とした態度が奇妙で面白いと思った。
「何から何まで、世話になるァ」
信元が頭をかいてそう言うと、長秀は突如として冷ややかに言葉を返した。
「正直を言えば、私は半信半疑なのです。あなたがた水野一族が本気で今川に抗う用意があるのかを疑っています。しかし、殿は、それらをすべて承知のうえで、あなたに賭けて、今日、ここへ来ました。だからどうだと恩着せがましく言いたくはありませんが、ただ、織田信長という男のことをご承知おきいただきたいと思っているのです」
それは、信長の意識が飛んでいなければ決して口にしなかったであろう、長秀の本心だった。
――
信長、緒川城到着のおよそ半日ほど前のこと。
暴風雨の中、港へ行軍した織田軍の前に熱田の水夫たち挙って立ちふさがった。
「こいつァいけません。いくら信長さまの頼みだろうと、こんな海に舟を出すなんてのはまっぴら御免です」
「自分の命が欲しくて言うんじゃあねえです。人間ひとりを渡してやることも難しいだろうに、米やら馬やら、これはもう無理に決まっております」
彼らは縋るように口々に言った。
豪雨の勢いは増すばかりで、未だ止む気配はない。
「林兄弟のほくそ笑む顔が浮かぶようだな。サテ、どうするね」
信長の隣で信光が試すような苦笑を張り付かせている。この男はいつも他人事のように意見する。
「舟を、出せ」
「無体ですッ。もう一日、アアいや、二日待ってくだされ。私らずっとここでこの仕事をしているんです。お言葉ですが、海のことはよおく分かっとります。今日は駄目だ。しかし、二日後ならこの雨は晴れるです。ウソは言いません」
強情な信長に対し船頭らは尚も嘆願した。言葉の通りその表情にも嘘はないらしい。自分と、そして信長の身を案じての忠言に違いはないが、それが分かっていても信長は聞き入れない。
「その昔――」
そして、柄にもない語り口で言葉を紡ぎ始めた。
「その昔、屋島の合戦で、源義経と梶原景時が逆櫓の言い争いをしたときも、このぐらいの雨風だったのだろうな。ナア」
船頭たちはポカンとする。船頭たちだけでなく織田軍の面々までもが呆気にとられている。
「なるほど、キサマら水夫は海のことは知っているようだが、戦のことは知らないな。反対に、オレは戦のことは知っているが、海のことはキサマらほど知らないだろう。だがね、今日のオレにとってはこの渡海も戦のうちなのさ」
背後に付き従う仲間たちの方を振り返る。
「敵は緒川城への付城を完成させ、街道を遮り、いまこの嵐を前にして祝杯を挙げているだろうぜ。オレが、美濃に援軍を頼み、そして、この荒れ狂う海に漕ぎ出してまで水野の救援に来るなどとは夢にも思うまい。林兄弟を見ろ、味方でさえ「出来るわけがない」と尻尾を巻いたのさ。敵がそうでないわけがない。だが、キサマらは、いや、オレたちは知っているのさ。オレたちには城を落とす十分な力があることを。そして、それは今こそ奮うべき力であることを。
溺れ死ぬのが怖い者はいるか。では戦場で槍で突かれて死ぬのはどうだ? どちらも死ぬぞ。槍で突かれて死ねば名誉の戦死で、溺れて死ねば情けない死にざまだと思うか? 違う。
いいか。いま行けば、勝てるのだ。いまこの海を渡るか否かが、すでにオレたちの始めた戦なのだ。運が悪ければ溺れ死ぬことも、凍え死ぬこともあるだろう。それは、戦場で運悪く流れ矢に当たることに似ているとオレは思う。だが、そうして死んだ者の名誉が汚れることがないのと同じように、この海に溺れ死ぬ者がいたとしても、その名誉が汚れることは決してない。オレがさせやしない。よしんば、オレたちの名誉を汚れる行いがあるのだとしたら、それはただ一つ、勝ちの機会を知りながらそれをみすみす逃すような馬鹿をやることだけだ!」
船頭たちの誰よりも、信長の声は嵐を切り裂いて兵らの胸に届いた。
誰を皮切りにというわけでもなく一斉に、オオという声が轟いた。折り重なって押し寄せる声のうねりが天に昇る。
水夫たちは思わず唾を飲んだ。全員が信長になってしまった。もう、話は通じない。
「もう一度言うぞ。舟を出せ。オレたちは死んでもいくのだ」
信長は手前で足を震わせている船頭の胸倉を掴み、顔を突き合わせて笑いかけた。
