織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第三章 血路

十二

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 孫四郎と喜平治が殺害された旨を知らされた道三は、仰天し、けたたましい声を上げた。単なる怒りや悲しみといった感情に還元することのできない、生死の狭間そのものが振り絞るような喚声だった。
 家督を譲って隠居すれば首までは獲らない、などと図々しく伝えに来た高政の使者の首を飛ばすと、すぐさま法螺貝を鳴らして手勢を束ね、屋敷を出た。
 稲葉山城下・井口を、自身がこれまで丹念に作り上げてきた町を、道三は自らの手で悉く焼き払った。そこに住む者の阿鼻叫喚など、もはや一向に耳に入らなかった。考えることはただ一つ、高政との戦争に最良の手を打つということだけ。
 長良川を越えて稲葉山の北方に位置する大桑城へと入城する。
 この天嶮の要害より、高政に従わない者たちを調略しながら兵を増やして、稲葉山城を攻め落とす機をじっくり伺う算段だったが、とうとう集まった兵隊は三〇〇〇足らず。そこには、安藤守就を含めた歴戦の戦巧者の姿はない。
 道三はようやく自らの人望の無さを思い返して、哄笑した。
 なぜだろう、この運命を道三はどこか知っていたような節があった。尾張の弾正忠家と和睦し、土岐頼芸を追放したときから、それは始まっていた気が自分でするのだ。戦争と謀略だけが取り柄のこの男が美濃国の頂点に立った後、それから成すべきことなど、もう何処にもなかったのかもしれない。
 退屈を紛らわすためにいろいろやった。罪人をどうにか面白く処刑できないか考えてみたり、物珍しい武器や珍品を集めたりした。その中の最も新しいオモチャの一つが信長だったことは言うまでもない。
 奇しくも大桑城は自らが国から追い出した守護・土岐頼芸の住んでいた城であった。
「因果応報、なんて悟り澄ました態度は好きじゃないのだがね。どうも、焼きがまわったことだけは確かだな」

 美濃の事変を信長が知ったのはそれから少し経ってからのことだった。
 太原雪斎の死後、西三河は露骨に浮足立った姿を見せた。千載一遇の好機に信長の目は東に向いていた。帰蝶はそれを承知していたし、異論などあるはずもなかった。兎にも角にも、いまは西三河の今川勢を一人でも多く駆逐することが肝要である。明瞭なことだった。
「大桑城は堅城だ。さすがは舅殿だよ」
「ええ。そうでしょうね」
 二人は、ただ淡泊に一言だけ言葉を取り交わした。
 
 年が明けた翌・弘治二年(一五五六年)、反今川の熱は東三河の一部にまで影響が及び、いよいよ織田の優勢は揺るぎないかに見えたが、意外にも義元本人はさして焦る様子を見せなかった。
「差し詰め、「三河忩劇そうげき」とでも呼ぶべきか。雪斎、いつか必ず来ると知っていたその日が、多少、都合の悪い形になったようだ」
 師にして最も信頼する重臣との離別を惜しみながら、しかし、確実に、着実に、粛々と、義元は反抗勢力を叩き続けた。予想外の出来事に浮足だって自滅する将は数多く居るが、乱世の栄枯盛衰は時の運やさまざまな要素が複雑に絡み合って織りなすものである。目に映る範囲の敗勢を過大に恐れることこそが全体の破滅に繋がることを、義元はよく知っていた。
 二月に入ると、西三河において一度は信長に与したものの再び今川に臣従する者らが現れ始めた。
 未だ反抗の意志を固くしているのは吉良義昭である。信長は是が非でもこれを自陣に引き留める必要に駆られた。助けに行くしかないが、その度に、わざわざ三河まで自軍を率いて出向くことなど無理だ。どうにかもう一度、彼らだけで今川を押し返させなければならない。
「せっかく武衛さまが居られるのです。たまには働いてもらってはいかがでしょうか」
 守護である斯波義親を指して「」などと冷たい言い方で献策したのは長秀である。信長の参謀役にすっかり落ち着いたが、この進言も妙案で、信長はすぐに取り入れた。

「武衛さま、本日は折り入ってお願いしたい儀がございます」
「信長殿、何でも申してみよ。そなたの頼みならいくらでも力になろう」
 義親はちょっと信長に頭が上がらないところがある。亡き父の仇を見事に獲り、さらに三河への快進撃を続けるその勇将ぶりには、およそ非の打ちどころがないように聞こえる。しかし、とは言ったももの、守護代の座も、また偏諱をも拒んだこの男が、今更「お願いしたい儀」とは珍しい。一体何を要求されるのやらと、内心はすこしこわい。
「吉良義昭殿と会っていただきたいのです。今川に対抗するには彼らの力が必要です。是非、私と共に三河へ」
 長秀の策とは、信長が義昭への援軍として出向くのと並行し、斯波と吉良の両守護を会見させて同盟を演出しようというものだった。
 吉良氏は清和源氏せいわげんじ足利長氏ながうじを祖とする一族。今川の主筋であり、その家格は将軍家を除いて並ぶものなし。俗に『御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ』と謳われた所以であるが、一方の斯波氏も室町幕府・三管領の一角を担うべき名家である。両家の同盟がなった暁には、さらに西三河に反今川の追い風を起こすことができるという計算があった。
「そなたの頼みを断る私ではないが、私は戦をやったことがないので、出陣と言ってもだな、その」
「わかりました。でしたらこうしましょう。先に私が戦地へ赴いて駿河勢と一戦いたします。武衛さまはその後に、義昭殿のおられる西条さいじょう城へと、ゆるりと来られるだけでよろしい」
 信長は義親の返答を予め読んでいたかのように、ピシャリと言ってのけた。
「ソ、そうか。それなら、ウン、大事ない」
 はっきり言われるとそれはそれで武士としての面目がないのだが、信長にそんな気遣いを求めることはできない。それは義親も重々すでに心得ていた。
「相分かった。万事、抜かりなくやるが良い」
 精一杯に胸を張り、せめて命令口調を保つのがようやっとのようであった。
「アリガトウゴザイマス――」

