織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第三章 血路

十三

 信長は義親の陣をただちに訪れた。大仰な陣幕が迷路のように取り囲んでおり、中央部へ辿り着くには時間を要した。途中、幕の一部に足を引っ掻けると、信長は苛立たし気にそれを振り払った。
「武衛さま、三河までご足労いただき何ですが、ここは一度日を検めるのがよろしいかと存じます」
 理由をはじめ伏せて進言したが、
「いいや、信長殿。ここからではないかな。交渉事は先に背を見せてはいけないと言う。義昭が頭を垂れるなら良シ。だが、そうでなければ、せめて奴が尻尾を巻いて帰っていくのを見物しようではないか」
 陣を据えて向かい合っているだけの対陣ではあるものの、義親にとっては初陣だった。はじめこそ緊張に呑まれ、おずおずとした臆病な面持ちだったのが、ずいぶん長々と居座ることになってしまった所為だろうか、徐々に、戦場の雰囲気に充てられ、酔ったような強気を張り付かせている。いつもなら、信長に意見することすらままならないにも係わらず。
「席次も大切ですが、戦争も、交渉も、機を見ることが肝要です」
 いつだか平手に自分が言われたような台詞を並べ立てた。機を見ることが肝要。それは、世間知らずな餓鬼を丸め込むための大人の常套句らしい。
「機は今ぞ。今川に対して優勢であるこのときにこそ、義昭に楔を打ち込んでやることもできよう」
「義昭殿も今日はどうにも頑なになられているようです。いつまで時がかかるやらわかりません」
「臨むところ。根競べなら、負けはせぬ」
「いいえ、ここは既に戦場なのです。いつ今川軍が現れぬとも限りませんから、いつまでもじっとしているという訳には――」
「それこそ好都合ではないかッ。駿河勢が来れば義昭はいよいよ我らに泣きつくしかなくなるだろう。むしろ、その到来を待ちたいくらいぞ」
 ここに至って信長はやや痺れを切らした。
「戦は、そのように甘くはない」
 溜息まじりに睨みつけた。敬語も忘れている。しまった、と思ったときには口から出ていた。バツが悪く思ったが、それが本音だということは変わりないから、そうと知れば今さら嘘で糊塗しても仕方がない。
 陣幕の外では耳をそばだてていた恒興たちが一様に頭を抱えたが、信長はむしろ、
――むしろ、はじめから事実を隠さず告げるべきだったな――
 と居直った。
「美濃・大桑城に籠っていた斎藤道三が鷺山に移ったとの報せが入りました。明日にも美濃で大戦が起こります。私はただちに美濃へ、舅殿を助けに向かうつもりです」
「ホウ。それは知らなんだ。して、信長殿は、この三河からは兵を退く。そう申されるのか」
「そうです。武衛さまに置かれましても、此度は一度、何卒、我々と共に清洲へとお退きいただきたい」
 額を土にこすりつけるように頭を垂れた。吉良義昭を跪かせる手筈が思い通りにいかなかったその代わりに、自分の頭を下げて義親の溜飲がいくらか下がるのであれば、いくらでも下げてやろう、と信長は打算していた。
 ところが、義親は信長の嘆願を受けても譲歩する気はなかった。むしろ、信長の胸中に弱みを発見し、より一層に居丈高になった。
「しかし信長殿、ときに、一体、あの斎藤道三という男はそなたが出向いてまで助けるに値する男か」
「は?」
「舅とはいうが、そなたの父君の代では、戦いに明け暮れた間柄であったはず」
「そうですが」
「例えば、こう考えてみることはできないだろうか。斎藤家の親子喧嘩には尾張としては手を出さず、息子の方が勝つというなら、この際、美濃国をくれてやる。そうしておいて、信長殿は、機を見て、舅の仇を討つという大義を掲げて美濃へ攻め込み、斎藤高政を打ち倒す。我々は三河、そして次は美濃を攻め獲る。これに尾張を足せば、私はいよいよ三国を束ねる守護大名となろう。そうなればどうだ、今川だろうが、武田だろうが、恐れるに足るまい!」
 捕らぬ狸の皮算用。滔々と輝かしい未来を夢想する義親のそれは、決して一から十まで真剣に言っている訳ではない。また、暗に信長の戦闘力を褒めそやすような諧謔ですらあるが、いまの信長に、そんな迂遠な表現を汲み取って追従笑いをしてやる余裕は無い。
「タワゴトもいい加減になされよ」
 言葉の端にわずかばかりの敬語が残っているのは成長だな、と恒興がひそひそ笑った。彼らはもう、信長を止めに出て行く気もなく、諦めたらしい。
「ノッ、信長殿?」
「あなたは尾張守護。オレはそれに仕える一介の侍です。オレは自分のことを守護代とすら思ったことはありません。何故だか、わかりますか」
 義親はオロオロしながら左右に侍る近臣に目配せするばかりで、信長の問いに答えることなどは到底できそうにない。
「そのような立場につかずとも、オレは、オレに出来ること、また、オレに出来ないことをきちんと知っているからです。