――
翌・二十三日の昼頃、わずかに勢いを弱めながらも尚降りしきる雨の中を、信光率いる織田軍が緒川城へ入城した。
泥のように、もとい、泥だらけのまま眠っていた信長は飛び上がるように目を覚ます。
それを見越して待っていた長秀たちが出来立ての湯漬けを給仕する。ものの数秒だっただろうか、信長はそれを掻っ込むと、すぐに信元、信光を呼び集めた。
「サテ、村木砦には一〇〇〇の兵が籠っているという話だが、マア、落とせるだろう」
軍議は寝起きの信長の楽天的な一言であっさり始められた。
「対するこちらは一五〇〇。それに信元殿の手勢五〇〇を合わせ、ざっと二〇〇〇というところか。砦を落とすに当たってはやや心もとないな」
信光が自嘲するように言うが、物言いに反してその目は笑っている。
「砦方に動きはないか」
信長が信元に訊ねる。
「ないね。ここからはちょうど砦の物見櫓が見えるんだが、一昨日までは毎日明かりが灯っていたのが、昨日、大風が吹いてからはからっきしだぜ。この嵐だ、奴さん、ひょっとしたらまだあなた方の到着すら気付いてねェってこともあり得るな」
「ウン。それなら、いけるな。信元殿はやはり明日は海へ出てもらう」
「それは、衣浦へ水軍を率いて出るということか」
突然の作戦ではない。事前に文で信長から連絡されていた一つの提案だが、しかし、信元にはまだそれを確信して承諾したわけではなかった。
「信長殿、アンタの言いたいこたァ分かってる。今川の援軍や刈谷城の動きを見ていろというのだろう。だが、それじゃァ肝心の城攻めは織田勢だけでやると言うようなものじゃあねェか」
「何か、問題がありそうだな」
信光がそれを揶揄うようにニヤリと口を歪ませて笑う。
「大アリだ。今更、水野の面子がなんだと五月蠅いことは言わねェ。だがね、自慢じゃねェが、俺たちァ村木の砦が出来上がるのをずうっと指を加えて見ていたんだ。砦のことならよく知ってる。ありゃ、大した要害だぜ。北は海で入れねえ、東が大手門になっているがこれも海岸、そのうえ南にはでっかい堀をこさえてる。ちょうど甕みてえな形をしたえれェ深ェ奴だな。唯一つ攻め手に望みがあるのが西の搦手だが、そこだって攻めやすいというほどのもんじゃねェよ」
「何が言いたい」
「半端な頭数で攻め込んでも、返り討ちに合うだけだぜ」
だが信長はそれを受けても動じない。
「そのために、こいつを持ってきた」
傍らの長秀から袋包を受け取ると、麻紐をほどいて中身をごとりと床の上に置いて見せた。鉄砲だ。
「この雨の中で、こんなものどうするってんだ」
「いいや、雨は止むよ、きっとね」
外で遊ぶのを楽しみにする童のような口調に、信元は思わず言いよどむ。
「それに、美濃にも既にこいつを使うと大口を叩いてしまってる。昨日はそこの者たちにあんまりな思いをさせたからな。舅殿への土産話をこさえてやらねば、怒るだろう、きっと」
信長は背後にじっと控えている利政側近の者たちを横目でチラリと見た。信長の配下でもないくせに、例の渡海にも一切動じることなく付き従った。利政が信を置いているだけある。
信元にとっては何のことだかさっぱりだったが、信長が城攻めを自分たちだけでやってしまおうと本気で考えていることだけは理解できた。
「ただじゃ済まねえぞ。その時になって、泣きついたって遅ェからな」
「当たり前だ。戦争だ。ただでは済むまいが、オレもただで済まさない」
「生意気なところが、変わらねェな」
「未だに酒も飲めないままでね」
信元はあの日、初陣に立って大浜城へ攻めかける信長の姿を想起したが、しかし、そんな感傷に浸る暇もないほど矢継ぎ早に信長の口から砦攻めの段取りが語られていった。その間中、信長は常に微笑していた。それは、肉食獣が獲物を見つけたときの本能の顔でもあり、また、人間が恐怖を克服しようとするときの理性の顔でもある。
矛盾を抱えた微笑は、恐れを楽しんでいるようだ。信元にはそう見えた。
翌二十四日、信長の見立ての通りに雨は止む。まだそよいでいる風だけが、わずかばかり残っていた雲を根こそぎ吹き飛ばした。
「二日後ならこの雨は晴れるです――」