 同年三月、雪解けの始まる頃、そうして信長は吉良義昭の西条城を目指して出陣した。
 水野信元の手引きをで知多から刈谷へ海路を進む。陸路は鳴海一帯を未だ山口親子が支配していたから、西尾までの道程はかなり遠征だった。刈谷は今川へ内通していたと思しき信元の弟・信近の領地だが、近頃の織田優位の情勢を見て、再びこちらについたらしい。
「留守に弟君が蜂起するかもしれない。そう、お考えにはならぬのですか」
 舟に揺られながら、可成が思わず訊ねる。
「そうかもな」
「その割には、あまり心配されていないように見えますな」
「今度の戦は武衛さまを奉じた遠征だ。オレと武衛さまの留守を突いて清洲城を攻めるようなことがあれば、それはオレへの謀叛に留まらない、武衛さまへの叛逆となるのさ」
 可成はこの茶筅髷の青年がいつの間にそんな狡猾な政治的な手を使うようになったのか、と目を丸くした。
――弟君は信長さまから家督の簒奪を計画してはいるものの、ついにその名分を得られず、ここまで手を拱いている。そのうえ、武衛さままで敵にまわしたとあっては、いよいよ謀叛人の誹りは免れず、その先が立ちゆくことは永劫にない。そういった外聞をよほど気にする男だと言うことまで、そこまで読んでいるのだ、この男は――
 海風を一身に浴びて仁王立ちの信長の瞳の奥に、可成は美濃のよく知った男の面影を見る気がした。

 西尾に着陣した信長は、敵に寝返った上野うえの城を義昭に攻めさせた。自らは野寺原のでらはらという藪の生い茂る河川敷に兵を隠して、今川の後詰軍に備えると、やがて矢作川を渡河して現れた敵勢を奇襲し、見事総崩れに追いやった。義元は格別、実際に三河支配の枢軸であった雪斎を失って間もない今川の兵卒に至っては指揮がいまだ低いままだったのである。
 矢作川一帯での緒戦が終わると、義親が遅れて現れた。長ったらしい水干を身にまとい、いざ襲われたら一溜まりもない風体で、彼の関心事は義昭との折衝にしかないようだった。
 義親と義昭は互いに陣を張って床几に腰かけると、十町余と間を開けて向かい合い、遠目の対面を果たした。しかし、さて、間合いを図り合ったまま一向に動かない。やっと動いたかと思うと、互いに十歩ほど進み出て、しかし、何も特に語ることもなく戻り、また床几に腰かけた。要するに、両者とも、無言のうちに「お前が先に挨拶をしろ」と言い合っていたのである。今川が背後に控えているこの不安定な敵地で、呑気に家格の威張り合いをしているのだから、信長は驚いて閉口してしまった。
 義親にとっては、信長の軍事力を笠に着て、まさに吉良に斯波の権威を見せつける絶好の機会だったのである。
 こればかりは信長が何度言い聞かせても駄目だった。一方の吉良も義親の真意が分っているから、余計に対抗心を燃やして意固地になっている。
「くだらん。こんなことをしている軍勢は、どう見ても勝軍には見えんな」
 餅を頬張りながら、さて、いつまでかかるか、などと苦笑していたが、
 そこへ突如、縄目にあった男が利家に引き連れられてやってきた。
 引き出された男の顔を見て、すぐに思い当たったのは可成だった。
「待てッ、あなたは猪子殿、猪子高就殿ではないか」
 男は信長と道三が聖徳寺にて会見した際に随行した道三重臣の一人であった。
 誤解が解けるや高就はすぐに縄を解かれ、早とちりの利家は罰が悪そうに謝罪したが、猪子はそれどころではないといった剣幕で利家の方など見もしない。
 そして、事実だけを告げた。
「道三さまが、鷺山城へ軍を進めました。道三さまは、高政さまと決戦に及ぶ覚悟にございます」
「舅殿の兵数はいくらだ」
「およそ三〇〇〇、対する高政は二万との」
 猪子によれば、道三軍はおよそ三〇〇〇、高政軍はおよそ一万五〇〇〇余という兵力差だという。大桑城に籠城していたならば直ちに落城することはなかった。その間に信長側からも何らかの手を打つことはできたかもしれない。道三ほどの男がそれを理解していないはずはないが、正面からの殴り合いで勝負になる訳はなかった。
「私は道三さまの命で軍使としてここへ来たわけではありません。道三さまは、死ぬ気なのです。信長殿、いまあのお方にお味方できるのはあなただけなのです」
 信長に対して、あるいは帰蝶に対して、頑なにその決戦を知らせないよう口を噤んだ道三を見るに見かね、猪子は一人、独断で三河まで来たのだと語った。
「いかがいたしますか、両守護の会見はもう少し長引きそうですが」
 可成がわざと厭らしそうに信長に問う。
 信長は食べていた餅をゴクリ飲み込むと、水を一杯食らうように流し込み、それから猪子に向き直った。
「伝令、大義。貴様はすぐに舅殿の陣へ戻れ。我らはこれより陣を解き、清洲で軍勢を整えた後、ただちに美濃へ、斎藤道三の救援に向かう」
 弘治二年(一五五六年)四月の下旬のことである。
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