 清洲衆は馬鹿をやりましたな。お父上を弑逆し、清洲を我が物とせんと欲した。結果、謀は失敗し、清洲織田氏の家はこの信長の手によって絶えた。身の程を知らぬ者たちです。、国は立ちゆかぬ。そんなことすら知らなかったらしい。うつけよ」
 平手と唾を飛ばし合った日々が、信長の口八丁を鍛えていたのだろうか。頭に血がまわればまわるほど、舌もまわって仕方がない。言葉が言葉を呼び込み、止まらない。その鋭さを増しながら。
「しかしながら、どうです、オレは違うでしょう。弁えていますよ。うつけの評は仕方がない。甘んじて受けますがね、マア、いきなり武衛さま、アナタを襲うようなことはしません。、です。どうやら、だ。オレの兵力と、あなたの権威で、いま、尾張国にはやや平和が、静謐が訪れつつあるのです。これは確かなことでしょう。
 だから、アナタにも、それを維持する責務がある。そのようには、お考えになられませんか。ろくに戦の心得もないのに、こんな危険な場所で、のんびりと、席次の争いなんかをしていては駄目なのです。今川勢を待つ? ハッ、馬鹿言っちゃいけない。そんな体たらくでは一貫の終わりだ。みんな、骸です。骸になっても、席次というのは守られるのですか? いかがです」
 義親はあまりのことに床几から転げ落ちた。
 血の気が引いて紫色になった口をパクパクと開口させながら、言葉にならない言葉を漏らし、吃りながら、ようやく意味の分かる言葉を絞り出した。
「ノノ、の、信長殿、デ、デデッ、ではそなたはッ、わ、私を殺すと言うか?」
 これほど恐怖を感じながら、しかし、義親はまだ信長に期待していた。それは、自分にとって都合が良い『単に戦が強いだけの従順な僕』に戻ってくれないか、という期待である。つまりは、この眼前に起きた現実の否定だ。『殺す』などという過激な言葉をあえて使ったのにも、そういった矮小な自我の蠢動があった。
 ところが、返ってきたのは無味乾燥で非情な一言だった。
「アナタなど殺して、それが一体何になりましょうか」
 敵であろうと味方であろうと、死ぬということが何にもならぬ武士などが居るだろうか。悪意のない、この上ない侮蔑だった。
 両者はしばらく沈黙して向かい合った。この陣幕の中だけまるで時が止まったかのようだったが、徐々に近づいてくる喧騒が、その結界を裂いて現実を迎え入れた。
「殿、今川軍およそ三千が、こちらへ向かってきます」
 恒興の注進。
 信長は刹那、両の目を大きく見開き、しかし、それ以上は狼狽える様を見せずに、すっくと立ち上がった。
「まっ、待て、信長殿ッ」
「武衛さまは『退かぬ』と申されました。言ったとおり、オレはあなたを殺しません。が、マア、せいぜい、空から降る矢に、戦場そのものに、同じことを訊ねられるとヨロシイ」
 信長はただちに恒興たちに撤退命令を出した。
 にわかに場が騒然とし始めると、義親はようやく自分が死というものと隣合わせの場所に居ることを直覚してガタガタと震え始めた。お逃げください、などと言いながら、近臣の者らが肩を貸して立ち上がらせようとするのだが、腰が抜けて立てないらしい。
――手のかかる人だ――
 信長は舌打ちを一つすると、義親の首根っこを掴んだ。自らの駿馬のうえへ放り投げ、その馬の尻を蹴って走らせる。義親は信長が鍛えた常識離れの馬に揺られていまにも落っこちそうである。
「やさしいなア、まったく」
 恒興がからかうように語りかける。
――これも、いつだか恒興にやられたことだったか――
 信長は恒興の顔を見てわずか回顧した。
「マア、舅殿を助けに行くには気合がいるからな。ここは一つ、駿河勢を相手に前哨戦だ」
 自ら殿を努めるというつもりだ。別に義親に情けをかけたというだけでもなかった。戦場であんなのがウロチョロしていてはやりにくい。尾張守護の首が敵に獲られるようなことがあれば最悪である。敵の士気はうなぎのぼりとなるだろう。ああいう手合いは、さっさと逃げてもらうに限る。
 現れた今川勢と数度に及んで斬り結び、やっとのことで刈谷城まで逃げ果せた後、水野の援軍が駆け付けてからはやや敵を押し返しはしたものの、討死・負傷の者は少なくなかった。
 清洲城に着いた信長は泥だらけのからだに頭から水を被り、死んだ仲間を思いながら一晩ぐっすりと眠った。

――夢に出てきて、オレに別れの言葉を言ってくれよ――
  
 信長は早朝に飛び起きる。
 すぐさま利家に太鼓を打たせ、自分は湯漬けを掻き込む。
 三間半の長槍、弓、鉄砲、自身が心血を注いでかき集めた武具を惜しみなく投入する。長期戦をも視野に入れ、小荷田も充実させなければならない。どれだけつぎ込んでも、ありすぎるということはあり得ない。
「敵は一万。こちらは舅殿と合わせても、五千か」
――イヤ、半数なら勝機はある――
 兵たちがいよいよ集結し出撃の準備を終えたとき、
「どこへ行くのです」
 斎藤道三の娘が、刃物のような顔をして信長の前に立ちふさがった。
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