熱田の水夫の言葉に嘘はなかった。それはまた、信長も確信していた。この嵐はただの嵐ではなく台風なのだ。つまり、それが過ぎ去った後には快晴の空が訪れる。
満天が海との境を失くして緒川城を包んでいる中、しずかに、織田・水野軍は出立した。
白み始めた薄闇の中を息を潜めて砦へ近づいた。そして、日の出と共に、
「かかれッ」
一斉に襲いかかった。
まず、砦の東側・大手門から信元勢が衣浦湾に舟を浮かべて攻撃を仕掛けた。城方はすぐにこれを察知して迎撃の構えに入る。そこへ、南側・深堀へと信長本隊が突き進む。利家をはじめとする血気盛んな若武者たちが堀底へ滑り降り、そこからは、ひたすら競うように壁にとりついてよじ登っていく。
「あつらえ向きだ、追い落としてやれ」
当然、敵はこれを放ってはおかない。恰好の的。砦兵は弓矢や投石で応戦しようと狭間を開く。
しかし、これこそが信長の狙いだった。
「そら、出たぜ。あつらえ向きだァ、放てッ」
心臓を叩くような轟音がこだまする。城方にはまだ眠い目をこすって具足を身に着けるのに手間取っていた鈍間な兵もいたことだろうが、そのような頓馬はもしかしたら音を聞いただけで失神したかもしれない。それほどの破裂音、その間断ないうねりが村木砦を一挙に襲った。
信長は堀を隔てて五十間ほど離れたところから横一列に一〇〇の鉄砲兵を並ばせ、狭間から顔を出した敵兵を逐一狙い撃たせた。撃ち手の後ろにはもう一列、いや二列、弾込めだけを専ら行う部隊が控えていた。彼らが弾込めを終えた鉄砲を撃ち手に手渡すことで間断のない射撃が可能となる。そのために轟音が絶えないのだ。
砦方は鉄砲の存在に気付くやすぐさま弓兵を用いて鉄砲隊を射ようとしたが、彼らが放った矢の雨はちょうど鉄砲隊の数間先へと折り重なって突き刺さり、届かない。鉄砲隊の配列はちょうど弓の射程の埒外に定められているからだ。ここまですべて信長の読み通りである。
「いまだ、登れ、登れェ」
利家が音頭をとって外丸への一番乗りを目指して堀をよじ登る。サルが木登りでもするかのようにグングンと登っていくが、ここにきて砦方もにわかに戦の勘を取り戻した。彼らは鉄砲隊を射抜くのをすっぱりと断念したのだ。そして、堀を登ってくる利家たちの方を一人残らず屠らんと集中攻撃を浴びせた。鉄砲の弾が当たることなどは厭わない覚悟の方針だ。
村木砦を守る今川方の城将は松平忠茂といったが、これが今川に対する忠義を煮詰めたような男。松平宗家に仕える身でありながら義元の直臣でもある。過去、織田と結んで宗家に反旗を翻した松平の分家諸々と悉く戦って大立ち回りを見せたのがこの忠茂であり、織田に対する敵愾心は頭抜けたものがある。
「死にたがりの馬鹿野郎が。撃ち殺してやれッ」
銃声の中にもかき消えない大声で信長が叫ぶ。
ところが、その時、鉄砲隊の中で爆発が起こる。
「何をしているッ」
寒気と焦りに手元を震わせた一人の鉄砲兵が火縄銃が滑り落としたのだ。常日頃から直々に鍛え上げた鉄砲隊とはいえ、実戦はこれが初めてのことだ。折からの渡海による疲労もあったことだろう、全て予定通りとまではいかない。何より、信長自身が砦方の反撃を見誤っていたのだ。
「どけ」
腕に火傷を負って転げまわる兵を下がらせ、地面に転がっている鉄砲を拾い上げると、
「近づくぞ」
自ら弓兵の射程内に入り込んで鉄砲を構えた。砦方から狙われても構わない、むしろ、今度は自分たちを射程に晒すころで利家たちを救おうとした。
「狭間三つ、信長が引き受けたぞ」
高らかに宣言し、誰よりも果敢に、一人、また一人と的確に砦兵を撃ち抜いていった。そもそも信長より鉄砲の上手い者は数えるほどしかいない。
だが、その勇気によって捉えたのは、残念ながら勝利の兆しではない。
「キリがないな、」
厳然たる事実。砦方の兵をすでに何十人撃ち殺したか知れないが、未だ疲労の影すら見せてくれない。
やがて再び矢が降り注ぐと、今度は鉄砲隊にも被害が及ぶ。一人、また一人と倒れていった。
射撃による援護が衰えると利家たちも劣勢になり始める。突き落とされてそのまま動かなくなる者がずいぶん増えてきた。
信長の手勢は誰もが二人分、三人分の働きをするという。いや、実際にそうであるかは問題ではないのだ。重要なのは、彼ら自身がそのつもりで戦場に立っているということだ。だからこそ、寡兵だろうが、劣勢だろうが、一般に城を落とすに足る軍勢ではなかろうが、彼らは怯まない。『負けるはずがない』と信じて突撃する。だからこそ、ある時はいとも簡単に敵を追い崩し、また、ある時はいとも簡単に戦場に転がって行く。
配下の死を目の当たりにしながらも、しかしながら、信長は退かない。及び腰になるどころか、より一層に近づいて敵に鉛を撃ち込んでいく。忠成との根競べだ。行き着く先は凄惨な消耗戦だと知れているが、それでもこの砦は落とさなければならない。
「まだか、叔父上ッ」
その時、一矢が信長目掛けてまっすぐに飛んできた。一人の若武者が「殿、」と矢面に躍り出てそれを盾となって受けた。信長は、倒れるその男を抱きかかえたが、オイ、と問いかけてももう答えない。首を、一突きにされていた。
深堀では一層の死屍累々だった。その死体の山が徐々に積み重なっているのが遠目からも確認できた。彼らが一人死んでいく度、信長は逡巡させられた。「覚悟」とは言うのは簡単だが、所詮は意識の上に自らでこさえた約束事に過ぎない。一人の人間が絶命するという現実を前に揺らがない心などは、そうそう無いだろう。
『ここで臆して攻め手を緩めれば、それこそ砦方の思うツボだ。やらなければ駄目だ、駄目だとわかっている』
何度も自分を、そして兵らを鼓舞し直す。が、そのし直すという行為自体が信長の苦しみを物語っていた。「臆するな、臆するな」と言うたびに臆している。それは自らの死の危険に、ではない。名前も、好きな食べ物も、好きな女までもを知っている仲間が、単なる頭数として死んでいくという不条理にである。
そして、信長は死に行く彼らに最期の声をかけてやることも、また、聞き遂げてやることも、何もできない。
気づくと信長の照準は涙で狂い始めていた。
「ゲッ、」
突き落とされてこれで五度目、尚も勢い盛んに堀を駆け登る利家にいよいよ死が迫っていた。
狭間から弓兵が一斉に身を乗り出した。砦方は鉄砲の勢いが鈍ったことを目敏く感じ取り、一転して攻勢の構えに出たんだ。
ところが、
その時、砦方にどよめきが起こった。それは西・搦手の方角、信光軍の持ち場からである。砦の中がにわかに賑やかになってきた。どうやら信光軍の兵が外丸を突破して中へと侵入したらしい。
大手門を攻める信元軍、深堀を攻める信長軍の攻撃は、すべて砦方の守備兵を搦手から分散させるための餌に過ぎなかった。信長が堀側の難所を一手に引き受けたのは、そのためだ。囮になって死なせることなど自分の手勢にしか出来ないと知っていたのだ。
「信光殿が突き破ったか」
海上の信元軍もそれを皮切りに主力を上陸させて攻めかけた。敵方の後詰への警戒は既にほとんど不要である。外丸が突破された以上、もう援軍が間に合うことはない。
同日、申の刻、照り付ける真っ赤な夕日が海にその身を浸し始めた頃、村木砦はようやく降伏した。砦を守る兵はわずか二〇〇に満たなかった。殲滅しようと思えばできたが信長は降伏を受け入れた。弾薬もそこを尽きかけている。そのうえ、既に落ちた砦の兵を殺そうとするために、これ以上味方の人死を出すのは馬鹿なことだと思った。何より、息のある者が一人でもいないか堀を探してまわりたかった。
敗残兵をまとめさせて忠茂を砦から退去させるや信長は堀際を駆けまわったが、息のある者は既にいなかった。骸の頬に手をかざす。冷たい。死んでいるから、当然だ。
「どうやって死んだのだ、お前は。敵を一人でも多く倒そうとしてか、それとも、この中の誰かを庇ってか、どうなんだ」
ほんの数瞬前に事切れた者だったとしても、真冬のことだ、血が巡らないなら一瞬で冷たくなってしまったことだろう。信長には、目の前の武者がいつ、どのように死んだかすら知ることができない。
そうして、また別の者を見つけて、
「そうか。お前も、死んでやがるのか。女を口説くいい方法を思いついた、といつだか言っていたな。オレが下らんと言ったら、それきり二度と話してくれなかったな。あの世まで持っていくつもりか」
本陣に並べられた骸を見て信長は膝をついた。勝ち戦の大将とは思えぬほどの虚ろの風体だった。
出陣は間違ってはいなかった。砦を攻め落とす作戦も八割方は思った通りに進み、事実、村木砦は落ちたのだ。思った通りの決着だ。それでも、これだけの仲間たちが死に追いやられた。必要な犠牲だと言うのは簡単だ。戦略的な意味も頭では分かっている。だが、こころが、からだが、――受け付けない。
「政秀を死なせたときと、まるで同じではないか」
ある一つの意志を貫徹する。オレはそれに正義という名を付けてやる。しかし、正義とは、かくも虚ろで、暗いものなのだ。これは人間の歩む正道ではない、この道はオレを幸せにしないのだろう、きっと。そして、それでいいのだ。
再びの涙が流れた。それを見た周りの者たちが連られて泣き始める。
――アア、信長さまはあんなにも家来の死を悼んでいる、――
とでも、思っているだろうか。それなら、一層滑稽だ。
昔から泣くのは嫌いだった。泣くぐらいなら怒りたい。腹立たしいときも、悲しいときも、とにかく怒鳴り散らして空に放ってやるのだ。泣くことは陰気で、他力本願ではないか。泣くというのは赤ん坊のすることで、食べ物が欲しいとか、一人が寂しいとか、そう言っては自分ではない誰かに助けてもらおうと言うのだ。みっともない。大人は誰だって泣かないものだ。例え、どれだけひもじくとも、寂しくとも、この世に道理など無いと知ってしまったその日から、きっと泣くことを、他人に拠って立つことをやめるのだ。
だからオレは、もう泣くことがないのだと思う。オレの涙もこいつらと共に逝ったのだ。これだけの仲間が死んでも、そのために戦を止めようという風に、オレの心は動かなかった。もし、この戦の末に、オレが弾正忠家を投げ出して出奔でもしてしまうようなことになったなら、それは、どれだけ豊かな心だったことだろう。
いつの間にか、信長の両の掌は血に染まっていた。誰の血だかも、すでに分からなかった。
「戦はまるで、現世だな。道理がないよ、どこにもさ」
自ら上げさせたはずの勝ち鬨が他人事のように響いていた。
翌・二十五日、砦の破却を信元に命じて信長は帰途についた。
那古野に到着するや守就の陣へ援軍の礼を言って利政側近の四名を返した。
「ずいぶん粗末な戦をやりましたよ。舅殿のお耳に入れたくないね」
謙遜でも何でもなく、そう言った。
ところが、守就らから一部始終を聞いた利政は、その光景の中に、信長の心中をありありと見た。そして、そのうえで城攻めを完遂したという事実に打たれる。
「お前らね、私の死んだ後はよく気をつけるのだよ。アレに噛みつかれてはサイアクだ。たとえ、勝ったとしても地獄だろうね。いやはや、やっぱり野犬なんだな、それに、またちいとばかり大きくなった気がするな。どうにも危なっかしくて、隣にはいてほしくない男さ」
愚痴のように吐き捨ててはいるが、守就にはどうにも自慢じみて聞こえた。
利政はそれからほどなく出家し、自らを道三と号するようになった。
村木砦の陥落により、その後の三河国には信長の読み通りに異変が起きることになる。
村木砦の目的は鼻から水野信元の圧迫、そして、それに伴う今川への臣従を促すものだったが、信長という野犬の横やりでその目論見は砂上の楼閣と化してしまった。こうなると、今川が緒川城という小城の攻略をしくじったという事実のみが残り、やがて三河の国衆らが反今川を掲げて次々に蜂起し始めることとなったのだ。もちろん、背後で糸を引いているのは信長、そして信元たちである。俗に三河忩劇と呼ばれるこの大乱はその後長く尾を引くことになり、鎮圧のための対応に追われた義元の西進、つまり、尾張への侵攻を大幅に遅らせることとなった。
一所に吹いた小さな風が、やがて周辺を巻き込む大風となってついに義元に牙を剥いた。幼年より辛酸を舐めさせられてきた今川という大敵に、信長はようやく一矢を報いた。この大風が、また更なる大風を呼び起こすきっかけとなることを信長も、義元もこの時に知っていたのだろうか。
時に早く、時にゆったりと、付かず離れず、だが確実に、その旋風は大きくなっているのだ。
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